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《八月八日》
大陸性気候である半島の夏は、日本のそれにいや増して暑く厳しい。当地では夏の盛りを三伏と称するが、その期間が終わろうというのが嘘としか思われぬ灼熱の下、行軍、掃討、また行軍の日が綿々と続いていた。
「ミスター。少々お時間をよろしいですか」
その夕方、控えめな声と共にシートの隙間から現れた日に焼けた顔を、善行は不思議そうに見つめかえした。
ミスター。若宮がそう呼ぶ場合はつまり、個人的にという表示であるが。
善行が幕舎を出ると既に若宮の背は数十歩も離れた先にあった。振り返り差し招いて、また先を行く、その普段重々しく確かな足取りが若干浮ついて見えて、善行は今度こそ小首を傾げた。
小隊が今宵の宿所としたのは山間の寺院の駐車場であった。山の中腹にあるらしい仏閣までの針葉樹の森、その深閑とした中を抜ける古びた石段を半ばまで上ったところ、ベンチの並ぶ広場でようやく善行は若宮に追い付いた。
「何なんです、一体・・・」
僅かに息を乱した善行が問いかけると、鬱蒼とした木の影に表情を溶け込ませていた若宮は、見事なまでの敬礼、それから一礼して朗々と言った。
「お誕生日、おめでとうございます。」
「えっ・・・ああ」
目を白黒させた善行はそのまま両手を取られ、何やら瓶を受け取らされた。
「貴方を上に持って、自分は・・・そう、・・・“当たり”だと思っているわけでして」
だから今日は“大当たりの日”ですと、若宮はしかつめらしい顔で続けた。
「それで、・・・これですか」
「いや、こんなものですみませんが、他に思い付きませんで」
一週間前に通過した小村で貰ったものです、と若宮は説明した。
大韓民国はその実数年前から、国家としての治安維持機能を有していなかった。情報が麻痺していたために拡大する戦端の前に取り残された小村も多く、そうした中に踏み入って避難を命じる事も小隊の任務に含まれた。幻獣の存在など遠い外国のこととしか思っていない人々を住み慣れた土地から引きはがす、それは非常に後味の悪い難事である。
ところが一触即発にもなりかねない状況の中で、若宮は土地の人々からよく物を貰って来た。特に子供と打ち解けるようで、物々しい装甲車の列の傍ら、両腕に彼等をぶら下げたりプロレス技を教える姿が見られたものだ。コミックのヒーローめいた容姿が受けるのだろうか、同じ姿からサドばりのしごきを想起する者にとっては信じ難い事実だが、これも才能というものだろうと、心にとめていたところである。
「ありがとう。嬉しいですよ」
善行は受け取らされた瓶のラベルから、それが本式の焼酎であることを見て取ってゆるく口許を綻ばせた。相当の酒好きでなければ一口でも辛いという代物だが、・・・この男は知っているのだろうか。
「でも、どうして知ってるんです?」
教えた覚えはなかった。恋人同士でもあるまいし、この年で誕生日などと。恋人、というところで黒髪の少女の面影にひくりと古傷が痛むのをやり過ごしてから、善行は静かに問い質した。
「それはですな、機密事項なんですが。」
「何をバカな・・・」
白い歯をむき出して笑われ、善行は腕を振り上げる仕草を見せた。仕方ない、ともったいぶった表情で若宮は白状する。
「免許証ですよ」
「あっ」
善行は一月ほど前に若宮に尋ねた事を思い出した。運転免許を更新したいがどうすべきかと。その時の返答は「自衛軍構成員は出動待機命令が出た段階から有効期間が切れても更新せず無免許で良い」だった。
「まさか無免でいい代わり、一生勤め上げろなんて理屈じゃないでしょうね」
その時はそう零してから、案外冗談では済まない将来を思ってぞっとしたものだが。
「・・・よく覚えていましたね」
「他ならぬ、ミスターの事ですから」
この上も無く嬉しげな顔を向けられ、善行は思わず言葉に詰まった。
その後、幕舎まで戻った二人を出迎えたのは、一列に並んだ小隊隊士全員の仏頂面だった。ただならぬ雰囲気に、二人が本気で身構えた将にその時、年若い一人が押し出されてきて、金切り声で叫んだ。
「鬼善行にも人並みに誕生日があるそうで、」
途端、押し寄せる人の群れ。それぞれが後ろ手に持った長い物は凶器・・・と見せて一升瓶。
「失礼な。我等が軍神の産土祭、だろうが」
「まあ、とにかく一杯」
いわゆる杯攻めというものだ。あっという間に取り囲まれた善行は苦笑を浮かべ、しばらく周囲を見回していたが、
「よろしい。本日は無礼講とする。私に続きなさい」
手にした瓶の口を切るや一息に煽った。
雄叫びが、あがった。
「待て、待て。申し訳ござ・・・おい!その人に、呑ませるな!」
必死に叫ぶ若宮の声は、完全にかき消された。
*****
「これは、懐かしいものを」
「ええ。」
窓の縁に腰をかけていた善行は、背後に立って己の手元を覗き込んだ男の顔を見上げて、ふふ、と笑った。
「僕はね、まだ恨んでるんですからね。あそこまで酷い二日酔いは、後にも先にも・・・」
酔った勢いでなければ絶対に撮らせなかったであろう、集合写真。
それを大事そうに胸ポケットに収めた手が、同じ場所から煙草とライターを取り出し火を点ける。一連の動作を目で追って、若宮はやがて深く息をつき、声を低くして問いかけた。
「その・・・まだ、貴方は、・・・」
言い淀んだ先を悟って、善行は紫煙とともにそっと声を吐き出した。
「いいえ。・・・ただ、支えられているのです」
もはや齢を重ねる事のない、彼等に。
そして変わらず側にある、貴方に。
昼中、耳を覆うほどだった蝉の声は、半刻前に通り過ぎた驟雨にすっかり静まり返っていた。一転して広がった茜空も今や刻々と色をなくし、アパートの二階から見る街は緩やかに夕闇に沈みはじめている。日に焼けた畳、座卓の上、置かれたケーキや菓子、子供らからの可愛らしい贈り物の上にもまた、同じ色の影が等しく落ちかかっていた。
《劇終》
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