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《オリオン》




 ハンガーから響いていた重機の低い唸り声はいつの間にか止んでいた。善行は腕にした時計に目を走らせた。二十二時。
 就業時間に入ってすぐのVコールに応えて出撃した小隊が水俣から戻ったのはかれこれ四時間前のことだ。以後、各部署とも機体チェック、修理、弾薬補充云々の後始末に追われて今に至る。
 その慌ただしい中、誰の発案によるものか、調理室兼食堂にささやかな宴の用意がなされた。このまま解散し寝に帰るのをよしとしない連中がいて、教員達にも許可を受けたと揚々と伝えて来ている。彼らの言い分はこうだ。
“だって、クリスマスだから“


☆☆☆☆☆



ペンを持つ手を一時のつもりで休めた善行は、机の端に置かれたいかにも場違いな代物に目をやった。
『いーんちょの分もあるのよ、はい!』
 先刻自分を誘い出そうとして果たせなかった東原ののみが、代わりにと言う顔で残していった、小ぶりのクラッカーだ。一体どこからどうして調達したものか。手に取るとどこか懐かしい荒い紙の感触に…魔が差したというべきか、善行は強く紐を引いた。
パン、
軽い音と共に沈んだ色合いの細い紙テープが宙に舞った。


「楽しそうね、善行さん」
 ほぼ同時に正面の扉が開いて、すらりとした脚が軽やかにその持ち主を運んで来た。薬品に荒らされた細い手が黒表紙の報告書綴を突きつける。
「…ええ、まあ」
 反射的に受け取りながら、善行は苦笑いを浮かべた。我ながら子供っぽい事をしたものだと反省していたのだ。部下に見られたとあっては決まり悪いとしか言いようがない。はじめ清々しいとさえ感じた火薬の臭いまでもが、戦闘後の空気を想わせるばかりになって鼻腔を苛む。
 簡単に逃して貰えるとは思わない。が、黙っているのも居たたまれず、弁解しようと咳払いをした時、原が窓のブラインド越しにプレハブの一階へと目をやった。お世辞にも上手とはいえないが軽快な、クリスマスソングの合唱が聞こえはじめたからだ。

 どれだけの戦果をあげていようが、ここにいるのは年端も行かない子供ばかりだ。息抜きは必要だろう、その方が効率が上がる。
 …次の瞬間、どんな事であれ戦争と結びつけずに居れない自身に嫌気が指し、善行は原に見えないように頬を歪めた。

「皆さんも楽しんでいるようで、なによりですね」
「ほんとよね。せっかくのクリスマスですもの、お互い独り寂しく過ごさなくて済んでよかったじゃない?」
「ええ、お陰様で」
 鼻白んだ原に罪深さを承知で微笑を向ける。
「ああでも貴女は…、デートの約束でもありましたか? でしたら申し訳ないことをしましたね」
「………なによ。わかってるくせに」
「何をです」
「とぼけないで、顔合わせれば仕事仕事そればっかりのくせに。人使いの荒い上司のせいで、デートの約束なんてしてる暇もなかったわ」
 目も合わせず言い捨てると、原は靴音高く、足早に出て行った。 


 貴女には本当に感謝しているんですよ。口に出していようものなら更に彼女を激昂させたに違いない台詞を舌の上に乗せたまま、善行は苦笑を禁じ得なかった。

 原の指摘は遠からず当たっていた。夕暮れ近くに受け取った出撃要請に、心のどこかで安堵したのは否定できない。今日この日のこれからの時間を、誰と何処で過ごすにしても、また過ごさないにしても、…思い煩わずに済んだのは僥倖だった。今さら思春期の少年でもあるまいが、かといって完全に意識の外にできるほど老成しているわけでもない。



☆☆☆☆☆



 善行は一休みどころでは済みそうにないと諦めながら戸外へ出た。
 さて、と声を出す。
「若宮、趣味が悪いですよ」
「こちらで爆発音がいたしましたので。ご無事でなにより」
 物陰から現れた、悪びれた風など欠片もない顔を見て、下士官の地獄耳は軍隊伝説のようなものだが、発揮するのも時と場所によるだろうと善行は思った。それから、クラッカーだということくらい今日なら誰でもわかるだろうと嫌味の一つも言っておくべきかと思ったが、口を開く前に馬鹿らしくなってやめた。
 お互いほろ苦い顔を向かい合わせた間を、小杉の深みのあるアルトが行き過ぎる。聞き慣れない外国語の歌だ。賛美歌のような。
「あー、楽しんでますか?」
「はい、それなりに」
「なんですその言いぐさは。仕事中の僕に失礼です」
「実にいい夜です。ですが、大人には大人の過ごし方がありますからなあ」
 若宮ともあろうものがいっぱしに、この日ならではを期待していたのかと、正直驚く。それからすぐに、目の前のいかついのが軍以外の事柄については初心といっていいほど純粋だということを思い出して、善行は仕方がない、と首を振った。律しきれず可笑しさがこみ上げる。
「クリスマスでなくても、そのくらい何時でもできるでしょう」
 …生き延びさえすれば、ね。
 不用意と自覚して後半心の中で呟くと、善行は視線を空へ逃した。
「つれないですな」
 本気で惜しがるでもなく。若宮は歩み寄り、善行に倣った。





 暗く晴れ渡った夜空に、オリオンの三つ星とその下に抱かれた星雲が鮮明に見えた。都会ではよく見分けることも難しい小さな星々の群れる姿が胸の中で、調理室から漏れる光、さんざめく笑い声に重なる。善行にはろくな暖房すらないその部屋はいま、地上のどこよりも暖かい場所と思われた。そしてどこか遠い。

 年頃の少年少女のことだ、特別な約束のあった者もいるだろう。
 だが今宵だけは。互いが無事にある有り難さを噛みしめて欲しい。
 それこそ上官の驕り、押しつけに過ぎないかもしれないが。

 並んで立つ男の体温が微かに触れ合った肩先から僅か伝わるのを感じながら。
 善行はただ白い息を吐いて、頭上の星を眺め続けていた。  





《劇終》


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☆おくればせメリークリスマス。 20041226 ASIA