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《錨》-Anchor of The Soul-





「遠足に行きませんか」
 休戦期を間近に控えた日曜は、善行のこの一言から始まった。

 軽トラを走らせること半時。真夏と言っても一向差し支えない高さの太陽が、車内をオーブンに変えた。窓を全開にしたところで、吹き払われようもない量の熱がダッシュボードの上に蓄積されていく。
 渇きをぬるい缶コーヒーで誤魔化しつつ、汗ばんだ肌が合皮のシートに張り付く不快さに、いつしか二人とも無口になった。

 海沿いの二車線道路は、どこまでも空いていた。



*****

「見えました。そのカーブの先・・・」
「着きましたか」
「ええ、多分」
「多分ですか」
「仕方ないでしょう。地図で見ただけなんです」
「・・・停めますよ」

 溶けたアスファルトの上に降り立つ。雑草に埋もれんばかりのガードレールの先は、数メーター落ち込んで海。開けた前方に、片側を岬に守られた湾が一望できた。真ん中に地勢を利した漁港と、付随して民家のいくらかが見える。

 この港こそ目的地だったのだと若宮が真実、理解したのは、善行がポケットからカメラを出して撮影を始めてからだった。全景、建物、道路に沿って向かい側の岬まで・・・写真が好きという割にはあまりにも無造作にシャッターを切る。次に反対側、来た方角に目を転じると、所在無さげに立っていた若宮に声をかけて海の彼方を指差した。

「熊本市です」
 熱気に揺らぐ大気の向こう、天水地区の丘陵の手前、平野部に灰色の塊がわだかまって見えた。いくつかの鉄塔。人の営みの群れ。
「熊本城も見えますな。案外近い」
「近過ぎますね・・・ちょっと待っていて下さい。」
 断りを入れて善行は、左手の多目的リングに触れて回路を開くと、あっけなく膨大な情報索と思考の裏に沈みこんで行った。

 若宮はその間、善行の横顔を眺めていた。この位置からかろうじて見える眼鏡の奥の目は、理知の強い光を放ち、ネットワーク上の何かを見据えている。顎に手の指を添えているのは、何事か図っている時の癖。
 
 見つめていた若宮の面をふと満足と寂寥とが往来し、・・・すぐに消えた。



*****

 遠足は日帰り旅行に化けた。
 宇土半島を海沿いに南西へ下りつつ、港という港、時に自然の浜へも下りて歩き回るうち、何時しか半日が過ぎていた。今や太陽は姿を数倍にも大きく見せながら、西の海中へと没しようとしている。鮮やかなオレンジ色と青い影が、目に入る全てを長く長く見せていた。

「すみません。すっかりつき合わせてしまって」
「かまいませんよ。・・・管理職に休みはない、というのは確か貴方の弁でしたな」
 ばれてましたか、と善行は苦笑した。
 あたりまえです、と若宮は苦笑を返す。
「考えるのが士官の仕事です、休もうとして休めるものでもないでしょう。」
「ついでのつもりだったんですがね・・・どうも、いけない」
 ため息を吐いた善行に、若宮は真剣な口調で語りかけた。
「自分には貴方が何を考えていらっしゃるのかはさっぱりですが、・・・いつか今日この日に感謝する時が来るかもしれないと、そんな気がします。」
「僕はどちらかといえば、そんな日が来なければと願っている」
「穏やかではありませんな。まあ、それでも自分は、自分にできる事をするだけです」
「・・・頼りにしていますよ」
 二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。

「しかし、それにしても・・・」
「なんです?」
「・・・腹が減りました」
 善行はあっと声をあげた。あれから飲まず食わずの強行軍だった事に、全く気付いていなかった風である。
「すみません。貴方には迷惑をかけてばかりだ。どうしてもっと早く言わないんです」
 若宮の手を取らんばかりの勢いで言った。
「帰りましょう。何でも御馳走します」
 
 しかし若宮は案外、涼しい顔だった。目の上に手をかざして、海の方角に一度伸びをしてから、真面目くさった、・・・明らかに面白がっている目を善行にあてた。
「本当にもう、よろしいので?」
「そう言われると・・・」
 言葉尻が濁る。
「ここまでくれば毒喰らわば皿まで・・・いや食ってませんが。最後まで付き合いますよ」
「ではもう少しだけ、我慢して下さい」
 善行は晴れやかに笑った。



*****

 潮の匂いへ向かってそぞろ歩く。
 
 最後と決めたここは、これまでで最も小さな港だった。目立つ物といえば頼りないほど細い埠頭と、他には事務所らしきプレハブが一つ。剥き出しの鉄骨には赤鏥が一面に取り付き、窓ガラスは埃色をして半ば破れていた。

「荒れてますね」
「この区域はずいぶん前に退去命令が出ました。四年近く経つはずです」
「野良猫くらい、いそうなものですが」
「おこぼれがなくては、彼等もやっていけないでしょう」

 砂浜へ下りる道を見つけた若宮が振り返ると、後ろを歩いていたはずの善行の姿は埠頭の上にあった。
「まさか。乗るつもりですか?」
 馳せ寄りながら若宮が大声で呼びかけた。明らかな詰問調だった。
「そう言わないで下さい。僕はね、2級免許だって持ってるんですよ」
「そういう問題ではありません」
「何年も浮いていたんです。今さら一人や二人乗ったところで、沈みやしませんよ」

 岸壁には小型の釣船やプレジャーボートばかり十数隻が舳先を並べていた。大方は塗料も剥げ落ち、船名も所属も明らかではない。風と波の干渉に微妙にリズムを乱しながら、マストを揺らし軋ませている。
 善行は外海に最も近い位置に舫われた船にすたすたと歩み寄ると飛び移った。難なく舳先まで進んで行くと、白いペンキ塗りの手すりから身を乗り出す。
「危ない」
 続いて船上の人となっていた若宮が鋭く声をあげたのに答え、善行は投げ出した腕を振り子のように揺らした。大丈夫、というつもりらしい。



*****

 夕凪の水上を渡り寄せてくる風は、冷気すら感じさせた。その中へ白いシャツ一枚を泳がせ、どことなく洗濯物を連想させながら善行は、若宮が傍に立っても体を起こそうとしなかった。眼鏡のせいで殆ど感情を窺わせない顔を下方、近づき遠ざかる波頭へと向けている。

「造船を学ばれていたそうですが・・・本当に海がお好きなのですね」
「こうしていると時間を忘れます」
 善行は顔を伏せたまま静かに言葉を紡いだ。
「僕が中学生くらいのころは戦争も遠い話でしたから。進学して就職なんていう型通りの人生がイヤでたまらなかった・・・贅沢な話でしょう?」
 そこで善行は上半身をやや起こした。手すりの上に両腕を組むと顎を乗せる。
「道がない。・・・それだけのことが自由だと思えたのでしょうか。船に乗りたかったのも、それも」


「どこにも・・・行かないで下さい」
 若宮は手すりから離れると善行の真後ろに立った。とっさに振り向こうとした肩を押しとどめ胸の中に引き込む。身を屈め、首筋に鼻先で一度触れた。
「なんです急に」
「不安になりました」
「何を言い出すかと思えば・・・」
「船の話ばかりされるからです」
「・・・まったく」
 善行は己に回された腕に手を掛けると、背後の影に重心を預けた。体温と心音が混ざりあおうとして一致せず、互いの存在を鮮明にする。
「では貴方が僕の錨になってくれればいい。適当に止めてくれれば僕も助かる。少なくとも、こんなに目の回るほど腹を減らすことはないでしょう」
「・・・ハイ」
 返事を聞いて善行は、声を出さずに笑った。
「いかがしました」
「いや・・・嫌がられるかと」
「港になれと言われればお断りします。ですが錨なら、共に往くものです」
「・・・なるほど」

 正に錨がそこにあった。幾重にも太い鎖を巻き付けた。
 姿を真似るかの如く若宮は、逞しい腕に一層の思いを込めた。骨を砕いてでも止め置こうとするかのように、容赦ない力が骨と筋に満ちる。
 身じろぎすらままならないほどの強さで抱擁されて善行は、浅く性急な息をつきながら、それでも一片の苦痛も面に示すことはなかった。じっと若宮の腕越しに、遥か水平線上を眺めていた。


 やがてゆっくりと、目蓋を閉じた。



《劇終》

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★Anchor of The Soul:希望:我々の霊魂の安全な不動の錨
030509 ASIA