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《格言》
小隊内はちょっとした将棋ブームだった。坂上が授業に使ったのをきっかけとして、昼食後に対戦する姿が見受けられるようになり一週間が経つ。その土曜の午後も一組教室を舞台にささやかなトーナメント戦が行われていた。
「ふむ、流石に老獪というべきか。見事であったぞ、善行」
「卑怯だ!こんなの僕は断固認めないからな!!」
「大介ったら。負けは負けだよ。」
「では厚志、そろそろ行くぞ。仕事だ」
「う、うん!」
「ふ、ふん。今日はこれで許してやる。・・・覚えてろよ!」
居合わせて参加をせがまれ全勝したところの善行は、感想なり捨て台詞なりを一挙に吐きつけられた。そして呆気に取られている間に、少年少女は思い思いに散っていった。
「大人気なかったですかね。」
「はい、いいえ。あの程度あしらってやれぬようでは困ります」
途中から見ていた若宮を振り返ると、賞品として渡されたシュークリームを押し付け、手品と見紛う早さで腹に収まってしまうのをぼんやり見ながら言った。
「ところで、どうです一局」
「司令のお誘いとなれば、無碍にはできませんな」
****
「しかし相変わらず、姑息と言うか、のらりくらりとまあ」
駒を並べながら若宮が感想を漏らした。決勝戦、茜を追い込んだ手口を言っている。
「彼は下手ではないが極端です。感情的にもなりやすい。自滅でしょう」
「可愛そうに。貴方が消極的に過ぎるからです」
「消極的とは人聞きが悪い。慎重派と言って下さい」
善行がそっけなく切り返すと、若宮は余裕気に言った。
「慎重派を自認するなら、勝てぬ戦など仕掛けぬ事です。敵を知り己を知れば百戦して危うからず・・・そう、はじめにお教えしたはずですが」
「確かに、教わりましたね」
善行の声が僅かに変調した。若宮は涼しい顔で口元を笑わせている。予備士官時代の善行に将棋を教えたのは若宮であり、当時の対戦成績は善行には気の毒と言っていい、一方的なものだったためである。
「そういえば『歩のない将棋は負け将棋』と言いますが、」
いざ開局というところで切り出した若宮は、悪戯っぽい眼差しを善行の顔にあてると右手を伸ばし、自陣に並んだ歩を全て落とした。
「必ずしも真ではないと思いませんか」
問いかけられた善行の眉宇が如実に不快を示す。
若宮は片眉を上げた。
「・・・試してみませんか?」
「よろしい。後悔させてあげます」
善行は眼鏡の縁を指で触れ押し上げると、待てという素振りの後、こちらは飛車角に香までの四枚落としとした。それから宣戦布告とばかりに深く息を吸って、姿勢を正した。
****
一尺四方の戦場に余人の窺い知れぬ気魄が籠る。
若宮は一手一手を電光石火で繰り出す。脊髄反射並みの速さである。
対する善行も目を伏せたまま、迷いの無い駒運びであった。
応酬のうち子供等の声もハンガーの機械音も彼等の耳からは遠ざかった。
*****
若宮は胸の前で組んでいた腕を解くと、虎の子の飛車を動かして首を竦めた。二手先に取られると判っていての素振り。互いに終局までの一切が見えている。
「・・・参りました」
若宮は喉の奥で短く唸ると、敗者とは見えないやり方で大きく口を開いて笑った。
「強くなられた。どこぞで特訓でも?」
手にした二、三の駒を弄びながら窓の外へやっていた視線を戻した善行は、表情を変えることなく頷いた。
「士官になって・・・、人が駒のように思えて悩んだ事もありました、か。ですから、せめて盤上では負けるまいと」
「士、三日会わざれば、というわけですか。人が悪い」
顎に手をやり目を細めた若宮の仕草には、言葉に逆らう純粋な悦びが見て取れた。
「ところで、歩のない将棋はどうでした?」
善行は大仰な照れ笑いを浮かべる顔を見つめて問いかけた。若宮の表情も態度もその言葉には無反応だった。率直で快活な男から逸脱する不吉さで一瞬瞼を引き攣らせた以外には。
「貴方のことだ、いざとなれば捨て駒の覚悟とでも言いたかったのだろうが」
善行の長い指が盤上の歩を挟み取る。
「僕には歩のない将棋をするつもりはありません。華々しくとか思い上がりで、勝手に減る事は許さない。どんな事情があろうが」
ぴし、と小気味良い音を立てて若宮の王の前に進めた。
王手、詰み。
「給料分の働きはしてもらいますよ」
「正論です」
答えた若宮の顔は傾き出した日を受け滴るように凄絶な色合いを帯びていた。
「たかが歩で王を刺す、考えてみれば虫のいい話ですが。・・・腹立たしい」
「試してみますか」
若宮は神妙な面持ちで答えた。
《劇終》
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★20030722 ASIA