いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
えひもせす
|
すっかり日暮れたグラウンドを後に、若宮が報告書を携えて隊長室に入ると、善行はいつもと同じようにデスクに向かっていた。
いや、同じではない。
既視感を覚えて、若宮は動きを止めた。
ペンを持つ手を止めて上げられた顔を覆う深い憂いの色に、さらにその感覚は強まった。
*****
もう三年も前のことだ。善行は心神耗弱状態にあるとして、軍病院に留め置かれていた。
鋼鉄製の扉の前で、受付からずっと付いて来た白衣の男性が、面会は10分と機械的に告げる。何度聞いても慣れない、気の滅入る声だった。どうせ看護士とは名ばかりの監視係だろう。そう、忌々しく思いながらノブを回す。
無愛想きわまりないコンクリートに囲まれ、室内は真昼にもかかわらず薄暗い。天井に近い一つきりの窓は、かろうじて初春の空の淡い光が窺えるかどうか、驚くほどの小ささだ。若宮はこの部屋に最初に通されたとき、虜囚の身である主人公が窓に伸びた蔦の葉を心の支えとするという、ある小説の場面を思い出した。全身を疱瘡に覆われ、脚萎えた老境の主人公は、果たして救出されたのだったか、それともそのまま地下牢で朽ちたのだったか。結末の定かな記憶はない。そもそもそのような陰気な話をどこで読んだのか、どう考えても自分の趣味ではなかった。
もっとも今この部屋に幽閉の身である人物は、待遇にはあまり関心を示していない。簡素なデスクに向かうことが、彼の生活のすべてになっている。
はっきりと窶れて、心労を隠せずにいるものの、一見穏やかな顔が上げられて若宮を見た。
「精が出ますね」
若宮は机を横から回り込むと、官製の便箋二冊を机上のスペースに置いた。前の来訪時に頼まれたものである。
「ありがとう。……他にすることがないですから。それに、これでやっと半分です」
机の上には封筒が十数通も山をなしていた。封緘されていないのは検閲にかけるためだ。
彼はずっとここで手紙を書いていた。戦死した兵士の家族宛ての手紙である。他にすることがないというのは確かにそうかもしれない。しかし、寝る間も惜しんで書いていることを若宮は聞いていた。彼の性格からすればやむを得ない話だろうと思う。
戦死した部下のために上官がしてやれる、それは最後の務めなのだった。
「若宮。貴方はこのーー君、判りますか?」
「はい、まあ、顔くらいは。」
「流石ですね」
善行の指が傍らに開いていたファイルの上を辿る。綴られているのは兵士の履歴書だ。証明写真に目をやると、大げさなほどの緊張をあらわにした面皰面には、見覚え以上の記憶があった。若宮は喉の奥で笑った。
「思い出しましたよ。砲丸投げの選手をやっていたという奴です。これが不思議なもので、手榴弾の投擲は、驚くほど下手でした」
その時、めきりと音がした。見れば、善行の手の中でボールペンが二つに折れていた。欠けたプラスチックで傷つけたのだろう、指先に赤い色が付いている。
「お放しください」
若宮は腕を伸ばして、机の上に置かれたままの、重い、彫像から切り取ってきたような手に触れた。固く握った指を開かせ、ほぼ真二つになったペンを捨てさせる。かすり傷と確認してから、若宮は彼の肩に手を手を置いて言い諭した。
「よろしいのです。中尉ともなれば、兵一人一人のことなど知らなくてよろしい。何のために我々下士官がいるのですか、基本的な事です」
俯いたままで、善行は黙って首を振った。ゆっくりと、絶望的に。
「こんなことでは。筆記具の使用も許されなくなりますよ」
「それは僕が自殺するという意味ですか」
「いいえ、……」
「そうじゃないならどういう意味だ。言え、若宮。自殺だって?」
今まで仮面のように静かだった善行の表情が、急に揺らいだ。興奮のあまりに低く掠れる声で。
「死んで詫びれば済むのか、その程度のことか? 答えろ、若宮」
「自殺ということですが。……貴方を陥れようとした連中は、当然それを望んでいるでしょうな。」
若宮はわざと軽く言った。笑みさえ浮かべて、今まで善行の危うい質問を何度となくいなしてきた、忠実で愚直な下士官の声で。
「しかし貴方は決してそのようなことはなさらない。自分は貴方をよく知っております。安易な逃げ道など選ばないと、それは自分が一番よく知っております。貴方は生きるべきです。死んだ部下のために。そうでなくては、彼等が浮かばれません」
じっと黙って聞いた善行はそこで、ため息に交えて答えた。
「貴方のいう通りだ。……貴方はいつも正しい」
強く握られていた両手が解かれ、若宮の手首に掴みかかった。白さと冷たさ、そして容赦のなさが蛇を連想させた。牙の代わりに短すぎるほどに切られた爪が食い込む。
その時、扉を叩く音がした。10分が過ぎていた。
若宮は胸ポケットからペンを出すと机上に置いた。折れた残骸は集めて、血の滲んだ便箋に包む。その端で自分の手についた彼の血を拭いとってから屑篭に入れた。机の下に置かれたその中には、書き損じの便箋が、折りたたまれたり丸められたりして溢れんばかりに入っていた。それらは平生から嘘を憎む善行の吐き損なった、嘘の塊なのだった。
知らぬ顔を貫いて、若宮はドアへ向かった。最後にふりむくと、俯いていた善行がのろのろと顔を上げて若宮を見ていた。
若宮の予想に反して善行は泣いてはいなかった。あの流血の大地で、少女の姿を借りた何者かが幻獣の全てを打ち払い去ったとき、瓦礫の山に登った彼はいつになく怒りと悲しみを顕わに泣いた。滂沱と涙を流し叫んだのだが。しかし今は、青い顔をして、口元を引き結んで、ただそれだけだった。
投函された手紙のうち、届け先不明で戻ったものが何通かあった。加えて、受け取り拒否で戻ったものもいくらかあった。若宮は善行に黙って戻った書簡を処分した。この戦時下に、一通残さず届く方がかえって不自然だと、気づかれぬはずも無いと思ったが、黙って全てを焼却した。
善行は何も尋ねなかったし、何も言わなかった。
*****
善行は今しがたまで書いていた便箋の上に、両手を置いて言った。
「戦士、湧井分隊長を覚えていますか。彼の戦時死亡宣告がなされました」
「そうでしたか」
泣きそうにも見えるどこか情けない笑顔を鮮明に覚えている。いや、忘れるほうがおかしい。
照準を定めながらの苦しげな、必死に祈るような顔つき。血を吐きながら、やはり泣きそうに歪められた口元。とどめを命じる断固とした声。黒々と広がる血溜まり、地の底に打ちつけられる重い音。苔むした石蓋の湿った感触。
「これで遺族には弔慰料が出ます。遺族年金も受け取れるはずです」
丁寧に手紙を封筒に収めながら言った声には、まぎれもない安堵の念がこめられていた。言葉にはしなかったものの若宮が覚えた感情も同じだ。だからこそ善行はそれと伝えたのだろう。
遺体を隠して戻ったあと、月明かりの下で見た善行の頬は、たしかに濡れていた。
短い付き合いだったが、湧井は決して人を平然と殺してのけるような人物ではなかった。そう若宮は思っている。本人の意志にかかわらず、以前から善行を狙っていた何者かに命ぜられて事を起こし、そして失敗した。ただそれだけのことなのだ。
もし善行に同様の命令を受けたなら、自分は黙って従うだろう。
幻獣とのそれを越えた先の争いにも勝ち残り、進む道を、善行が選ぶならば。
黙々と書類に向き合う善行を後にした若宮は、寮へと戻りながら、井戸の底で朽ち果てた骸の姿と、遺品だけの収められた、やけに軽い棺を思った。さらには善行の足元、デスクに隠れてまったく見ることができなかった屑篭のことをふと考えた。
《劇終》
★件の小説は「黒○如水」。20051213 ASIA
|