《グレイヴ》





また金切り声があがった。続いて板の間を裸足で走る、雪崩を打つような足音が、離れの方から時折聞こえてくる。初めて顔を合わせた従兄弟姉妹同士で、何かの遊びを見つけたのだろう。反対側の台所からは、途切れることのない低い話し声と食器の触れ合う音。近所の婦人がみな集まって食事の支度をしているのだ。

善行はついに死に目に会うことのできなかった人を祭る祭壇の前に、制服ではなく喪服を着て正座していた。借り物の、やや厚手のスーツでは、五月とはいえ少し動くだけでも額に汗が滲んだ。いや、日本の夏はここ二年来、異常に暑くなるという。核の使用を含む戦闘行為が、自然環境にまで影響しはじめているのかもしれない。
額に入れて飾られた白黒写真は、なぜか非常に古く、そして若々しいものだった。二度の世界大戦に出征し、戻っては地方官吏として勤勉に生きた父は岩のような頬の肉の印象通り、寡黙な人物だった。特に戦中の体験については何一つ語った事がなかった、その心の内が今の善行にはおぼろげながら理解できる。

手を合わせ礼を終わると善行は懐から煙草を1箱出し、皿に盛った最中の横に供えた。そこで、遺影の脇に立てられたロウソクが二本ともおかしなことになっているのに気づいた。菊が画かれた太い身が抉れて横から芯が見えており、そこにも炎が灯っているのだ。
「あの子たち。お線香で遊んでしまったの」
そこへ和装の母が、裾を捌いて横に座ってきた。孫の悪戯は悪戯の内に入らないのだろう、怒るどころか目を皺に埋もれさせて、くつくつと笑っている。
大学一年の冬休み以来、久しぶりに顔を合わせた母は、白髪が目立つようになったうえ二回りも小さくなっていた。五十年前からこの国の全ての家庭が義務づけられた通りに子を育て、戦地へ送り、失い続けた半生を支える、痩せた肩。ここへ自分がまた一つ苦しみを乗せることを思うと、顔を合わせることも躊躇われた。
だから幾度か機会があったにも関わらず、今まで帰省を先延ばしにしていたのだ。一人の兄が兵役を終え、父と同じ道に進んでいることが、今の善行には兎に角ありがたかった。

「そうそう、これなんですけどね 」
帰りがけに母が取り出してきた手提げには、出征前に送った荷物に入れたラムの瓶が六本、紐で括られて入っていた。
「お父さんったら、口に合わなかったらしいの。折角送ってくれたのに、ごめんなさいね」
「そうでしたか。おかしいな、こんなに美味い酒は、なかなかないんですけどねえ。慣れてしまえば」
夕方には兄も戻るし泊まっていったら、と何度も引き留められたが、数時間の外出さえ一周忌を切り札にしてやっと叶えた善行に、その自由はなかった。

まだ大陸での完全敗北が公表される以前の事だった。








小さなののみが、小さなスコップを持って、小さな穴を掘っている。
昼食を済ませてグラウンドに来た若宮の目に止まったのは、ののみが地べたにしゃがみこみ、一心に手を動かす姿だった。花壇の脇の固い地面をわざわざ選んだため手間取っているようだ。
直上から降り注ぐ日差しは日毎に強さを増している。まだ5月のはじめだというのに、じりじりと脳天が焼けるようだ。あんな小さな体で帽子も被らずにいては、ものの数分で日射病にかかるのではないだろうか。いつも、この娘の世話をなにかれと焼いている瀬戸口は、どこにいったのだろうか。

若宮が軽い苛立ちを覚えながら近づくと、ののみの横には蝉の死骸が六つ並んでいた。異様だ、と感じた。理由はきれいに頭を揃えてある様子に、戦場で回収を待つ遺体を連想したからだ。もっともこのご時世では、袋の中にきちんと収まっているだけでも幸運の持ち主と言わねばならないが。
「それを埋めるのか?」
「うんとね、はい。おはかなのよ」
少女は汗の玉を浮かべた額をあげて、微笑みながら答え、またすぐに作業に戻った。

せめて今だけでも、と彼女の体に自分の影が落ちる位置に動いた若宮の視界の端に、ひょこひょこ動くものが映った。風のせいかと思ったが、いや、どう見ても動いている。蝉の羽だった。半歩ほど先に、乾ききった死骸が落ちている。
「おい、東原。こっちはいいのか」
「そのせみさんはね、ありさんのごはんなのよ。だから、とっちゃめーなのよ」
「そうなのか」
短い明快な答えだが、どうも腑に落ちない。この娘に対してではないのだが、なにやら、うす気味悪いと感じた。

ののみは力一杯、固い土と格闘している。蟻にいたっては若宮の視線になど構うはずもない。自らの数十倍はあるような大きな獲物を巣穴に向かって運んでいる。

不味そうな飯だ。そう片づけたところで同僚が歩いて来るのが見え、若宮はそれきり、ののみの事を忘れた。

帰りがけに若宮が同じ場所を通ると、お椀状にきれいに盛られた土の上に、小さな石がひとつ乗って、花が一輪手向けられていた。







「おい。こいつ昼までいたよなあ? ばっくれやがったか?」
五限目に入っての本田教諭の第一声は、サブマシンガンの銃口で左前の空席を示しながらの剣呑なものだった。教室内の雰囲気が急にぴりりと張り詰める。

若宮は結局昼休みいっぱい、グラウンドで過ごし、間一髪で教室に滑り込んだところだった。そのため問題の空席には気づいていなかったが、そういえば校庭から戻るときに善行と誰かを廊下で見かけたような、と思い返したところで加藤がそろりと手を挙げた。
「昼休みに仕事しとったら、芳野先生が委員長呼びに来はって。なんや電話って、連れてかれはりましたけど」
「電話? で、そいつが俺の授業より大事だってのか?」
「さあ、それはさあ」
加藤が愛想笑いを浮かべながら降参のポーズをしかけた時に、扉が開いて当の善行が入ってきた。
「申し訳ありません。遅れました」
頭を下げる様子は殊勝そのものだが、顔色も変わらず、呼吸を乱してもいない。とても、急いで来た様には見えなかった。
「遅せェぞ、善行! 覚悟は出来てんだろうな」
「はい。100周、でよろしいですかね」
「わかってんならさっさと出てけ。率先垂範ってやつだ、サボるなよォ!」
景気よい怒声に追われて、彼は、今度は足早に出て行った。

窓際から少し離れた若宮の席からは、トラックの奥側だけが見えている。通り過ぎる白い制服姿を目の端で盗み見ながら、正当な用事なら説明しただろう。そうしなかった。ということは、おそらくああして走り回りたかったのだろう、と若宮は考えた。
実をいえば、教室を出て行く彼が浮かべていた表情に既視感を覚えていた。が、それがいつ何処でだったかは、思い出すことができなかった。若宮の視力をもってすれば、ここからもう一度、仔細に彼の顔を見ることはできるのだが、そうする気にも、ならなかった。








「寄っていきますか」
一日よく晴れたまま、出撃もなく終わった日に、アパートの門柱に付いた裸電球の下で、善行がそう誘うのは、珍しいことではない。
初めから二人ともが、どちらかといえば即物的な方だった。善行に言わせれば、体を重ねるというやり方は慣れてしまえばわかりやすい、というのだ。淫乱と思われるかも知れないが、少なくともあれこれ推し量って悩むよりましだと言われ若宮も納得した。いってみれば、そう、互いに都合がいいということだ。

靴を脱ぐのももどかしく、奥の部屋に敷かれた布団の上に縺れ合いながら倒れた。口付けもそこそこに体の下へ引きこむとネクタイをまず解く。すると善行も慣れたもので、眼鏡を外しできるだけ遠くへ置こうと伸び上がった。
若宮はその無防備をついてシャツの裾を全部引き出すと、腹と背に同時に触れた。まだ襟に守られている首筋に強引に唇を這わせると、強い汗の臭いがして昼の一幕を思い出させた。若宮にとっては、決して不快なものではない。
「待ちなさい、先に、脱ぎますから」
善行の指がいつも、上着より先にズボンのファスナーに取りかかるのが現金だと思う。若宮は心の内で笑みながら、善行の上着のポケットを探って避妊具を探した。もちろん本来の意味ではなく、後始末の面倒を省くために使うのだ。
しかしあては外れ、では、と既に腰から半分下がったハーフパンツのポケットを探る。するとハンカチのような布に触れた。違うと思った時には飛び出してきていた、それはどこかで見覚えのある黒い布だった。

若宮の手元に気づいた善行は、それを元の場所に押し込むと、腹の底から絞り出すような声で言った。
「若宮、やめて、下さい」
顎を胸に突くほど伏せて哀願する声は、情事のとき特有の掠れを帯びていて、若宮をぞくりとさせた。だが、やめろというのはどうしたわけか。どこか当たって痛むのだろうか、と動きを止めた一瞬に、突き放そうとする腕に力が増す。
「やめて下さい」
もう一度囁かれ、若宮は完全に気を削がれた。
読み違いではないはずだ。少なくとも、彼の体はあの短い間でもはっきり兆候を見せていた。部屋の隅まで這い出していった善行の体は現に、とても収まりがついているようには見えない。

襖に寄りかって荒い息をつく上官を前に、若宮はしばらく黙って立っていた。頭上の灯を遮る自分の影が伸び、ちょうど血色の悪い顔の上に落ちている。若宮が善行の上に見たうちで、最も冷淡といえる表情がそこにはあった。


半時後、掛け時計の針の音がやけに耳障りに聞こえる部屋で、若宮は薄いわりに重い布団の中に、横たわっていた。
善行はこの同じ布団に、シャツ一枚と下着だけで布団に入っている。若宮も同じ格好で、彼の体に触れぬよう背を向けている。腕と膝がほとんどはみ出しているのだが、これは別段気にならなかった。

あれからすぐ部屋を出ようと靴まで履いたのだが、善行の声が後ろから、待てと命じたのだった。寝室兼居間と台所の境で、逆光を背負って、障子によりかかった姿で。
「待ちなさい」
「は、しかし」
「こんな時間です。泊まっていきなさい、若宮。これで帰られては、僕の気が済まないんです」
もし仮にいつもの静かな声で告げられたなら、いくらでも理由を作って帰宅しただろう。だが若宮には、このまま帰れない理由ができていた。他人行儀に命じた善行の瞳が、逆を求めているように見えたのだ。すなわち、すぐに帰って欲しいのだ、と。


物音に気づいて薄く目を開くと、善行が台所への障子を出て行くところだった。やがて足音を忍ばせるように戻ってきた彼は、グラスを手にしており、なみなみと注いだ一杯をちびちびと、それでもかなりの早さで空け、それからまた布団に潜り込んだ。
「眠れないのですか」
「別に、そういうわけではありません」
棘だらけの声で善行は否定した。

その後しばらくは障子の向こうで猫の動き回る気配が続いた。可哀相に寝ていたところを起こされたのだろう。が、やがてそれも止んで、聞こえるのはまた、かちかち刻む安っぽい音だけになった。
いや、それだけではない。
先ほどから繰り返される寝返りは、押し殺した溜息は。これでいったい何度目だろうか。


「やはり、眠れないのでは?」
若宮は堪らず、また問いかけた。それから、このままでは埒が明かないとばかりに、肘をつき、上半身を起こしかける。
すると善行は掛ふとんを跳ね上げ、それから若宮の思いも寄らない行動を取った。シャツを一気に脱ぐと、若宮の布団を剥ぎ取って、腹の上に馬乗りに跨ったのだ。

「違うと、言っているでしょう」
障子越しに台所から差す蛍光灯の光が、眼鏡のない顔を横合いから照らす。疲労と酒気を混ぜて固めたような精気のない顔が、鼻と鼻が触れるほど近づけられると、こちらまで酔いそうなほど濃いラムの香気が吹きかかった。
「眠れなくて、悪いですか」
ひび割れた声で言った口が、間髪入れず若宮の顎先を噛んだ。次に、耳を。
若宮は掴みかかってきた両手に下着をはだけられながら、ぴしゃりと正論を突きつけた。
「寝酒は身体によくありません」
「では、貴方が責任をとりなさい」
薄い唇が会心の笑みを形作る。すでに掌に取り上げた若宮自身を撫でながら。若宮には意味のわからない笑みであったが、とにかく彼の不眠の理由に、自分も含まれていることは察した。
「僕は、バカだ」
「何がです?」
「もう、どうしようもなく、そう。軍人なんですから、」
酔った者にありがちな空笑いに交え、乗せた腰を卑猥に動かしながら、ついに善行は白状した。
「今さら常識ぶっても仕方ない。そうでしょう?」



続け様に二度極めさせたのが、常になく堪えたらしい。善行は絶頂の声こそ腕を噛んで堪えたものの、みっともなくあがった呼吸は隠しようもなく、全力疾走の激しさで胸を弾ませている。もっとも片膝を折られて受け入れたままでは、収まるものも収まらないだろうが。試しに支える腕の力を緩めると、一度深く息を吸ったあとで、ぴたりと静かになった。それを受け若宮の残りの肢に漲っていた圧力も、急速に失われていく。
瞬き二度ほどの間をおいて、視界が清明に変わった。すると、善行は行為の間ずっと両腕を交差させて顔を隠していたのだが、腋の下の脱毛処理して間もない肌が荒れて、点々と膿をもっているのが目に留まった。その僅かな血の色をのぞいては、彼の肌は二の腕も胸も首も生白い。
薄明かりのせいか。あまりに白い蝋のような色に目を打たれて、若宮は死んだ肉と脂の塊に雄を突き立てているような感覚に捉われた。
たとえば、命をなくした後の、この人の体を。

そんなはずはない。
胸に掌を置くと、表面のひやりとした感触を越えて、しっかりした肉の宿す火照りが、そして充足の溜息を聞かれまいと喉を絞る、微かな震えが伝わってくる。
若宮は己が安堵を覚えたことに不快になり、乱暴に膝を立てて繋がりを解いた。途端、下腹を捩れさせ、くぐもった呻きをあげて相手は、本格的に息をふきかえした。

頼まれて座卓の下にあった箱ティッシュを渡すと、彼は目を閉じたまま足の間を拭いはじめた。緩慢に、いいかげんに。それからシーツの上もおざなりに拭うと、ゴミを放りだして横になる。その間ずっと、若宮は胡座をかいて、見るとはなしに善行の指先の動きを見ていた。
「なに見てるんです」
若宮が答を保留すると、善行は腕を頭上に伸ばして欠伸をし、それから気だるそうに目を開いた。視線が合うと不満そうに彼は反転し、布団に顔を埋めていった。まだ息づかいは通常のそれではない。

しばらくして心底疲れたと言う声で善行は呟き、若宮は失笑を堪えるためにたいへんな苦労をした。
「僕はバカだな......ほんとうに」
「まだ、酔っておいでですか」
「もちろん」
頷いて答えた声には眠気のもたらす深さが加わりはじめている。
若宮は彼の身体に静かに布団を引き掛けた。








駅からバスで揺られること半時。降り立ったのは、住宅地を貫くいわゆるバス通りの停留所だった。二人分、と告げて料金を払った善行も降りると乗客ゼロになったバスは、それでも重苦しいエンジン音を撒き散らしながら走り去っていった。
道を挟んで前も後ろも、年季のいった板塀が続いている。バス停に書かれた名称から近くに寺があるらしいことが知れたが、付近にそれらしい建物は見当たらない。
「ちょっとここで待っていて貰えますか」
善行は、若宮を停留所のベンチに残していなくなった。が、しばらくして手ぶらで戻ってきた。
「花屋があったはずなんですが。疎開したのかもしれません」
戻ってきた善行はそう問われるともなく説明したあと、まあいい、行きますか、と言って前に立った。

「あそこです」
数分歩いて着いたのは、年経て黒燻色になった木造の門だった。入り口はぴったりと閉ざされているが、善行が指さした位置に潜り戸がある。狭いそこへ体を押し込むと、中は玉石を敷いた広場になっており、正面に平屋建ての建物があって善行は真っ直ぐそこへ入っていった。

どこかでカラスが鳴いた。茜色に染まりはじめた空には見事な鱗雲が散って、やわらかい朱色に照り映えている。
ここまでで若宮にも、墓参の道連れにされたことは完全に理解できている。少々予想が外れていてもかまわないだろうと、若宮は、入り口脇にあった水場で備え付けの手桶に水を汲んで、善行の戻りを待った。
「待たせてばかりですいませんね」
善行は今度は手に線香の束を持って戻って来た。若宮の手桶を見ると、気が利きますね、と微笑んで、また先に立った。
木桶は水が漏っていた。ぽたぽたと石畳の上に痕跡を残しながら、若宮は善行を追った。火の気が完全に絶えた爐、見上げんばかりの観音像、菓子で飾られた水子像と通り越し、生け垣に設えられた門を通るころには水は八割に減っていた。


夕陽の差す墓地はしんと静まりかえっていた。橙色の空に、寺の反り返った屋根が黒々と影絵に切ったように見える。水はけが悪いらしく地面はどこもじっとりと黒く濡れていて、突き当たりにあるブロック塀にも雨水の染みた升目模様ができている。
「ここです」
善行が足を止めた一角に並んで立つ。古びた黒御影石の墓石に「善行家之墓」とあった。二つの花入れに生けられた菊の花は、まだ枯れ切ってはいなかったが、善行はすべて取り去った。それから供物台にあった和菓子もどけて、若宮から桶を受け取る。
若宮は柄杓で水を掛けはじめた善行の、穏やかな無表情を見つめ、次に墓石を眺めた。二段に並べて刻まれた名の、上段は古びているが、下段は近年のもののようだ。左端には同じくらい真新しく、聞き覚えのない男女の名があった。享年はいずれも七十。
やがて掃除を終えた善行は線香の束を取り出し、ライターで火を点けた。次に煙草を取り出すと、唇に一本挟んで、炎をあげている線香から貰い火した。煙に噎せながらも成功すると、すうっと一息吸われた煙草が白くなった視界の中で赤々と、音を立てて燃えた。
言えた義理ではないが、喫煙は不謹慎ではないのだろうか。そう若宮が首を傾げながら見ている前で、善行は腰を折って線香を台座に置いた。

「花より団子、といいますけど」
善行はわざとらしいほどゆっくり言いながら、横に火のついた煙草を並べた。さらには箱ごと置いて、にやりとする。
「僕も同じです。覚えておいて下さいね」
はあ、と若宮は答え、その意味を考えた。
考えるだに一つのくだらない考えに辿り着く。だがそれを指摘してやるのは相手の思う壺という気がした若宮は、別の素朴な疑問に話題をすりかえた。

「立ち入ったことをお聞きしますが、ここは貴方のご家族の」
当たり前でしょう、と善行は吹き出した。
「こんなところまで付き合わせておいて、今さら立ち入るなも何もありませんよ」
「まあ、それもそうですが。しかし、どうして自分などお連れになったのです?」
問いかけているこちらより、もっと不思議そうになった顔から答えが返る。
「理由はないです。いや、貴方に一度、見て欲しかったのかもしれません」
「ここをですか?」
「そうですよ」
善行は満足げに頷いたが、すぐ面白くなさそうな顔になって言った。
「しかし、こんな抹香臭いこと考える時点で、僕も若くないってことですかね」
「司令はまだ二十五でしたか」
「まだは余計です。それに年のことは言わないで下さい。もう人生の四分の一は生きてしまったと思うと、がっかりします」
「では司令は。百まで生きるつもりなのですか?」
「ええ。おかしいですか」
剛毅ですな、そう素直な感想を告げると、善行は声を出さずに笑った。



バス停へ戻る道すがら、善行はぽつりと口にした。
「これで僕は少なくとも、親不孝者呼ばわりされる心配はなくなったわけです」
下手な冗談ですと付け加えたが、若宮を意味ありげに見つめていた眼差しはふざけているようには見えなかった。
「ものは考えようですな」

まだそう呼ばれる可能性は、ゼロではありません。若宮はいっそ、そう警告してやるべきかと迷ったが、それこそ彼の思う壺だと思い直した。そして気がつかない振りを通すことにして相槌を返したのだった。





《劇終》


★20080117 ASIA 同人誌「グレイヴ」より修正の上公開