《ワイルドカード》



若宮は、本人にしてみれば色の付いたレンズで隠しおおせているつもりなのであろう己に対する苛立ちを白い額に靄のように漂わせた上官を前に、思い返していた。
任官までは確かに自分がこの男の行く先を握っていたはずだ。訓練の序盤、生かすも殺すも他人次第の境遇を身をもって理解したときの青ざめた顔を思い出す。あるいは薄暮のグラウンドに突っ伏し埃にまみれた顔。疲れ果て、何一つ思い通りに動かない、と呪った後には悔し涙さえ見せたものだが。
あれは本当にあったことなのだろうか。今となっては疑わしいほどに、遠い。

温度のない声が沈黙を破る。
「定期検診には必ず行くよう言ったはずですが」
「はい」
「どうして行かなかったんです」
「はい、申し訳ございません」
「謝れば済む、そう思っているんですか。それとも僕の指示に不服でも?」
「はい、いいえ。申し訳ございません。後日必ず参ります」
今週中に行きなさい。手続きは僕からします。これは命令です、いいですね」

とりつく島もないとはこのことだ。若宮はついに腹を括らざるを得なかった。いやだとは言えなかった。異動、更迭、戦力外通告……善行はいつでも自分を切り捨てることができる。若宮を戦場から遠ざけることなど小指の先を動かすより簡単な話に違いない。
しかし畢竟手が下されるのは最後の最後になることも、若宮には判っていた。戦況の悪化もあるがそれ以上に、善行が戦闘用クローンというものを理解しているからだ。だからこそデータを欲しがる、タイミングを計るために。

諒と答えて小隊隊長室を辞し、グラウンドに向かう間に、暗黙の了解としてそこまで心得ながら、何故いかにもわかりやすく逆らって見せるのかと、若宮は自問自答して嘆息した。我ながら馬鹿げている、と思ったのだ。
得られるものなど、余計な迷いの種だけだというのに。




ほとんど使う者のない来賓用手洗いの戸を引き開けると、芳香剤の臭いが強烈に鼻をついた。遠くから確かに聞いたはずの水音は今は途絶え、静まり返っている。若宮は確信に満ちて呼んだ。
「ミスター」
この場所でこの時間に彼を見いだすのは三度目だった。苦もなく探し当てる手際を、下士官として最低限の心得と決めつける一方で、若宮はどうにも薄ら寒いものを感じていた。無人の隊長室に踏み込んでからわずか十分、……どうだこの自分の下手な拘りは。

後ろ手に戸を閉めると水音は再開した。張り番がついたものと逆に安心したのか、げえげえ吐き出した背中など見に入るまでもなく、若宮は直立不動で待った。……放っておけばいい。独りで立ち上がる。これ見よがしの忠誠など必要ない。

二三分ほどして、シャツの袖を肘まで捲り上げた善行が奥から姿を見せた。洗面台に向かうと顔を洗い始める。若宮はその肩越しに手を伸ばし、鏡の前に作り付けの棚にポケットから出したものを置いた。先に置かれていた眼鏡の脇で、アルミの包装がこそりと音を立てた。
「薬です」
善行ははっと顔をあげてそれを認め、続けて若宮を見た。目の縁の充血が目に入り憐憫の情が湧き起こる。だが声に表さぬよう用心しながら囁くうち、ごく淡いそれは自らの行為への嫌悪感によってすべて塗りつぶされた。
「胃薬です。強いものですから癖にはなされませんように。いつまで手に入るかわかりません」
善行は何も言わずに錠剤を取って口に入れた。そして眉を動かし、苦い、と呟いた。


水と共に飲み下し、眼鏡をかけ直してから、善行は若宮に向き直って低い声で尋ねた。その指先にはまだ件の抜け殻が挟まれている。
「これは、どこで手に入れたんです」
「ご推察の通りです」
「不明瞭ですね。貴方らしくもない。もう少しわかりやすく言って貰えますか」
問いを乗せて聳やかされた肩に若宮は手を伸ばし、壁に押しつけた。相手が一歩下がったところへさらに力を込め、今までに何度あったかわからない同じような状況で圧する。善行はよろめき、呻いた。支えようと掴んだ手首が、自分の知るいつよりも白いことを嘆かわしく思う。眼鏡の下から覗く眦がわずか潤んでいるのは、もちろん嘔吐のせいだけだろう。若宮はそこへ態とゆっくりと口づけた。

抵抗はなかった。それどころか背を反らして応じる気配さえあった。が、頬骨を下って辿り着いた唇も、舌も、薬と水の臭いばかりして、冷え切って、満足などしようもない。タイルに磔にされ、腕の向きを気の済むように収めることを諦めた顔の善行の眸が、手もなく口腔を犯されながら、同じ温度で若宮を観た。

やがて拘束を解かれた彼は、息を乱したままで尋ねた。
「懐柔のつもりですか」
「何のです」
若宮はとぼけて言った。言いながら落ちかけた眼鏡に目が留まり、正そうと手を伸ばしかけたが、それは本人によって阻まれる。水滴のついたレンズをかけ直した善行の指の先に、彼が背後で縫い合わせている綻びの幻影を若宮はぼんやりと見た。
「まあいい。……薬代には足りましたか」
「いいえ、まだです」
唇に残ったぬるみを拭っていた善行は返事を聞いて動きを止め、口元を窄めた。
「……欲張りますね。ほんとうに、貴方らしくない」
「そうでしょうか」
ふと善行の眼差しの険が増す。
ああ測っている、そう見て取った一瞬後に、善行は腰を落とし拳を固めて、若宮の腹に突きこんできた。それは避ける気を起こさなかった若宮の右腹に当たった。本気で体重を乗せることもできただろう、だが与えるより多く自らの指が傷むと読んだに違いない。なんともつまらない応酬。
それでも打たれた場所に手を当て眉を顰めると、善行は鼻で笑った。
「同情はしませんよ。自業自得です」
吐き捨てて向けた背中、そのやや左へ傾いだ上にもまた、苛立ちが積もるように濃く漂っていた。




若宮は悟った、初めから知られていたのだろう。自分が検診を避けた理由も、薬の出所も。ではすべて判っている上で一体自分に何を白状させたいのかと思う。或いは、判りやすく暇乞いでもするべきなのか。

善行の元にある限りは、彼に教えた通りの神の如く万能の下士官としてあることを願わずにはいられなかった。だからそれが叶わなくなる日が迫った以上は、手を煩わせるまでもない、戦士として望める限り華々しい最期を待つだけだ。
ただ、これが未だ下士官を失ったことのない彼への餞ともなる、というのは出来の悪い建前で、……おそらく自分はただ見せつけたいのだろう。
貴方が、貴方の信頼が自分を滅ぼすのだと。

いったいいつからこんな風になったのか。いずれ求めて手にした切り札ではない、その事実だけが若宮の決心を鈍らせる。

善行は泣くだろうか。
かつて部下を失う度に、赤く泣き腫らした目で現れた彼に苦言を呈し続けた、戦地での朝を思い出す。やはり遠い。

とらまえていた男の体熱が冷めていく感覚を振り払うように。遠ざかる足音を聞きながら、若宮は強く拳を握りしめた。


《劇終》


★20051015 ASIA Comic「Long-goodby」の元ネタです。