(月刊「ドラマ」2004年11月号より)

特集☆脚本家的視点 ――ものの見方とらえ方――


インタビュー

仲倉重郎

「一瞬一瞬に消えてゆくものをちゃんと観る」


脚本家の仲倉重郎氏は映画監督でもあり、私塾アシモフ・シナリオゼミの主宰者でも ある。今あらためて語るシナリオ観――。

最も大事なことは

―ご自身は助監督として松竹に入ってからシナリオを書き始められたと以前うかがい ましたが、今、脚本家志望の人々に接して、脚本に向きあう姿勢の違いを感 じますか?

仲倉 現場を知っているというのがプラスなのかマイナスなのか。知っているがゆえに「それは出来ないよ」と諦めちゃうようなマイナス面がありますね。例えば、先 だっての『逃亡者』(TBS)の一回目でトンネルの中で火災を起こすシーンがありましたね。日本であんなに堂々と撮影出来るとは思っていなかったですか ら、あれは凄いなと思いました。ぼくらの経験で言えば、あのような大仕掛けなものは最初から敬遠してしまうでしょうね。

今、映画よりテレビドラマのほうが、仕掛けも凄いものをやりだしています。出来な いものはないと思ったほうがいいんじゃないでしょうか。そういう意味で は、知らない強みを発揮して、想像力でどんどんイメージを広げていくことが可能な時代になったと。CGで可能になったことが多いですね。アニメと実写の境 界もなくなってきている。生身の人間がやるかどうかの違いだけになって、誰だって空を飛べるし何処へでも行ける……。

―シナリオを書く上でもっとも大事な要素は何ですか?

仲倉 昔からキャラクターが大事だと言われてきたんですが、ぼくは大事なのはストーリーだと、ずっと思っていたんです。面白いストーリーが作れないと、書いても 映像化されない、と。だけどストーリーを作るのは苦手でしてね。それで苦労していたんですが、それが、ある時から、ストーリーだけを考えていたってうまく いかないと分かってきたんです。何よりキャラクターを考えるべきだと。シナリオ用語的に言えば(登場人物の)「履歴書」ということになるんでしょうけど、 それともちょっと違うんですね。いくらキャラクターが大事だからといって、ワープロでA4三枚書いてもダメなんです。ほんとうは三行でいい気がする。それ で、このキャラクターはこうなんだというのが決まると、人物と人物の出会いからドラマは生まれていくというのが実感として分かってきたというか…。

先だって、NHKのBSで放送された『初恋のきた道』(中国映画)を録画しながら 観た後、ちゃんと録画出来てるか確認しはじめたら、結局もう一度全部観て しまった。大好きな映画でしてね。もちろん映画館で観て、ビデオも借りてきて観ているんですが、ビデオは左右がトリミングされていて映画とサイズが違うの が不満で、衛星放送を待ち焦がれていたんです。で、なんと二回続けて観ちゃった。あれは実に単純なストーリーです。息子が、母親から聞かされていた、亡く なった父と母の「出会いの頃の話」を回想するというお話です。母親になる少女と、父親になる青年と二人しか出ない。単純で、お金もかかっていない、仕掛け も派手ではない。でも、それが高い評価を得たのは、二人のキャラクターがしっかりしているからだと思うんです。ドラマの理想型みたいなものですよ。それは 脚本家(パオ・シー)の腕だけじゃなくて、少女(チャン・ツイイー)の魅力とか、監督(チャン・イーモウ)の映像表現との関係もあるんだけど、ああいう表 現を触発する脚本があったということですね。

他にないドラマの創造

コンクールの選評なんか読むと、「人間が書けてない」なんてありますね。あれは 「作者が納得している人間かどうか」ということなんじゃないでしょうか。作 者がまず納得出来ないで、自分のためじゃなく他人のためにやっていると、読む人観る人は心を打たれないんじゃないか。

シナリオの要点は、起承転結だと言って、当てはめて作ってあるものは、結局作者の ご都合で人物たちが動き回っているんで、その人物たちの考え方・行動が、 読者(観客)に迫ってこない。登場人物たちが人間らしくないというか生きてないというか……。人間と人間のぶつかり合いから生まれてくるストーリーではな く、ストーリーが先にあって、そこにチェスのコマのように人物をはめていくみたいな脚本でいいのか。大職人なら、そうやってうまく作れるんでしょうけど、 初心者はそうはいかない。まあ、だんだんに分かっていくということでしょうね。

――既成の作品に似てしまうことについて、どのように思いますか?

仲倉 映画をやろうという人は映画を沢山観ているでしょう。でも、テレビやろうという人は、たぶん観ている量が少ないんじゃないでしょうか。テレビドラマは沢山 あるけど、ほんとにちゃんと観ているのかどうか疑問です。ひょっとしたら、雑談しながら、つまり一般視聴者と同じレべルで観ているんじゃないか。そんなの は観ているうちに入らないと思うんです。アタマから最後のクレジットタイトルまで、コマーシャルのところは別にしても、しっかり観ていると違ってくると思 います。全部オン・タイムで見ることは出来ないけど、メインの一本くらいはオン・タイムで観るべきでしょう。ぼくの今の一本は「新選組!」です。

テレビドラマの書き手になっていくには、一瞬一瞬に消えてゆくものをちゃんと観る という体験が必要なんじゃないかと思います。

シナリオを書きたいと言いながら、ろくに映画も観ていない人が多い。大学の映画学 科の学生が映画館に行かないんですから。年に百本も観たら多いというで しょう。でもぼくらの若いころは百本じゃ少なかった。三百本観るのが映画好きと言われていました。だから映画を観ていないとコンプレックスがありました ね。

しっかり観るということで言えば、好きなドラマや映画をシナリオ形式に採録すると いいと思います。昔、『映画芸術』のアルバイトで洋画のシナリオ採録を やったことがあるんですが、それがとても勉強になりました。渡されたのはセリフのテキストだけ。あとは映画を見ながらト書きを書くわけです。すでに字幕は ついていたので苦労はなかったのだけど、でも字幕は完全なセリフではないし、生意気にも誤訳があるんじゃないかとかいって最初からいちいち訳し直したりし て、こっちの方が日本語らしいぞとか、けっこう面白い作業でした。それで出来上がってみると、大体一時間半の映画が、ちゃんとぺラ二四〇〜二五〇枚になっ ているんですよ。だから一本の映画のボリューム感が分かる。ああ、シナリオってこういう分量なのかと。

最初にやったのはフランス映画の「あの胸にもう一度」です。新婚間もない妻がベッ ドを抜け出し、夫に内緒で愛人のもとにオートバイで駆けつけるというお話 です。素肌に革のつなぎを着て早朝の町を疾走し、ハーレーの振動に身をゆだねて愛人(アラン・ドロン)との情事を想うマリアンヌ・フェイスフルの恍惚の表 情は忘れられませんね。残念ながら彼女は愛人のもとには行きつけないんだけど。ぼくが中年ライダーになったのはこの映画が潜在意識にあったからかもしれま せん。それから印象に残っているのは、フランシス・フォード・コッポラの「雨の中の女」です。これも夫に黙って妻が家を出るという物語です。車であてもな い旅をしていろんな人に出会うんですが、それがとても興味深い人たちでした。ロードムービーが好きになったのはこういう影響がありますね。

みんなも、自分でテレビやビデオを観ながら採録して、雑誌に載ったシナリオと比較 してみるといいんじゃないでしょうか。

シナリオがうまく書けない時は、人の真似をしてみるのもいいと思います。たとえ ば、加藤泰ならどう書くかなと、ト書を加藤泰風に擬態語を使ってダーッと書 くとか、斎藤耕一みたいにト書はあまり書かないでセリフだけでいこうとか。そんなことをやっていた時期がありました。今だったら三谷幸喜のようにやってみ ようとか、橋田壽賀子みたいに書いてみようとか。

ウッチャンナンチャンが売り出した頃に、深夜番組でコンビニの客と店員の設定でコ ントをやっていましてね。最初は山田太一のドラマみたいにとか、次は倉本 聰バージョンとか、いろいろなパターンでやっていたんですが、とてもよく作者の特徴をつかんでいて、なるほどそうだろうな、ああいう風に書くんだろうな と、感心させられました。本当によく出来ていて面白かったですね。真似をするというのはいいんですよ。自分の好きな作家を見つけて、あの人なら、このシー ンをどう書くだろうとか、やってみるといいと思います。

人間・人間・人間

さっきの話に戻りますが、『初恋のきた道』は題名の勝利ですね。原題は『我的父親 母親』 というんですが、「私の父母」なんて題名だったら観に行かないですよ。言葉がイメージを喚起するんです。われわれは言葉を扱っている職業の人間なんだか ら、言葉を発する人間(登場人物)について、仇やおろそかにしてはいられないんじゃないでしょうか。登場人物は、どういう言葉を発する人間かということで すね。

うちのゼミではエッセイの講座もやっているんですが、時々小説を書きたいという人 が来るんですけど、小説を書きたい人とシナリオを書きたい人とは、考え方 が違うようです。小説を書く人は書くのが好きなんですね。シナリオを書く人は、人間のやることが好きなんです。この頃、そう思うようになりました。

だから、誤解を恐れずに言えば、書くのが好きな人のシナリオってぼくはあまり好き じゃない。こういうことをやる奴が好きなんだというのとはちょっと違う気 がするんです。小説というのは、人物よりもレトリックを楽しむ部分があるわけで、人間が出てこない小説で面白いものもある。でもドラマのシナリオはそうい うわけにはいかない。

ここ二、三年で、一番印象的で好きなドラマは『僕の生きる道』( 橋部敦子脚本)です。すごく端正なドラマでした。言葉遣いもきちんと考えられていたし、主人公と、みどり先生の関係も、最後まで「中村先生」「みどり先 生」と呼び合うようにさせていて、親しくなったからといってなれなれしくしなかった。ああいうたたずまいの良さは好きですね。娯楽ドラマであろうがシリア スドラマであろうが、作り手が、はっきり描きたい人間を見つけている。そういうドラマがぼくは面白いと思うし、ぼく自身そういうドラマを書きたいと思いま す。

――どういうテーマというより、どういう人物を描くかということですか。

仲倉 そうですね。一年後の死を宣告された人間、そういうシテュエーションの中で、うだつの上がらない生真面目な学校教師を主人公に選んだ時に、その人物がどう 生きていくのか、作者が書きながら発見していったんだと思うんです。

――コンクール作品などでは、くっきりと人物が描かれていることは少ないようです ね。

仲倉 だから、そういう登場人物がしっかり描かれているものが当選する。ストーリーの面白さをねらったものはあまり当選しないんじゃないですか。ほんとに面白い ものは別ですけど。エキセントリックにすればドラマになるだろうということではない。あるシテュエーションの中で、こういう人間を描きたいとはっきりして ると、面白いシナリオになる。すると排優さんが「やりたい」という気持になるだろうし、監督は撮りたいという気になるでしょう。

だからぼくらが書くシナリオっていうのは、現場の人たちが「やりたい」と思ってく れるものを書かないといけない。「これを演りたい」「これを撮りた い」……そこを動かせればいいんでしょうね。

――脚本家というのはイメージでそのような映画を作ればいいわけですね。

仲倉 その時にストーリーだけでなく、印象に残る主人公を描きたいということです。シナリオを読んだ時に、こういう人を描きたかったんだなと分かるような。

シナリオの格言

――シナリオの形式について、ご意見は?

仲倉 セリフは二行とか三行で書くものだと教わっていた頃に、新藤兼人の『本能』という映画の脚本を読んだんです。そうしたら何ページにも渡るセリフがあるんで すよ。それがとても面白い。要するにドラマというのは「何を書くか、何を語るか」だから、語る人間がしっかりしていれば別に一行である必要はない。ですか ら、約束事みたいなことに縛られることはないんです。

シナリオの格言というんでしょうか、けっこうあるんですよ。たとえば、深作欣二 が、東映映画の極意を聞かれた時に、「セリフ短くテンポよく、クサイ芝居を 二つ三つ」と言ったとか。野村芳亭(戦前の映画監督。野村芳太郎の父)は「理想は高く手は低く」と言ったとか。なかなか含蓄があるでしょう。「手は低く」 というのは、「分かりやすく大衆的に描け」ということでしょうか。だけど「眼高手低」というのとは違います。これは一番いけません。これはえらそうなこと ばかり言っているくせに、いざ実際にやると下手くそだということで……。ぼくも、そこに陥らないように……(笑)。「シナリオについて語ってなんかいない でちゃんと書け」と先輩諸氏に叱られそうです。

(おわり)



仲倉重 郎(なかくら しげお) 1941年生まれ。65年、松竹大船撮影所の助監督となり、主に、野村芳太郎、斎藤耕一、加藤泰監督の助監督。83年、『きつね』で監督となる。87年フ リーとなり、脚本家としての活動も始める。主な脚本に『ざ・鬼太鼓座』(松竹)、『江戸川乱歩の陰獣』(松竹)、『総務部総務課山口六平太』(NHK)、 『銀行』(NHK)、『幽界彷徨・桂木孝介の冒険』(NHKFM)等。99年、南部英夫氏とアシモフ・シナリオゼミを開設。 http: //www5b.biglobe.ne.jp/~asimov/




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