《世見》



 休戦期にようよう辿り着き、隊員が交代制の休暇を認められてからも、小隊司令は多忙であった。連合本部に呼び出される回数は寧ろ増えている。
 普段どおり仕事に明け暮れていた若宮はその日、善行を駅まで迎えに出た。着任時から数えて階級を二つほど上げた上司には、一人で出歩かぬようにと再三進言しているのだが、届くメールといえば遅ればせ帰宅時間を知らせるものばかりで。丸腰ではないというのが彼の言い分だが、若宮に言わせれば、どうにも甘い。率いる小隊の雰囲気に毒されたものか、と舌打ちの一つもしたくなる。
 太陽に真上から脳天を熱されながら、溶けたアスファルトの上を足早に進むうち、かくいう自分も相当に甘い・・・毒されたクチだ、と思い当たって若宮は、渋面を形作る眉間の皺を一段、深くした。



 「お疲れ様です」
 「それほどでも」
 とりあえず慇懃に迎えた若宮に、上着を肩に引っ掛けて改札から出て来た善行は静かに答えた。ネクタイの結び目に指二本分の隙をこじ開けながら、行きましょう、と促した表情に取り立てて変わったところは無い。さっそく若宮が並べはじめた小言に、いちいち頷くばかりのところも、まったく普段どおりである。
 しかし雑踏を抜けて余人の目がなくなると、ついに身に纏う糊のきいたワイシャツ並に白けた表情が、柔らかな舌の裏に針を含んで本日の感想を述べはじめた。
「なかなか面白い話を聞いてきました。例の増員話は完全に白紙です・・・その理由が傑作でね。教練不足、・・・本当です。作り話じゃありませんよ」

 根は激情家といっていい男が本音を韜晦し、それでも腹念の疼きゆえ何か口に出さずには居れぬのを聞きながら、彼の厚い鎧、これを着せたのは他ならぬ自分なのだと、若宮の思考は数年間に馴染みとなった曲り角の多い道筋を、飽きず辿った。
「純朴な学生さんが多くてね。“お話し合い”がこう続くようでは、仮病の一つも使いたくなってくる。まあ、クーラーのあるだけ快適ですが・・・ああ、そんな顔をしないで下さい。貴方にはね。ほんとうに、悪かったと思ってますよ」
 軽く言って自分を斜に見上げた男がふと、崩れ落ちそうな気がして、
 貴方は笑みを作るときだけは。
 指摘しようか迷って、結局見なかったことにして、若宮は今一度心のうちに呟いた。
“お疲れ様です”







 家路を半分ほど来て、逃げ水に逃げられるのにも飽き飽きした頃合い、二人は通りがかった公園に足を止めた。このまま戻ったところで部屋は蒸し風呂、木陰の方が風が通るだけまし、と意見の一致を見たものだ。しかしキャッチボールしかできぬ程度、猫の額の公園では、どこにいようが容赦なく、蝉時雨が降り注ぐ。若宮は今を盛りと緑を濃くしている四周の木々を見回して、さして暑さの堪えた様子もないながら嘆息してみせた。
「誰もいませんな。確かに、こう、うるさくては敵いませんが」
「・・・・・・・・・」
 返事は水と夏虫の音に掻き消された。水飲み場の灼けた把っ手に苦心していた善行は、ようやく太らせた水流に手を突っ込むなり戻したところである。
「まるきり、お湯ですよ」
「なんですって?」 
「敵わなくても仕方ない、って言ったんですよ。彼らにしてみれば、恋の季節です。ほら、馬に蹴られるって、言うでしょう」
「恋、ですか」
 辺りは無人とはいえ、大声で鸚鵡返しにされては流石に恥ずかしい単語だろう。若宮の予想どおり、善行は己の手元へ視線を落とした。パッキンが緩いらしく調整のきかない蛇口から水はコンクリート製の四角い洗い場へと迸って叩きつけ、善行の脛と靴に続々と泥を撥ねている。だが彼はさして気にならない様子だった。流れを白い手の平が遮る、その度に飛沫が光を弾いて三色ほどの虹が跳ぶ。
「蛍二十日に蝉三日、と言います。鳴き交わして伴侶を見つけるのに精いっぱいの短い命です。そう思えばうるさくもない」
「三日。それは短い」
「でも幼虫は地中で数年過ごすそうですから・・・昆虫としてはたぶん、長命の部類でしょうね」
「それでも、ずっと土の中では。気が滅入るでしょうなあ。自分には耐えられそうもありません」
 確かに無理でしょうねえ、と相槌を送ると、善行は眼鏡を外してポケットに落とした。身を屈め顔を洗いはじめる。

 会話が途切れて蝉の声が一段と大きくなる。汗ですっかり張りついたシャツの下を善行の骨格が浮き沈みするのを、若宮はなんとなく目で追った。追いながら黙っていた。
最後に両手に汲んだ水で喉を潤すと、善行は体を起こした。
「案外、・・・暗い土の中で、音だけ聞いた世の中を。一目見ようと出てくるのかもしれませんね。最後に」
「見て、どう思うものでしょう」
「さて。・・・少なくとも、オス同士ムダに抱き合う生物を見るとは思わなかったでしょうが」

 掌を器にして善行はまた一口飲み、栓を締めた。背後にいた若宮へ向き直ると間近く歩み寄る。シャツ越しに胸に触れるか触れないかの位置で止まった唇を、不意に不敵な笑みが彩った。と、腕を伸ばして金色の頭を引き寄せ、強引に口づけた。腰を曲げたそのままの姿勢で固まって、精悍な印象の眉の下、金の瞳が見開かれる。
 口移しにしようとした水の殆どは零れた。銀色の痕跡を引いて、二人の顎から首、胸元へまで生暖かく滑り落ちていった。
「なんです、急に」
 若宮に驚いた様子は無い。ただ子供の悪戯を咎めるように穏やかに響く声の中に、諦めと呆れも少々顔を出している。
「見せてやろうと思うんですが、ねえ。いけませんか?」
 言うなり視線を交えて、相手の上唇を舌で辿る。不精して伸ばした髭をざらざらと擦り付けるように、与える感触を知り尽くした上での暴虐である。首に絡ませた腕は、有無を言わせぬ要求を若宮に伝えた。
 それでもまだ、実直な下士官の相好は崩れなかった。真面目に問い質す。
「まさかとは思いますが。ここで、ですか」 
「帰っても暑い。大して変わらない」
 くつくつと喉を鳴らした善行の額を、若宮の大きな手が覆う。
「暑さでおかしく」
「なったんですよ。熊本がこんなに暑いとは、思ってませんでしたから」
「それは自分も同感です」
 優しく触れていた浅黒い手にふいに荒々しさが宿り、上方へ移動すると濡れた前髪をひどく乱した。長身の落とす日陰に引込まれた男は、空を仰いだまま瞼を閉じた。







「あつい」
 善行は小さく叫ぶと、後ろへ押しつけられた背をぎゅっと反らした。足元で雑草が鳴る。目隠しに選んだ配電施設を囲う金網は、相当に熱を持っていた。公園の最も奥まった隅、辛うじて木陰のかかる一角だが、機械の排気は思いのほか多量で、周囲の気温を数度も高くしている。しかしその乾いた熱も振動も、逸りはじめた欲の焔の前ではすぐに意識の外になった。

 深夜、部屋以外で事に及んだ記憶はなかったが、いざとなれば障碍などないものだ。むしろ奇妙な既視感さえ感じるのはどうした訳か、若宮が訝しく思うほどに事態は淀みなく進行する。互いの思惑がいちいち一致する。
 今はシャツの裾から潜らせた左手で中をまさぐりながら、右手で剥き出しにした腰の中心を弄っている。善行が反応するたびにその手の甲へ、汗が熱い雫となって降り掛かる。拍子で口へまで入り込んだ塩辛さが、己の手の中で解放を求めている欲望へと連想の糸を引いて、導く動作を一層濃やかに、そして激しくした。頭を掴んだ善行の両手が、血管の浮くほど固く強張る。
「ん、」
 時間、場所、疲労、何が直接の原因かは判らずじまいの内に、善行は鼻にかかった嬌声をあげると、あっけなく熱を放った。互いの着衣の腹を細かい飛沫が濡らし、大部分は日に焼けない腿を伝い落ちた。途中蒸発していって、足首に纏められたスラックスにまで辿り着いたのはごく僅かである。液体の温度も、双方の体温も、気温も皆等しくなったような錯覚。
 
「あははは」
 場違いな息遣いが埋め尽くして纏わりつくようだった辺りの空気を、不意に哄笑が突風の如く吹き払った。若宮にとっては意外な事に、善行は上機嫌であるらしい。
「可笑しいですか」
「ええ」
「何が可笑しいですか」
「何でも。だって、こんな、人に見せられない、そう思ったら」
「見せたいと仰ったのは貴方ですよ」
「それは、蝉に」
若宮は気丈に応対する割に足元が覚束ない男の腿を、肩で後ろに押して支えつつ、腰の後ろをさすってやりながら考えた。


 この男が。自分をここまで、引きずり出したのだ。
 教育下士官として一生を狭い塀の中で終えるはずだったものを、
 海を越え大陸へ、そして今この熊本へ。
 夢想だにしなかった、遠い場所へ連れて来た。

 その事は若宮にとって、さしたる意味は無い。
 元々が混沌を引きずり出して鋳型に入れた即席の兵隊だ。
 幻獣の眼前へだろうが、ラボのメスの下にだろうが、
 置かれて拒む権利は始めからない。

 意味は無い。まして恨みなどない。
 善行自身も引きずり出された存在であることには確信がある。
 自分はその想定外のおまけに過ぎないことも。
 いずれも若宮にとって、さしたる意味は無い。 

 ただ意味があるとすれば、


不意に善行が宥めるように撫でられていた腰をくすぐったそうに震わせた。
「ねえ、虫に刺されませんか。・・・僕はね・・・ははは」
直後に白い腹がまた一度、発作を起こしてうねった。目に付くかぎりの鬱血が波に揉まれた小舟のように動く。腹、胸、鎖骨と、つけた順と逆に目で辿っていくと、だらしなく笑みに崩された顔に辿り付く。額は青白く、びっしりと汗の玉を浮かせている。日頃は眼鏡に隠されている瞳が、判然と見えた。伏せがちな目蓋に大人しく守られて、一見眠たげにも見せる茶の瞳が、色味にそぐわぬ冷たさを称えてそこにある。

 若宮はこの色を知っていた。
 身を浸す情欲とは異なる渇望を宿して焦点を遠くする、その先を知っていた。
 確かめずとも知っていた。
 知っていると、思っている。


目を開くと若宮は頬の肉を一瞬、怒りとも悲しみもとれる形に引き攣れさせた。善行の左の膝裏に腕を潜らせ、背筋を伸ばして立ち上がる。爪先立ちになって青天の下に最奥を晒すことになった身体を、両の手首をとって背後の柵に縫い付ける。
「!・・・ッ、」
 殺しきれぬ呻きが善行の喉を突いて出た。びくびくと体が振れる。首を左右に捩る動きに、違った種類の切実さが加わった。
 人の肉の焼ける脂臭が鼻先を掠めた気がして、若宮はぎくりと善行の手首を裏返した。火傷させたか、とそれは流石に杞憂だったものの、針金に擦られた善行の腕の裏側は長いみみず腫れをいくつも拵えて、赤い粒をぽつぽつ浮かせていた。
「血が」
 若宮は思わず顔を寄せて舐めた。そうされて初めて傷に気づいたらしい善行は、ああとだけ言って喉を震わせた。笑ったようだった。しかし若宮には、共に笑う余裕はなかった。腥い色と臭いが刺激となって、理性の皮がぼろぼろと剥がれる。身体を本能が支配する。
「すみま、せ、ん、」
 切れ切れに謝罪する声を他人のもののように聞きながら、若宮は善行の空いたままの場所へ己自身を押し当てた。馴らし足りない挿入に周囲がきつく抵抗を示し、善行は笑い声を歪めて押し潰したような奇声を細くあげた。新たに吹き出した汗が全身を雨に打たれたように濡らす。合わさった胸から伝わる鼓動はすでに尋常でない速さに達しており、持ち上げられた脚先は爪先を丸め、筋を張りつめている。それでも、注視していなければ見逃すほど幽かに首を二度ほど頷かせて、
善行は赦した。


 埋まったと同時に律動が始まる。性急に動く度に背後の金網が軋み、女の金切り声に似た耳障りな音が立つ。それが虫の声と合わさって耳を覆うほどの大音声が、鼓膜を圧倒して耳鳴りを呼び起こす。
 強烈な日差しの生む濃い影と、起伏を繰り返す胸の静脈を透かした青白、激しいコントラストに目が眩む。今この全てが非現実であるような、モノクロームの映像に己だけ入り込んだような違和感を覚えて若宮は瞼を閉じた。


じっさい自分のこの目は、少しも開いてなどいないのだろう。
本来、気付く事のないように作られたモノなのだ。
眼を閉じて這い回る世界の底に、何者かの意図が張り巡らされているなどと。
善行に会うまで自分は現に、一度たりとも考えてみた事はなかった。


 若宮は衝動のままに動きながら目を開け、そこで何も聞こえなくなっている自分に気付いた。
白昼、無音の世界。苦悶に寄せられていたはずの善行の眉間は、いつしか別の感覚を遣り過ごそうとする様に、形を変えていた。滝の如く汗が流れ落ちる背に腕を回して、指が滑るのを爪食い込ませてやっと支え、脚を浅ましく掻いている。浅い呼吸を繰り返す合間に、血の気の薄い唇が呪文のように紡いだ。
”ーーーー

声なく力なくしかし執拗に、善行は繰り返す。その口元を仔細に捉えながら、今度は視界が朧に霞み行くのが判った。


  今もまた、戦って食って寝る、その繰り返しにしか見えない世界。
  この男と同じ世界を自分が見る事はあるまい。
  登りつめようという高みも、また。
  見る事が出来ぬ場所には、行き着く事も叶うかどうか。
   
  それでも。見えずとも構わないのだ。
  ただ、側にあることを許されるなら。
  一夏を啼き終えるあの虫のように、たとえ無様でも。
  何もかもかなぐり捨てて、縋りつきたいのは本当はーーー自分の方なのだ。


 汗よりも塩分の強い液体がひと雫、伝い落ちようとした頬を、若宮は目の前の善行の顳かみに押し付けた。唇の端を辛さ以上に強い苦みが掠めて伝い落ちてゆく。
それから後は、己にあてがわれた意味の無い呼称を形作っては、草いきれの中にそっと逃している唇を強く吸った。鳴り止まぬ虫共の唱和の中、なにか穢れたものを引受けるような思いで、噛みつくように強く強く、吸い続けていた。




《劇終》



★20030908 ASIA