展覧会の紹介
小寺真知子彫刻展 | 2002年6月8日〜7月14日 札幌彫刻美術館(中央区宮の森4の12) 6月11日〜21日(小品展) コンチネンタルギャラリー(中央区南1西11、コンチネンタルビル地下1階) 7月20日〜8月4日 芸術ホール(函館市五稜郭町37の8) |
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「これが具象彫刻です」
という、或る道内の彫刻家の讃辞を聞いて、2カ所で開かれていた展覧会に出かけた。
小寺真知子は函館生まれ。道教大を卒業後、1980年にイタリアに移住。ローマ美術アカデミーを卒業し、以後当地で、ギリシア・ローマからイタリアへとつづく彫刻の伝統を受け継ぐ創作活動を続けている。
道内では、92年に洞爺ぐるっと彫刻公園に「太陽の讃歌」が設置されているほか、岩見沢や函館に屋外作品があるが、個展ははじめて。
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人によっていろいろな見方はあるだろうけど、筆者はまず、全体のかたちに心惹かれた。
全体のかたち。腕がどう曲がっているかとか、顔の向きはどうかとか、そういう細部をいったんかっこに入れ、おおまかな形態を見る。
それに着目すると、とてもシンプルで、きりっとしていて、美しいかたちや線が浮かび上がってくる。
そのシンプルさは、たとえばブランクーシの抽象彫刻を思わせるほどだ。
考え抜かれたシンプルな形だからこそ、たとえば「イリス」において、裸婦と、彼女の持つ布のスムーズな曲線が、なんの違和感もなく拮抗し、同居しているのだとおもう。
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モティーフのほとんどは裸婦だ。
ほかに、着衣の女性、裸の男性もあるが、いずれもギリシア・ローマの神話に登場する神々のようだ。裏返して言えば、人間くさいエロティシズムのようなものはあまり発散していない。
といって、造形のための手段として、割り切ってモティーフに採用されているというのでもない。
古代の神殿の列柱を女性たちが支えているように、まるではるか遠い昔からそこにいたかのような自然さをもって存在している。
彼女たちは、いきいきと四肢を伸ばして躍動している。「スケートをする女」は、大きな作品が彫刻美術館に、小品がコンチネンタルギャラリーにあったが、片足をさりげなく前に出しただけで動感が湧き出ている。「踊り子」の連作は、腕や足をいっぱいに伸ばし、周囲の空間をも活性化させている。
しかし、動感をフルに出しながらも、その姿勢にはまったく無理というものが感じられない。ポーズがきわめて自然なのだ。造形のために人体の自然を犠牲にするようなことをしていない。ポーズだけではなく裸婦の造形も、不自然に理想化をほどこすのではなく、もちろんグロテスクなリアリズムでもない、良い意味での中庸さが発揮されている。
どの作品にも漂う、肯定的な明るさはおそらくその無理のなさに由来するのだろう。そこがとてもいい。
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地中海の陽光を思わせる健康的、肯定的な美をたたえた裸婦像を、ひとりの日本人女性がイタリアに渡って創作しているということに、かるいめまいのようなものを感じる。
あるいは、彫刻にくわしいイタリア人が見ればどこかちがうのかもしれないけれど、すくなくてもわたしたちの目から見れば、これはまぎれもなく、西洋の伝統を受け継いだ西洋の彫刻にしか見えない。
西洋人であれば幼少のころから身に付いているであろう文化的素地みたいなものを一から学びなおしたうえで、この水準の作品をつくりえていることに、あらためて感慨をおぼえずにはいられない。
作品を見終わったあとで胸にのこった感触は、たとえば高田博厚や森有正、須賀敦子のエッセーの読後感に似ている。
それは、単身西欧に渡り、彫刻などの造形物に象徴され凝縮されている西洋精神のようなものに、体当たりで対峙しぶつかっていく、その生き方に共通性があるからだと思う。
小寺の彫刻は、西洋との真剣な、果てしなくつづく対峙である。
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そんなむつかしいことをかんがえなくても、トリトンはじゅうぶんかわいかった。