2005年12月17日(土)
 


△▼12/17のゼミ▼△


本 日の作品

映画        1

出席者: 男 5   女 5


藤原智樹監督作品「希望情景」


 メンバーの、藤原智樹君監督・脚本・編集の「希望情景」(31分)の上映会。藤原君は現場志向の人で、前作の「パンダノフリカケ」では、深谷短編映画祭 で優秀賞を獲得した。
 前作の、ファンタジックな「映像詩」ともいえる、セリフなしの数分を、僕は気持ちよく観た。そして、この第2作は、人物の「関係」を初めて取り上げた。 いわば、単独の「イメージ」から複数の「具体性」への移行である。
 つまり、人間が1人の時は1x1は1だ。だが2人になると2ではすまなくなり、その「関係・具体性」は2の二乗、つまり4になる。3人なら、3の二乗の 9だ。
 スタッフも役者も一人で集め、交通費と弁当だけで仕上げたという。そこがデスクワークだけの「脚本」と違うところだ。僕の時代には、大手の会社の助監督 になれば、いつかは1本撮る機会が来るなんてのどかな時代で、ぼくはそうでもなければ到底いまの仕事を選ばなかっただろう。そういう「頑張り嫌い」はもう お呼びじゃない時代になっている。ああ、オレは早く生まれてよかったと思う。別にドラマの世界だけではなく、どんな仕事でも「自分」を自己実現すること が、なによりの人生の「課題」というきびしい時代だ。
 といって、流れで監督・脚本業をやってきた手前、引っかかるところがあると、つい口うるさくなる。よく言う、嫁と姑の関係では、僕は間違ってもおろかな 「姑」にならないぞ、とは思っていても、やっぱり「押し付け」がでてくる。そんなのは、いいのだ、これからの映画には、と思っても、絵(のゴッホ)や詩 (のランボー)とは同じとはいかない、集団作業の切なさとそれ故の規制をいわざるを得ない。
 そこをクリアーするのが、生きていく「手立て」だから。
 だから、シナリオでも監督でも、しっかりした「技術」を身につけた上で、あとは、どんな面白い、新鮮な材料を打ち出せるかにかかっているのだ。
 昔、助監督を2,3本やってもらって、ああ彼が鳴り物入りの「忍者映画大作」をという感慨で観にいったら、30分とみていられなかった。映像ドラマは、 「商品」です。だから、すばらしい。沢山の人の、情熱・欲得・思惑・計算を抱えるのだから。
 具体的なアドバイスは言ったから、そんなデテイルはもういい。
 頭をかく必要はない。なぜって、オレはいまだかって一度も、自分でスタッフや役者を集め、自前の「映画」を撮ったことがないから。そこは、藤原に負ける んだよ。だから,文句なしに応援するのです。「オレは待ってるぜ」という裕次郎の心境かな。





 元事務長の江田さんが来た。僕には、なつかしの「直子」だ。その舌鋒の鋭さと勢いは健在だった。千葉の「おばさん」風になったら ,俺、許さんからね。そこは、おじいさんになりかかってるオレと「直子」の勝負だ。
 何でも、「勝負、勝負」といってりゃあ、ふけないと妄信してるんです、僕は。
 でアフターは、冷蔵庫幹事の差配で「忘年会」に。いつも有難う。今日は時間が遅かったからカラオケいけず、「愛の水中歌」聴けなかったが、いつかゼミの 後で大カラオケをやろう。
 これは僕の癖でつい偉人の言葉を引くのだが、幕末の革命児・高杉晋作は死ぬ前にこういったらしい。
 「面白き こともなき世を面白く 生きなすものは 心なりけり」。

 八王子・K 君や旧メンバーのK君も来た。
 後のK君に、「またアシモフ来たら?金ないの?」といったら、「いや、金はあります、パチスロで30万稼ぎましたから」とうそぶく。いいなあ、こういう 呼吸がオレは好きだ。
 遠い人から三々五々帰っていって,5,6人が最後まで残り、僕は地下鉄の終電に乗り遅れた。みんな大丈夫だったのかしら?
 で、山手線品川行(外回り)に乗ったら・・・・。これから、ちょっとしたドラマがあったのです。



 内野さんから、シナリオ「からすの子守唄」(400字X124)を預かった。これを課題作にします。
 内野さんは、10月にリメイクとはいえ「闘い人」を仕上げたばかり。シナリオには、「技術」と「材料」の二つがあるが、前者については、「うん、もう、 かなりなレベルだ」と、太鼓判を押した。忘年会でそういったら、うれしそうだったが、目は笑っていなかった。
 彼女とも、「戦って」いけそうだよ。



国リハ部屋


藤原智樹監督作品「希望情景」

 これは映画だと思った。
 作者の想いがきちんとと表現されている。今までに多くの自主映画を見続けてきたが、その中でも相当の水準をいっていると思う。

 向かい合った七海と慶太の二人が、ひたすら一人ずつのカットバックで描かれている。何カットが続いた後、ようやく指輪ケースのアップになる。そしてまた 二人のカットバックが続く。ここに作者の確かな表現への想いがあると思った。
 普通ならカットバックは安易になる。ぼくは初めて監督したときどこでカットバックをするべきか悩みに悩んだ。こんなにストレートに繰り返すことは出来な かった。
 強いていえば、はじめのうち七海が横顔すぎたことが気にいらない。もっと正面から撮ってほしかった。後半には次第に正面にまわるのだが。それに比べて慶 太は比較的正面だった。アップをどう撮るかは監督の表現への想いに関わっていると思う。
 それと。足のアップが多いのも好きではない。
 慶太の登場は、三回目まで全部足から始まっている。ラストの七海が追いかけるところも、足から始まる。
 足に描くべき表情があるか?

 最初の稿はどうだったのか読み直してみた。そしてどんなことをいったのか、「今日のゼミ」のバックナンバー(5月7日)を見た。
 決定稿は、兄の友人の描き方がすっきりとしていて、そのほかにも無駄はかなり省かれて整理されている。これがゼミの成果だとしたら、うれしいのだが。
 ぼくはそのゼミで、兄が盲人であることに疑問を呈した。そして、「障害者にすると、簡単に心暖まる話が出来てしまうが、果たしてそんなことでいいのだろ うか」と書いた。ちょうど盲目の少女が出る話があったので、またかという思いがあったのからだ。
だが、今は、その言い方は訂正しなければならない。描かれているのは、そういう安易さではなかった。弱いのは兄を助けねばと思って自己犠牲に酔っている妹 だった。彼女に対して、兄は、それぞれの生をちゃんといきるべきだという。描かれているのは、兄の強さと、そして、優しさだ。
 「だめだよ…もう、これ以上…自分を犠牲にして、諦めて…何にも、辛くないフリをする…そんな生き方してちゃ…」
そのことばが、こんどは素直に聞けた。

 そして、指輪だ。
 ウーロン茶のカップに入れるかどうかが話題になったようだが、第一稿からあるのだけど、ぼくもちょっと疑問。
 この七海の行動は、なんだか中途半端な気がした。
 入れるのなら、自分のカップではなくて慶太のカップではないのか。そうでないと拒絶の意思がきちんと伝わらないのではないか。いや、もともと中途半端な 気持ちなのか。だとしたら、もう少し指輪を見つめる間があってもいいように思う。
 いやその前に、自分から手を出してケースから取り出さないんじゃないかなとも思う。
 忠太郎師のいうように、作者がアイディアに負けたという感じだ。

 しかし、こういう作家がわれらがゼミから出たことがうれしい。






次回の定期ゼミは、2006年1月21日(土)です。


東京芸術劇場5F/NO4会議室
時間は、いつものように、13:30〜17:00

教室が変わる場合があるので、入り口のボードで確認してください。


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今までにみんなの書いたシナリオのリス トを整理してありますので、
それもご覧ください。

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