《残香》 (原題:夜間飛行)


どこぞの視察団相手の接待という話だった。
この忙しいのにだとか、どうして自分がだとか、不平たらたらで出かけていった割に、改札を出てきた善行は上機嫌に見えた。元々酒好きなのだ、かこつけて強かに飲んだのだろう。
「どうして来たんです」
「ご自分でお呼びになったのでは」
「ああ、そうでした」
そう、酒好きだ。だがそれほど強くはない。だいたい関東の人間が、ここ九州地元の豪傑と渡り合えるはずがないだろう。
酔っている自覚があるのかないのか、何かの折り詰めが入った紙袋をポンと寄越したと思うと、善行はくるりと後ろを向いて改札の方向へ戻ろうとした。若宮はこめかみに痛みを覚えながら、慌てて腕を引いた。
「司令。過ごしすぎのようですが」
「大丈夫ですよ」
つい小言が口をついて出てからというもの、善行は落ちかけた眼鏡の奥から、さも不満そうに若宮を見ていた。

しかし、家路を三分の二まで来たところで限界が訪れた。アルコールは醒めるどころか更に回るばかりで、ふらりと壁に向かっていく向きを正してやること数回、ついに一歩も進めなくなった。正確には電信柱と壁の間に挟まったのだ、大変に幸せそうに。
「失礼しますよ」
若宮は何もかも面倒になり、善行の顔から眼鏡をむしり取ってポケットに入れると、彼を半分に折って担ぎ上げた。善行は下ろせだの吐くだのと喚いて暴れたが、若宮は無視した。





あがり框にくたくたとしゃがみこんだ善行に、若宮は水を汲んで与えた。
しかし相手は受取ったそのままの姿勢で、目をしょぼしょぼさせ、薄笑いを浮かべている。
「水です。多めに飲んだほうがよろしいかと」
「ありがとう」
やっと手にしたコップの使い道には気づいたようだ。が、口に運ぶ前に半分以上こぼした。
「ほら、立ってください」
濡れた玄関マットのことはこの際、気がつかなかったこととして、若宮は早急に頭痛の種を布団につっこみ、帰ることに決めた。


奥の部屋に敷かれた布団に転がし、ふにゃふにゃした身体から苦労して上着を剥ぎ取る。路地裏の空気と女物の香水がふわりと香った。さらに中から現れたシャツの襟を見て、若宮は考えた。
この国の軍隊は、男にばかり都合よく出来た、実に恥知らずな社会だ。よって「接待」でその手の店に入るのは当然だし、高い確率で「その先」も用意されただろう。若宮にも覚えの無いことではない。
その場合、妻帯でもなければ断るのは不自然で、下手をすれば相手の面目を潰しかねない。
第一に、そうでなくとも、士官はもてるのだ。



薄いブルーの生地に、濃いばら色の口紅。決して目に面白いものではない。若宮が黙ってシャツを脱がせていると、首元が締まった善行は大袈裟に咳き込み、若宮の腕をとらえて文句を言った。
「殺す気ですか」
ふざけた調子だったが、若宮は腑の奥底がザワリと動くのを感じ、きつく返した。
「そうかもしれません」
「そうですか」
善行はそう言ったきり目を閉じ黙ったが、しばらくして細目を開いて、その奥で薄茶の眸がきらりと光った。酒に灼かれた喉が、熱っぽく囁く。
「まさか、このまま帰るつもりじゃないでしょうね」
善行はまるで素面に戻ったような力で若宮の顔を引き寄せ、唇に唇を重ねようとした。
が、酒臭いどころではない。若宮はとっさに身体を引いて窘めた。
「酔った勢いでというのには、感心しませんな」
「勢いがなくてどうします」
「それもそうですが」
躍起になって続ける善行の狙いは、四度目で成功した。
顎先がちくちくと
触れる感触に目覚めるものがあり、急速に抵抗の意志を萎えさせた若宮の胸に、善行は温かい手を押しつけて撫で、撫でる手はすぐにボタンを外し、隙間に滑り込んだ。お互い裸になるまで、ほとんど時間は掛からなかった。





アルコールの仕業か、別の理由からか、善行の身体はなかなか応じる気配をみせなかった。しかしそこまで気が回らない様で、本人としては大いに乗り気で髪に指を絡めたり、首筋に額を擦りつけたり、滅多に見せない接触を試しては忍び笑いを漏らしている。
その無頓着をよいことに、若宮は彼の中心を慎重に避けて叢を探ったが、もちろん何が判るわけでもない。大体判ったところで、何がどうなるというのか。

核心に触れられないことに気づいて、焦れたらしい。善行は自ら手を伸ばして、それでやっと自身の状態に気づいて、口の中でぶつぶつ言った。確かに格好よくはない。
「自分はかまいませんよ」
先端部分を撫でて慰めてやると、代わりに腰を上げて促す。慣れた仕方で指を収めると、善行は萎えたままの性器を若宮の手の甲に擦りつけた。
「いい、ですか?」
いい、と流石にそこまで素直な返事はなかったが、頷いた。若宮は我が目を疑った。
熱を湛えた眦、上気した頬など見るまでもなく、彼が自制を失っている事は息づかいから判る。与えられる刺激のたびに息を詰まらせ、浅い吐息は嬌声となって噛みしめた奥歯の間から漏れる。
妙なほど感じている。これが酒のせいなのか、それとも。


反らした喉の突起を除けば、ここからの眺めは男でも女でもそう変わりはないな、
そう気づいた若宮の脳裏に不意に、自分に組み敷かれている男が、同じように女を下にしている姿が過ぎった。細い腕を背に回し、満足の笑みを浮かべる女は、彼の昔の恋人……原素子の顔になったかと思えば、見知らぬ商売女の顔にもなった。
艶やかな髪、白い胸、口紅の取れかけた唇……

若宮には一瞬、誰を相手に何をしたいのか、が判らなくなった。猛り立った自身を取り出して性急に、腰が密着するまで押し込むと、叩きつけるように動かし始める。
「待っ、若宮……、痛ッ……」
何度目かに善行は小さな叫び声をあげた。無理をして傷を作ったようだ。
痛みを訴え、身をよじって逃れようとする彼に腕に爪を立てられながら、それでも若宮が穿ち続けると、ようやく半分ほど形をなした善行のペニスが、申しわけ程度の白濁を排出した。射精の余韻に震える身体を二つに折り曲げ、引きつれた口元へ唇を這わせながら、すぐに若宮も達した。





「悪くはなかったです、が、」
善行はそこまで呟いてから、点けたままの蛍光灯から顔を背けて、二の腕で両目を覆った。
ただし脚はだらりと開いたまま、濡れた内股も何もかも晒したままだが。
「しかし、貴方から……」
若宮がすべてを答え終える前に、善行は身体を起こした。
「わかっている。わかっていますよ」
まだ酔いを残しているのか、あるいは痛みがあるのか、ふらつきながら洗面所へ向かう。その自分の指の痕をとどめた背から目を逸らして若宮は告げた。

「貴方が女性であったならと、思うことがあります」

もしそうなら、善行はROTCになどならなかったし、若宮が教官に付くこともなかった。わけのわからない陰謀に巻き込まれることも、激戦地に放り込まれることも、生死の淵で一桁の残弾を分け合うこともなかった。熱病同然の衝動に悩み、悩み抜いたあげく塹壕の中で互いに手を伸ばすことも、なかった。
すべてが今とは違っていただろう。すべてが。

「つまり、僕に会わなければよかったと?」
「そうかもしれません」

立ち止まった善行の脚から赤みを帯びた残滓が滴って、ぽたぽたと畳にしみを作る。

「僕も今、同じ事を考えていました」

善行は血走った目で若宮を一瞥し、にやりとしてから、今度こそ水場へ姿を消した。
やがてその先から、水音と、世にも聞き苦しい呻き声が響いてきた。


《劇終》




★20060716 ASIA
ごく一部、実話です(カベと電柱に幸せそうに挟まる人の話)。