《初恋》



 若宮はシャワーを使って出ると、台所へ行き冷蔵庫を開けた。さほど渇きを覚えたわけでもないまま習慣で牛乳パックを手に取る。嫌がられると知りながらこれも習慣で、直接口をつけながら戻った。
 善行は貧相な座卓に残業一式を広げていた。若宮が毛羽立った畳に腰を下ろすと、書類の束を手に難しい顔をあげ、そして小さく息をつく。

「どうかしましたか」
 ああ、いえ。一度は歯切れ悪く答えた善行は、すぐ申し訳なさそうに白状した。
「すみません。それ賞味期限過ぎていたんです。捨てようと思って忘れていました」
 
 見れば確かに飲み口には、昨日の日付が印刷されている。
「そのようですな。でも一日二日で腐るわけでもなし」
「確かにそうですが、」
 若宮は、最後残っていた一口まで喉に流し込んでしまってから言った。
「一年経とうが二年経とうが、見た目大丈夫なら、大丈夫なもんですよ」
 胸を叩いて請合うと、でも牛乳はさすがに、と善行は渋面を作った。
「そんな事情で召集拒否は勘弁願いますよ」
「自分は平気です。ミスターこそ、少しは冷蔵庫の中味に気を使ってください」
「・・・・・」

 これ以上は薮蛇とでも思ったか、善行は事務仕事に戻った。
 若宮はひとつ伸びをすると、音量を絞ってテレビを点けた。しかしどの局も砂嵐しか映さない。省エネルギー政策の一環で放送は九時に終了するのだった。
「もう、こんな時間でしたか」
 プツ、と電源を切り呟いたことで、急に夜の静寂が意識される。
 その後しばらくは善行がキーボードを撫でるように叩く音だけが四畳の空間を支配した。





 いよいよ手持ち無沙汰になった若宮を見かねたものか、善行は端末の電源を落とすと立ち上がり、部屋の壁際に三つ折りに畳まれていた布団に手を掛けた。合図。

「敷いときますから、口、濯いで来てください」
「自分がします」
「いいから早く。嫌いなんですよ、古い牛乳の味」

 発端に、もはや甘さの欠片もない。それでも催促ととれる台詞をひどく淡々と突きつけられたことが、思いもよらぬ方向から劣情を煽った。若宮は立ち上がりながらの一瞬の間に、言い付けをわざと無視することに決めていた。中腰になっていた善行のベルトを掴むと、脚を掬う。布団に背を押しつける。脚を膝で割り開く。
「・・・!」
 顔を両手で包んであげさせれば、とっさのことに驚きを隠せず、叫ぶに叫べないで口を半開きにしていた。湯冷めしたものか冷たく感じられる頬に、熱を与えようと撫でまわす。覆い被さる深度を次第に増しながら耳を指先で犯しはじめると、強張った肩から漸く緊張が失せ、目元がゆるゆると弛められた。

 しかし唇を捉え、内側に舌をぬめり入らせたとたん、苛立たしげに鼻を鳴らしたのが聞こえた。完全に咬み合おうとしていた器官を名残惜しげに外し、若宮は尋ねた。
「何です?」
「苦い。死んだ味だ」
善行は口一杯の青臭さを評して言った。
「甘いですよ」
「何を言ってるんです、まったく」 
 軽口を叩きあいながらも触れる指に伝わる鼓動の速さに満足し、さらに深く口腔に侵入する。音の立つほど強く舌を吸えば、胸元を突き放そうとしていた手を腋の下にくぐらせて緩く抱きついてきた。





 男二人の質量で、ずるずると布団の山が崩壊する。体が流れるまま、結局いつも通り仰向けに組み敷かれた善行は、シャツのボタンを外しながら笑った。
「賞味期限切れといえば、僕こそ大概ですね」
 若宮は初めて身体を重ねたときの善行を思った。柔らかい声と肌をしていた。
 較べていま目の前にある、狭くはないが薄い胸。どこか張りのない膚、その色、痩せ削げた輪郭。一度は軍属らしい幅と厚みを備えた体は大陸の寒暑と激務に徹底的に損なわれ、以来戻る事がない。
  だがそれは、善行が戦塵の中に置いてきたものの、ほんの目に見える一部分に過ぎない。教練では頑なに手放さなかった多くを、彼は文字通りの屍山血河のうちに置いてきたと若宮は感じていた。  
 
 それらは永久に失われたのだろうか。
 あるいは今も幾万の同胞と共に、赤い大地の下に凍えてあるのだろうか。


 しばらく考えてから若宮は言った。
「時間と共に価値が増すものもあります」
「例えば?」
「貴方のお好きな、琥珀色の」
「はは、確かにそうだ。上手い事を言いますね」
 それは冗談として、と言いながら首筋に添えていた手をずらして顔を上向かせる。唇を重ねる事はせず、周りを啄ばむようにしながら、若宮は目を細めた。


「よい指揮官になられた」







 善行の姿が風呂場へ消えるのを確認して、若宮は起き上がった。下着を身に付けると、畳の惨状には目を瞑り、くしゃくしゃになった布団で蔽ってしまう。それから立ち上り、電灯を消すために手を伸ばした。
 
 ・・・偽装だった。
 
 スイッチの紐に手をかけたまま、数歩先の座卓の上、クリップで束ねて裏返されている紙片に目を凝らす。うっすら読み取れる文字やグラフから、思った通りのものであることに眉間に力が入った。
 
 健康診断の報告書。設営期間中に行った結果だろうが、善行にも届くとは知らなかった。

 あまり、見られた内容ではなかった。

 口の中に、死んだ味、が甦る。
 しょせん自分は賞味期限つきなのだ、と笑おうとして失敗する。





 頭上に伸ばしたままの腕から痺れが伝わりはじめ、若宮は我に返った。同時に沸き起こった違和感が腹の底を冷やす。聞こえてくるはずの水音が、まだ耳に届いていない。
 足早にたどり着きユニットバスの扉を開けると、すぐ足下に善行が蹲っていた。こちら側に背を向け壁に寄りかかっている。
「どうしました」
 声をかけるにも、ぴくりとも動かない。
 振り返って脱衣籠からバスタオルを引っ張り出すと、若宮は善行の身体を跨いで前に回り込み、膝立ちになって声をかけた。
「ミスター」
 しかし何らの反応もなく、穏やかな呼吸とともに微かに身体が揺れるのみ。
 深く、眠っていた。

 青白い電灯の元、眼鏡をなくした顔の中、閉じられた瞼はぐるりを翳に縁取られている。
 若宮は一度太く息を吐いた。







“貴方がいなくなったら、どうやって眠ろうかと思うと、今から不安になります”
 ある晩囁かれた一言が耳の奥に甦った。帰朝して直ぐだったと思う。悪夢に魘されて目を覚まし、熱を持った頬を肩口に押し付けてきた彼の、それはなけなしの本音だったのかもしれない。

 若宮は気付かない振りをした。

 彼の夜を守る事が、なによりただ好きだった。 

 微睡に落ちた彼の手が己を頼って彷徨うのを見る気持ちは、随伴歩兵として士魂号を見上げる時の誇らしい気持ちに似ていた。この国を、銃後を守るために死ぬのだと己に言い聞かせる昂揚感に似ていた。どれがどれに似ているのかよくわからないほど、若宮の中でこれらの感情はひとつだった。

 愚か、だろうか。
 だが誰に笑われようが構わない。
 戦う以外の自分の意味を引き寄せたかった。 







 規則正しい寝息をたてる善行の横に、若宮は並んで腰を下ろした。起こさないように細心の注意を払いながら抱き上げ、自分の膝の上に下ろす。使用済みのそれを持ってくる自分の気の回らなさを詛いながら、手にしたタオルで半身を包んだ。  
 はみ出してだらりと伸びた脚は水色のタイルの色を映しまるで生気を感じさせない。一方で下肢を汚す粘液だけが生々しく、異様なまでの存在感を放つ。大腿から踝にいたるまで、彼我の情欲の残滓が幾筋も伝わり落ち、濡れた床の上にも半濁の模様を描いていた。
 本来生命の源泉であるはずが行き処をなくして、無気味に死んだ色をしていた。


 五月とはいえ深夜の床と壁は容赦なく体温を奪い、冷気が身体に染み通った。しかし若宮は息を殺し、身じろぎもせず、腕の中の存在の束の間の休息を乱す事だけを一心に怖れながら、じっと目を見開いていた。



夜明けはまだ遠かった。









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★20030609 ASIA