展覧会の紹介

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金澤靜司写真展「神々のいる岬 第2章」 2月2日(金)〜14日(水)
富士フォトサロン札幌(北3西4)
 絵画の世界では実によく取り上げられる題材というものがあって、道内の風景画では、小樽運河、道庁赤れんが庁舎というのは、見ているほうとしてはいいかげん食傷気味というのが正直なところ。一方、写真の世界でも、タンチョウとか富良野の丘とかは撮影する人が大勢おり、別に何をやろうと勝手なのかもしれまないが私には他人と同じ被写体を同じように撮って面白がるという心理からして理解できかねている。
 ところが、この写真展で撮影対象になっている積丹海岸の神威岬は、絵画の題材としてはよく取り上げられているし、観光地として知られているけれども、風景写真のテーマとして取り組んでいる人は意外と少ないように思う。小樽の写真家が1992年から通い詰めただけあって、一つの岬とは思えないほど多彩な作品が並んでいる。
 筆者が感心したのは、中判カメラならではの画質の高さだ。現地は強風だろうし、遠くまでピントを合わせるためいきおいFを絞るだろうし、高感度フィルムは使えないだろうし……と考えていくと、とてもスナップのように気軽には撮れず、重たい機材でじっくり撮影したんだろうなあ、スローシャッターで風が吹いてダメになったショットもあるんだろうなあなどと想像されてくる。撮影ポイント探しひとつとってみても、この写真家の並大抵でない苦労が伝わってくるのだ。
 画面は、素直に「美しい」と言えるものばかりだ。
 吹雪。
 短い夏。
 エゾカンゾウの黄色い花。
 漁民の網はずし。
 たそがれ時の舟の灯り。
 魚眼レンズでとらえた蓮氷…(ハッセルブラッドの魚眼は珍しいですね)。
 一つだけ挙げるなら、岬より陸地側に沈んだ雄大な日没の写真。スケール感を表現して一部の隙もない。
 北海道の風景写真は総体的にクリシェに陥りがちであるが、粘り腰で探せば、まだまだ美しい風景は残っているということが実感できた。
 余計なキャプションがないことにも好感をもった。

北海道教育大学札幌校美術科卒業生制作展
      〃   大学院美術教育専修修了制作展           (札幌・岩見沢校)
     

2月5日(月)〜10日(土)
札幌時計台ギャラリー(北1西3)
 卒業した学校名で個人を判断したり評価したりするのはとてもくだらないことだけど、とりあえず道内の美術シーンで活躍中の人たちの半数以上が道教大の出身者であることは否定できない事実だし、これからアーティストを目指して活動を続けていくであろう若い人たちの傾向などをおおづかみでみるには、この卒業展が良い機会であることはまちがいないと思う。
 ついでに言うと、専攻とか研究室で分けちゃうのもくだらないことかもしれないけど、それでもごく大ざっぱに言っちゃうと、木材工芸研究室の人がいちばん常識的な(?)木工のいすとかを造っていて、あとの専攻はいい意味でてんでばらばらですね。(吉本亜矢さんの4個組のいす「リズム」は、すぐにでも商品化できそうなほどすぐれたデザインだと思いました。ちょっと重過ぎるけどね)
 油彩では、個人的に、富士本麻子さんの「夜に」にひかれました。なんということのない夜のカーディーラーなど都会の風景なのですが、こういう絵をかく人って少ないですよね。久野志乃さんの6枚組み「Clouds」は、洗面台に頭を突っ込む半裸の女や外を歩く二人の男などが描かれ、なんだかデイビット・サーレふうですが、スナップ写真を思わせるすばやいタッチが可能性を感じさせます。宮嶋宏美さんは図録に載っているプロジェクトが面白そうなのですが、これはいったいなんだったんでしょう。気になる!
 日本画では、大谷泉さんの「無魔」は、黒い地に、丸や四角の模様、目玉を思わせる模様(すっげーどーでもいい話で恐縮ですが『エヴァ』の第10使徒に似てる)などが独特です。
 デザインは完成度の高い作品が目立ちました。河原大さんの「自在時代」はクレイアニメとしては申し分のない出来です。1本の棒がベンチになったり新聞紙になったりマフラーになったりバス停になったりするのが愉快。遠藤香織さんの電球を使ったインスタレーションは出色で、心に染み入りました。三宅泰子さんは写真に凝っているようですね。「Nobody Knows moods in my eyse」は大きな金属の立体で、72枚の写真が組み込まれています。壁や空を撮ったさりげない写真の展示設備のわりにはずいぶん大掛かりですが……。 
 さて、大学院は、やたら遠近法(の不自然さ?)を強調した日本画をかく朝地信中尾峰「埋め立て式」介さん、電子立体鏡なるものを出品した川村徹さん、平面の中尾峰さん、木工の原祐輔さんの4人です。右の写真は中尾さんの平面組作品「埋め立て式」。小さなパネルの写真は自分で撮ったのではなく、住宅雑誌をカラーコピーしてそのトナー部分だけを転写したものだそうです。そのためいくらか転写漏れがあり、かえって独特の味を出しています。グラビア印刷写真らしいいささかどぎつい色彩が、それまでその土地が持っていた緩やかな起伏とさまざまな歴史をチャラにして建っている建売住宅の空虚とでもいうべきものを示しているように感じました。新開地あいの里に通う学生ならではの作品と言えるかもしれません。
 ところで会場に置いてあったDMによると、出田郷さんは大学で卒業展をやるらしいし、白戸麻衣さんはフリースペース・プラハで、なんだか昨年卒業した志田実恵さんみたいなグループ展をやるとのことです。プラハはいいけど、教育大は遠いよなあ。

北星女子高等学校美術部 第38回

はしどい展

1月30日(火)〜2月4日(日)
札幌市資料館(大通西13)
 つれづれ日録で触れたけど、小生がこのはしどい展の記事につけた見出しは
  青春の熱い筆遣い
であった。
 ちょっとクサイかもしれない。
 でも、若々しさという点で、北星女子高のはしどい展をしのぐ展覧会はあんまりないんじゃないかと、毎年見てて思う。
 何がイイかって、各自かきたいものがはっきりしていて、それを一生懸命にかいているということだ。
 技術的には未熟である。でも、どれも、ひとりひとりが心の中を見つめ、自分というものをキャンバスに出そうとがんばっている。熱っぽさが伝わってくる。
 「どうかくか」ということばかりにとらわれて、「何をかくか」がおろそかになっている大人たちにも見てほしいと思う。

 上の写真の、左の絵は、佐藤照美さん「解放と望み」。
 もげた翼。縛られた両手。キャンバス全面に激しく躍る色彩。
 絵の具の使い方なんて、まだまだだけど、エネルギーがこれほどまでにほとばしった絵は、そうそうかけるもんじゃないと思う。
 下の写真は、森田愛さんの「ハンス」「少年の日の思い出」「A New Chinese Left」(左から)。
 「少年…」は、マチエールが凝っている。
 「A New Chinese Left」は、正しくは「A New LeftChinese」じゃないかと思うんだけど、それはさておき、どうして中国の新左翼なんて、いまどきの女子高校生が思いつくんだろう。絵は中国っぽい若者3人の肖像だけど、発想がすごく面白いと思う。

佐藤照美「解放と望み」など

はしどい展 森田愛作品

 新聞にカラー写真が出てたのは佐藤加奈子さん「幻想」。赤や青が躍り、おもちゃの汽車が走る画面はすごくカラフル。せっかくだから、筆の痕跡が残らないような、きれいな塗り方にすると、もっとポップでよかったと思う。
 武田亜矢子さん「波動」は、画面をびっしり植物や器械みたいな模様で埋め尽くしたユニークなモノクロ作品。熊谷和恵さん「The End」は悪魔がモチーフ。不安がにじみ出ている。佐藤綾さん「二人の女」はどっしりしたとらえ方に人間の感情が透けて見える。中嶋夕紀さん「夢・希望・無謀」も、若さが出ていて面白い。
 日野光咲さんは「舞人」「バレエダンサー」と、踊る人に自分の思いを託している。
 ほかに、佐藤加奈子さん「flow」「飛翔」、高野寛子さん「自然と破壊」「階梯」「樹」、鷹田香吏さん「SEASON」「哀愛」「天上界の人々」、佐藤照美さん「清音」、佐藤友香さん「光道」、板井梨絵さん「箱庭からの逃避」「都会の中の孤高」、十河友香里さん「waltz」、丹羽絵里香さん「空中都市」などが出品されています。

 確かめたわけじゃないけど、高校生がどんどん100号クラスの絵をかいて発表するのは、北海道の特色らしいという話をきいた。
 みんなには、今後も自由に筆をふるってほしいと思った。
 少なくても「アンダー23」よりは、ずっと見ごたえがあった。


ふくらめる湿度 1月30日(火)〜2月4日(日)
This is gallery(南3東1)

 小林麻美の作品昨年突然、創生川沿いに出現し、なぜか道教育大生の発表のメッカと化しつつあるThis is gallery。今回の二人展も教育大3年の小林麻美、2年の菅原朋子によるもの。
 小林は、平面6点。ワックスペーパーにクレパスや絵の具で彩色した。団地群、ガスタンク、2階建のアパートといったモチーフが漠然とした筆致で描き出された、一種の風景画だが、小林にいわせると、風景画というより、空間を描きたかったのだという。団地や町並みのような影を描きいれることにより、空間に広がりが出てくるという。抽象画では、その広がりが出せないのだとも。
 ふうむ。表象としてではなく、道具の一種としての風景。ともかく、荒れた画面からは、風景画が一般的に成立しない風景から風景画の原初的なものが立ち上がってくる瞬間を感じる。それは例えば、大西みつぐや森山大道の風景とどこか共通しているような気もする(考えすぎかな?)

菅原朋子の作品 菅原の作品は全然違って、縦数センチのコラージュを延々数メートルにわたって壁面に展開したもの。絵巻物や絵本の挿絵を思い出させるつくりで、少女たちが並んだりばらばらになったり、物語性を感じる。といってもそれは、ストーリーが明示されているわけではなく、鑑賞者にゆだねられているのだけれども。
 コラージュのようで、実は本人がペンでかいた絵だったりして、作品の展開に沿って細かく読み取ってゆく楽しさのある作品。そりゃそうと、右の写真はピンが甘いですね。すいません。

 つい先日評者は「若者よ、もっと大きい作品をつくれ」とわめきましたが、こういうのは小さいほうがいいかも。といって、手作業の細かさで完結してしまわないような作品づくりを、二人には今後も求めたいものであります。

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春陽会道作家展(絵画部)

1月22日(月)〜27日(土)
札幌時計台ギャラリーA、B、C室

 全国公募展はやたらとたくさんあるけれど、毎年きちっと道内展をやっているところはそれほど多くない。春陽会は、講評会も毎回行っているし、熱心なのだ。今年は、37人が油彩54点を出品。ほとんどが100号以上の大作で、廊下にまで作品がはみ出すほどの、力の入りようだ。

折登朱実、谷口一芳、宮西詔路の作品 まずは会員から。
 右は宮西詔路さん「馬」。輪郭のあいまいな、大まかな形態の馬を描き続けてきた宮西さん。若干、マチエールに凹凸ができてたような気がする。

 中央は谷口一芳さん「梟の園」。谷口さんもフクロウをモチーフにして久しい。近年は、フクロウが浮き彫りされたような巨大な岩など、空想的な風景を現出させ、スケール感の大きな絵画世界を構築している。

 左は折登朱実さん「水蒸気」。折登さんは、風景や静物そのものよりも、それらを取り巻く空気感のようなものを表現しようとして、その結果、モチーフがほとんど白い地に溶け合い、濃い霧のような作品を描いてきた。今回は、画面のところどころに黒い線を入れることで、見分けがつかなくなることをぎりぎりで回避したような趣があるが、これからかきたされていくかもしれないし、どう展開するか見守りたいところだ。  

八木伸子、安田完の作品 中央は八木伸子さん「野の記憶」。近年の作品と同様、ややピンクがかった白い地に、野の草花を描いている。書(カリグラフィ)を思わせる大胆で的確な黒い線は、さりげなく茎を描いたものだが、西洋の真似でもなく単純な日本的伝統回帰でもない、独自の油絵を作り出そうという彼女の苦闘ぶりがしのばれて、思わずいずまいを正したくなる。

 右は安田完さん「磔刑」。安田さんは近年画風を一変させた人で、以前は、縄で縛られて朽ちかけたマネキン人形をモチーフに、生の苦しみをにじませた絵を制作していたが、マネキンの崩壊が進んで98年ごろには明るい砂漠の中に人形の破片が残るだけになってしまっていた。その後「最後の晩餐」などキリスト教のよく知られた場面を、ややマンガ的な明るいタッチで描くようになったが、今回はかなり暗い。イエスら3人は黒く塗られ、周囲には、矢印やしゃれこうべなどが挿入されている。やはり安田さんの絵は、哲学的な重みを担ってしまう宿命なのだろうか…。

 会友は11人。このうち友井勝章さん(鵡川)の変貌が目に付いた。
 前景の人物、後景の風景という組み合わせは似ているが、これまでは必ずといっていいほどコンクリートブロックや護岸が描かれていて「うーむ、さすが建設会社」などとくだらない感心をしていたのだが、今回の「祭りのあと」「伝説の湖」はいずれも、手前は塗りの跡を残した芝生や人物、背景は全く平坦に塗りつぶされた空となっている。空に浮かんだ月の周囲には、チューブからそのまま出したような白い雲が漂っている。なんだか上半分と下半分が違う絵のようだ。統一感の無さに否定的な人もいるだろうけど、小生はこれはこれでオモシロイんじゃないかと思う。
 あとは、これまで追求してきたモチーフをより深く……という人が多い。飯田辰夫さん(函館)の存在感ある巻胴(船を陸上に引っ張る器械)、石畑靖司さん(同)の横浜美術館、高野弘子さん(同)のドラムセット、中井孝光さん(札幌)の白っぽい西洋の古い町並み、新出リヱ子さん(同)の枯れたヒマワリ、西田四郎さん(同)のほっちゃれ等々。西田さんは、隠し味として水色をよく使ってきているが、最近は緑など幅が広がっているよう。それでいて、画面の統一感は失われていない。
 安達ヒサさん(旭川)の「スプリング・シャドウ(1)」「スプリング・シャドウ(2)」は、ちょっと見ると通り過ぎてしまいそうな地味な抽象画だが、よく見ると、灰色と有彩色の重なり具合などに面白みを感じた。

 一般では、片野美佐子さん(函館)「建物」の、たっぷりとしたモチーフの捉え方に好感を持った。ぱっと見では、明度の差をもっと強調したほうがいいように思うが、全体のトーンが変わってしまうのでへたなことはいわないほうがいいですね。

 会員以外の出品作は以下の通り。
 飯田辰夫「海辺の巻胴」 石畑靖司「ミュゼY-15」 崎山和子「湿地 白月-1」「同2」 高野弘子「集積」「残響」 友井勝章「祭りのあと」「伝説の湖」 中井孝光「屋根並(T)」「屋根並(U)」 新出リヱ子「種・種・種」「播くために」 西田四郎「目の無い鮭」「同」 山形和子(函館)「市の女」「転生」 米沢史子(同)「古城」
 荒川敬子(札幌)「城-A」「城-B」 居島恵美子(苫小牧)「交叉する韻」 大塚富雄(函館)「焼却炉’00-3」 奥田順子(上磯)「工場」「工場」 小黒雅子(函館)「街」 小原敦美(森)「冬林A」「冬林B」 加藤薫(札幌)「Where」「Wher」 川真田美智子(函館)「白い建物」 斉藤啓子(新得)「すべては風の中」 佐藤愛子(函館)「MASK」 佐藤かずえ(札幌)「仕事場」「明るい路へ」 柴田郁子(釧路)「石門」 高田裕子(函館)「自然の造形」 土門健二(札幌)「南瓜と鬼灯」 吉本勝子(函館)「転生」 渡辺洋(深川)「鳥は鳥と分かれて」「パッサカリア」
江端康子(函館)「立冬」 川股正子(同)「鳥来る日」「鳥来る日」 佐藤史奈(札幌)「氷る海」「白い使者」 目時智子(同)「風景T」「風景U」 山本周子(同)「旅立ち」「想」

2002年  2003年  

春陽会とは…(簡単な紹介を書いてみました)


 春陽会というのは、ゴールデンウィーク頃の東京都美術館で開かれる公募展のうちで、国展と並ぶ有力公募展だとされています。絵画と版画の2部があります。絵画部は、いまはあまりスターはいませんが、写実一辺倒とか、抽象が大半とか、そういう偏りの少ない、いかにも絵の展覧会らしい絵を描く人が多い、堅実な団体という感じがします。

 公募展のなかでは1922年(大正11年)発足と歴史も古いほうで、創立時のメンバーには小杉未醒、梅原龍三郎、山本鼎、石井鶴三、木村荘八、岸田劉生、中川一政、山崎省三、萬鉄五郎、倉田白羊らがいます。岡鹿之助も会員でした。

 現在、道内には、札幌の八木伸子さん、谷口一芳さん、折登朱実さん、函館の宮西詔路さん、美幌の安田完さんの5人の会員がいます。このうち八木さん、谷口さん、宮西さんは全道展会員、安田さんは道展会員です。

 また、首都圏在住の北海道ゆかりの会員として、全道展創立会員の小川マリさんが今なお健筆をふるっているほか、岸葉子さんがいます。故人では、小川さんの夫の三雲祥之助、昨秋に亡くなった田辺謙輔さん、95年没の菱和子さん、96年に長逝した根室出身の青山義雄さんが挙げられます。

 北海道ゆかりといえば、版画部のほうがそろっているかもしれません。北岡文雄、大井戸百合子、尾崎志郎、佐野敏夫、渋谷栄一の各氏は全道展会員で、札幌の府川誠さんも会員。以前は渡会純价さん、金澤一彦さん、艾澤詳子さんも会員でした。

春陽会ホームページへのリンク



「議事堂を梱包する」ちらし

議事堂を梱包する

1996年仏、ヴォルフラム・ヒッセン&ヨルク・ダニエル・ヒッセン監督)

シアターキノ(札幌) 26日まで、午後8時45分から


 展覧会じゃないけど、映画のコーナーがないので、ここで書かせてもらいます。

 筆者は、クリスト&ジャンヌ=クロードの作品を、写真でしか見たことがなかった。この映画で初めて、議事堂を包んだ布が風で緩やかに動くようすを見ることができた。そこには、写真では分からない感動があった。

 写真で分からないことといえば、実際に布を設営する作業風景もそのひとつ。屋上に上った人たちが巻かれた布を注意深く壁へと下ろしていく。ビルの窓拭きのように命綱で垂れ下がった多くの人たちがそろそろと布を地上へとさげていく。こうしたプロセスは、映画ならではの迫力というか、醍醐味だ。

 最初は、クリスト&ジャンヌ=クロードのことを全く知らない人がこの映画を見ても、意味がわかるのかなという心配はあった。確かに、二人のことを知ってたほうが楽しめるに違いないだろうが、あまり知らなくい人でも、壮大なプロジェクトが、24年という歳月を費やして少しずつ形になっていくのを見るのは、興味深いことじゃないかと思う。

 たしかに、壮大ではあるんだけど、よーく考えるとばかばかしいというか無意味な所業である。使った布は100000平米、携わった人は1400人あまり。でも、意味は、と言われると、ない。作者に「見たいんだ」と返される。
 しかし、カタログで森村泰昌氏が書いていたとおり、およそ芸術には意味なんてものはない。昔のサルトルの議論じゃないけど、意味がないからこそ、偉大なのだと思う。

 クリスト&ジャンヌ=クロードにとっては、たった2週間だけ現前する「梱包された議事堂」や、それに関するドローイングなどはもちろんのこと、その2週間にいたるすべてのプロセスが芸術なんだと思う。 
 そして、そのプロセスは、ほんとに「民主主義的」である。
 ドイツ連邦議員の説得。
 関係者との話し合いや打ち合わせ。
 子どもたちや市民の前での講演。
 議会での討論。
 すごくめんどうくさいことだけど、そしてクリスト自身も映画の中で「もう議論はたくさんだ」とこぼしていたこともあったけど、民主主義に必要なコミュニケーションの手段なのだ。
 この映画は、そういうコミュニケーションの現場を数多くとらえているのが、とても印象に残る。図版や解説テキストだけでは、どんな議論や説得が行われているのかは分からないし。

 ただし、最後に、自戒を込めて書いておきたいんだけど、たしかに映画は、クリスト&ジャンヌ=クロードの芸術を理解するのにきっとすごく役立つんだろうけど、でもやっぱり本物にはかなわないんだろうなあという、当たり前の感想は残ってしまった。
「ああ、あの場に行きたかった。旧議事堂前で、祝祭的な空気に包まれたかった」
とあらためて思った。(大方の日本人にとって1995年の初夏は、それどころではなかったんだけど)
 もうひとつ、本物にはかなわないという文脈で書くと、この映画の冒頭、1980年にクリストたちが旧議事堂を見に訪れる際、ベルリンは雪が積もっていたのだけど、それが全然雪に見えないんだな。劇映画、たとえば黒澤明監督「生きる」でも相米慎二監督「雪の断章・情熱」でもなんでもいいけど、その中で雪を雪らしく見せようと思ったら、本物の雪をただ映すだけではだめで、かなりの工夫を加えなくてはだめだし、同様に、旧議事堂での作業の初日に激しい雨が降って作業が中断する場面があるけれど、あれほどの雨なのに劇映画に比べると雨粒がよく見えないのは、劇映画の雨というのはスタッフがホースで雨粒を大きくして降らせたものをライトで目立たせているからあのように雨らしく見えるのであり、ようするに、映画のリアルと、実際というのはかくも異なっているのだ。
 だから、映画は写真よりリアルに見えるかもしれないが、実物ではないのです。

 蛇足。
 冒頭にトーマス・マンの演説が引用されている。これについては、カタログにもなんら説明がないが、マンはドイツのノーベル賞作家。もともと「魔の山」「トニオ・クレーゲル」など、芸術至上主義的な小説を書いていたが、ナチスが政権を取ると米国に亡命、連合国側の放送を通じてファシズム批判の演説を精力的に行った。引用は、その際の一節と思われる。

「議事堂を梱包する」上映委員会へのリンク

中村香都子「天使の休息」原田富弥の作品

第18回大洋会道支部展

時計台ギャラリーA、B、C室
1月20日まで

 とりわけ筆者の好きなのは次の2点です。
 中村香都子さん「女神の休息」(左)。
 ピカソを思わせる画風ですが、いすの曲線と、裸婦の背中、あるいは左手がうまい具合に響き合っているのが快い。裸婦の輪郭線は、ともすると「ぬり絵状態」を招きがちですが、この絵の場合はうまく線を強調するほうに働いていると思います。いすの背中ははでに食い違っていますが、気になりません。
 裸婦の両足が画面の端で切れているのも、むしろ世界に広がりを与えています。もっとも、この手法は2方向が限界ですね。色数が少なく整理されているのも好ましい。右腕の濃い茶色は意見が分かれると思われますが、床と呼応しているのは良いと思います。

 原田富弥さん「たそがれの函館港」(右)。
 前景に暗い船、その奥に明るいオレンジの海、中景に青やベージュを基調とした町並み(写真ではストロボが明るすぎて白っぽくなっています。ごめんなさい)。遠景に暗い緑の堂々たる函館山があって、一番上が再びオレンジの空になっています。
 色の層をおおまかに積み上げた構図が画面に奥行き感を与えると同時に、それらの層が主に、補色関係にある緑とオレンジであることから、暗色の部分が多いにもかかわらず全体的に輝かしさがあります。水平な線や斜めの線が多い中で、山頂のアンテナ、漁船の旗やはしごなどの縦線が構図を引き締めています。
 原田さんは「羊蹄山(国松登ギャラリーから)」という愛らしい小品もありました(昨秋の「歩歩の会」展にも出ていた作品ですが)。

 ほかの絵にもふれておきましょう。
 江頭洋志さんは安定した力量を発揮しています。「プラハ夕景」は2本の塔を主軸に、空気遠近法をきっちり基本どおりに用いた風景画です。
 坂本美雄さん「待春」は雪景色。川をうねらせた構図は、奥行きを出すために伝統的に用いられているものです。右側に小さく描かれたキツネ2匹が効いています。
 加我幸子さん「しあわせの名残」。昨年カンバスにこちこち動く実物の時計を取り付けた加我さん、こんどは、紙のふたを開けるとオルゴール音が鳴るしかけを絵に付けました。遊び心旺盛です。ただし筆者は「黄色の風景」のような小品のほうが好きです。有馬加代子さん「百合のある静物」も、構図に苦心したのが実りました。佐々木美恵子さん「プロバンスの風に吹かれて」など、青を効かせた作品が多いのが特徴といえましょう。

 ほかの出品者は、秋野隆、植野徳子、江川竜子、大滝衣美、大浪静枝、岡田和子、岸巌、瀬川裕子、高橋みゑ、豊岡茂、増田雅恵、松平静枝、綿谷憲昭のみなさんです。


 2001年1月17日
 
林亨展の展示風景 林 亨展 
あるいは美術作品とテキスト

ギャラリーミヤシタ
2000年12月24日まで

 札幌では昨年春に続く個展。今回も正方形の平面を、インスタレーションふうに壁や床に散らしている。今回も、支持体は和紙。墨、エナメル絵の具、アクリル絵の具などを縦横に使い、深みのある画面をつくっている。
 前回と異なる点としてすぐに気づく点が三つある。

 ひとつは、四辺のうち二辺を鮮やかな蛍光色で縁取り(しかもその幅は二つの片で微妙に違う)、平面全体に散らした細い線やしぶきをそれと同じ色にしたこと。作品によって蛍光色はオレンジだったり黄緑だったりするが、きりっと平面を引き締める役割と、同時に画面を揺らがせる役割とを持っている。

 第2点は、以前は書道ふうの文字が書かれており、東洋の美術であることを強調する作用を果たしていたが、それが消えたこと。
 第3点は、壁に掛けられた作品の後ろに金属の板が付けられ、額縁に似たような働きをしていることである。

 この点について林さんは、全体がインスタレーションになってもいいんだけれど「1点1点が作品であってほしいという気持ちもあって…。ぼくは欲張りなんですよ」と笑う。

 絵画のイリュージョン性が指摘されて久しい。ようするに、モーリス・ドニが言ったように
「絵画とは、戦争の馬や、裸婦や、なんらかの逸話である前に、本質的に、ある一定の秩序のもとに組み合わされた色彩によって覆われた平坦な色面である」
のだ。
 そんなことを言ってどうする、という人もいるでしょうが、現代の絵画とは
「しょせん、奥行きのある画面を作ろうとして遠くのものを小さく描いたりしても、それはウソなんだよ」
という断念の向こう側にしかありえないのだ。

 林さんの絵は、ある種、そういう平面性の自覚を持った上で、なおかつ、奥行き感を出すにはどうしたらいいかという問題意識をはらんでいると思う。
 それは相当けわしい道である。
 二人で話していたとき、フランク・ステラの名前が出たけれど、厳格な抽象表現主義から半立体の作品を経てほんとうの立体に行き着いてしまった彼の足跡を振り返ると、平面であり続けることの難しさを感じる。
 まあ、筆者は、絵がイリュージョンであってもいいんじゃないかと思うんですよね。それを暴くことが主眼の絵はそろそろ飽きてきた。

 さて、波型の板に描かれた小品が3点ほどあった(ふるいアパートの階段の屋根なんかに使われていたアレです)。どうやら林さんは、この形の作品にシフトしていくらしい。平面でありながら平面にとどまらないもの。その探求の果てに、全く新しい絵画は生まれるだろうか…。

で、最後にちょっと書いておきたいことがある。
 平面でありながら不思議な奥行き感を持った作品として、今週、フォトグラファーの山岸誠二さんがthis is galleryで発表した、印画紙を用いた平面があった。ただ、山岸さんは林さんと違って、イリュージョンがどうのこうのということは、たぶんあまり考えていないと思う。
 山岸さんをここで引き合いに出すのも変かもしれないけれど、彼はたくさん美術の実作を見て、無意識のうちに作品の作り方を会得したんじゃないかな。それほど意識的でなくても、良い作品ができることもある。
 もちろん、出来上がった作品がすべてだと筆者は思うから、べつに平面がどうたらこうたら考えていなくたって、良い作品ができればそれでいいのだ。
 ただ、現実の社会では、付随するテキストが、作品の評価を左右するというケースは、けっこう多いんじゃないかと思う。言い換えれば、現代美術とは、作品だけで自立できなくなっているのだ。
 美術は自由であるべきだから、テキストの力を借りること自体はどうしても排斥しなくてはならないというわけじゃない。ただし、テキストとか文脈なしでは全く楽しめない作品というのは、筆者は疑問ですね。まあ、人それぞれですけど。
 誤解がないように書いておきますが、林さんの作品が、そういう種類の楽しくない作品だと言っているのではもちろんありません。

2000年12月24日記す    26日一部改稿

佐野哲也・最上愼一 写真による二人展
moving+still

さいとうギャラリー(中央区南1西3 ラ・ガレリア)
2000年12月12日から17日

 札幌の写真家二人が、人間をテーマに撮ったモノクロの写真。

 いきなり個人的な話で恐縮だが佐野さんの「1992ムーサの恋人たち」は、8年前に北見で見ているので懐かしかった。基本的にはバブル景気と無関係だった北見だが、ちょっとあの時代の風が届きかけていた地方都市のディスコに集う若者たちの姿をスナップした連作。スピード感が心地よい。

 最上さんは今年10月13日小樽で撮った「NAVY in OTARU」。空母キティホークで小樽を訪れた兵士たちの素顔を活写している。繁華街を歩く女子高生や、空母反対デモなどもきちんととらえて、その日の小樽の街の空気感とそこに生きる人々を大づかみにとらえようという姿勢に好感を持った。

最上愼一の「NAVY in OTARU」  「NAVY in OT
ARU」の1枚。ト
リミングが下手
ですいません

高嶺 格(ただす) 冬の海

CIA(中央区北1西28)
12月8日から17日(16日午後2時からアーティストトークがあるそうです)

 アーティスト・イン・レジデンス招聘作家の第5弾。
 粘土約500キロを使った大インスタレーション。棚田の模型のようでもあり、幻想の動物園のパノラマのようでもあり、池の部分には色水がたまっていて、なんとも不思議。CAIの空間をこれだけフルに使ったのは初めてじゃないかと思う。見る者のイマジネーションをどこまでも膨らませる力作。

 本人には会えなかったのですが、なんでも現代舞踏のダムタイプと一緒に活動したり、けっこうガンバッテいる人とのことでした。
高嶺格の展示風景

D.HISAKO展

札幌市資料館(中央区大通西13)
2000年12月12日から17日

 気になっていた人だった。ダイレクトメールはあまり配らないし、個展は1996年以来毎年のように開いているようなのに、都心からやや外れた同館ばかりで、しかもいつ訪れても本人がおらず、どんな人なのかまったく情報が無かったのだ。

 絵はいつも、題が付いていない油彩の小品ばかり。後ろ姿の猫と、空に浮かぶ小さな月。ほかには地平線や木々があるばかり。シンプルな構図。寒色を中心とした深い色。単純な繰り返しや通俗に陥らず、しんとした孤独感に満ちている。夜明け方に、知らない土地を歩いている長い夢から覚めたときのような、そして、自分の存在の根本的な寂しさに思いをはせたときのような。

 今回初めて本人にお会いした。自宅で独りで絵をかいている孤独感が絵に反映しているのだと言っていた。しかし、作品はすべて売約済みというから驚きだ。次回個展は来年7月とのこと。


長倉洋海写真展

フジフォトサロン(中央区北3西4)…2000年12月20日まで
キヤノンサロン(北区北7西1)…12月23日まで 

 フジは「アフガンの大地を生きる」、キヤノンは「コソボ」。
 いずれも、内戦のやまぬ土地の人々に迫った力作。会期などはっきりしなくてごめんなさい。16日にはスライドショーが札幌で開かれたそうで、行きたかった…。

 彼の写真はジャーナリズム的なものだし、そういう語られ方、つまり、戦争の悲惨さを訴えているとか、子供の屈託ない笑顔は世界共通だとかという感想を作品の方も望んでいるように見えるが、それがもっともだということを認めたうえで、あえてちょっと違ったことを言いたくなった。とくに「アフガン」の方は、ずいぶん「ハードエッジ」な写真だなという印象を持った。素人の見方になるけれど、モノクロでいえば、硬調なのだ。

 これは、焼き方がどうこうという問題ではおそらくなくて、戦火の最前線という土地の張り詰めた空気感を、画面がきっちりとらえているせいだと思う。同時に、例えば、乾いた急斜面が画面全体をすぱっと斜めに横切る「パンシール峡谷。バスとロバが行き交う」に見られるような、大胆な構図のためでもあるんじゃないだろうか。

 面白かったのは「羊の市場で」。画面の中央奥と手前のあいだを小川が流れており、緑色の帽子をかぶった少年が飛び越えている。この飛び方から筆者はカルティエ=ブレッソンがパリ(の、たしかサンラザール駅)で撮った有名な一枚を思い出した。

 あの写真はモノクロだし、逆行だし、少年の方向は反対だし、飛び越えているのは小川ではなく水たまりなのだけれど。まあ、元気な少年というのは、水があると飛び越えたくなるものなのかもしれない。

 そのついでで言えば、コソボで、降ってくる雪を、口をあけて食べようとしている子どもたちを写した一枚があったけれども、子どもというのは元来、雪があれば食べようとする人種なのだ。それは、戦争の中でも同じようなので、私たちをほっとさせる。

 またジャーナリスティックな評言に戻ってしまったけれど…。

 ちょっとショックだったのは「学校が始まった日。コスモスを手に」と題された、コソボシリーズの一枚。中央に少女がコスモスの花束を持ってひとりで立ちこちらを大きなひとみで見つめている。その背後は崩れた門と瓦礫が散乱する。希望と絶望の、鮮やかすぎるコントラスト!