《傷跡》



仮に与えられた官舎は飾り気のないマンションの一室だ。その飾り気のない玄関で善行忠孝は、この部屋へ初めての来客を迎えている。扉をかがんでくぐるほどの長身にいかにも軍属という体格、普通サイズのボストンが玩具のように小さく見えて笑いを誘う。
「けがの具合は、もういいようですね」
「はい。ご心配をおかけして申し訳ございませんでした」
「そう。よかった」
恐縮する若宮にかまわず、善行は遠来の部下の体を眺め回した。一見して変化したところはないように見える。だが善行が離れた後の熊本で彼が重傷を負ったというのはまぎれもない事実だ。身体検査のために中央まで呼ばれて来たと言うのもそのせいだろう。

「そこに置いて」
荷を置く場所を示してから玄関入ってすぐ左にあるスイッチに伸ばした指先に、若宮の大きな手が重なった。振り返る間もなく、後ろから羽交い絞めにされる。咄嗟に肘を食らわせようとしたが、一瞬早く前から回った太い腕に顎を持ち上げられ、そのまま横の壁に鼻先を押し付けられた。
「何のつもりです」
問いを発しようと開いた口に太い指が入り込む。強く噛んでも二本の指は、逃れ出ようとはしなかった。絞り出した僅かな声が唾液を零すまいとする自分の唇に殺されていく。
「わか……」
苦味のする指は、最初こそ荒々しかったもののすぐに優しさをみせ、撫でるように舌表を往来しはじめた。善行は肘を壁につき、体勢を覆そうともがいたが、半ば宙吊りの状態からでは、いくら力を込めたところでたかが知れている。
そうしているうちに利き手を取られ壁に縫い止められ、組合わさった指に湿った熱を感じたところで善行は抵抗をやめた。
「まったく。まず皆の様子くらい聞かせてくれないですかね」
溜め息混じりのぼやきに背後で笑った気配がした。口から抜けた指が、心得たようにシャツの胸元を寛げていく。息が首筋に触れる。
「こういうのが好みだったんですか?」
「そのようです」
聞き覚えのある低く掠れた声に耳の後ろから囁かれ、善行はぞくりとした。

この前に同じ高揚を感じたのはいつのことだ? 慌ただしい出立の記憶を辿り、いやもっと、と数えて我ながらよくと苦笑いが浮かんだ。決して枯れているつもりはない。そうしている間にも、ふつふつと沸き上がりはじめる欲を自覚した。
「奥に、布団が、あります」
理性を振り絞った一言は、幸い若宮に届いたようだ。もつれ合いながら奥の間になだれ込む。買ったばかりの掛け布団の上に俯せに組み敷かれ、今度こそ深く長いくちづけを受けると、もう終わった、と善行は思った。



カーテンを買う時間がとれずに雨戸を締め切っていた。そうして出来た闇の中で、先に半裸になった若宮が、的確に善行の制服を剥がしていく。無駄なくてきぱきと海軍流の手際のよさで。露わになった肩、胸、背中に触れ、撫で、摘むように触れられるたびに、若宮の手の形が己の肌に赤く跡を残す幻覚を善行は視た。餓えを自覚した体は易々と溺れていく。

こんな男だとは知らなかった。
そもそも穏やかな関係など、この男との間にはなかったが、それでも、かつてこれほどに求めたられたことがあっただろうか。
無聊の慰めのほかには理由もない、この行為の中で?



下肢まで素裸にされ狭間へと指が忍び入った。その冷たさに息を詰めて眉間に知らず皺が入ると、力を抜いて下さい、と囁かれて尻をごしごし撫でられた。わかっている、と答えるのが面倒で、悔しさ半分されるがままになる。と、そこへ何かが注がれる感触があって、善行は我ながら意味不明な声を漏らした。
「なに……」
思わず前に置いていた両手を突っ張り、背をぐいと反らして視線を巡らす。玄関口からの僅かな光で見る若宮の、色など欠片もない歪められた表情が、凄みのある陰影として善行の目に焼き付いた。そこから下方に視線を下げたと同時に、善行は思わず呼んでいた。

「若宮」

善行のその驚きの表情を、果たして見たのか、見なかったのか。
若宮は善行の肘を掴み、四つん這いに近づいていた姿勢を腹這いに戻した。がくりとしたところに追い打ちに圧しかかる。蛙のように潰されたところで、腰の奥をさらに深く指が犯したと思うや引き抜かれ、……冷たい異物が打ち込まれた。

固いものが中を探る。指ではない太さのある何か。
感じたことのない違和感。これほどの。
善行は奥歯を噛みしめた。
先の一瞥によって善行は、若宮の強引な行動の理由について理解はした。だがだからといって受け入れる義理はない。そう、腑に落ちないままだというのに、前への愛撫が思考も憤懣も削ぎ落としていく。
好みをよく弁えた五指に粘る何かがたらたらと滴って、まとわりついて、動かされる度に卑猥な音が立つ。善行は滴におかしな色の付いていないことを祈りながら、しかし場所を変えることなど最早考えられなかった。真新しく、親しみがたい匂いのする布団に顔を埋める。それでも足りず、折り皺の残る木綿のカバーに噛みついて声を殺す。

やがて善行は膝をずらし、自分勝手に頂上を探しはじめた。収められた異物に対しての違和感が薄れてくるのと引き替えに、もどかしさが募り出す。呆れ果てた根性だろうが慣れてもいる、この手の暴力の前ではそうでもしなくては自分ばかり損をすることを善行はよく心得ていた。助けられるまでもなく易々と善行は相手の掌の中へ、こもる熱を放ち切った。

顔を横に向けて荒い息を吐き散らしていると、片手で顔を捕らえられる。まるで口だけでできた生き物であるかのように触れ合わせ舌を絡ませて、そうしてしばらくの間、二人でどろりと横たわっていた。



「いいざまですね」
うつ伏せに潰れたまま、片膝を立てて座った若宮の股間にちらりと視線をやって、善行は肩をすくめた。一度見れば十分だ。表面を掠めただけで深いものではない、だがある意味じつに致命的なその傷には、さすがに男として同情を禁じ得ない。
「つまらない事を聞くようですが……痛みましたか?」
「いいえ、それが、何も感じませんでした」
「なにか問題は?」
「用を足すのに不便です。ほかには特にありません」
「ふうん。で、検査というのもこのせいですか」
「はあ、おそらくは」
その器官を失って現れる変化を調べたのだろうか。生殖を行わないクローンに生殖器が残されているのは攻撃本能の維持のためという噂だが。必ずしも必要ないという結論にでもなれば一大事だな、などと無責任なことを思う。

受け答えした若宮の顔には、先ほどまでのどこか悲壮な影はまったく見当たらなくなっている。呆れたような失笑を浮かべて呟いた。
「貴方も、別段問題ないようですな」
「何がです」
「それのことです」
善行はそれの居所に思い至り、追い出そうとしたが上手くいかなかった。べたべたの指をティッシュで拭った若宮が手伝ったが、その間に善行はいやらしい声を何度かあげ、気まずさと可笑しさで双方共に黙り込んだ。出してみると根本に赤い色が付いていて、さすがに若宮は頭を下げたが、善行はうやむやにした。面倒になっていた。
「申し訳ございません。痛みますか」
善行は若宮の気遣わしい声には応えず、それを両手で持って矯めつ眇めつして、まず率直な感想を漏らした。
「ずいぶんとまた、控えめですね」
何が、とはいわずもがなだ。

こんなもので僕が満足するとでも。
いや、させるべき間柄とでも思っているのか。
だとすれば、勘違いも甚だしい。

「たしかに構いませんが……どうせなら、これを貴方が買うところを見たかったですね。どんな顔をして」
悪意を剥き出しにからかって、善行は手の中のものを撫で回した。
「で、あなたのこれは今どこにあるんです」
「阿蘇であります」

日々爆音と砲煙に覆われ、なお緑深いあの草原。黙りこくっている若宮を置き去りに、善行の脳裏にはそれがその名のとおりに根を生やし、そそり立つ光景がぼんやり浮かんだ。そのくらいの生命力はありそうなものだ、なにせ若宮だ。
「それはいい」
善行が完爾としてみせると、若宮は気味が悪いと言わんばかりの渋面を作った。
いい、の意味は、測りかねたようだった。


《劇終》


★20070318 ASIA 同人誌「メメント」より修正の上公開