《回来》(原題:歸去來兮)



歸去來兮,田園將蕪胡不歸。
  (歸去來兮辭 晉・陶靖節)





そもそも若宮にしてみれば、一年ぶりに挨拶でもできれば御の字というだけで。ここまで右往左往するとは思ってもみなかったのだ。

帰還一週間後に善行が伝えてきた住所は、どうやら仮のものだったらしい。マンションのドアの前、別人の表札を見つめて立ちすくんでから小一時間。やっと彼の勤務する支部に辿り着き、さらにその厚生課にたどり着くまで半時を要し、さらに受付後半時待たされたあげく、ようやく調べてもらったデータベース上での彼の勤務地は、おかしなことに熊本から更新されていなかった。
「すみません。ぜ……ぜんぎょう、とお読みするのかしら。善行少佐。この方、熊本学生連合へ出向扱いになっていますけれど」
「失礼ながら、それは去年の話かと。自分は少佐の元部下でして、熊本からお訪ねしてきた次第です」
あらまあ、と目を丸くして調べに出て行った女性は、薄暗い事務所の奥でもう一人制服姿の女性と話し始めた。生真面目な雰囲気が少し森に似ているなと思う。向こうの方が先輩らしく、整然と並んだ書類棚の一角を指さすと足早に去った。

「どうせ行くならサプライズにしないと!」などと子どもらに説得され、定期検診での上京を伝えなかった事を、数時間越し淡く後悔し続けている。七月の茹だるような午後の空気と、生まれて初めて地下鉄に乗り、勝手の分からぬ街を歩き回った時間は、さすがの若宮の足にさえ疲労という錘を加えはじめていた。

やがて分厚いファイルを手に戻って来た女性に、
「珍しいお名前でよかったですね。去年から二回、お引っ越しされて……、これです、これが一番新しい住所」
そう示された住所を、若宮は紙とペンを拝借して書き取った。



結晶経由のメールを送って返事がなかった以上、打つ手は非常に限られた。帰りの電車の時間もある。ここで駄目なら諦めよう。今回は運がなかったと思うことだ。
そう心に決めた若宮の眼前に、板塀と常緑樹の茂みにすっぽり囲まれて、目指す集合住宅は建っていた。熊本でも彼は、いったいどんな伝手で探したのかと呆れるほど老朽したアパートに住んでいたが、ここも良い勝負だ。クリーム色の壁には補修のあとが蜘蛛の巣のように這い回り、庇の裏側からはベニヤの皮部分が剥けて垂れ下がっている。
正面玄関は開け放されており、薄暗い奥の部屋からはテレビコマーシャルらしきアップテンポの曲に紛れ、複数の人間が言い交わす声が聞こえている。どうやらこの地では、建物が古かろうが住み手はいくらでも見つかるようだ。いや、むしろ疎開民がひしめいているというべきか。
引き戸の脇には小振りの笹飾りが立てられている。子どもの手によるらしい奔放なデザインの短冊が数枚、ぴくりとも動かない空気の中、それぞれの願い事を裏に隠して下がっていた。
そういえば、今日は七夕だったな、と思い出す。五一二一小隊においても東原戦士の指揮の下、同じような飾りが作られていたはずだ。

ここから入って良いものか、と悩んでいたところに外付けの階段を見つけ、若宮は、赤錆の浮いた階段を登っていった。
登り切った正面、入道雲の子どもが二つ浮かぶ空を背景に、先ほど訪れた役所のビルが見えた。一面に張られたガラスがキラキラと陽光をはじいている。そう、あの双子ビルのどちらかだったはずだ。足元は典型的な下町らしく、これでもかという数の住宅が密集している。
非常時規定と善行の性格からして、勤務先から徒歩圏内に住んでいるのは間違いない。少なくとも、この目に映る風景のどこかに、自分がいまここに居ることは露ほども知らずに。


目指す部屋の部屋番号は確認できたものの、表札の黄ばんだプラスチックには何も書かれていなかった。早速チャイムを押すが、断線しているのか、鳴っていない。郵便受けに何もない、ということは誰か住んではいるらしい。
「善行……少佐?」
抑えめに声を掛けてみる。返事はない。さらに一度。
「少佐!」
くそ。
「ミスター?」
二度繰り返した後、返事のなさに苛立ち思わず扉を叩く。
すると鍵がかかっていなかったらしい扉は、ふらふらとこちら側に開いた。
ままよ、と指を突っ込むと隙間は一〇センチほどでドアチェーンに阻まれて止まった。片目で覗いてみると、手前の玄関は暗く何も見えない。視線を上げて、二つダンボール箱の置かれた板の間、畳敷きの部屋、最後に窓のサッシが見えた。畳と箱以外、丁度品は家具もカーテンも一切見当たらない。


誰も住んでいないようだ。ここも越した後か。
頭を振って、さらにずっしりと見えない錘を増やした足を帰途へ向け、一歩踏み出した、その前を黒い影が横切った。ニャア、と猫にしては声量のある……おや、と足を止めた時点ですでに本体は角を曲がって階段を下り去り、根本から二本に別れた尾の残像だけが若宮の網膜に残された。

と、目の前の壁から白い腕が生えてきた……いやいや、格子の付いた小窓から、よく見覚えた火傷の跡に加え、たくさんのひっかき傷をつけた前腕が延びて行く手を遮っている。
「戦士。貴方、人の部屋の前で、なに騒いでいるんです」
「少佐!」
咄嗟に駆け寄り覗き込むと、腕はしっしと払う仕草をした。
「ここ、トイレです」
それは失礼しましたと、目を逸らしつつ、やっと見つけたという安堵感はもちろんだが、タイミングがいいのか悪いのか微妙に喜びにくいな、と思わず深く息をつく。やがて扉を開けて出てきた善行も、さすがに水洗音が流れる横で苦笑いを隠さなかった。
「貴方ね、ご近所迷惑ですよ。それに呼ぶに事欠いて。……今さらミスターはないでしょう」
「少佐が見つからないからです。転居されているとは、誰も、知りませんでした」
「何を言ってるんです。僕はちゃんと伝えましたよ……いや、」
何かに思い当たったらしい善行の表情はみるみる曇ったが、やがて、きれいに剃られた顎に指を添えながら、取り繕うように切り出した。
「ところで、ハンニバルの声がしませんでしたか」
「では、先ほどの黒いのは……」
階段の方を指差し教えると、善行は格闘の跡とおぼしき血の滲む傷が無数についた両腕を、だらりと下げた。
「逃がしましたね。ああ、また当分帰ってきませんね……」
「申し訳ございません。探しに参りましょう」
「……いや、いいですよ。あれたちはどうせ、日本全国どこにでも行くし、戻っても来るんですよ。たぶんね」
猫は嫌いだというわりに猫かわいがりするのが善行という男の不思議な一面だが、その彼は意外と淡泊に言ってのけた。

そうだ。彼はあの安アパートに二匹を残し、若宮に世話を託して行ったはずだった。しかし数日後には行方知れずとなり、泡を食って連絡したものの、彼からの返信は一向になく……そして今に至る。
それにしても、あいつ……。若宮の内側に心配したのと同量の腹立たしさが沸き上がる。

「ところで、この部屋はまた越されるのですか」
部屋に戻って、善行は猫の入っていたらしいダンボールをつぶしながら、ええ、……と曖昧に答えたあとで、我に返ったように若宮を振り返った。

晴れ晴れと、
「帰るんですよ」
まるで晴れ晴れと笑う。
「僕の帰るべき場所は、今、どこよりも、あそこだと思いませんか」
若宮は釣られて歯を見せながら、ただ頷いた。
何処へ、などと口にすることは、ここではあまりにも、愚問だった。







午後五時発、予定の電車は見送った。
大家に挨拶し、鍵を返し、ゴミを捨て、ダンボール一箱の宅配手続きをし、と用を済ませる内に時間がなくなったのだ。それでも急げば間に合ったのだが、善行が明日、自分と同じ軍用便に乗ればいいと言い出し、それより行きつけの料理屋に行こうというので若宮は言われるがまま、彼に従った。
向かった先は下町の定食屋で、若宮はちゃんとした肉入りの野菜炒めだの、カツカレーだの数人前も頼んで貰い、遠慮なく腹に収めた。善行はそれを刺身などつつきながら、「そういうふうに喜んで貰えると、僕も関東まで来た甲斐がありました」
などと筋違いな感想を漏らしながら眺めていた。

元々そのつもりだったという善行は、身に着けた制服以外何一つ持たない軽装だ。
「ところで明日は、壮行会のご予定などは……」
若宮は控えめに尋ねた。前線に赴く将兵には何らかの……たとえば特別車両だとか、地元政治家の演説だとか、少なくとも縁故や職場の見送りがホームに出るものだ。
「そんなものありませんよ。今度こそ、正真正銘の更迭人事ですからね」
善行の返事はにべもない。嘆かわしい事実を伝えた唇は、しかし上機嫌そのものに半月型を描いている。
彼がここで何をしていたのか、若宮は何一つといっていいほど知らない。ただ去年の3月中には熊本市内で十三の学兵部隊が解散したのが、そこから今年の休戦期を迎えるまでは五で済んだことは、知っている。それと、イモばかりとはいえ糧食が途切れず届き、育ち盛りの子供らの腹を満たした事。
結局、席を立つまで話題といえば若宮の報告ばかりで、善行はただ頷いているだけだった。


駅前のビジネスホテルにチェックインする。
いの一番に風呂を使うと言い出した善行を待つ間、若宮はテレビをつけて視た。リモコンでチャンネルを回してみて違和感を感じる。そうだホテルのありがちなツインの一室だが、それでもここは確かに東京なのだ。ちらちらと窓に賑やかに反射しているネオンサインも、強めに設定された冷房も、熊本とは大きく事情が異なる。
ほどなくスリッパがペタペタ鳴る音に目をやると、善行が腰にタオルを巻いただけの格好で出ていた。久々に目にする体は、最低限の筋肉は残っているが全体に薄くなったようだ。落とした照明の中で浮き上がるような肌の白さは相変わらずだ。そして脛や脇に毛がしっかり存在を主張しているのは当たり前の話だが、少々変わったものを見た気にはなった。
彼は若宮の左手前でくるりと後ろを向いて身を屈めると、勝手知ったるとばかりキャビネットに隠された冷蔵庫を開けた。取り出した缶でプシュ、といい音をさせてから肩ごしに視線を寄こして一言、
「貴方も何か飲むといい。甘いものもありますよ」
はあ、と返事をしてからなんとなく、つまらないような気になる。
男同士の気楽さといえばそれまでだ。しかし、かりにも体を許した相手と一つ部屋に、しかも一年ぶりにいるという状況で、もう少し遠慮というものがあってもいいのでは。いま腰を折ったところなど、見ようと思えば全部見える塩梅だった。彼らしい無頓着と言ってしまえば、それまでだが。
「それと風呂、貴方も使ってしまいなさい。明日も早いですし」

半ば命じられた若宮が烏の行水を済ませて戻ると、善行は濃いベージュのゆかたを身に着けて、窓側のベッドに腰掛けていた。肩の辺りがすこし窮屈そうだ。細い細いと感じるのは若宮だけで、さすがに民間人と比べれば体格は上だ。
二つのベッドの間にあるナイトテーブルに、先ほどの缶が潰れている。二本目を手に窓側のベッドに腰をかけた彼は、もう片手で先の若宮と同じくリモコンをいじっていたが、若宮が近づくとすぐスイッチを切った。
「貴方はそちらに」
善行は上座と判断して勧めた奥のベッドにおとなしく場所をかえると、カバー上に揃えられているゆかた一式をまとめてこちらに抛ってきた。ストライプの織り柄の中にホテルのロゴが入っている。手にとって首をかしげる。
「なぜまた、浴衣なのですかな」
「珍しいですか? サイズがひとつで済むから、楽なんじゃないかな」
とはいえ、善行でなんとかというサイズだ、若宮にはひどく窮屈だ。肩幅にとられて袖は短くなるし、前も合わせきれない。なんとか帯で止めてみたが、胸の三分の一が露わになって、まるで子ども用を大人が着たようだ。むさくるしいのは今にはじまったことではない、勘弁してもらうか、などと考えていると、
「よく似合いますよ」
ちびちびと缶を舐めながらこちらを見た顔には、もう寝る体勢ということか眼鏡がなく、アルコールの気配の滲んだ目元を細めている。
「はあ」
皮肉としか聞こえなかったが、しかし棘を吐かれる要素もみつからない。
善行がそこでさっと布団の下にもぐりこんでしまったため、若宮はなんとなく窮屈な寝間着を脱ぎ捨てるタイミングを逸し、けっきょくそのまま寝につくことになったのだった。


下士官の耳が草の生える音もとらえると言われるのは、誇張ではない。衣擦れの音に目を開くと、1メートルほど先に善行の腰と手が見えた。レースのカーテン越しに差す、昇らない太陽が空に投げる光を浴びながら、彼はベッドに腰掛けて手を握り合わせていた。目蓋を半ば下ろし、無表情のまま。
「起こしてしまいましたか」
「いえ、そう言うわけでは。いかがしました?」
気分でも悪いのかと思って尋ねたのだが、善行はしばらくそのままひっかき傷の目立つ手をすり合わせ続けて、やがて微笑むと切り出した。
「……ねえ、貴方まさか、彼女でもできたとか」
「は、……いえ。自分は職務に忙しく、そのような暇などありません」
「なんだ、相変わらずですか」
間の抜けた声が喉を通るのをギリギリ押さえた首尾に安堵しつつ、おかしな問いを発してきた男の気配を窺う。微苦笑を乗せているが、その実、元々愛嬌のある作りではないのを差し引いても不機嫌に見える。これはおそらく若宮にとっては悪い兆候ではない。が、素知らぬ顔で返してやった。
「そういう貴方こそ、まさか……」
「冗談じゃありませんよ。なんだって僕が」
善行は即座に否定し、続けて何か言いたげに唇を動かしたが、けっきょくそこからは何も出なかった。

代わりに出たのは右手で、柔道の組み手よろしく若宮の襟首を取ろうと伸びてきた。若宮はわけがわからないながらも、無意識に自分にかかった掛布を払い退けると、袖の上から上腕を掴んでみた。相手の眠そうな眼に強い光が瞬いて、今度は腹めがけ膝頭を突き入れて来た。笑い声が薄い唇から漏れ聞こえた。
「ははは」
まったく、この人は。
若宮は視線移動から苦もなく動きを読み、避けるか受けるか吟味した。が、けっきょくどちらも面倒に思え、相手の勢いを利用してベッドの上に転がした。これで相手がクラスメイトなら、遊びでも壁まで投げているところだ。
「まだ酔っていますか。それに、かなり鈍っていますね」
腰を捻って押さえ込み、仰向けにした相手の顔を見下ろす。実のところ酔いの名残は見えないが、態度があまりに酔漢のそれなので皮肉のつもりで口に出した。もちろん膝蹴りが決まる夢などは、毛頭見たはずもないが。
「こっちでは、書類仕事すらろくに呉れないんですから。体力も何もすっかり衰えましたよ」
相手は押さえ込まれたままで動じず、ほらペンだこもこんなに小さく……と、指先を動かしてみせる。
「では何をしておいでだったのです」
「会議の頭数を揃えるのと、あとは幇間というところです」
もちろん額面通り受け取るべきではないだろう。ただし鍛錬不足は睨んだ通りだろうし、覿面に息が上がっているのも情けない。若宮には苦言を呈す権利くらいあるはずだ。若宮が、熊本時代に幾度か聞かせた説教を舌の上に蘇らせたころ、善行は腕で顔を被って、声を低めて話しはじめた。少々唐突に。

「僕が去年失敗したのは、一半個小隊だけ運用するつもりでいたからです。他にも考え違いは色々あったが、まずそこが大きい」
そう、仮に彼が毎日狭い会議室で取引や密談、恐喝や裏切り、身動きとれぬほどの汚泥に首まで浸かっていたのだとしても、教育係であった若宮には今も彼を叱りとばす権利くらいあるはずだ。だから若宮は、やりこめるタイミングを待ちながら善行の独り言を聞いた。
「熊本は早晩、意味をなくします。少なくとも幻獣にとってはね」
国土防衛の要であり、それゆえの捨て石と認識している若宮にとってそれは聞き捨てならない見解だ。
「世界的に見てこの十年、海洋タイプが爆発的に増えている。彼らもばかじゃないのでね、大型の数が揃ったら直接、ありとあらゆる海岸から侵攻する可能性さえある」
「そうなれば、本州の連中はお手上げでしょうな」
「想定せざる事態、ですからね。今まで島国で助かっていたのが仇になる」
ここ東京を見れば分かる。住人たちは逃避や虚栄ではなく彼らの現実として、戦争など別の世界の出来事と感じているに違いなかった。
「だからこそ、手前の熊本で騒いでやる必要があると言ってやったんですよ、できるだけ派手にね。そのための戦車も揃えましたし、……ただあそこの」
語尾を濁して腕を元の位置に戻し、彼は後半、言葉を選ぶようにゆっくりゆっくり告げた。
「子どもたちにはこれまで以上に、ひどい苦労をかけることになりそうです」

若宮は大きく笑みを作った。
「なるほど。それで貴方も苦労しに帰るというわけですな」
半日間なにか腑に落ちないまま行動していたのが、善行が更迭と言い切ったときの機嫌のよさと、なにより帰ると口にしたときの表情にようやく合点がいったのだ。常に先頭に立て、そこで指揮しろと仕込んだのは他でもない自分なのだから。
「そういう言い方もできますね」
切り返された善行は、今までの作り笑いをふと微苦笑に変え、さらに朗らかなものにまで変えてから、急に真顔になって言った。
「うん。……今さらですが、持つべきものは、いい下士官ですね」
「もちろんです。さっそく明日からロードワークでもどうです。お付き合いしますよ」
やっと元・教官らしい顔ができると、若宮が満足げに提案すると、善行は慌てた様子で首を振った。
「それは……しばらくは勘弁してください。当分は寝るヒマもないはずです、僕だけじゃない、貴方もですよ。
…でも、まあ、じきにというのなら、悪くないですけどね」


「さて、そうと決まればこの状況も、わりと悪くないですね」
言って彼は腕を若宮の肩にかけると引き寄せ、器用に顎をあげて顎先に唇を触れてきた。そういうつもりなら拒む理由はない。唇を噛むようなキスを交わしてからまた顔を見ると、笑みが一層深くなっている。ビールの苦みと酸味がかすかに舌先を刺した。
「ここは楽しんでおくべきでしょう……それなのに貴方、部屋に入るなり押し倒すとか、風呂場でとか、何もないから、調子が悪いのかと思いました」
では昨夜のあれで、誘っているつもりだったのだろうか。
「つまり少佐殿、貴方は実は欲求不満で、自分に押し倒されるのを待っておいでだった……という事ですか?」
「いや、僕はもう少佐じゃない、万翼長ですよ」
ぴしゃりと跳ねつけ、今度はひどく嬉しそうに見つめる。
「わかりましたが、ああー、出発は何時でしたか」
「大丈夫、まだ十分間に合います」
もう一度、今度は深い口付を仕掛けてきた男の一日で一番濃い状態の顎を見ながら若宮は、戻ればまたあの汚い無精髭を生やすだろうかと嘆かわしく思い、……諦めた。

ベッドヘッドに背中をもたせかけて座り、両足を跨がせる。袷を開いて袖から腕を抜かせると、帯でごわごわと厚みのある布地が腰の後ろに纏まった。同じように上半身を裸に剥かれながら、久々に目にする胸に掌を滑らせると、そこは記憶にある通りの手触りで、指が左右に逸れるたびくすぐったいと逃げたがる様子も寸分変わらない。続けていると彼は額をこちらの肩に押しつけて、一言前と矛盾した文句を言った。
「時間が、ない、ですからね……」
「わかっておりますから、そう急かさないで下さい」
窘めながらも内心焦りがあるのは同じだ。遠慮無くとばかり、乱れきった裾を太股まで絡げる。そこで若宮は何度目か呆れかえる羽目となった。相手は下着を着けていなかった。

まったく、この人は、性懲りもなく。
苦笑しながらも、さっそく直に触れていく。片手は腰の後ろに回し、もう片手で半ば芯が通った性器を愛撫しはじめると、善行は耳と耳を押しつけあうように組み付いてきた。自分に体重を預けた身体が、擦り上げると竦み、擦り下ろすと弛むのを確かめて面白がる間に、己の心拍数が上がっていくのが自覚された。肩に乗せられた相手の首筋も熱い。
「しかし昨日からおとなしく待っていたというのは。貴方らしくないですな」
すぐにその気になる自分への揶揄も半分、からかってみたが返事はなかった。高ぶって起きる下肢の震えを押さえようと、難しい顔をしている。
その時、彼の指先が若宮の背中を辿って、肩胛骨の上にある凹みを探り当てた。一月前に強酸で焼かれたもので、完治しているのだが、失われた組織の厚みは戻らない。大きさを確かめるように指が這う。どうやってか、知っていたのだろう。
若宮は好きにさせたまま、さっさと次に取りかかった。なにしろ時間がない。しかし彼の入口は若宮の指をまったく受け付けず、二人を無言にさせた。
「無理そうなら言って下さい」
「大丈夫ですよ、久しぶりなだけです」
「まあ、そうでしょうな。貴方を抱こうなんてのは自分くらいでしょう」
「何が嬉しいんです……。つまり、いかもの食いなんですよ、貴方が」
軽口と矛盾する張り詰めた表情で顎を上げ、喉の奥で呻いて下ろし、唇を舐める。ちらりとのぞいた舌を吸い取ろうと顔を上げさせると、かぶりをふって逃れた。
「その……、するつもりがあるなら、少し協力してください」
「どう」
掠れた息の下から返事があった。このままでは引っ込みがつかないのと、多少は責任を感じてもいるのだろう。
「そうですな……二三、色っぽいことでも、仰っていただければ」
何が協力ですか。
そう切って捨てられてから若宮はしばらく、二人分の先走りで濡らしたところと格闘した。なんとか指一本を納めるころには、目の前にある首や鎖骨の窪みには汗が霧吹きで拭いたように浮き、胸と脇では玉になって流れ出していた。若宮は終わったらせめてシャワーは使わねば……となると、朝飯は食いっぱぐれたな、と脈打つ頭の隅で考えた。


若宮はそこで思いついて、善行の身体を自分の上から退けて立ち上がった。何事かと半眼で見上げてくるのを、半ば抱えるように風呂まで引きずっていく。灯りをつけて中を覗くと、室内に熱と湿りは残るものの床は乾いていた。昨晩、上がる際にざっと拭いたのが僥倖だった。
「部屋を汚すと面倒でしょう。それにどうせ洗わなければいけませんから、ここのほうが手間がないかと」
「ああ、ああ……そうですね」
タイルを模した、クリーム色の樹脂の床に下ろすと、彼は浴槽の縁まで這ってゆき、こちらに背を向けて縋り付いた。首だけ曲げてこちらを振り返る。明るいところで見る顔は、眼の下に薄く隈を作って疲れて見えた。
「物わかりがよくて助かります」
扉を閉め、彼の腰の後ろに寄った浴衣の中から、帯の結び目を探り当ててほどく。転げ落ちた布の塊を丸めて隅に追いやった。
「気をつけて……汚さないで、下さいよ」
「どうせひとつに集めて洗うのでしょう、どの部屋のかなんてバレませんよ。それにバレたところで、またここに来ることがあるとも思えません」
そう言いくるめながら背後から覆い被さり、茂みの中からすっかり勃ち上がっている中心を探り出し握ってやると、彼は観念したように下を向いて脚を開いた。

善行は急いで、と繰り返したが、流石に体液で濡らしただけで受け入れさせるのは難しい。前を片手で緩急をつけて擦りあげながら、唾液で濡らした指2本を押しつけ、慎重に開いていく。それでも第2関節まで通ったころから微かに鉄の匂いがしはじめて、若宮は動きを止めた。
「痛みますか」
しかし善行は間髪空けず、罵った。
「何度言ったら、わかる……、時間がないと、言って、のに……」
若宮としても懐かしい感触と匂いで本能が掻き立てられ、充溢しきったものの我慢もそろそろ辛くなっている。ままよ、と指を引き抜くと相手の腰を掴み、先を押し当てた。血の混じった体液で指が滑るが、かまわず力を篭める。善行は深く息を吐いて受け入れ、途中で身を捩って逃げそうになるのを、風呂の縁に乗せた自分の手に噛みついて耐えていた。
狭い輪に締めつけられる感覚は、快楽から遠く、苦痛に近い。それでも半ばまで穿ったところで出し入れをはじめると、熱く、呑み込まれるようなそれに次第に変わっていく。善行は脚を踏ん張り、目の前の浴槽の縁にしがみついて律動を受け止めようとしたようだが、すぐにかいなく前に押し出され、緩やかなカーブを描く縁に胸が乗り上げた。自分の荒い呼吸に翻弄され、肩を上下させながら。
締め切った浴室に、今までに聞いた覚えがない強さで、喉をひゅうひゅう通る息と、粘ったものを掻き混ぜるような音が反響する。隣室に聞こえないかと若宮が心配するほどだが、善行はもはや気にする余裕もないようだ。
やっとすべての感覚が戻ったように感じると同時に、若宮には、今この全てが夢のようにも思われた。ぼんやり灯るオレンジ色のライト、掃除の行き届いた部屋、ピンク色の浴槽、蛇口を捻るだけ出る熱いシャワー……
「あ、あ、」
と大きな声がして現実に引き戻された。目の前の背中が横に捻れていて、珍しいほど高く最中の声を漏らした口元へと目をやると、手の甲を咬んでいた歯が滑って外れたのだ。例のひっかき傷が痛々しい、唾液でべったり塗れた手の甲に頬を擦りつけ、唇を閉じきれずに震わせている。閉じた目の縁もわずかに濡れて見えた。
崩れた膝を立たせて下腹に手を伸ばし、軽くいってしまったらしいのを掌に握り込むと、先を親指の腹で擦ってやって促す。啜り泣きに似た声をあげ、残った精を二度に分けて吐き出したのを確認してから、若宮は自身を抜き取り軽く扱いた。尻に盛大に飛沫をかけられたことは、おそらく善行にはよく判っていなかった事だろう。

余韻に浸る間もなく、彼を立ち上がらせ身支度を促す。タオルを被ってぼやきにぼやく声は、風邪のひきはじめかと疑うほどに枯れていた。
「久々だっていうのに、無理させてくれましたね」
「貴方が急かすからですよ、それに、貴方だってまんざらでも……」
「……くそ、こんなところまで…… 痛……」
若宮ははじめこそ弁解を試みたが、途中からは黙して非難がましい視線を受け止め続けた。事後のけだるい熱と同時に、いたたまれないような、誇らしいような、久々に感じる妙な気分だ。
その間にも、あの高く短い叫びが妙に耳に残っていて、それは当分、消えそうになかった。



発車まで残り3分半。
海軍の常識から言えば、完全に遅刻で列車に飛び乗った二人は、客室の扉を開いたとたん、十対ほどの厳しい視線に晒された。容赦なく異分子のレッテルを貼りつけたあとでそれらは逸らされて、とりすました無関心がふたたび車内に行き渡る。
「見たところ、僕が一番上でしたね……」
空笑いを浮かべて嘆くひそひそ声に構わず、若宮はわずかな手荷物を網棚に乗せると奥の席をすすめた。
「熊本まで長旅ですから、その間にお休みください。なんなら枕でもお貸しましょうか?」
並んで腰掛け、スラックスの上からでも逞しさが目をひく太股をパンと叩いてみせる。善行は赤らんだ目の縁にそって瞳をぎょろりと動かして、若宮の頬を穴の開くほど睨んだ。
「言ってませんでしたか、名古屋に用事があるんです。僕はそれまで休みますから、一駅前に来たら起こして下さい」
命じるやいなや、若宮の上官は腕を組み、目を閉じてしまった。眉間の谷が異様に険しい。
「お待ち下さい、その前に……弁当とか……」
すいと軽く肩に寄りかかられ、若宮は提案を途中で呑み込んだ。そして結局、身動きもままならないでいるうちに列車は駅を出てしまい、空腹を抱えた若宮は、車内販売のワゴンを待ちながらドアを睨み続けることになった。

が、横浜の手前くらいで、自身の所持金が焼きそばパン1個分しかないことに気づいて、切望はあえなく絶望に塗り変わった。
すっかり白河夜船を決め込んだ上官を手すりよろしく支えつつ、まったくこの人は……と、若宮はこれで何度目か呆れかえり、深いため息をついたのだった。


《劇終》



★20081006 同人誌「リターニング」より公開