展覧会の紹介

      2002年8月5日−10日
札幌時計台ギャラリー(中央区北1西3)
 
 「廃墟」「廃屋」をテーマに−と言い切ってしまっていいのかどうか、わかりませんが−、絵を描きつづけてきた伊藤さんが、制作・発表を始めてから30年の区切りに、回顧展をひらきました。
 厳密にいうと、1942年生まれの伊藤さんが絵筆をとりはじめたのは、もっと以前です。
 北海道学芸大の特設美術科に在学中から、道展に入選していました。
 卒業後しばらく、教師の仕事に熱中し、あまり真剣に絵に向かわない時期があったといいます。
 「そのころは小樽運河の絵なんて描いていた。2回ほど道展にも落ちて。毎年秋になると、どっか『これじゃいけない』っていう思いが心にあって、30になってやっと腰を据えてかきはじめましたね」
 夕張生まれで、育ちは美流渡(みると。空知管内栗沢町)。しぜんと、モティーフは、そのころ斜陽の時期を迎えつつあった炭鉱の廃屋になったようです。
 伊藤光悦展。手前が「過疎の町『アパート』」いま「しぜんと」と書きましたが、たとえ夕張を描くとしても、石炭労働を称賛の意味合いを含ませて描くか、あるいは石炭そのものをモティーフに構成した絵に向かう―という選択肢だってあったはずです。しかし、伊藤さんが描いたのは、即物的なまでにリアルな、しかし余計な要素をそぎおとした、廃墟になったアパートでした。いいかえれば、声高になにかを主張するという路線とは反対を行ったわけです。
 このほど出した画集の後記には、或る朝何気なく見ていたテレビニュースで、選炭場やアパートが破壊される映像を見て言い知れぬ衝撃を受けたことを回想しています。
その夏、その破壊された閉山跡に立ったとき、寂寥感が胸をつき、しばらくは言葉を失った。眩しすぎる陽光と、お盆の帰省で故郷に立ち寄った人々の嘆息と、確実に残骸を覆い始めた夏草の緑が印象的であった。絵のスタートはここから始まった。
 丹念なうす塗りを重ねていますが、表面に見える色は灰色を中心にごくわずか。空もほとんど単色につぶされています。人間の影はまったくありません(今回の個展の唯一の例外は「過疎地帯『烈』」という76年の作品です)。
 といって、精密な写実が、叙情性を排したわけではなく、たとえば「過ぎ去りし刻」(80年)では、朽ちたいすや、ぼろぼろの壁にうつる樹影が、かつての人間の息遣いや、空気感のようなものを、しずかに伝えています(この、影に対する偏愛とでもいうべきものは、長く伊藤さんの作品にふかみと、しずかなリズムをあたえています。画集の表紙になっている「東階段」にいたっては、ほとんど影だけで成り立っているような絵といえるでしょう)。
 また、「廃屋『室内風景』」(89年)は、壁から剥がされた針のない時計や、8年前のカレンダーといった小道具を効果的につかっています。もちろん、あれこれいろいろなものを画面に入れるようなことはしません。その禁欲性というか簡素さが、かえって、炭鉱閉山の悲しみといったものをつよくうったえていますし、さらに炭鉱などの枠組みをこえて、時間の残酷さ、文明のはかなさのようなものを感じさせます。
 順番が前後しましたが、80年代後半あたりから伊藤さんは、建物の外部ではなく、伊藤光悦個展。中央が「過疎地帯『病棟』」内部を描くようになります。
 「外は薮蚊がひどいし。中はほとんどアトリエみたいなもんだもん。だれもじゃまに来ないし」
と伊藤さんは冗談まじりに言います。そうして生まれたのが、「病棟」などの一連の作品でした。
 コンクリート壁のざらざらしたマティエールにも、磨きがかかってくるころです。
 モティーフにしていた炭鉱の病院などの施設がある日こつぜんと消失したため、残った静物とズリ山風景などを組み合わせた「追憶」などに取り組んだ90年代初頭を経て、90年代半ばには、チェルノブイリ原発事故に触発されたとおぼしき「石棺」(94年)「石棺の街」(95年)などを発表します。
 とりわけ「石棺の街」は、遠景に、コンクリートで固められた巨大な原発を、近景に、人気のない灰色の団地を配し、重厚な文明批評とも、壮大な黙示録ともとれる作品になっています。
 ただし、そういう「文学的」なことばばかりで自作が語られることには、伊藤さんも警戒?しているようです。
 最新シリーズ「AIRPORT」については
「ほかにだれも飛行場を描いているヤツなんていないと思ったというのもあった。でも、なんか描きたいなっていう(単純な思い)のから始まるんだよね。これ(昨年の道展出品作)は、地平線と、(U字型にカーブした)滑走路の形だけを描きたかった」
と、造形面での欲求をまず口にします。
伊藤光悦「AIRPORT」 ところが、最新作の「AIRPORT」(写真)は、たしかに飛行機のない飛行場を描いていることには変わりないのですが、そこにはやはり「廃墟」のような空気が感じられるのです。空港ビルが壊れたり、滑走路に穴が空いたりといった、あからさまに廃墟をさししめす要素がなにひとつえがかれていないにもかかわらず、です。
 おもえば、こんな角度から空港を眺めおろしている写真資料などあるはずもなく(もしこの視点の位置になにか飛んでいたら、それはすでに事故だ!)、きれいに遠近法の整合性のとれた構図をつくるのは並大抵の苦労ではなかったと察せられます。まずなによりも、建造物をきっちり描きながら、それでもなおかつ、伊藤さんの視線は、遠い未来から現在を見るそれになっているあたりが、作者らしいところなのでしょう。
 伊藤さんは、現在という位置から、廃墟を幻視できる目の持ち主なのかもしれません。

 出品作は次のとおり。
 「閉山」(74年。100号) 
 「過疎の街(アパート)(76年)
 「過疎地帯『烈』」(76年。100号)
 「過ぎ去りし刻」(80年。80号) 
 「過疎地帯(病棟U)」(83年。100号)
 「過疎地帯『病棟』」(83年。60号)
 「病棟」(85年。100号)
 「病棟T」(87年。20号)
 「過疎地帯(刻)」(87年。100号)
 「病棟U」(87年。25号)
 「廃屋『室内風景』」(89年。100号)
 「過疎地帯『東窓』」(90年。100号)
 「追憶」(90年、80号)
 「遠い日」(91年、100号)
 「赤い階段」(92年。100号)
 「離島遠望」(92年、100号)
 「SCRAP」(92年、50号)
 「残された風景」(94年、100号)
 「石棺」(94年。150号)
 「石棺の街」(95年。150号)
 「境界線」(98年)
 「東階段」(98年。50号)
 「夜」(98年。50号)
 「駐車場」(99年、50号)
 「AIRPORT」(01年、100号)
 「AIRPORT」(02年、150号)
 「望楼」(02年、6号)
 「街道沿いの風景」(02年。6号)
 
 伊藤さんは北広島在住、二紀展と道展の会員。

表紙へ   つれづれ日録へ    前のページ  次のページ  「展覧会の紹介」さくいんページ