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《犬と猫の、違う者のコミュニケーションとディスコミュニケーション。》



 い ぬ


「ねえ、色男さん。折り入ってお願いがあるんだけど」
女性の頼みは断らないのが、瀬戸口のポリシーである。しかしこの美貌の整備班長に限っては、正直苦手だった。彼女は自分のよさを、外見ではないよさを、自らの手で台無しにしている。いや台無しにして喜んでいる節がある。その姿が悲しくなる。女性とは、あの人と同じ側を生きるものは須く幸せでいて欲しいのに。
「あの男が誰かに渡すか、聞いてきて欲しいのよ。男同士ならそういう話、普通にするでしょ?」
実はその"普通の会話”をしない仲なんだが。とつい言い出しそびれ、仕方なく質問に質問で返す。
「そういうのさ……元カレだからって、気になるもん? まだ諦めてないとか?」
こちらをじっと見据える瞳は、美しいが暗く激しい。汲めど尽きぬ嘆きの井戸。
「自分で聞けばいいのに。なんていったっけ、あのノリで……人妻戦隊?」
あの変態と一緒にしないでよ、そう鼻で笑って、原は細い足を組み替える。
「わかってないわね。あいつが私に本当のことを言うわけないでしょ?」
わかってないのはどっちかね。男ってのは、見栄だけ張って一生暮らす生き物なんだがな。
「俺になんかそれこそ、まともな事言わないと思うんだけど。でもまぁ、美女の頼みは断れない、か。仕方がない。期待しないで待ってて」
胸の内で盛大に不運を呪いつつ、それでも受けたのは、ポリシー堅持ということもあるがそれ以上に、あのお堅い委員長の素行に、多少は興味をかき立てられたせいでもあった。

レディーへのお返しは三倍返し。瀬戸口はその原則を忠実に守るために、正月あたりからこの日に備えていた。小隊の女性はもちろんのこと、尚絅の女学生、売店のお姉さん、たばこ屋のおばちゃん、それこそ幼女マダム老婆まで、ありとあらゆる顔見知りの女性にささやかな菓子を。バレンタインに何も貰っていない相手にも相当数を配って歩く。目が合えば微笑みかけてくれる、日々の中の笑顔こそ何より得がたいというのが持論だからだ。女性の心をモノで計るようではマダマダだ。
ただし勿論、ののみだけは特別扱いだ。本物のホワイトチョコクリームの入ったシュークリームを手に入れ、仕事を終えて家まで送る最後に手渡した。
「わあ、わあ、おいしそうだねえ。ふわふわして、くもみたいで、それに、とってもいいにおいがするのよ」
眠気に半ば閉じていた目を全開にして、わあ、を繰り返す表情を堪能する。一人で食っていいんだぞ、ただし寝る前に歯磨き忘れるな。そう言い含めると、箱に入ったより何倍も甘くとろけるような笑顔を目に焼き付けて、早々に背を向け手を振った。ののみのことだ、ぐずぐずしていると、あんな一口大の菓子さえ一緒に食べようと言い出すに違いないのだ。


八時前、すっかり人気のないプレハブ前に戻ると、案の定、小隊隊長室には皎々と明かりがついていた。あの男が仕事時間中に出歩くわけがない。ご苦労なことだ。帰るところだけ見張って、そのまま帰宅するようなら晴れて任務完了だろう。そう決め込んで、詰め所でプログラム作成の真似事をしながら待つことにする。
週刊トレンディー最新号を後半の広告の隅まで読み終わり、そろそろ目的を見失いそうになった十二時前、ようやく動きがあった。電灯が消され、扉の開く音がしたのだ。瀬戸口は足音を忍ばせて詰め所を出ると、階段の裏側をそっと抜け、調理室前の柱に隠れた。向こうが校舎裏に向かうまでは、ここから見とくかな、と歩を止めたとき、
「瀬戸口君?」
男はぴたりと足を止め、振り返りもせず低く告げた。
「私の周りで、不穏な動きをするのはよしなさい。若宮戦士は容赦のない人ですから」
見つかったことより、その言い草にひっかかるものがあり、気づけば陰から歩み出て、頭の中で整理する前に口に出していた。
「うん? なんでそこで若宮かな」
「瀬戸口君、聞いていますか?  射殺されたくなかったら……」
そして今宵は特に、余裕綽々な態度が鼻についた。右手の電灯が眼鏡に反射して目が完全に隠れているのが、男の気味悪さを増しているせいだろうか。
「なあ、前から思ってたんだけど。あんた、あいつのこと何だと思ってるんだ?  ボディガード、SP…… いや、番犬か?」
「人聞きの悪い喩えをしないでください」
目の前の男に浴びせる体の言い雑言を探しただけで、実は若宮に大した興味はない。とはいえ人より若宮タイプの事は知っているし、それ以前にバカだが悪い奴じゃない。だから、直線を崩し薄笑みの形になった口元を見て、苛立ちが怒りに変わった。
背後の柱に寄りかかって嘯く。
「へえ、否定はしないのな」
「する必要がありません」
断言した顔は、いつもの無表情を取り戻すどころか、無機物のように見えた。
これ以上、自分の視界を汚す気にならず目を逸らしてから、とりあえず目的は達したなと思った。こんな野郎が女性に愛を語るなど……ありえない。言語道断だ。

「警告はしましたよ」
帰途へ向かいかけた彼が最後に言い放った語尾が、消えるか消えないかのタイミングで、若宮が右の通路から小走りにやってきた。グラウンドでの仕事を終えたばかりらしく、羽織っただけの上着が妙に暑苦しい。
「司令、お帰りになるのでしたら、声をかけて下さいと……なんだ、瀬戸口、あまりふざけて司令を困らせるなよ」
何でもありませんよ、そう男が平坦に告げ、ふたたび踵を返す。
「じゃあな」
白い歯剥き出しの笑みを見せた後、巨漢は先に行った男を追って、当たり前のように一歩下がった位置について歩き出した。それはあまりに自然な動きで。
言っちゃ悪いが、確かにデカい犬だった。

寮へ向かう間に報告メールを送り、原女史のクエストは自己基準で達成した。しかしその道すがら、あの尻尾でも振りかねない笑顔とののみの満面の笑顔が交互にちらついて、瀬戸口は途方にくれた。意外にも、たいした違いが見つからなかったからだ。

聖ホワイトデイという祝福された日に、わざわざケチをつけることもなかったんだが……色男はつらいねぇ。
どぶ川にかかる橋の上、辺りに誰もいないのを確かめてから瀬戸口は、ほの白い半月を見上げてひとつ、大きなため息をついた。


《劇終》
《いつかどこかに続くかも》

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★20080928 ホワイトデーもの(だったはず。)コッソリ続く(はず。)