展覧会の紹介

         シ ュ ル レ ア リ ス ト
二人の超現実主義者
福沢一郎と三岸好太郎
2002年9月13日−11月17日
道立三岸好太郎美術館
(中央区北2西14)

 三岸好太郎は、札幌生まれの画家として深いなじみがあります。
 しかし、筆者は、福沢一郎(1898−1992年)については、日本におけるシュルレアリスムの導入者ということは知っており、また東京国立近代美術館で見た「牛」という絵に一種異様な迫力をおぼえていましたが、正直なところそれ以外(以降というべきか)のことはあまりよく分かっていませんでした。
 そこで、本屋さんに行って、福沢一郎について書いた本をさがすことにしました。
 ところが、ほとんどないんですね、これが。
 非官展系ながら文化勲章まで受けた画家です。日経ポケットギャラリーに所収されているかと思ったら、それもありません。
 インターネットで検索もしてみましたが、ある程度まとまった文章や作品紹介があるのは、富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館くらいのようでした。
 


 福沢一郎は群馬県の旧家の生まれ。
 東大文学部にまなびますが、美術への思いやみがたく、朝倉文夫の門に通って彫刻をならいます(同門に、木内克がいました)。そして、関東大震災による東京の惨状を目の当たりにしたことも契機となって、パリに留学します。
 留学前に、新帰朝者の(おっと、これって死語だな。帰国したばかりの、という意味です)劇作家・岸田国士にフランス語を習うあたり、用意周到な人がらをしのばせます。
 彼が渡仏した1924年は、ちょうどアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム第一宣言」を出した年にあたります。
 ただし、いきなりフランスへ行ってシュルレアリスムに飛びついたのではなく、はじめは、キリコや、古典絵画に関心があったようです。
 第一次世界大戦と世界恐慌の間の、つかの間の平和な時代。エコール・ド・パリの画家たちの全盛期でもありました。
 


 このころの日本の美術界で、おもしろい風習だなあと思うのは、特陳という制度です。
 いまの公募展で、ひとりの作家だけ特集してたくさん陳列することなど考えられません。そのぶんだけ落選者が増えるわけで、あまり賛同が得られそうにありません。
 まあ、当時より作品がはるかに大きくなっていることも、特陳がなくなった背景にあると思いますが。
 それより重要なのは、当時の洋画家にとって、洋行というのがいかに大事業であったかということです。
 いまとちがって、飛行機もなく、手軽に西洋美術の本物やカラー図版が見られるわけでもない時代。本人にとっても、社会的にも、西洋美術の本場へ行くということが、たいへんなことであったと推察されます。

 福沢は、1929年、二科展に10点が特陳されました。
 つづく30年には「1930年協会」展に28点、31年には、「1930年協会」の後身と一般的にみなされている独立美術協会展に37点を特陳しました。その中には、今回の展覧会にもならんだ「よき料理人」「寡婦と誘惑」「他人の恋」などがふくまれ、ナンセンスな画風が大反響を巻き起こすのです。
 この特陳の規模は、まさに福沢が滞欧画家で、しかも現地で「サロン・ドートンヌ」入選の実績があったがためではないでしょうか。
 いまでも、デパートの絵画売り場に行くと、洋画家のプロフィールに、××年:欧州旅行などと書いてありますが、この時代のなごりなのかもしれません。

 
 福沢と三岸は、ともに独立美術の創立会員でありました。
 独立美術は、日本風フォービスムの牙城みたいな言われ方をしたこともありましたが、実際にはパリでの人間関係が基礎になってできた団体なので、福沢のような画風の者もいたのです。もっとも、福沢=シュルレアリスム系と、里見勝蔵=フォービスム系の対立が、ほどなく独立美術の内部に激震を巻き起こすことになり、福沢はいくつかの前衛小団体の顧問のような存在を経て独立を脱退、美術文化協会を創立し、独立は福沢を除名するという泥仕合になるのですが。
 この時期のふたりが親しかったことについては、展覧会の図録にも書かれているとおりです。
 近年発見され、今回展示されている福沢の「蝶(習作)」という絵が、三岸の代表作「飛ぶ蝶」に影響をあたえたかもしれないと考えることは、たのしいことです。

 
 ここでいちおう確認しておきたいことは、ふたりとも、自らのことをシュルレアリストと規定したことは、いちどもありません。
 福沢に触発された絵を描いていた時期が短かった三岸はもちろんですが、福沢は生前、繰り返し「じぶんはシュルレアリストではない」という意味の発言をしています。
 それについて、福沢は晩年、ある対談でこう語っています。
 ただ日本へもってきて、それをそのまま移植して、シュールレアリストとして看板をかけて、同じような絵を描くなんてことは、大嫌いなんです。それから抜けてこそ、本当のシュールレアリスムの精神じゃないかと、いつも思っているわけ。
 それが同じ絵を描いて、シュールレアリストと十年一日のように称しているのは、おかしい話で、それは本当にシュールレアリスムのアカデミズムに過ぎない。
   (「みづゑ」933号 福沢一郎+陰里鉄郎「福沢一郎とその作品」)
 自由を愛する画家の面目躍如たる発言です。
 とはいえ、福沢がマックス・エルンストふうに、コラージュの手法を絵画に応用した作品が、今回の展覧会の中心をなしていることは事実です。エルンストや、三岸の「見物客」が、実物の雑誌の写真や挿絵などを切りばりしたのに対し、福沢は油絵で描いたわけですが。また、福沢は、シュルレアリスムの啓蒙書も執筆し、左翼陣営などからの超現実主義批判に対しては果敢に抗弁の筆を執っています。
 「四月馬鹿」にせよ「寡婦と誘惑」にせよ、なにやら意味ありげな光景が描かれていますが、それは単に既成の図像を組み合わせて「不意打ち」の効果を狙っただけで、そこから意味を読み取ることは不可能です。
 ですが、やはり「他人の恋」の前に立つと
「あのサルはいったい何をしているんだろう」
とか
「晴れているのに手前の人物がさしている傘の上に垂れ下がっている黒いひものようなものはなんだろう」
とか
「左上に飛んでいる白い鳥は、なにか意味があるのだろうか」
などと、ついつい考えてしまいます。
 その点では、わかりやすい寓意が込められていて、それが分かればあとは見るべきものがないという絵よりも、はるかに見ごたえのある絵だということができると思います。
 


 もう1点、興味ぶかいことは、この時期の福沢のサインが、絵によってばらばらなことです。
 「他人の恋」には
 I.FOUK 福沢 30
 「嘘発見器」には
 福 30
 「科学美を盲目にする」には
 I.FUKUZ.−30
 「寡婦と誘惑」には
 FUKUZAWA−30
 「よき料理人」には
 ふくざわ−30
とあります。
 これについてなにか書かれた文献を発見することはできませんでしたが、とくに画風と平行関係があるとも思われません。複数の自分を演じてあそんでいたのかもしれませんが、ほんとうのところはどうなんでしょう。
 


 さて、福沢がシュルレアリスムの絵画を精力的に描いていたのは、30年前後のみじかい時期だけで、その後は諷刺や世相揶揄をまじえた画風に転換していくようですが、じつは30年代の作品は意外とのこされていないので、あまり確定的なことはいえないようです。
 「戦中、戦後にかけて主題性、象徴性を前面に押し出したモニュメンタルな人間群像へ向かうことになる」(図録の苫名真「福沢一郎と三岸好太郎のシュルレアリスム」)
 そして、前述の通り、39年に独立美術を脱退して、美術文化協会を、事実上の指導者として旗揚げし、翌40年に第1回展をひらいています。しかし、41年春には、治安維持法の嫌疑で、シュルレアリスムの日本における理論的支柱であった滝口修造につづいて、逮捕されています。
 この逮捕は、絵描きたちにはかなりの衝撃だったようです。美術文化協会展も、首領の不在で、のこされた若手から
「展覧会を中止すべきでは」
との声もあったほどで、重苦しい空気につつまれました。左翼の芸術家たちへの弾圧は30年代前半にはほぼ済んでいましたが、べつに政府や戦争を批判しているわけではない画家たちは安全圏だという共通認識がありました。
 ところが、シュルレアリスムは共産主義とつながっていると言われて拘束されてしまったのです。たしかに、ブルトンは一時期フランス共産党に入党していた時期もあり、両者がまったく無関係というわけではないのですが、すくなくても日本ではほとんど関係がなく、福沢は取り調べで「共産主義とのつながりを述べよ」と特高にせまられて閉口したようです。
 福沢は「証拠不十分」として、半年後に釈放されます。その直後、日本は米国などに宣戦布告します。世事にとかくうとい画家たちも、積極的に戦争に加担せざるを得なくなっていきます。福沢も、翌42年の美術文化展には、海戦を描いた「狂乱のエグゼター」を出品します。

 しかし、福沢は戦後の立ち直りも早かったようで、まだ疎開先の軽井沢に住んでいた45年11月1−5日には、なんとか焼け残った銀座の日動画廊で「美術文化協会自由新作展」を開いて「秋」を出品、同14−18日には、おなじく日動画廊で個展を開き「他人の恋」「無敵の力」など旧作をならべています。案内状に福沢は
「この展覧会は回顧の意味を持たない。むしろ一つの抗議として世の批判を仰がんとするものだ。これらの作品の故に当局は私を共産主義者と断定し拘禁した」
と書いています。
 戦後の作品として、ダンテの「神曲」をモティーフにした連作から1点、それに「虚脱」という絵が出ています。たしかにこれらの絵は、戦後の混乱と虚脱感に非常にシンクロしているように思われます。

 1950年には2カ月にわたり道内を旅行し、「道東風物展」と題した個展もひらいています。
 まだ開発の波がおよんでいない北海道の大地をこの画家がどう見たのかはたいへん興味がありますが、今回の展覧会では、三岸好太郎と直接関係がなく、時代がことなることもあってまったくふれられていません。


 最後に、三岸についてもかんたんにふれておきます。
 この美術館には何度も来ていますが、そのたびに未見の作品があるのがうれしいところです。
 今回は、「崖ノ風景」「我孫子風景」といった、あまりシュルレアリスムとは関係のない風景画が目に入りました。
 これらの絵の、自然をまっすぐに見る視線に、岸田劉生と似たものを感じるのは、筆者だけだろうか。


 ※この稿を書くにあたり、図録のほかに以下の文献を参考にしました。記して感謝します。
  • 瀧悌三著、日動画廊編「日本の洋画界七十年 画家と画商の物語」(日経事業出版社)
  • 匠秀夫著「物語 昭和洋画壇史 U “生きている画家たち”−閉塞の時代 1934〜1945」(形文社)
  • 瀬木慎一著「現代美術のパイオニア 黎明期の群像」(美術公論社)
  • 宇佐美承著「池袋モンパルナス」(集英社文庫)
  • 田中穣著「日本洋画の人脈」(新潮社)
  • 土方定一著「日本の近代美術」(岩波新書)
  • 中村義一著「続日本近代美術論争史」(求龍堂)
  • 「みづゑ」933号 福沢一郎+陰里鉄郎「福沢一郎とその作品」(美術出版社)

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