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《リップクリーム》




朝から降り続いていた雨は、夕刻みぞれに変わった。
白い二時間。
これが今年最後の雪となるのだろうか。


*****


その夜。
嘘のように晴れ渡った空の下、善行は一人小さな公園に佇んでいた。
コートの襟を立て、両手はポケットに入れて。
敷地の中央に立つ電灯は、節電法のため二十時には務めを終える。
代わりに真円の月が、遊具やベンチを覆う冬の名残を白く浮かび上がらせていた。


「ミスター、ですね?」
若宮が、月影の中へ踏み入ってきた。
ランニングの途中らしい。上下スエット姿で、体中から薄く湯気を立ち上らせている。
首にかけたタオルを外すと、汗を拭いながら問いかけた。
「どうしました、こんなところで」
答えはなかった。
眼鏡の奥の瞳は瞬きもせず上を望んでいる。
興味を持った若宮は、並んで立つと同じ角度へ視線をやった。
だがそこには、何の変哲もない、消えた灯があるばかりで。

「ミスター?」
「すみません・・・考えごとをしていました」
善行は、夢から覚めた人の顔をした。



*****


ふつふつと湧き上がる愛おしさのまま。
若宮が抱き寄せると、善行はおとなしく胸の内に納まった。
濃い灰色の外套は表面に露を宿して氷のように冷たかった。

身をかがめ、こめかみにキスを落とす。
短い前髪がちくりと鼻先に当たり、鼻孔が匂いで満たされた。
そのまま唇を下へ這わせようとしたが、眼鏡が行く手を阻む。
仕方ないので横へずれ、耳朶を甘噛みして。

かすかに震えた体を、一層強く抱きしめた。

触れるか触れないかの境界で、しばらく耳に留まったあと。
頬を横切り、鼻先から鼻梁を一度往復。
最後に白い息の吐き出されるところへ。

唇は荒れていた。
燠火のように熱かった。



*****


「リップクリームをお持ちでしたな?」
勝手知ったるなんとやら。右のポケットに手を突っ込んで探る。
すると善行は、服地の上から若宮の手首を掴んだ。

腹に強く押し当てる。
手の甲に固有の体温とリズムが移る。


善行は左手を出してリップクリームを見せた。
若宮が空いた手で蓋を取ってやると、器用に繰り出して塗った。
仄かに漂う、薄荷の香り。

「今晩、部屋に寄っていきませんか」

乾いた唇。
ひび割れていて、つやもない。
だが若宮は、どんな美女の唇よりも蠱惑的だと思った。




《劇終》

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★ 雨→みぞれ→快晴、までは実話。20030217 ASIA
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