展覧会の紹介

A C T 5 2002年7月29日−8月3日
札幌時計台ギャラリー(中央区北1西3)
8月16日−22日
だて歴史の杜カルチャーセンターあけぼの(伊達市松ヶ枝町34の1)
8月24日−30日
鹿追町民ホール(十勝管内鹿追町東3)
(敬称略) 
 怠慢により、執筆がきわめておくれたことをまずおわびいたします。


 ACT5は、木村富秋(札幌)、福井路可(室蘭)、森弘志(十勝管内新得町)、矢元政行(登別)、輪島進一(小樽)の5氏により結成されたばかりのグループ。いずれも、道内を代表する中堅の画家だ。
 正確には、森をのぞく4人が「ACT4」と題したグループ展を函館で開いたことがある(2000年)。
 なお、5人とも全道展の会員だが、それはたまたまであって、べつだん、全道展だけが北海道の現代絵画を代表しているということではないだろう。


 いま、筆者は現代絵画、と書いた。
 実際には「現代美術」の世界では、ニューインプレッショニズム(ニューペインティング)の退潮以降、絵画はじつに不人気のように見える。映像や写真、インスタレーションが、すっかり絵画をおしのけてしまったかのようだ。

 これが一時的な傾向なのか、あるいは永続的なものなのかはわからない。ただし、ニューペインティングにおける絵画の一時的復活が、おそらくはマーケティング的な要請を背景に持っていたのに対し、その後各国で国際現代美術展が増加し、旧来の画商や作品売買とは別のところで「アートワールド」が成立しつつある現況を見るかぎりでは、ふたたび絵画が現代美術の最前線に立つ可能性はかならずしも高くないと考えられる(だれか反論してください)。

 しかし、米国の抽象表現主義からミニマルアートを頂点とするモダンアートが終焉し、芸術がそのジャンル内で自足する純粋化の時代から、ふたたび芸術以外の世界との交通が重要な芸術の要素になってきていることを考えると、「表象」という観点では、インスタレーションだろうと絵画だろうと映像だろうと、おんなじことではないかと筆者は愚考するのである(書いていてあんまし自信ないな。だれか反論してください)。


 では、こういう時代に絵画を描きつづける理由ってなんだろう。
 そのような、いわばメタ的な問題意識を多かれ少なかれ持ちながら、ACT5のメンバーは絵筆を執りつづけているんじゃないだろうか。


 福井路可(るか)は、ほとんどマチエールだけで画面を成立させようとしているかのように見える。
 絵の具以外に、板を貼るなどして、物質の素材感を全面に出そうとしている。
 しかしそれは、技法とたわむれているのではないだろう。絵の具だけで画面をつくるよりも、人間、風、雨、大地といった、それ自体では表象しづらいものを、目に見やすくできるのではないかという思いがこめられているのだろうと思う。
 今回「夜の海、明日の雨」と題された作品が2点出品されている。夜の海も、明日の雨も、人は目で認知することはできまい。しかし、五感すべてと、予想する力を動員すれば、感知することはできるだろう。福井の絵は、そのようなこころみのように、筆者には思われる。


 森は、昨年全道展に出品した「浦安市舞浜1丁目1番地」という絵(今回も出品されている)から、おびただしい数の文字を画面上部に導入している。
 この作品では、際立った描写力を生かして、ディズニーランドで食事をする若い女性を描いている。文字のほうは、モデルになった女性らしいOLのひとりごとみたいな内容で、これだけ整った活字みたいな文字を書くほうもつかれるだろうけど、読むほうもけっこうつかれる。
 どうやら、作者は
「絵によるスナップ」
というとほうもない実験にとりかかっているようだ。それは、裸婦とか、凡庸な風景とか、静物をあれこれ組み合わせてこしらえた室内空間といった題材に近代の具象画がとらわれているうちに(というか、モダンの絵画では、題材なんてものはあまり重要ではなかったのだ)、乖離してしまった現実の生活と絵との接点をふたたび模索しようというこころみでもあるのだろう。


 矢元のつくりだす世界は、ブリューゲルやボッスと共通するものがある。
 人間の愚行。偉大さ。変わらなさ。変化。
 おびただしい人物をえがくことで、そういったものすべてをのみこんだ画幅をつくろうというねらいがこめられているのだろう。
 奇抜な建造物、それをめぐるループ、あちこちから噴出する蒸気といった「スチームパンク」的な小道具は、絵の世界をある特定の時代や地方に属させるのではなく、むしろ「どこにもない世界」を現出させることによって、人間社会の普遍性を暴くことに資するであろうとおもう。


 輪島は、独立美術の会員になったころ、それまでの画風をいったん放棄してモノクロームの絵を描いたり、小樽運河の風景をモティーフにするなどして、周囲をおどろかせたが、それらの試行錯誤はとりあえず、昨年の記念碑的大作「夜明けの微風」に結実したものとみてよいのではないか。
 窓外に広がる巨大都市の風景。高層フロアでヘッドフォンを装着したままコンピュータのキーを叩き続ける人物…。
 まさに「現代」としか形容しようのない光景を輪島が描いたのには、彼が認知や脳のしくみに執拗な関心を寄せているという背景も手伝っているだろう。なぜなら、都市こそは、脳の産物であるからだ。
 そうして俯瞰気味に描かれる都市風景は、通り一遍の社会的な批判というよりむしろ、 極端に人工的な世界で暮らさざるを得ないわたしたちの時代の病理をしずかに深くえぐるという意味合いを持つものになるのではなかろうか。


 こうして見てくると、もうしわけないが、木村の絵が例外的に見えてくる。良し悪しはべつにして、彼はなお、モダニスム的な判断にそって絵画を構築しているように、筆者には感じられてくるのだ。
 つまり、この線はどうの、構図はどうのということがいちばん重視される世界である。 
 彼も、描写力や色彩感覚は抜群であり、絵を見ることの悦楽を感じさせてくれることはまちがいないのだが、しかし、絵の外の世界とどう切り結んでいこうとしているのかが、もうひとつ筆者には見えてこないのである。
 もっとも、これはたんに筆者がぼんくらゆえのことともかんがえられる。というより、ここでちょっとずるいまとめをさせてもらえば、5人とも或る地点で作風を固定することなくさまざまな実験に取り組んでいるからこそ5人たりえたのであり、彼らの絵を見るという体験がスリリングなものでありえるのだと思う。ということであれば、その絵を批評するという行為も、けっして完結しない、未完の行為でしかありえないであろう。


 というわけで、この文章は「つづく」のである。
     

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