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《遺書》
「たしかに書いておけとお伝えしましたが、提出は結構です。今のところ検閲とか、そういう指示も来ていませんし・・・こういうものは本来プライベートですからね」
善行は言いながら机の上を指し示した。A4サイズのレポート用紙。少々皺のよった上にボールペン書きの文字がびっしり並んでいる。
「す、すみません! 間違えました!」
事務机を挟んで立たされた青い髪の少女は、紙片を目にするなり顔色を蒼白にし、それから真っ赤になって頭を抱えた。
「間違えたんですか。・・・はあ、整備日誌とねえ」
膠着した田辺が漏らすアアだのウウだのいう身も世もない呻き声の中から事情を把握したようで、善行は終止愉快気に口元を緩めていた。小隊隊長室には二人以外無人であり、つまりその珍しい光景を目にした人間は誰一人いなかったわけだが。
しばらくして彼は、放っておけば延々と終わる気配の見えない“すみません”を、手を叩く事で遮ると、上司らしく鷹揚に慰めの言葉をかけた。しかし実際の効果からいえばそれは畳み掛けたというが正しかった。
「大丈夫ですよ、たいして見ちゃいません。途中で気がつきました」
かく宣言されて少女は、ますます萎れた花のようになった。
*****
「若宮・・・貴方、・・・遺書は書きましたか?」
出だし掠れたのをそれとなく誤魔化した声が、いかにも興味なさそうに質問を投げた。しかし相手からは、返事らしいどんな言葉も仕草も戻らない。
「書くわけない、ですか」
気まずいとまでは行かずとも物思わしい十数秒の後で勝手に一人で答えを出した善行は、俯せた姿勢から肘を立てると片腕を伸ばし、大義そうに枕元を探った。しかしそうして探り当てた箱はすでに空になっており、善行はもう片方の手も添えると力を込め・・・動きを一旦止めて、中から安っぽいライターを取り出すと、今度こそくしゃりと音をたてて捻り潰した。
そのまま畳の上へだらりと両腕を置いて、善行は続けた。平時と変わらぬ声だが、呼吸はまだ少し荒い。
「今日ね、田辺さんの、遺書を、見る機会が、ありましてね、」
「ああーーーー、箇条書きだとかいう」
そのとき、寝穢く伸びた身体の傍らで塊がのそりと動きのそりと答えた。ずれた掛布の下から現れた褐色の肌が常夜灯の下、俄に暖かみを帯びたオレンジ色に映える。善行と較べて八割増もの筋肉を纏いつかせた腕が悠然と伸びて、狙い澄ましてか偶然か、散乱した数々の中から一度で自分の下穿きを見つけてみせた。
その腕に隣にあったランニングを渡され、頭から被りながら善行は空々しく尋ねる。息が整わない上に、くぐもった声で大変に聴き辛くなった。
「誰です、そんな事を、言いふらすのは。どうせ、また、加藤さんあたりで、しょう」
「お言葉ですが。事務官によれば司令は田辺のそれを長時間、机上に放置されていたとか。まったく人が悪い」
決め付けられた善行は、長時間ねえと呟いただけで、あっさり白状した。
「ごく、一部分ですが。あれは遺書ではなくラブレターでした。だから、その辺だけ読めるように置いたのは、・・・まあ、その通りです」
「貴方と言う人は」
「これでも、苦労したんですよ。貴方には、判らないかもしれませんが、惚れた腫れたの世界で、噂の一つも立たないでは、盛り上がりようもないでしょう。まして死んでからでは遅い。精いっぱいの親心、というわけで」
「もっともらしいお説ですが、・・・面白がってませんか」
「当然です」
これだから、という顔で己の両腕を枕に横たわり直した若宮に向けて、曖昧に漂う程度だった笑みに明快な形を与えると、善行は肺に精神安定の一服を納めるべく、ついに褥から立ち上がった。
*****
「僕が初めて遺書を書いたのは、予備士官になった当日でしたよ」
唐突に話を振られ、若宮は首を巡らし善行を見上げた。
「はあ、そうでしたか」
気の抜けた返事を聞いて、壁のハンガーにかけた上着のポケットを探っていた善行は少々声を高くした。
「あの時、僕に書くよう指示したのは若宮。貴方でしたよ。覚えてないですか」
「はい。可能性は高いですが・・・」
若宮は彼には珍しいことに言葉尻を濁した。互いに互いをよく知らなかった、まして遺書の内容など話題になりようもなかった時分の話である。
「忘れたんですか、ずいぶん薄情ですね。・・・それともなんです、あれは訓練中に殺しかねないという警告だったとか?」
「いいえ、決してそのようなことは。それに半殺しで十分でしたでしょう」
サディストめ。・・・まあ、いい。
そう打ち切って善行は続けた。
「その時の僕の遺書は、田辺さんのと似ていましたよ」
「箇条書きだったのですか?」
若宮が即座に聞く。善行は思わず苦笑を漏らした。
「いや、そうではありませんが。でも父母、友人、あとは恩師にだとか、細かいことを逐一書いていたものですから。だから一見よく似ていた」
目的の品を手に入れた善行は、布団の上に戻った。胡座をかいて座り込むと早速火をつけて、もったいぶった仕草でライターを畳に落とす。乾いた音がやけに大きく響いた。
「実を言うと僕はね、彼女の遺書に感動したんです。」
突然の文脈の飛躍に、若宮は探るような目つきになって善行の顔を凝視した。その無遠慮と言っていい視線に気付いてか無意識にか、善行は灰皿を引き寄せるとその上で俯く。
「今まであまり話す機会もなかったが・・・田辺さんは、優しいですね。家族にあてては勿論、小隊全員にも、一人に一言ずつ書いてありましたよ。おそらく思い付く限りの知り合いに書いたんでしょうね。だから箇条書きなんですよ」
善行は同じ姿勢で話し続けた。声は低く穏やかだ。だが微かに苦みを帯びてもいる。
「それで僕はやっと判った気がしました。遺書を書くのは自分のためにでなく、後に残る人のためだとね。・・・一見似ていても、僕の遺書は彼女みたいな思いやりには遠かった。戻ったら何をしようだとか、どこへ行こうだとか、これからのことばかりやたらと書きました。周りをみちゃいなかった、つまり、そういうことです」
善行はここだけの話だがと、当時付き合い出した彼女のためにも一葉を書き足したことを告白した。現実に彼女の手に渡ったとしたら、悲しむより先に憤慨して破り捨てるのではと想像しながらそれを書いたのだと。
「先に逝くことは許さない・・・僕には彼女の目が、そう言っているように見えました。会う度に、いつもです」
眼鏡がない今、全てを遮断するように瞼を深く閉ざして、それからしばらくの善行は、一心に煙を吸い込んでいた。
*****
若宮が不意に、小さなかけ声と共に身体を起こすと問いかけた。
「それで、今はどうなのです」
「そのことなんですが・・・・ここに来て、また書き直しましたよ。せっかくの作文ですから、現国の時間にねえ」
善行は古い記憶に整理をつけかねたものか、一瞬茫洋とした表情を見せたが、すぐにいつもの調子に立ち返ると、にやりと口の端だけで笑った。
「どうです。貴方、見てみますか?」
「そう、軽々しく。よろしいので?」
「減るものでもなし」
善行は立ち上がると上着の前に戻って、どこからか封筒を出した。ひらひらと投げ渡す。
崩れた胡座の膝上にそれを広げて、若宮は戦場に立つ時にも似た難しい顔になった。縦書きの便箋には、たった一行が認められている。
“部屋に猫が二匹います。よろしく”
「これだけですか」
呆れた、と言わんばかりの顔。
「これだけも何も。僕にはもう、何をしようも、どこへ行こうもありません。それにこれだって、書かないよりましでしょう。」
「ましだと言われましても・・・何度も申し上げました。自分には遺書など必要ありません。」
善行は微かに苛立ちを含んだ動作で、若宮の手から遺書を取りかえした。こちらは指揮車に搭乗する時にも似た険しい顔になっている。その機嫌の傾ぎ方など見て見ぬ振りで、若宮は絶対的な口調で続けた。歯を覗かせんばかり凄みのある笑みを浮かべ、眸にはぞっとするような清澄な光を宿して。
「自分は死ぬことはありませんから」
善行は黙り込んだ。眉間に指をやって、そこに押し上げるべき何ものもない事に気付いて、何も言えなくなったようだった。
しばらくして、あくまでも平常の声で言った。
「大した自信ですね」
「はい。」
「僕は嘘は嫌いです」
「はい。自分もです」
「なるほど。ではそのつもりで頼みます。僕の遺書見なさい、それは貴方あてだ」
《劇終》
☆20040110 ASIA
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