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《魚》




 火の匂いに瞼を開いた。


 見慣れた天井と、夜と朝の間に横たわる静寂の下。
 四畳一間のすべては水底を思わせる陰影の中に留まっていた。

 床に敷かれた布団の上は、さながら時のない深海の澱み。

 幽かな気配に首を巡らせれば、小指の先ほどの赤熱がちらついていて。
「・・・起こしてしまいましたか?」
 灰皿を抱え込むようにうつ伏せていた人の声が、穏やかに響いた。



*****


 薄い敷布、一人分の面積に二人、等等の理由で強張った体を動かすと、二の腕と腰に直の体温が触れた。求め合った体位の幾つかがまざまざと甦り、再び意識を侵しはじめる熱の始末に困る。

「何を笑ってるんです」
 懈そうな声の出所に目を遣れば、煙草を挟む指の白さが目に染みた。思わず腕を伸ばして触れると、茶の瞳がその動きを半眼で追いかけていたのに気付く。

「白魚の指、と言うそうですが」
「それは男に使う言葉じゃありませんよ。誰に聞いたんです?」
 若宮は答えなかった。ただ、整備班長の薬品で荒れた手と、妙にさばさばと言った口ぶりを思い出している。

”あいつ、手だけはきれいよね、昔から。知ってるでしょ?”


「兎に角、・・・きれいだと思います、自分は」
「手がですか。誉めていただいたところで・・・何かひっかかりますね」
「他意はありませんよ。・・・本当に」



*****


「・・・こういう話があります」
 善行は灰皿を脇に除けると、ごろりと仰向けになって語りだした。
「手じゃなく、足の話ですが」
 なんですそれは、という若宮の感想は黙殺された。

「北欧の神話でした。ある時神々は、北に住む巨人族の王女に婿をやることになる。体のいい人質です。誰にするか決めあぐねた神々は、足だけを見せ一人選ばせることにした」
「凶暴な巨人族とはいえ、年頃の娘です。最も美しい足の持ち主こそ、世に聞こえた美の神だろうと思って相手を選ぶ」
「ところが、一際きれいな白銀の魚のような足の持ち主は。他にはどうということのない、中年の海の神だったんです」

「中年ですか。」
「それがどうか?」
「いえ。・・・もしやその神は、ヒゲなんぞ生やしては?」
「はあ。あったかもしれませんが・・・ねえ戦士。これは別に、僕の作り話じゃありませんよ」
 善行は己の顎を触りたがる大きな手を払いのけつつ言った。


「・・・それで?」
「娘はがっかりしたようですが、政略結婚ですから。二人は共に暮らしはじめます。九日は雪に閉ざされた北の国で、九日は穏やかな南の海で」

「・・・しかし、土台、無理な話だった。生まれ育った環境が違い過ぎたんです。」
「やがて娘は北の果てに帰って行った。弓を手に獣を追う、荒々しい生活にね」
「一年中、雪原を駆け巡って、狩りと戦に明け暮れているのだそうです。今でも・・・いつまでもずっと世界の終りまで。・・・たった独りで」

 あまり面白い話ではなかったですね、と善行は締めくくった。体ごと腕を伸ばすと、畳んであった上着の隠しから一服探りあて、火を着ける。薄い唇が紫煙を吐出し始めるのを、若宮はぼんやり眺めた。



*****


「自分はどこにも、帰ったりしません」
 若宮は突然、いぎたなく伸びた姿勢から飛び起きた。
 野生の獣のような無駄のない動作で、善行の腕を捕らえる。

 指先にそっと口づけた。
 硝煙と、微かに自身の整髪料の匂いがした。

 びくりと肩を驚かせ、善行は枕元へ盛大に灰を落としていた。
「何ですか。急に」
 非難がましく言ったのだが、取られた手を戻そうとはしない。
 荒い唇で貪られるに任せている。


 やがて、まじないのように囁いた。
「海の神は航海の神でしてね、船が好きで・・・・」
「・・・放浪癖があるかも、しれませんが」

「それでも自分は。どこへも帰りようがありません」 

 ・・・美味い魚に慣れすぎましたから。
 こう付け足して若宮は、白い歯を見せて笑った。



《劇終》

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★手が好き過ぎ、ですか。030418 ASIA