2006年8月5日(土)
△▼8/5のゼミ▼△
本 日の作品
ストーリー 2
出席者: 女 5 男 2
アシモフさんが食あたりで、一人はきついと思ってたら、元事務長の直子が来ていた。勘の鋭さと記憶力のすごさは折り紙つきでゼミの進め方も分かっている から、助かった。
久しぶりのNさんも顔をみせた。書き込みで「人生の主役を演じている」とあったので、やつれているのではと案じたが、そうは見えず、もともとポーカーフ エイスだし血液型もOというから修羅場を乗り切って行きそうだ。
梅雨明けを待って、好きな芭蕉の「奥の細道」をなぞろうと思ってたが、やれ、だれだれの古希の祝いだ、同窓会だ、だれそれの3回忌だと予定が埋まってい く。浮世の義理を捨てられたらどんなにラクだろう。
盗用されるといけないので詳しくは書かないが、それほど面白い材料だ。なんでも実話から取ったというが,「単線ドラマ」から
1.貫目ストーリイー「居抜き」
「複線ドラマ」に飛翔しようとする意欲が伺える。
いい材料には多くの意見が出る。「人間の感情が、理屈としてとうるように」「居抜きの不気味さ」「老婆が居座るのが、予定調和になるとつまらない」「こ れは、人間についての怪談だ」「恋人・結子をもっと膨らませたら」「家についての妄執」「修羅場を生きてきた人間の凄み」「ばあちゃん達は、即身仏を願っ てるのでは」「人間の底知れない怖さ」・・・いずれも正解だ。
じつは、その半分以上がYさんの意見で、プロで頑張っているだけのことはある。
自分が書いた作品に人の意見をきくと同様に、いやそれ以上に、人の作品をどう読むか、どう自分にひきつけるかは大変な勉強なのだが・・・。
作者はややもするとアイデア先行の嫌いがあり、そのイメージは秀逸なのだが連続性に欠けるところがある。「独りよがり」はいけない。何でそうするの?を きっちり考えることだ。そこから人間の面白さも、悲しさも、切なさも、もっといえば不気味さも出てくるはずなんだ。いみじくもかいたように、「男と女は永 久にイタチゴッコ」なんで、その奥深さを見つめてほしい。
先にゼミでやった、脚色ストーリーにトライした。松本清張の短編のドラマ化である。
2.神山ストーリー「火の記憶」
一読した時、その硬質な文章の流れが気に入った。作者のものは随分読んでいるのに、今回は文章にスキが無い。アフターできいたら、4度手を入れたとい う。「だから、誤字なんて無いと思ったら一つあった、あはは」とはビールの後の述懐だが、少なくとも人に読ませるものにはそれくらいの配慮が必要で、いい ぞ神山と嬉しくなった。「出たとこ勝負は、それだけのものしか生みません」という柄ではないが、(なぜなら僕もその連続だったから)、やはり心を込めるこ とが第一だ。
原作には無いいろんな工夫が詰まっている。まず、主人公たちが希薄だった部分に大きく創意を加えて、若いカップルの結婚前の不安定な気持ちを軸に据え た。そのため、原作では主人公とはいえぬ二人がちゃんとした主人公になり、過去の出来事と対応出来る重さをもった。お手柄である。
さらに、男の母親に工夫を加えて、「火の国の女」というイメージを作り上げた。この部分の単純さは、必ずしも僕は賛成しないが、「火の国の女」はいい。 九州女は男に尽くすが、一度ややこしくなると・・・いや、それぐらいパッショネートですばらしい。加えて、ラストも映像的でM君同様大好きだ。人物二人の 気持ちに感情移入できるすばらしい設定だ。
いい意味での「あざとさ」を僕は好む。映画は作り物だ。その中で観た人が酔えればいい。多少不自然でも、「腕力」で押し切る、作り手の情念が大事だと思 うのです。
暑気払いでいつもの居酒屋へ。ふと見ると広場でビデオ100円のバーゲンをやってて、なにげなく立ち寄ったら未見のキューブリック「現金に体をはれ」が あった。すかさず買ったが、580円だった。みんな100円の中で580円をつける兄ちゃん眼が嬉しかった。
「脚色とオリジナル」 アシモフ
神山作品は、脚色講座の松本清張の短編が元である。また、貫目作品も新聞記事が元だという。
現実の事件をどう自分の世界に引き寄せるかという意味では、これも脚色といえなくはない。作品として取り組む態度は同じともいえる(…かな?)。
もちろん、「居ぬきの家に老婆がいた」という核をモチーフにして作り上げたオリジナルであることは間違いないが、現実の事件をヒントに想像を広げて作品 を創るのはふつうのことではある。
神山作品だって、決して松本清張の忠実な脚色ではない。いうなれば、「火の記憶」という核の部分をヒントにして自分の世界を作り出したわけである。対照 的な2作品が並んだようでいて、構えは同じともいえる。
その意味で、ゼミはきっとおもしろかっただろうと、返す返すいけなかったことをが悔やまれる。
まず、貫目作品について。
岡本喜八の「大誘拐 RAINBOW KIDS」(91・東宝)を思い出した。これは、誘拐された老婆がしたたかさを発揮して、次第に犯人たちをリードしていく話である。老婆は北林谷栄。いさ さか無茶に跳ねすぎのきらいはあるが、なかなか楽しめる作品である。
実は、これには先行作品がある。
前田陽一の「喜劇・大誘拐」(76・松竹)で、老婆はミヤコ蝶々。この映画には時次郎師もかんでいたので師のほうが詳しい。
これは「原案・吉田進」となっているが、これをヒントにしたのかどうか。岡本作品は、「原作・天藤真」となっている。
Yさんのいう「人間の底知れない怖さ」を出すにしても、こういう突き抜けたおかしさの中に描き出すことができたら最高だろう。(無理な注文は承知の上)
また、念仏衆は実在なのか亡霊なのかも考えどころである。
このあたりは、小林正樹「怪談」(64・東宝)を参考にしたい。この原作はもちろん小泉八雲である。
こういう作品の場合は、縦横無尽に創造力を働かせて創るのがいいだろう。
四の五の言わずに、ぜひ完成させてほしい。そうすれば、作者は一段も二段も飛躍すること間違いなしだ。
つづいて、神山作品。
まことに力作というべきか。
今までの作者の、勝手気ままなところは引っ込んで、しっかりとドラマを創ろうとしているのがいい。
もとは新婚夫婦の話だった。結婚相手の男に何か秘密があるようで、その秘密を探る(解き明かす)という筋立てだった。
しかし、それでは全部が過去の話だし、主人公にかかわってくるものが希薄だった。作者はそれを、結婚前の男女の、気持ちの不安定な時期に設定したので、 ちゃんと今の話になった。
しかし、最初は女が主人公で始まるのに、途中で男に代わってしまっている。これは、原作も同じなのだが、女が単に導入の役割しかしていないのでは、せっ かくの結婚前という時期の設定が生きてこない。
男の記憶の秘密が明らかになったことで、女の(不安定な気持ちの)何が解決したのだろうか。
父親の事件を殺人事件にした意味、日本人ではなかったということの意味、この二つは大きい。だが、これらは提示され放り出されているだけなので、ドラマ としてどう紡ぐのか。相手の女にどういう影響をあたえたのか。
課題は大きいようである。
最後に、「彼岸」と「お盆」を取り違えているようだ。お彼岸には「迎え火」なんてしないよ!
以上、2作品への意見と感想だが、当日のゼミに出ていないので空気がわからず、的はずれになっているかもしれない。そこがもどかしいかぎりだ。
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