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《独白》



全てが夕陽の色に染まったグラウンドの隅。若宮はベンチに腰掛けて、水飲み場に頭を突っ込む善行の後姿を見ていた。
日のある内にメニューを消化できるようになったことだけで、ここ一月の成果は十二分に見て取れる。無駄なく鍛えられた身体は相応のしなやかな筋肉に覆われはじめ、任官時の吹けば飛ぶような印象はすでに影もない。
ただ、口数が多過ぎる、独り言が多いと叱ってばかりいる生徒が、今日の訓練時間中黙りこくっていたのが気になっている。

何時の間にか頭にタオルを被った善行が正面に立ち、覚めた目を向けていた。
「今日の貴方は実によい生徒でしたな。いつも、こうあるべきです。」
努めて優しく言ったあとで、日頃余計な口をきくなと殴り飛ばしている自分の方が、沈黙を重荷に感じはじめていることに気付いて苦々しく思う。
善行は何も答えなかった。
「どうしました。座学で何かありましたか?」

太陽は既に地平の下へ姿を移していた。頭上は青から群青に色を深め、心地よかった微風も体温を奪うものへと変りつつある。若宮は善行の首にかかったままの濡れたタオルが気になりながらも、返事を待って黙っていた。
数分後、善行はようやく口を開いた。
「戦士は、……君を知っていますか?」
若宮は下士官連中との会話の中で、善行が口にした同期生の名を耳にしてはいた。ROTCに稀な逸材との評判である。
「戦術理論のクラスでね。彼の立てた作戦は素晴らしかった。シミュレータのフィールドD99。難所で有名なところです。戦士もきっと驚きますよ。天才とは彼のような才能を言うのでしょうね」
善行はそこで一旦言葉を止めてから続けた。
「その席で……いや今も。僕は彼に嫉妬している」

善行はふいと、グラウンドの方へ視線を外した。
「戦術は心底嫌いでした。よく授業を抜け出して、校庭で昼寝なんかしていたものです。正直、どうでもいいと思っていた。」
この時代、小学生から兵法を教えていた。はじめはゲームの形で定法を。やがて実際の戦闘を例に取った戦況分析、集団心理にいたるまで。若宮の知る限り、善行のこれらの成績は一般教科にやや劣った。彼の愛したのは判然と物理、幾何、地理、気象。
「それがどうです? 今や四六時中、作戦の事ばかり考えている。さっきは走りながら、彼のよりいい手がないか、そればかり」
眼鏡を押して上げる。レンズの奥は深い河の色に見えた。若宮はこれが教え子の最大の怒りの表現なのだということを痛いほど理解した。
「いつのまにか僕は、人より上手く殺すことを目指している。……何か笑えませんか」
そう言った顔は、少しも笑ってはいなかった。自己嫌悪と自己否定に塗りつぶされ、途方に暮れた顔だった。


「貴方は潔癖ですな」
若宮の言葉に、善行は激しく頭を振った。
「違う。僕はただ」
歳相応、いやそれ以下にさえ見える善行を見たのは初めてだと若宮は気付いた。その発見から生じた微かな動揺を、軽い口調に押し包んで切り出す。
「自分は若宮型の一人です。そのせいか嫉妬するという能力に乏しい」
「今、能力と言いましたか?」
善行は怪訝そうに問い返した。
「はい。己を高める動機になりうる、立派な能力だと思いますよ。もちろん、ただ羨むだけなら論外ですが、貴方はそれだけで終わらせない矜持もお持ちだ」
「醜いとは思わないのですか?」
「とんでもない」
それに、と若宮は声を低くして続ける。
「正直なところ、出所が嫉妬だろうが何だろうが構わないのではありませんか。貴方が考え出る作戦が正しければ、それだけ多くの人命が救われる。逆も真ですが。ただ、それだけの事です」
若宮は目の前にあった善行の指を軽く握った。水気を感じさせ、冷たい。善行は驚き、次の瞬間恥ずかしそうにしたが、振り解く事はしなかった。
「ありがとう。貴方がそう言ってくれてよかった」
善行は静かに言うと、ようやく今日初めての、笑みと言うにはあまりに控えめな笑みを口の端に乗せた。


         ◇  ◇  ◇


翌々日、日曜の午後。若宮は寮の部屋を出るとグラウンドに向かった。若宮にとっては久々の、何もない休日である。

担当して最初の週末、とっくに外出したと思っていた善行を運動場で見かけた時の驚きは記憶に新しい。走り込んでいた彼を見かけた後は、休養も仕事のうちと怒鳴りつけた。少々殴ったような記憶もある。彼は一言も抗弁しなかった。
次の日、半ば嫌がらせのつもりで休暇返上、自主訓練にあてる旨指示を出した。直ぐに気が咎めたが、それでも続けさせたのは結局、休日の気安さで交わす世間話が新鮮だったことと、少し角が取れて感じられる善行を、悪くないと思いはじめていたからかもしれない。

トラックを迂回して歩くうち、初夏の陽気に薄く身体は汗ばみ始めた。走りたい、という焦燥に似た衝動が体の底からこみ上げて来る半面、どうにも気分が乗らない。結局ぐるりと一周してしまった。
善行は今日はいない。本人の預かり知らぬところで、懇親会にエントリーされていたという。上層部も絡むそれは懇親会とは名ばかりの無礼講。社会勉強と称して、赤線に引きずられていくケースも多々あるらしい。どうにか外せないかと善行は昨日一日眉を八の字にしていた。

そうしてとりとめなく記憶を辿りながら寮の入り口まで戻ってきたところ、計ったように一団に行き会った。二十名ほどの中には例の天才戦術家の姿もあるのだろうか。もしや今、善行と親し気に話している背の低い青年がそうではあるまいか。スーツの上衣を肩に掛けた善行は、若宮が見たこともないようなきれいな淡い色のシャツを着ていた。
……こちらに気付いた。
手を上げて何事か呼びかけている。
若宮は応じて手を上げた。
軽く振ってみせると、直ぐに背を向けた。


その夜、若宮は自室で一人、インスタントコーヒーを啜っていた。元々こうした嗜好品は不要なもの、無駄なものと思っていたのだが、最近になって当たり前のように備えた。甘いもの全般を苦手とする善行が缶コーヒーを持ち込んで、甘さに顔をしかめて飲んでいたのに案外、ほだされたのかも知れない。

冷めかけたコーヒーの、苦さばかりが舌を刺す。一気に喉に流し込んでから、
「嫉妬、ねえ……」
思わず口に出したことに気づいて、若宮は知らず、苦い笑みを浮かべた。



《劇終》


★20070513 ASIA
同人誌「コンフェッション」掲載のWeb版です。書いたのおそらくこの時期なのでここに入れました。

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