1.千葉作品「ひとりでできるかな?」(ストーリー)
なにもこの題名におもねって前説を書いたわけではない。たまたまの一致なのだ が。
主人公は、かつては郷里の期待を担ってプロ野球に入ったが、いまやリストラ寸前で恋女房との仲もギクシャクしている。売り言葉に買い言葉で、「お前なん
かとは別れる」と家を飛び出した。「出て行け」といわずに、自分のほうが出て行ったのは、まだ女房に未練たっぷりなんだが、「男には負けるとわかってて
も、戦わなければいけない時がある」(バイロン)のです。
「ほとぼりが冷めるまでだ。それに、ここんところアル中気味だし久しぶりに田舎に帰ってのんびりするのも悪くはない」と男は故郷に向かう。
だが、それは甘い思惑だった。10年前と違って家族の誰もがみんな少しずつ「壊れて」いて、その仲で彼は翻弄される。
親父は酒屋から転業したコンビニが上手くいかず、奇妙な趣味に凝っている。母親はというと半ボケの舅の世話で疲れ果て、年よりは10歳も老けたお婆ちゃ
んだ。そしてその舅(主人公の祖父)たるや、お迎え寸前なのに「せめてあと一度だけは」とデイケアの女にうつつを抜かして、バイアグラの信奉者だ。夫との
不和で出もどりの姉は神経がやんでいて、子供の世話を放り出して年がら年中、家の清掃に励んでいる。
こう紹介すると、前回のこの欄で取上げたUさんの作品と設定が似ていることに、皆さん気ずくだろう。だが、作者のために言えば、これまたたまたまの偶然
なのだ。前回の時点で、作者はすでにこのストーリーを書き始めていた。むしろ、その類似性を気にして、脇の人物達に極端なキャラクターをもってきたとも思
えるほどで、「過ぎたるは、及ばざるが如し」ともいうから、作者初めての「家族もの」を大事するためにも、その「極端さ」「過激さ]に少しブレーキをかけ
たほうがいい。えてして、脇の人物の面白さを狙いすぎては、全体が面白くならないものだ。
かっての、アチャラカ喜劇の巨匠といわれた斉藤寅次郎監督は脚本家にいつもこういったらしい。「筋の喜劇性は大事だが、登場人物は普通に書いてくださ
い」と。
さて、女房から離婚届が送られてきた。親父とのある角逐をへて、自分に自信を回復した主人公は、素直な気持ちで東京に戻り女房に再会する。
夜の公園。女房は鉄棒で逆上がりをしてみせる。「貴女がいなくなってから、これ練習してたの。子供の頃簡単に出来たことができなくなってて、やっと、ほ
ら、ね」。
このあたりの描写は作者独特の味だ。そのリリシズムは美しいのだがーー。
みんなからひとつの疑問が出た。
これは、夫婦の話か?親父と息子の話か?
「うーん、僕には後の話は書きずらいなあ」と作者は言う。とはいっても、夫婦の話をテーマにするにしては、二人のながれに膨らみもないし奥行きもにも欠
ける。そこを一番分かっているのは、作者である。さあ、どうする?
考えていた作者はややあって顔を輝かせていった。「こんなのはどうでしょう?女房は××してるんです。でもそれをずっと夫にいえずにいた」と。
そのとき、僕だけではなくみんなの表情がふうっーと和らいだようだった。出口を探しあぐねていて、なにか一筋の光が差し込んだように思えたのだ。
これは僕だけの思いだが、「父性」の話も捨てがたいんだけどなあ。向田さんの父親像以来(アレは、昔の父親だが)、魅力的な父親にさっぱりお目にかから
ないんで。
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