《形見》
板扉を開けて入ってきた来須銀河が、こちらを見たまま動きを止めた。窓から差す黄昏の光がその顔を正面から照らす。古代の英雄の像にでもなったかのように、その表情は固かった。
鍵はかかっていなかった、寮の部屋はみなそうだ。だが自分は今までこの部屋を訪れたことがない。だから驚かれても仕方がないのだが、それにしても幽霊でも見たような顔ですね。そう思いながら善行は沈黙を破った。
「勝手に入ってすみませんね。お邪魔しています」
窓の脇の机の上に一輪の花が牛乳瓶に生けられている。善行は腕を伸ばし、薄く白い花びらに触れながら尋ねた。
「これは貴方が?」
来須は頷いた。
一昨日、若宮は死んだ。公式には重傷で入院中としているが、実のところ死んでいる。
二体のゴルゴーンの集中砲撃を受け、直撃は避けたものの、炸裂した破片で胴に大きな穴があいた。それでも意識は保って友軍のスカウトに、「ついに年貢の納め時だ」と傷と口から血を吹き出しながら笑ったという。
戦闘が終結し医療班が向かうころには、当然のことだが事切れていた。薄暗い地下の小部屋で見た黒い死顔は、最後まで笑いを貼りつけていた。
「何をしていた」
来須が静かに尋ねた。咎めるというより、単に疑問を口に出しただけのようだ。
「若宮戦士の身辺整理も私の仕事なんですよ、身寄りもないのでね。でも、来る必要はなかったようですが」
善行は答えてから室内を見回した。
「それにしても何もない部屋ですね。若宮は昔からそうでしたが、来須君、あなたも」
六畳もない部屋の半分以上は二つのベッドに占められ、さらに学生寮らしく机が二つ。これだけでもう部屋はいっぱいだ。だがこれでも広くさえ感じられるのは、他に何もないからだろう。あえて数えるなら壁に制服と鞄、それに床に鉄アレイが転がっているが、支給品と仕事道具だから厳密に私物といえるものではない。
窓にはカーテンもない。茜色の雲を浮かべた空が、薄汚れたガラスを通して白っぽく輝いている。
来須は片方のデスクの抽斗を開けた。中は空のようだったが、奥まで引くと、5センチ四方ほどの紙片がベニヤにテープで貼りつけられていた。
「若宮のものだ」
無造作に剥ぎ取る。それは古びた新聞記事で、善行には見覚えのあるものだった。小さな写真と数行のハングル。ひどく変色しているため、被写体が五人であることさえ容易には判別できないが、善行は知っていた。写した場所も一人ずつの名前も、そして今どこで何をしているのかも。
しかし、若宮が後生大事に持っていたとは知らなかった。
「らしくないことを」
善行は両手の指で紙片をつまんだ。破り捨ててもいいし、そのまま放っておいてもよかった。若宮と自分にしか…いや、もはや誰にも意味のないただの紙切れだ。
「知っているのか」
「ええ、まあ」
「何が書いてある」
「何も」
善行はそれを屑入れに入れようとしたが、来須が前腕を掴んで止めた。予想外の出来事に声をあげる間もなく、ぐいと引き寄せられ、背後から抱き締められる。来須は紙片をもぎとり机上に置いて、それから善行の肩を二度、軽く叩いた。
「なんの冗談です」
「落ち着いたか」
「いえ、あまり。むしろ動揺していますが」
非難がましく言ってみるが、動じた気配はない。
「お前が若宮とこうしていたのを、見た」
善行は聞いて、ああ、と嘆息した。
「そうですか。それはなんというか……迂闊でしたね。何が草の生える音でも聞き分ける、だ」
「俺では駄目か」
「駄目? 何が?」
「若宮でなくては駄目なのか、と聞いた」
「それは……目も何も」
善行は肩を震わせて笑い、それから決め付けた。
「わかりませんか。僕たちがそうしていたのには、君が考えているような意味は何もありませんよ」
そう揶揄したせいではないだろうが、首筋に唇が当てられ、耳の下を辿りはじめた。善行はただならぬ成り行きに身を固くしながら、それでも失笑をこぼした。
「一体どこまで見ていたんです」
「ここからは詰め所でだ」
「ではこれはさしずめ、口止め料、ですか」
善行としてはほんの軽口だったはずの言葉に、来須は不愉快げに眉を顰めて、違う、と強く言い、近づいていた身体を一度離して視線を合わせ、真摯に告げた。
「おまえを頼む、と若宮に言われた」
「おまえ、というのが私のことなら、何度も言っていますが、上官に対する口の利き方ではありませんね。それにそもそも、頼まれる筋合いはありません」
上着のボタンを探っていた手が、すいと頭にのばされて髪をなでる。
「……嫌か」
「ここで、そういう顔で言うのは卑怯ですよ」
「顔」
青い目が瞬いたのを見たのを最後に、善行の視界は暗くなった。来須の掌が視界を奪ったのだ。軽く、試すように。
「これで」
いいだろうか、そう問いかける来須の声はあくまで真剣で。笑みで隙間のできた唇のあいだに柔らかく濡れたものが入るのを感じてますます笑んでから、善行は応えはじめた。
「一応忠告しておきますが。こういうことは本来、女の子相手にするものですよ」
来須はわかっている、と小さく答えた。
ベッドに倒されると、視覚を閉ざされたためだろうか、嗅覚にどうしようもなく主張してくるものがあり、善行はすぐにその正体に気づいた。シーツもカバーも洗われ整えられているが、それでもここは。若宮の匂いがした。
来須が意図的にここを選んだのだとするなら、つまりあくまで若宮の身代わりになろうということか。頼むと言われて男を抱くことができるものか。律儀にもほどがある。
かつて善行は、ある女の前で眼鏡を外して見せるなり、人相について忠告されたことがあった。
「尽くしても尽くしても報われない、そんな顔」
別に占い師というわけでもないその女は、目が怖いなどの聞き慣れた感想を飛び越えて決めつけた。後から、でも嫌いじゃないわと打ち明けたが。彼女なら来須をどう評すだろう。
自分よりよほど報われそうにないではないか。死んだ男との約束をひたすら守ろうという、愚直な男。
彼はこんなふうに女を抱くのだろうか。
いつの間にか目隠しは外れていて、善行は自分を組み伏せる男の金髪に視線を送りながら考えを巡らせていた。優秀な狙撃兵というほかは正体不明の男。
小杉はおそらく彼の姉ではない。そもそもこの時代、家族の意味するものは薄いが、それだけでなく彼らの出自は近くない、おそらく外国人居留地で知り合っただけだろう。来須は天涯孤独だ。それで随伴歩兵という、もっとも死にやすい部署にいて、文句一つ言わず黙々と従っている。
この男でもいいのでは?
求められるままに唇を、やがて体を許しながら、善行はそう思い至った。
大した違いはない。違いと言えばこの男には替えがないことくらいだが、例え亡くしたとして───戦力の低下は避けられないとしても、自分にはさほどこたえない。
そう、若宮と同じことだ。
来須の抱き方は穏やかで、優しかった。もちろん行為の中で生じる最低限の負担は受け取ったが、若宮の強引さ、容赦のなさとは似ても似つかない。
だが──違う。
そう感じる度に善行は心中で首を傾げた。では今までの自分たちの交わりは、そう思えるほど筋道だった、まともなものだったのだろうか。発作や嵐と同じ類だと思っていたのだが。
やはり、違う。
たった数日前まで意識せずに居た男の匂いが、見えない枷となって纏いつき、意識を現に引き戻す。
没入する寸前で煮え切らない身体を持てあました善行は、またここに来るであろう寸分違わず同じ若宮に、今のこの姿を見せつけることを想った。冷えていく一方の身体に、鞭打つように手を這わせながら。
きっと若宮のことだ。「司令が特定の部下と過剰に親密になさるのは、感心しません」などと、苦言を呈してくるだろう。上官への上辺の従順は死んでも崩さないあの顔に、嫌悪と失望を滲ませて。
そう、あの男はどこの誰とも本当の意味で親密になることはない。
それでも自分はおそらく性懲りもなくまた、あの男を。
長い時間をかけてようやく辿り着いた解放は、満足にはほど遠いものだった。登り詰め、一通り吐き出した、ただそれだけだ。来須は途中で彼を追うのを止めていた。
今更この部屋のどこに預ける気にもならない身体を、立ち上がらせる。衣服を整える間、ベッドに腰をかけた来須は、肉欲などまるで持ち合わせない聖者のような瞳で善行を見つめていた。
「泣いて、いるのか」
「いいえ」
「涙を、流している」
「……そう見えますか」
頷いた来須に向かい、善行は乾いた頬を笑ませた。
「貴方の気のせいですよ。私にはその資格はありませんから」
「すみませんが、これは明日中には片付けてください。すぐに若宮が戻ります」
生けられた花について、躊躇いなくそう命じてから、善行は部屋を出た。
例の紙片は自室には持ち帰ったものの、結局、破り捨てた。
《劇終》
★20070318 ASIA 同人誌「メメント」より修正の上公開
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