《舐傷》
若宮が戻ったのは、入院から四日目の夕刻のことだった。全治一週間を自主的に繰り上げてきた随伴歩兵を、隊の皆は仕事の手を休めて取り囲み心からの笑顔で迎えた。
一名を除いては。
善行が隊長室から出ると、ちょうどプレハブからそちらへ向かっていた若宮が近づいて敬礼をした。怪我人とは思えない見事なものだ。
「若宮康光、現時刻をもって復帰いたします」
「それはどうも、ご苦労様です」
善行が冷静に答えたつもりの声は、それだけに淡泊に響いた。数名の顔を非難めいた影が横切るのを視界の端に見て、だが見ぬふりを決め込む。普段の若宮は善行以上にこういった空気変化に敏感なのだが、今はただ、律儀に頭を下げるばかりだった。
「この度はご迷惑をおかけしました」
「まったく迷惑千万です。まあ、人手不足は今に始まった話じゃありませんがね。…で、どうです、すぐ仕事に戻る気はありますか」
「はい、そのつもりです」
「結構。では皆さんも持ち場に戻るように」
深夜に至って。当たり前に狭い戸口に巨躯を押し込んできた男に、執務室という聖域の霊験はあっけなく潰えた。
連絡なしに戻られ、安堵どころか強い不快感を覚えたこと、そのため業務連絡もそこそこに自席へ滑り込んだこと、そして今この狭い部屋にいて袋のネズミという気がしていることまでも…どうせ見透かされているに違いない。
報告書を出しても立ち去ろうとしない若宮に根負けの体で善行は口を開いたが、その声は自然棘を含んだものに成らざるを得なかった。
「久々の職場はどうです? 戦士」
「はい、順調です。それに来須がおりますから、自分がおらんでもどうということはありません。」
「そうですか」 謙遜と言うわけではない。客観的にも若宮は的確に事実を伝えている。しかしその的確さが今は善行の感情を逆撫でした。忌々しさを眼精疲労と摺り替えようと、善行は眼鏡をずらし眉間を押さえながら声を出す。
「ああ、でも折角ですが。次の出撃は当分先になりそうですよ」
「芝村が戻らんからですか」
若宮と同じ日に入院したパイロットは、まだ退院の目処も立たずにいる。
「それもありますが…、実は整備の方が限界のようでね、原さんに泣きつかれまして。転戦の手続きをしました。市内です」
「市内ですか。よく通りましたな」
「通したんですよ。この分はどこか他の隊に泣いて貰うことになるでしょうね」
若宮が僅かに眉根を寄せた。その下の眼が、気に入らない、と雄弁に物語っている。
「そんな顔をしないでも、貴方が気にするような無茶はしてませんよ。それに貴方の居ない間に戦況も変わりました。ここらでしきり直したほうが後々のためというわけで…貴方もたまには大人しく休んでみたらどうです?」
「ありがたいお言葉ですが、こんなものは怪我の内に入りません。休養など身体が鈍りますし、かえって調子が狂います」
小気味よいほど想像通りの若宮の返事に、善行は心の内でやっと笑んだ。しかし表面上はしかつめらしい顔を保つことに傾注する。
「素人判断は禁物ですよ。それに退院許可もまだ出ていないはずです」
「はい、いいえ、出ております。これです」
若宮がポケットから封筒を取り出す。中の書類には確かにその旨、認められていた。
今さらだ。そう善行は自らの不明を笑った。余分な医薬品もベッドも此処にはない。彼らの言い分など分かり切っている。
「医者がなんと言おうが、当分、貴方の出撃は許可しません。怪我人がのこのこ出て行って、ひよこ達の足手まといになるようでは困ります」
「ご心配には及びません」
若宮は泰然と笑い、そして力強く否定した。
「それより病院にいる間、その雛どもが気になりまして。おちおち寝てもおれませんでした。訓練をサボらせとらんでしょうな、特に滝川あたりは目を離しては…」
はぐらかすつもりか。不意に暴力的なまでの腹立たしさを覚え、善行は強く両手を組み合わせた。
全治一週間、裂傷と打撲、最も重い傷は右肩。そこからは考えるより先に身体が動いた。若宮を促して椅子にかけさせると、上着のボタンを外しはじめる。
「ああ…、ご覧になるので?」
若宮は一瞬首を傾げたが、善行の意を汲むと渋々上着を脱ぎはじめた。
「この程度の傷、珍しくもないと思いますが」
返す言葉を探す事さえ煩わしくなった善行はぞんざいに頷いて返事とした。そうしながら指先だけは素早く動かし、目的を達する。
シャツをはだけると、右肩に走る幻獣の爪痕は、肩先から鎖骨までの肉をざっくり抉っていた。半透明の人工皮膚パッチを透かして見える、子供の腕ほどの幅で皮下組織が覗く傷口には、既にふっくらと桃色の肉芽が盛り上がっている。旺盛な生命力を誇示して、それは女性器のように生々しく艶やかな色をしていた。
善行は卒然その狭間に舌を割り込ませたいという衝動を覚えた。ために半ば無意識に舌で唇を湿す。それでも飽きたらなくなって善行は、若宮の頭を両手で捉えて強引に口づけた。
憂さ晴らしなら酒の方が話は早い。平静を保つためなら煙草があれば十分だ。しかしそのどちらからも、真の充足は得られないという確信が善行の苛立ちを深くする。
その深さのまま舌を差し入れると、呆れたような、しかし憎らしいほど動揺の少ない表情に迎えられた。欲など欠片も宿さぬ冷静な瞳に、かつて教官だった頃この眼差しに射竦められた畏怖と憎悪、今も払拭されたとは言い難い種々の感情が蘇って善行は目蓋を閉じる。微かに薬のような臭いのある中を慣れた熱を捜して舌を彷徨わせる。今は影も形もないそれが、時を置かず生じる、そこには些かの疑いもない。
机の上に仰向けに押しつけられ、顎の直下、喉の骨を大きな顎に噛みしめられて、善行は身を震わせた。思わず動かした膝頭に、腹を押された若宮の動きが何処かしらぎこちないものになる。気づいた善行は薄い皮膜に覆われた肩に初めて触れながら問いかけた。
「痛みますか」
「いいえ」
「そうですか。…少しは痛そうな顔、したらどうです」
「ミスターも、案外、サディストですね」
「貴方ほどじゃありません」
喉、首筋、はだけた胸を辿る唇、背を撫でる掌。若宮の動作は丹念だが反面、緩慢で先を急がない。焦れた善行は、背中に下がっていたワイシャツの袖から腕を抜いて完全に払い除けた。しつこく首に残ったネクタイを外し、ベルトを抜き取ろうとする手を腰をあげて助ける。ズボンが下着ごと下げられると、机上に敷いた硝子板が尻に冷たく、膚が粟立った。 不意打ちの違和感から逃れようと、善行は太い首に両腕をかけて強く引き寄せた。すると流石に傷に響いたらしい。若宮は一度大きく背を揺らし頬を歪めた。同時に脱げかかっていた靴が床に落ちる。その音は呼吸と衣擦れ程度の音しかない部屋の中にやけに大きく響いた。
「好い加減、やせ我慢はやめたらどうです」
自身に絡みつく指の仕業で上ずった、しかし感情のこもらない声で言うと、善行は肘をついて身体をもぎ離そうとした。しかしその前に太股に置かれていた手が腰に回されて、後退を封じられる。善行の顔を真上から、照れ隠しのようにも見える半端な笑みを口元に貼り付けて見下した若宮が、ふいに真顔になって言った。
「貴方が負い目を感じることなど、何もないのですよ」
「何を言い出すかと思えば。そんなもの、あるはずない、でしょう」
「でしたら、よろしいのですが」
若宮は神妙な面持ちで左手を伸ばすと善行の右腕を捉えた。もう片方の手は頻りに淫靡な、濡れた音を生んでいるにも関わらず、恭しいほどの口吻が落とされる。乾いた唇でゆっくりと、二の腕まで上り詰めると、そこに残る古傷に生暖かい吐気で触れ、軽く歯をたてて離れた。
これで意趣返しのつもりなのか。
…わからない。
意図しての行動なのか、それすらわからない。
替わりにわかっていることがひとつあった。自分たちの関係は決して傷の舐め合いといったような、優しい質のものではないことだ。
昔から若宮は善行に、負傷や体調の変化を滅多に悟らせなかった。生まれつきの徹底した職業意識が他者に弱みを晒すことを容易に許さないのだろう。この出来過ぎるほどよくできた下士官は早晩、交戦か、寿命か、おそらくその双方によって死ぬのだろうが、しかし軍用クローン、大量生産、年齢固定といった素性のどれ一つとして彼にとって何らの傷ともなりえない。これは善行にとって自明の事実だった。
一方、その遙か後陣から「華々しく死ね」と言い放つ己の声、最後まで毛ほどの傷すら負うことなく立つ姿もまた、善行は苦もなく想像することができた。肉体もそうだが精神面では尚更そうだ、兵の死に心を痛める指揮官など論外だ。この原則を骨の髄まで叩き込んだのは、他の誰でもない、当の若宮である。
浅からぬ傷を抱えた同士、身体を依せ合い慰め合うなら、それだけ心安く、気も晴れるかもしれない。他者の目にいつも完璧に隙なく有らねばならぬ身の上なら尚のこと。仮定すること自体が己の弱音と感じられるほど、脆弱極まりない、見苦しい、しかし…
…いずれにせよ自分達の間には決して成り立ち得ない感情だ。
善行はそう断じると、それ以上深く考えることを止めた。
痛いほどきつく抱きしめられ、貫かれながら、善行は目の前で揺れる若宮の傷を厭きず見ていた。熱く固い指の感触に全身が疼き、情欲を注ぎ込まれるころには声を抑えることすら忘れていたが、その一方で意識は完全に醒めていた。突き上げてくる律動の他の全てを忘れるためには、それから後もかなりの時間を要した。
「失礼しました。無理をさせましたか」
着衣を整え終わった若宮は帰り支度のつもりか、善行の鞄と上着を手にしている。しかし善行はいつのまにか外れていた眼鏡を戻した以外、殆ど素裸のままだ。引き起こされ腰掛けさせられた時の姿勢からまだ動いてもいない。
「いや、…安心しましたよ。この元気なら、明日にも出撃できそうだ」
善行は乱れた呼吸の最後の一息を飲み込むと、疲れた声で漏らした。初めから、求められている言葉も、役割も、承知の上だった。そこから先は嫌々ながらの体裁を繕っただけ。そして絆される芝居は自分自身に必要だったに過ぎない。
「それでは、お許しいただいたと思って」
「どうせ止めたって聞かないでしょう、貴方は。せいぜい派手に戦って死んで下さい」
これが善行の隠れなき本心だった。
たとえこれだけが本心ではないとしても。
「ありがとうございます。ここまで貴方と共に戦えて、よかったと思っております」
喜色満面で応えた若宮の声は、彼のそれとしてはやけに柔らかく重く響いた。その中に不穏な覚悟を嗅ぎ取るのは、流石に自分の穿ち過ぎというものだろうか。善行は己の内に問いかける。
…いや、疑うまでもないことだ。
気づいて善行は失笑した。
この点において若宮は、出会った時から一切変っていない。
胡散臭げに窺っている顔に向かって、我ながらひどい皮肉を吐きつける。
「今の言い方では、まるで遺言ですね」
「そう取っていただいても構いません」
冗談を言う男ではない。裏も表もない。
若宮の本心など初めから一つに決まっている。
声を出さずに笑ってみると、狭い机の上に纏められていたせいか、身体の彼方此方が低く悲鳴をあげた。しかし善行はそれからも腹の底から沁み出すような可笑しさにしばし身を委ね続けた。
《劇終》
★20041112 ASIA
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