展覧会の紹介

   -RED PAITING- コンチネンタルギャラリー(中央区南1西11、コンチネンタルビル地下1階)
8月28日〜9月13日

 あっちゃー、派手な壁紙だなあ。でも「アッカー」と画家本人が叫んでるのが今回の個展のポスターだし、ま、いっか。
 だって、今回はもう赤い絵ばっかし。なんだかよく分からないけど、とにかく赤と黒だけで書かれている絵が多い。絵の具代を節約するためだとは思わないけど、モノクロの絵を、赤い色セロファンのめがねかけて見てるような気がするぞ。
 だいたいさあ、横尾忠則ってアヤシイ感じがするんだよね。オカルト大好きっていうか、死者とかUFOとかにも常人の想像もできない頻度で遭遇してるみたいな。一般の人が言うとやばいけど、まあ横尾さんならぎりぎり許せるかっていうところかな。
 もう自分の好き放題やってるからね。こんなことやったらまずいんじゃないか、とか、世間一般の考えからははずれているんじゃないか、とか、お構いなし。これって、できそうでできないんだよね。ピカソの生き方にあこがれる絵描きはいっぱいいる。でも、それを実践できる人はいない。
 ギャラリーに入ったとき、最初は
「あれ、案外フツーの絵じゃん。公募展にもあるかもしれないタイプ」
って思ったわけ。よく見ると、そうでもなかったけど(笑い)。たださー、横尾さんって、こうしちゃうとフツーの絵になるからやんない、とか、そういう種類の遠慮も、やっぱりないんじゃないかな。
 で、よく見ると普通でなかったという点をふたつほど。
 一つは、小さな人物写真をどっさりコラージュしてキャンバスに貼り付けていること。まーね、コラージュ自体はそれほどめずらしいってわけじゃないかもしんないけどさ、「水の回路」は明治期とおぼしき人々の写真だし、「懐かしい霊魂の会合」はたぶん戦後の人々の顔写真が100以上もちりばめられているわけだ。
 これってさー、横尾さんの絵をほめることになんないかもしんないけどさー、ひとつひとつにそれぞれの物語りが宿ってるわけで、それをひとつひとつ想像していくとすごいことだよねー。でも横尾さんの絵がもってるパワーって、それに負けないようにしようと頑張ってるとこってある。
 もうひとつは文字だよねー。「天ニアルモノヲ見ヨ」なんて、こんな星空は現実にはないっつーの。でもさー、しつこいみたいだけど、絵に文字を入れたらルール違反じゃないんだろーか、なんて、せせっこましいことは考えないんだわさ。やりたいことやってみよーっていう、それはそれで健全な精神だと思うな。

 で、最後にちょっとまじめな話。
 もともとデザイナーとして、ポスターなどに活躍していた横尾忠則が突然「画家宣言」して、タブローの制作を始めたのは1980年代の半ば。時はちょうど「ニューペインティング」ブームの真っ最中だったんだな。それにあおられた部分もおそらくあったんじゃないかと思う。
 まー、今の若い人には想像もつかないかもしんないけど、すでに忘却の彼方に飛び去った(?)ジュリアン・シュナーベルとかジャン=ミッシェル・バスキアとかが美術界ですごく話題になってて、「むつかしくてめんどーなミニマルアートとかは終わり―。これからは勢いのニューエキスプレッショニズムだー」みたいなノーテンキさが蔓延してたんだよな。あの嵐が去って、おそらく明治この方一般大衆の関心がいちばん美術に対して薄くなってる時代になっちゃったんじゃないか、そんな気はしてます。
 まーね、ニューペインティングあるいはニューエキスプレッショニズムなんて画廊がつくりだしたブームみたいなところもあるみたいだから、そのバブルがはじけたことは悪いことではないのかもしれないけど、その後ますます現代美術としての平面ってやることがなくなっちゃった印象があるよね。
 そんな中で、横尾忠則は、初志貫徹っていうか、表現主義的な勢いを忘れずに絵筆を執りつづけているという感じが強い。それは、平面という器が、パッションを盛るには、今もって有効だからではないでしょうか。

 でも個人的には横尾忠則って「腰巻お仙」「細江英公写真展」「新宿泥棒物語」だよなー。もう、ほんっとに「あの時代」って感じがするんだよなあ。
 そこらへんの絵はがきを買ったら、コンチネンタルギャラリーのTさんに
「そういうのを懐かしがって買うのは50代の男性が多いわよねー」
と言われてしまった。
 いーんです。もうおじさんだもーん。

 1936年兵庫県西脇生まれ。道内での個展は初めて。

(ふざけた文体ですいませんでした)

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