《自白》 (原題:自白剤)



風の強い夜だった。
酒、汗、それに人の匂い。暗くされた部屋に入ると濃厚に漂っていたそれを、若宮は不吉の前兆として受け取った。

部屋の主はカバーをはだけたベッドの上にいた。脇にある読書灯の弱い光に照らされているのは、腰掛けてそのまま後ろに仰向けに倒れこんだ中途半端な格好だ。珍しいと思いながら近づくと、善行は身じろいで何か……韓国語のようなものの混ざった不明瞭なうめきを漏らし、同時に目を開いた。酒のせいか、ひどく掠れた声で。
「ああ、あなたですか」
「制服が皺になりますよ」
まだ見慣れない濃グレーの制服の、上着を脱いだだけで、靴まで履いたままなのを見かねて忠告する。眠ったあとのぼんやりした顔に眼鏡を乗せた善行は、首だけ起こし、ああ、と言った。だが起き上がろうとした途中で動きを止め元に戻る。眉根を寄せているように見え、若宮は尋ねた。
「どこか具合でも?」
「いえ」
横に転がるように半身を起こした善行の膝に眼鏡が転げ落ちる。それを目で追いながら尋ねた、答えは聞くまでもないのだが。
「酔っておいでですか」
「そのようです」
むっとするほどの匂いをさせながら、まるで他人事のように答えるのは、彼らしいといえばそれまでだ。だがもちろん、気分よい酒というわけではなかったようで、答えた声は蟄居の間の絨毯に重く落ちた。
「気持ちは分からんでもないですが、あまり羽目を外しすぎないよう。だいたい、どこで……」
彼はありていにいえば軟禁状態で、行動は軍の監視下にあるはずだ。首を捻った若宮の思考は、しかし善行の次の言葉で遮断された。
「大切な恩人に、誘われたんです。断るのも失礼でしょう……」
ここまで酔った姿を見るのははじめてだが、苦々しげに笑う顔は酔っているとは思えないほど青白い。それが一度、嘔吐の兆候に歪んだが、すぐ次に薄い笑いの形になった。見れば口元からきれいに剃られた顎先までが濡れている。
「戻されましたか」
「うん、でも、酒ばかりですけどね。前に教わったでしょう。貴方にだったかな?」
「水をお持ちしましょうか」
「いや、いい」

ふと会話のやんだ間隙に、善行が提案してきた。これまでの熱っぽくだらけた顔をややひきしめて。
「戦士。左手を貸してもらえますか」
多目的結晶を利用する世代において、これは特別な意味のある要請だ。だが若宮には何一つ躊躇う要素はない。制服とシャツの袖を捲り、手首を反らして彼の目の前に出す。それを見た彼の面持ちは、わずかだが和らいだように見えた。
リングを結晶に押し付けると伝達プログラムが起動する。しばらくしてから善行はそれを遮断し、手首を離した。ありがとうと言って微笑む。
「試すようなことをしてすみませんでした」
そう言った目は、なにか確信を得た、と告げていた。



「少し疲れました。休みたいのですが」
「それがよろしいようです。ただ、着替えはしてください」
断固として告げると、善行はしかたない、という顔で立ち上がろうとしたが、今度もできなかった。酔いが足下まで来ているのか。いや。
若宮の内で、いやな予感がそろそろ強まった。軍内外に持つ後ろ盾についてそれとなく聞いてはいるが、しかし無事に人並みの扱いを受けていることが、そもそも奇跡なのだ。
「足を。どうかされましたか?」
床に片膝を突き、ベッドの下に垂れた彼の脛から足首までを撫で下ろす。痛むようなそぶりは見られず、だらりと力の抜けたままだ。
「ちゃんと二本あるし、折れてもいませんよ。ありがたいことにね」
「しかし」
若宮がさきほどから感じていた違和感を告げようとしたその時、逆に善行が一方的に語り出した。股の上で眼鏡を弄びながら。
「本当はね、足を切る、と言われましたが」
ぴくりとも動かない足を軽く叩く。
「結局、ただの麻酔です。チェーンソーが置いてあって、目を塞がれて、……本当に何かを斬っていました。何かの肉を」
若宮は眉を顰めた。相手側も相当痺れを切らしてきたらしい。取り調べにしては悪質すぎる。
「僕なんかには、もったいないくらいの脅しですね。まあ彼らにしても、表立って僕を傷つけるわけにいかないでしょうが」
一語一語ゆっくりと、嗄れた声が囁き続ける。
「戦士、いま聞いたことは忘れてください。ああ、でも、もしかして知っていましたか? こういうのは陸さんの常套手段なんですか」

善行の話し振りを見つめていた若宮は、ふと蓄えられた知識の底からある可能性に行き当たって、彼の頭を捕らえて枕元の灯りにまっすぐ向かわせた。それは読書には暗すぎるほどの光だが、善行は背けようと首を曲げる。若宮は顎を掴んで固定しながら、強引に右の瞼をめくってみた。
「まぶしいですか」
「ええ、少し」
強がりにしか聞こえなかった。異常なほど開いた瞳孔。眼球が激しく泳いで、目蓋も痙攣しはじめた。酒もそうだが、さらになにか薬物を用いられたのだろう。自白剤として。
「失礼しました」
手を放すと、善行は眼鏡をかけ、そのうえから両手で顔を覆った。下を向いたままじっとしている姿に、泣いているのかとも思ったが、よく聞けば笑い声が聞こえた。そう、彼はこんなときにこそ笑う人間だった、と若宮は納得する。



いずれ効き目の切れるまで待つしかない。医者に診せてもおそらく同じ処置だろうし、いま表立って騒ぎ立てるのは得策ではない。若宮はそう考え、善行の衣服を脱がせはじめた。すると善行はわずかに慌てた様子をみせ、若宮の手首を掴んで抵抗した。
「いい、自分でできます」
「できるなら、はじめからしているでしょう」
有無を言わさず両肩を押して仰向けに倒すと、せっかくかけなおした眼鏡が外れた。床まで転げ落ちるのに構わず、もがくことすらできない両足からスラックスを引き抜く。すると触れた尻の下が温かく濡れていた。まさか小用すら足せずにいたのかと思ったが、そうではなく、下着にしみ出すほどべっとり血と精液がついていた。明らかな陵辱のあと。
「まさか、ミスター」
「ここまでくるともう、ただの私刑に近いでしょうが。外見から分からないように痛めつけるには上手いやり方ですね。訴え出るにも、なかなか、勇気がいりますし」
目を閉じた顔に浮かんでいるのは、ほとんど無表情というまで薄められた表情。怒りも悲しみも掬い取ることはできない。
「少なくとも、僕が寝物語で機密を漏らすようなうすのろでないことは、証明しましたよ。といっても、そもそも知らないことを話せるはずが、ないですが」
でも、と目を開いて付け足す。
「少し、驚きましたけど。……戦士、貴方にそんな顔をされると困ります。痛くも痒くもないですし、それに女性のこれとは意味が違いますから」
細めた目蓋の奥の、ふらふら定まらない瞳でこちらを見ながら、善行は唇だけで笑った。
「ああ、でも、あの女の子の周囲には、これからもっと気を配ってください、一応僕たちの恩人です……」

「いったい誰が、こんなことを」
呻いた若宮の耳に、熱に浮かされたような声が届いた。おそらく常の善行なら決して漏らさなかったであろう告白。
「若宮でした」
息を呑んだ若宮の喉が奇妙な音で鳴った。急激に膨れあがった、目の前が暗くなるほどの怒りは、そのまま外に出すにはあまりに大きく、苦しすぎた。一度、深く息をつく。
「といっても、命令されただけでしょう、気の毒にね」
善行はその間もぼそぼそと喋り続ける。
「後から何度も謝られましたよ。若宮っていうのは皆ああなんですかね」
若宮は立ち上がって、彼に好きに喋らせたまま、浴室に行きタオルを湿して戻った。なによりも今は、濡れた傷を放置するのが気に入らなかった。
「ありがとう。もういい。一人にしてください」
手にしたものを見て善行は手を伸ばしてきた。目が渡せと命じている。しかし若宮は従うつもりはなかった。彼は脚が動かない。
「今更ですよ、ミスター」
そう、足腰立たなくなるほど走らせたあと、吐物にまみれたのを裸にむいて風呂に投げ込んだことがあるのは、この自分だけだ。ほかのどの若宮でもない。



「謝るわりに、ずいぶんしつこく、してくれましたけどね」
靴を脱がせてベッドに乗せて横を向かせ、下着の下の汚れを拭う。血の混じった残滓のぬめりは拭っても拭っても取りきれず、若宮は苛立ちを募らせた。その間も善行の言葉は高くなったり低くなったりしながら続いている。
「でも、貴方も命じられたら同じ事をするでしょうけれど ……どうします、ありえない話じゃない」
若宮は驚いて作業の手を止めた。そう、その可能性は確かにゼロではない。だが次の瞬間、口を衝いて答えが出ていた。
「自分にはできません。たとえ……命に代えても」
「そう言うと思いました。でも」
不意に善行から両腕が伸ばされてきて、若宮の首に巻き付いた。耳許を彼の息が吹いて、戯れるような囁きが聞こえた。
「その時は、僕は、かまいませんよ」
若宮はまた驚いた。善行を女性的と感じたことはなく、抱くとか抱かれるという次元で考えたこともない。そう、これは彼の本心などではない。薬と酒で混乱しているのだ。

若宮はむっつりと黙り込んだ。そう、そんな馬鹿なことはありえない。どのような薬を仕込まれたにせよ、こんなものは酔った上での繰り言だ。顎に触れる彼の前髪から顔を背け、黙り続けていると、若宮の考えを裏付けるように善行は身体を離して言った。
「冗談です。気に障ったなら謝ります。そう、貴方にできるはずない」
「もちろんです」
胸をなで下ろした若宮に、善行の次の言葉は鉄槌のように襲いかかった。
「でも今日わかった事ですが。僕は、案外楽しめるかもしれないと思いましたよ、貴方とならね」
もう一度仰向けに横たわり直した善行の顔は、これまでの茫洋とした表情から一転しひどく強ばっていた。若宮が三度目の驚きにとらわれたまま見ていると、緊張はすぐに溶けて消えて薄笑いに変わったが、目に宿る戦場に倒れた負傷兵を思わせる切実さが、その笑みをやけにわざとらしく、そして悲し気に見せた。
「……気味が悪いですか?」
「はい、いいえ。しかし」
「僕が、試したいと言ったら?」
混乱しているかもしれない、自暴自棄に陥っているだけかもしれない。だが、この自分を欲していることに間違いない。ならば、と若宮は覚悟を決めた。善行の望みを拒む理由は何もない。それだけのことだ。
「後悔しますよ」
許容とも、拒絶ともとれる言葉を告げると、前者として受け取ったのだろう。もう一度、今度は力強く首に腕が回されてくる。その指は水を浴びたあとのように冷たかった。




若宮が一度ベッドから下りて制服を脱ぐ間に、善行は右上腕に巻かれた包帯だけを残して裸になった。灯りを消し、うつ伏せにした身体を後ろから抱く。左腕を彼の下に差し入れて体重を支え、彼の傷に負担のかからぬよう覆い被さると、あらためて自分のなにもかもが醒めていることが自覚された。それでも乞われるままに、若宮は善行の肩を撫で、首筋に唇を這わせる。
「女性とかわらないですね、ここまでは」
「そんなものですか」
「重くありませんか」
「重いに決まってるでしょう」
若宮は多少、夜目が利く。その目をこらして様子を確かめようとすると、善行は気配を感じたらしく顔を背けた。口づけられると思ったらしい。
「やめなさい、酒臭いですよ」
その勘違いを面白く感じて、若宮は逃げた口元を衝動的にとらえて唇で塞いだ。女性にするように舌を絡めると、相手も乗り気になって応えてくる。なるほどひどい臭いには間違いない。だがそれ以上に熱く快い。

どれだけ乞われようが、傷口を広げるようなことは出来ない。明日もまた彼は、裁きの間に一人で立たねばならないのだ。
幸い彼の奪われた感覚はまだ、戻っていなかった。局部に触れ、試しに擦り上げても、まったくといっていいほど反応がない。若宮はそのあたりに手を置いておいて、しばらくしてから尋ねた。
「入れましたが。わかりますか」
「わかりません」
おそらくこれで、交わりは成立と思うだろう。
「戦士、けっこう慣れていますか」
「いいえ、男性相手は初めてです。気のせいでしょう……いいですか、少し動かしますよ」
彼の尻の間に自分の萎えたままの前を押しつけ、女を抱くように動き始めた。いつのまにか汗ばんできた彼の背が、若宮の腕や胸が触れるたび、わずかに竦んで、肩胛骨が浮き上がる。だがやはり腰から下はぴくりとも動かない。
「痛いところはありますか」
「いえ」
痛むことはないだろう、感覚がないのだから。
もちろん悦くもないはずだが。


しかし、そうして若宮がしばらく律動を送っていると、善行はある時点で急に、両手で口元を押さえた。呻きと喘ぎを混ぜた複雑な音が、十指の間からかすかに漏れている。
「痛みますか?」
「わかりません……でも、続けて、」
ふと手の平で下にいる人の股間を探ってみて、若宮はそれが善行の嘘と知った。彼の男性はいつの間にかひどく張りつめて、露まで零していた。麻酔が切れたのだろう。眉間に入り始めた皺はおそらく傷の痛みだけでない別の感覚を訴えている。つまり自分のついた嘘もばれているということだ。
それにしてはずいぶん高ぶっているようだ。試しに自分ならよいと思える場所に触れてみると、善行は背を反らし、あるいは左右に捩った。羞恥よりも快楽が勝るらしく、藻掻きつつも逃れようとはしない。初めて見る善行の様子が面白くなって続けるうちに、擦り上げる手は遠慮をなくしていく。
「大丈夫ですか」
「は……い、」
性急な呼吸の合間から、裏返った声で返された次の瞬間、手に温かい飛沫が飛んで、彼の下肢は数度痙攣し、そして弛緩した。
脱力したのはほんの十数秒で、善行は両腕をついて身体を起こし、息を弾ませる合間に繰り返した。
「若宮……もういい、ありがとう」
「気が済まれましたか」
「ええ」
しかし、それも嘘だった。先ほどのタオルを折り返して放ったものを拭ってみると、彼の欲望はおさまるどころか、ますますきつく腫れていた。
「非道いですな。なにか薬を使われましたね」
「ではこれは……薬のせいですね」
発せられた安堵の声は、遠い熱の中を彷徨っているようだ。
「はい、おそらく。」
「では、あとは自分でなんとかしますよ……本当はもう少し、手伝って貰えると助かりますが」
善行は肘をついたまま、ゆっくり身体を若宮の方へ振り向けた。レンズに遮られずに見る眼は少し濡れて、強い迷いと欲求を半々に浮かべているのが暗闇を通して見て取れた。
「自分は、お手伝いはもちろん……やぶさかではありませんが」
「が?」
「今度こそ、後悔しますよ」
上等です、と嘯く人を、もう一度組み伏せる。
いつしか自身が力を持ち始めていることに気づき、ただ擦りつけるだけではすまなくなってからも、若宮はまだ醒めていた。酒よりも汗、汗よりも血と精液の匂いが強くなってからも、善行の譫言が意味をなくしてからも醒めていた。醒めているはずだった。
これは薬のせい……いや、お互いただの気休めであって、それ以上でも以下でもない。




「さっきの若宮のほうが、優しかった気がしますが」
揶揄して言う唇を、若宮は二度目、唇で塞いで黙らせた。これを限り、二度と交わすことはないと思ったそれは、短く唇を触れただけで終わった。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味ですが」
比べられるのは心外だ、そう思って問い返したのだったが、考えてみれば善行相手で馬鹿なことだ。若宮はむっつりと黙り込んだ。
ベッドの上で胡座をかいてみると、隣にある裸身にはもう目をやる気にすらならなかった。軍人としてはみすぼらしいほど筋肉の落ちた色の白い身体。胸を激しく上下させているのも、かなりの量の汗を浮かべているのも、鍛錬の足りない証拠だと思う。
両手を組んで顎を乗せ、薄目を開いた善行は、さすがに疲れた顔をしている。若宮の見立てでは間違いなく、一服欲しそうな顔だ。もっとも彼には嗜好品は許されていない、それでかひどく物寂しそうに見える唇が開いて、ぽつりと尋ねた。
「これは……なんでしょうね」
若宮には答えられなかった。気の迷いといえばそれまで、気休めといってもまた、それまでなのだが。
もし今日、彼の身に何も起きなければ、こうして交わることなどありえなかった。だが自分が善行に対して仮に、友情や親愛の以外の感情を何一つ抱いていなかったのなら、やはりありえなかった。ならば、こうなるのは時間の問題だったのだろうか。

「分かっていると思いますが。今日のことは……忘れてください」
「はい」
即答はしたものの、すぐには忘れられないだろうと若宮は感じた。体温と手触りが掌に、そして声が耳に残る、しばらくは思い出すだろう。それでも忘れなくてはならない。
いや、おそらく。
ただの気休め以上のものには、しようとしてもできないだろう。


《劇終》



★20070513 ASIA
同人誌「コンフェッション」より校正のうえ公開。