雪が、降り続いています。
 野を、山を、街並みを、白く染める――
 雪が…。
 すべてを真っ白に…
 洗い清めるために、雪が――。

 けれど…
 そんな雪にも、洗い清めることが出来ないものがあります。
 罪を…
 雪げない、私の――
 罪が。
 大切な人を、死に追いやってしまったのは、
 私の犯した罪。
 大切な人を、裏切った――
 私に下されるべき、罰。

 校舎の屋上に立つ、私――。
 彼と、貴方と、私が過ごした…
 思い出の場所は、
 近くて、遠い。
 戻れない、過去。
 扉を開ければ、すぐそこにあるはずの――
 遠い幻想…。
 肩に降り積もる雪を、振り払うこともなく。
 吹き荒ぶ風を、遮ることもなく…。
 ああ、――吹雪いてきたんだ。
 もう…帰らないと。
 だからね、舞――。
「殺して下さい、あなたの手で――」

 長い黒髪が、風にたなびく。
 手にした剣が、ぴくりと――
 震えた。
「佐祐理、お前は…何を言っている…?」
 川澄舞。
 私の――倉田佐祐理の、親友だったひと…。
 もう戻れない、幸せだった日々の思い出。
 雪は――
 私を染めては、くれない。
 白く洗い清めては、くれないの。
 ごうごうと――
 ただ鳴り響く風に流されて…。
 びゅうびゅうと…
 私の罪を、責め苛むだけの風に流されて――
 雪は。
 私を覆い隠しては、くれないの――ッ!!
 だから、舞…
 穢れなき白に、染まることが許されないのなら。
 穢れある赤に――
「赤く――この身を血に染めるしか、ないじゃない…」
 この、制服の…白いところが――邪魔なんです。
 ふわり、と。
 胸のリボンを解くと、風に舞った白いケープは、空へ、高く――
 消えて、見えなくなってしまった。
 でもね、舞。
 本当に消えてしまったのは――ケープなんかじゃないんだよ?
「あなたの愛した相沢祐一が、死んだのよ? …私が、殺したの!!」
 びゅうびゅうと…風が吹いている――。      (序段 終わり)


少女の檻 −the two of the us−

 ――風が、吹いている。
 舞い散る粉雪を、吹き飛ばすかのように、激しく。
 私の背へと、吹き付けている。
 鉛色した空の下。夕暮れ刻の校舎。その屋上に――。
 破れたフェンスを背にした私と、
 剣を手にした少女。
 あと一歩――。
 あと一歩で…
「…佐祐理、こっちに来るんだ」
 左の手に、剣を手にした少女が言う。
「そこは、危ない」
「そう、危ないんですねー。佐祐理は、危ないんですよ」
 私の所為で、彼が死んだ。
 私は、罰を受けなければ、ならない――。
「その剣は――」
 舞の持つ、西洋剣。レイピア、というのだろうか。
 あの日にも、持っていた。
「その剣で、私に罰を下してくれるんでしょう?」
 祐一さんが、遠い存在になった、あの夜にも…。
 ああ、そういえば…
「舞踏会の日にも、持ってましたよね?」
 突然、舞が暴れ出して、退学処分を受けた、あの日――。
 処分自体は、すぐに解けたけれども…。
 私の心は、もう――解けることは、なくなってしまったね。
 大好きな人を、死に追いやった、私の、心は――。
「この剣は、魔物を討つための――ものだから!」
 凛とした…今にも泣き出しそうな声で、舞が、――言った。
 
「魔物を…?」
「そうだ。私が、討つ――」
 魔物…とは――
「魔物って、なんですか〜?」
「魔物は、魔物だ。この地を荒らすモノ。それが――」
 魔物。
 川澄舞は、未だ戦い続けています。
「佐祐理を、殺そうとした…」
 魔物――。
「あれが…あの時も、2人は戦っていたのですね」
 舞の誕生日。
 ――大きなアリクイのぬいぐるみ――。
 夜の学校で。
「佐祐理を襲った。私は、魔物を――ゆるさない」
 夕暮れ刻の校舎――。
 その屋上には、2つの影が。
 背中に吹きつける、北風は冷たくて――。
 かろうじて、私を支えてくれる。

 最初は、違った。そうじゃ、なかった…。
「なんのために?」
  ――私は、魔物を討つ者だから――。
 それも、違う。
 舞自身、もう忘れてしまった。本当の、理由…。
「俺は、約束を…守れなかったんだ…」
 それを伝える勇気は、私には、ない。
否――
 それを伝える資格は、私には、ないのだ。
「佐祐理は、おばかさんだから…」
 そう、あの時――。
「佐祐理が死んでいれば、みんな、幸せになれたのにね」
 作り物の笑顔――。
 パンと…
 音を立てて、――砕けて消えた。

「…それ以上、言ったら許さない…」
「…どう、許さないの? 許せないのなら――」
 その、剣で――
「刺してごらんなさいな。さあ、討ちなさいッ! 私が――」
 魔物よ。
「…違う。佐祐理は、魔物とは、違うから」

 ――背中に吹きつける風は、いよいよ激しくて。
 私を、下がらせまいとする。落下させまいとする。
 校舎の縁に立つ私を、押し戻す――優しい手が――
 あぁ、まだ私に死ぬなという。
 ここに来るなと、…あの子が言うの。

「どう違うの? 魔物って、何? ねえ、舞――」
 私達、もうもとのようには、戻れないの?
 だから――、
「あなたの大切なものを壊した、私こそが、魔物の正体よ――」
 不思議なもの…。
 あんなに、自分が信じられなかった『佐祐理』が――
「あなたを裏切った、『私』が、魔物。魔物は、討つのでしょう?」
 今では、自分自身を信じて疑わない。
「違うよ――」
 そう、違うね。私は――佐祐理が、大嫌いだったんだから。
 かずや…。あの子を殺した私を、偽るための、仮面。
 佐祐理という名の、仮面。
今――
 大嫌いな佐祐理を殺した、私は…
「私こそが、誰からも忌み嫌われる、魔物たるに相応しい…」
 大好きな、私。
そして――
「最も嫌いな、私を、最も好きな、あなたが――殺すのっ!」
 でも、駄目ね…。
「舞が、人殺しになっちゃう。このままじゃ…」
 心と身体が、同じ姿なら、いいのに――。
「堂々と魔物として、あなたの前に立てれば、良かったのにね」
「佐祐理、お前は…」
「人間の視覚、なんて邪魔っ! いっそ…見えなければ、良かったね」
「違うっ! 見えれば…佐祐理にも、アレが見えたなら――」
 泣かないで、舞。あぁ――私は…
「風が、止んだね。――やっと、一弥に許してもらえたんだ…」
 だから――ッ!
「今の私は、胸を張って、あの子に逢いに行ける。舞ッ――」
 ごめんね…。心で呟いて、舞の、身体を――トン、と…押した。
「よせっ、佐祐――」

 ふわり。

 私を押し戻す風は、一弥の手は、もう、そこにはなくて――
「佐祐理ッ!!」
 伸ばした右手は、虚空を掴んで――ごめんね、舞…元気でいて…。
「逃げるの?」
 えっ――?
「キミは、また逃げるんだね。彼女ひとりを、残して…」
 一弥――じゃない!? 誰…
「あなたはっ――なに?」

 ――地上。手をついて、足を踏みしめて、立ちあがる。
「なんともない――」
 屋上から落ちた、私。倉田佐祐理の、身体。
「夢を――見ていたんでしょうか?」
 違うよ…。
――違うの?
 あの時――、
「一弥じゃない。誰かが、私の身体を、…支えてくれた?」
 誰が?
 あの、女の子は…まさか、舞ッ!? いや――
「そうだ、舞は…っ!」
 屋上に――。
「佐祐理っ、今行くっ! 怪我はないかッ!?」
 違うっ。舞は、ずっとあの屋上に、いたんだ…。
「なら、あれは、――誰だったの?」

 ――ストン。
 軽やかな音を立てて、舞が着地した。
 こんなふうに…。
 ――私も、降りてきたのだろうか。…あの、屋上から?
 まさか。3階建ての鉄筋校舎よ?
「舞とは、違うから…」
 正直な話。運動には、自信がある。けど…舞は、違う。
「なぜ、あなたは、そんなことが出来るの? あの、高さから――」
 愚問だ。答えは、決まっている。
  ――私は、魔物を討つ者だから――。
 そう、言うに決まっている。舞は…そういう、女の子だ。
 不器用で。優しくて。
 造りモノとは違う、本物の――
「天使――」
 か。
 そう言ってしまえば、舞の姿が神々しくも見えるね。
 黄金(きん)に輝く数条の光。ツバサが――
――幻覚だ。
「佐祐理、私は――」
「何も言わない! 心は、言葉にしなくても伝わるものよ…」
 だから、あなたは――私の――天使でいい。

 また…死にそびれて、――しまった。

「私はね、舞。祐一さんが、好きよ」
「私は…祐一も、佐祐理も、すごく嫌いじゃない」
「祐一さんは、どっちが好きだと思う?」
「祐一は…」
 どっちも好――
「あはは、なんで泣くのかなあ、佐祐理は…」
 つぅ――と。
 頬をつたう涙は。
「祐一さんは、ちゃんと舞との約束、憶えてたんですよ?」
 私のことは、覚えてない癖に――。
「佐祐理じゃなくて、舞に…会いにきていたんですよ?」
 夜の風が、冷たい…。
「私は、あなたを待っていた――。逢いたかった、ずっと…」
 だから――っ!
「祐一は、佐祐理に逢ったことは、なかったのだろう」
「――佐祐理は、あの子に逢えるのを…愉しみにしていたのッ!!」
 私は、あの人のすべてを――っ!!
「…それは、――佐祐理が待っていた者とは、違うだろう」
 すべてを…あなたから、奪った――のに…。どうして…?
「ばかな女」
 馬鹿だ。どうしようもない、馬鹿だ。本当に…私は、ばかだ。

「あははっ、いつも、舞と2人でなにをしてるんですかーっ?」
 そう訊いたのは、佐祐理。
「それは…秘密だ。たぶん、信じてくれないし」
 舞と祐一さんが、佐祐理に隠れてなにかしているらしい、から。
「いや、佐祐理さんなら信じてくれるかな?」
「信じますよー。祐一さんの言うことだったら」
 私は、あなたの…お姉さん、だから。
「天使を――探しにきたんだ」
「――え?」
 てんし――?
「あはは、冗談だって。本当は…困ったな、舞には口止めされてるし」
「あはは、そうなんですかー。なら、無理に聞けないですねー」
 2人だけの、秘密。
 ――妬ましい…。
 佐祐理には、教えられないという。舞だけが…知っている。
「そっか。佐祐理には、言えないことなんだ…」
「い、いや、佐祐理さん。だからっ――」
 狼狽えてる…。いいのよ。男の子なんだから…
「男の人ですから、祐一さんにも、秘密があるんでしょうねっ♪」
 顔だけが、笑ってる。私の嫌いな、佐祐理の。
 貌だけが――。笑う。
 くすくすくす…と。
「もう、しょうがないなあ。俺が喋ったってのは、舞には秘密ですよ」
「あははー、佐祐理と祐一さん『だけ』の、秘密ですかー?」
 くすくすくす…と。
 今度は、心から――
 嗤った。

「あの日――。祐一さん、舞のところに行かなかったでしょう?」
 私の、記念日。
「それは、なぜでしょう?」
「それは…佐祐理に会っていたから?」
「それは、私が魔物だからです」
 あれ? 最初に、――戻った。
「違うっ」
 そうよ、今度は、間違えない――。
「祐一さんを、あの子をっ、――私1人のものにするためにねっ!」
 あなたの大切な場所を、壊した…。
「こんな学校に、意味はない。あなたが守っていたものは、こんな…」
 ツマラナイものなんかじゃないでしょう。
「私は、約束したから。ここで――ここを、守ると」
「誰と?」
「祐一とだ」
 ――だから、私は、魔物を討つのだと。
「なにを、約束したの?」
「それは…ここを、――この場所を、守ると…」
「あははーっ、祐一さんは、そんな約束は、してないハズですよー」
「そんな、ことない…。私は、ちゃんと憶えている」
「なら、祐一さんが、忘れてしまったのかしら?」
 違うのよ、舞。あなたは、そんな約束は、していない。
「あなたが守ると誓ったのは、祐一さん自身よ、舞」
 或いは、その思い出か――?
 いずれにせよ、彼女にとっては、大切な――約束。
「そんな大切なことを忘れてしまうなんて、オマヌケさんですねー」
 くすくすくす…。
 少し、笑えた。これでいい…。これで、舞は、――私は――
 ――佐祐理を殺すことが、出来る――。

 ビシッ!!
「あたっ…!?」
「私は、マヌケじゃない」
「…?」
 ビシッ!!
「あたっ! 痛いっ、いたいってばっ!!」
 舞のチョップが、佐祐理の脳髄を揺さぶっています。
 愚かしい、私の、頭を、思考を。
 がんがんがん。
 くらくらくら――。
「え、わ、あ――」

 闇――。
 深く、暗い、闇の底に。
 ――沈む。
「…気がついた?」
 少女。眼を開くと、少女がいた。カチュ−シャのよく似合う…
「…舞、じゃないよね?」
 幼い頃の舞でも出てきたのかと思ったが、――違うか。
「あゆ、ボクは――月宮あゆ」
 あ――
 あぁ、これが、あの人の――。
「ごめんな、舞…ごめん、あ――」
 最後の、コトバ。相沢祐一という人間が、最後に…言った言葉。
「あなたが、彼を殺した、魔物なのね」
 佐祐理ではない、もう1人の――。
 魔物。
 私と同じモノ。私よりも、少しだけ幼い顔をした――
「あはは、佐祐理ったら、なにを思い上がってるのかしら?」
 私と同じ――?
 どこがっ!!
 祐一さんが、最後に呼んだのは、佐祐理なんかじゃないのにね。
「あなたが、舞と戦っていた――マモノね?」
「違うよ――。ボクは、祐一くんを、見守っていただけ」
「そうかしら? あなたも――彼と約束をした」
 舞と同じように…。
「違う?」
「そう。ボクは約束をした。守れない、約束を…」
 だからね――。
 その、翼。
 純白の、ツバサを両の腕で抱き抱えるように、少女が――。
「だからね。ボクは、彼を、…守りたかったんだ」
 せめてもの、罪ほろぼしにと――そう、彼女が言った。
「罪滅ぼし? そっか…」
 ここは、地獄か。光すら届かぬ、闇の底か。
 私が墜ちるには、相応しい。
「あはは、祐一さんのカタキ討ちってワケですねー」
「違うよ…。キミは偶々、ボクの世界に迷い込んでしまっただけ――」
 ――天使の、世界?
「これが? この、なにもない――」
「そう、このなにもない世界が、ボクの世界。でもね…」
 ぽぅ…と。
 漆黒の闇に、灯りが――
「――っ!?」
 白――。
 一面に広がる、白い――雪景色。そして、あの建物は…
 あぁ、これは…
「この、光景。見覚えが、ある。佐祐理と、舞と、祐一さんと…」
 いつかの昼食会。校舎の屋上へ繋がる、あの場所で。
 そう。あの場所が、行き止まりで――
 先に進むことが、出来なかったのなら。
  良かったのに――。
「私は、前に進んでしまった。舞よりも、先に行きたくて。また佐祐理
だけが、置いていかれることが、怖くて。悲しくて…」
 ――私は馬鹿だ。
「あのままの3人で、いつまでも、時を止めてしまえば良かった…」
「止まったままの時計は、哀しいよ…」
「狂ってしまった時計は、…もっと悲しいわ」
「そうだね…。早く直さないと、いけないね」
「もう、遅いのよ…。祐一さんは、もう…」
 あの日。あの時。あの場所で――。
 舞の、誕生日。
 ――大きなアリクイのぬいぐるみ――。
 夜の学校で。
「祐一さんは、死んだ――」
 魔物の攻撃を――
 私が――
 見えないから。
 魔物なんて、誰にも見えないから…。
 祐一さんは、私を庇うように――。
「魔物に、殺された」
 佐祐理が、馬鹿だったから。
 のこのこと。
 あんなところに、行かなければ。
 あんな話を、聞かなければ。
 祐一さんを、好きにならなければ…。
「私は舞を裏切ったんです。だから、――」
 ここに来て、良かった。
 愚かな私を、一弥に見られることも、なくなるから――。

「うぐぅ、勝手にボクの世界に居座らないでよぅ…」
「人の思い出の中で、いきられるのなら――」
 願わくば、あの時のまま。
 3人で、笑いあえた、幸せな日々を、永遠に…。
「また、逃げるんだ?」
「え――?」
 ひらひらひら――
「今のは、ボクじゃないからね」
 あゆが、両の手を大きく横に振りながら、――言った。
「かずやっ!?」
 今の声は。そうだ…
「一弥なの? どこ…? ここに、いるの…?」
「夢、だよ」
 そう、あゆが言う。
「これは、夢。キミが見ている、夢。ボクが見ている、夢――」
「ゆめ…私の、見ている…」
「言ったでしょ。…ここは、ボクの世界だって」
「ゆめの、せかい…?」
「え? そうなの…? ――うん、それも、いいかもしれないね…」
 ほんとうではない、世界。
「そろそろ、お別れだね。餞別に…って、なんかヘンだけど、いいこと
教えてあげる。祐一くんは、死んでなんていないよ」
 死んで――ない?
「でも――」
 私は、見たの。
「――あれも、夢だとでも、いうの?」
「夢とは…違うのかもしれないけど。でもね、本当のこと。川澄さんに
聞いてみて? 答えは、彼女自身が知っているはずだからっ」
「舞が…答えを? それって、どう――」
「もう、時間みたい。さようなら、佐祐理さん。楽しかった!」
「待って、まだ――ッ!!」
「いつでも会えるよ、お姉ちゃん?」
「――!?」
 か――

 ――夢か。
「佐祐理、大丈夫か?」
「舞――?」
「すまん。強く叩きすぎた…」
 ああ、舞のチョップで、脳震盪を――起こしたのか。
「あのまま、死んでしまえたら、良かったのに…」
「そんなのは、嫌だ。私は、佐祐理が死ぬのは、嫌だ…」
 舞…
「私は――」
「祐一が死んだのは、私のミスだ。魔物を一撃で倒せなかったから…。
佐祐理は、悪くない。祐一を巻き込んでしまった、私が――馬鹿だ」
 違うっ――。
「祐一さんが、満足のいく練習を出来なかったのは、佐祐理が――」
「佐祐理がいなくても、祐一は…魔物の姿は、見えなかったから」
 私が、1人で戦わなければ、ならなかったんだ――と。
 口惜しそうに、舞が、
 ――哭いた。
「死んでないよ」
「う、ぐすっ…えっえっ…」
 ――そう。夢の中で遭った、あの少女は言っていた。
「祐一さんは、生きているんです」
 それは、ただ――
「私たちの、心の中に――」
 ただの、…そういう意味合いの言葉なのかもしれない。
 でも…。彼女は――、舞が全てを知っていると言った。
「心の、なか…」
 舞が、かすれた声で呟く。
「あなたは、知っているの? 魔物の正体を…。約束の正体を――」
「ぐすっ…やくそく、の…?」
 私には、分からない。舞も、忘れてしまった、約束の意味。
「…なぜ、舞は1人で戦い続けなければ、ならなかったのか?」
 私が、考えないと。
 ――時計の針を、正確な時刻に――
 直さないと。
「あなたは、ここで――この学校のある場所で――相沢祐一と出遭った」
 以前…私は、あの人から、そんな話を、聞いた。
「だから、この場所こそが、――守らなければならない、場所になった」
 ――違うか? だから魔物と戦うというのならば――?
「ここで、この場所で…また会おうという――約束なんだよね?」
「うん、やくそくだから…」
 微かに微笑んで、舞が応える。しかし、なぜ魔物が――という…
「だから、守らないと…。魔物が、この場所を壊しにきちゃうから…」
「――どうして?」
 そう、これだ――。少し、解った。ここが、問題なんだ…。
 だって…今の答えは、ちょっと、…ヘンだったから。
「どうして、魔物が、…壊しに――来ちゃう――の?」
「なくなっちゃうから。あの場所が…。大きな車がいっぱい入ってきて、
壊しちゃうよ。だから…魔物がいないと、この場所を守れないよ…」
 まさか――。
「魔物は、舞――あなたが、創ったモノ、なんじゃ――」
 ばか。そんなわけないでしょう。
「馬鹿だ、ばか。佐祐理のバカ…」
 人が、魔物を創るなんて…そんな、ことが…。
「…ほら、魔物だよ? 一緒に戦ってくれるよね、ずっと…」
 明日も…明後日も…永遠に――。
 舞の心は、7年前の、この場所に…いるのかも、しれない。
――いるんだろう。その、動かない時計は…動かないままで…今も。
「ほら、魔物がいるよ? いるのに…どうして――祐一は、いないの?」
 どうして、どうして――? 泣きじゃくる、舞。
「いつまで待っても、いつまで戦っても、あなたは来てくれないッ!?」
「もういいよ、舞。――もういいッ!!」
 もう、守る必要なんてない。そんな、約束は――こんな、場所は…。
「舞、ごめんね…」
 ずっと、待ってたんだもんね。嬉しかったよね…。
 私なんかが盗ったら、ダメだったんだよね…。
「解ったから。…だから、泣かないで、舞――」
 ぎゅっと、彼女を抱きしめた。震える身体を、――抱きしめていた。

 7年前――。
 ちょうど、この校舎が建てられた頃だ。
 この辺りは、田園地帯で――
 相沢祐一が、この地を後にしたのが、その年の――秋。
 黄金(きん)色の、大海原。
 たわわに実ったライ麦の穂が、さざなみのように、揺れる。
 そこで、川澄舞は、
 ――約束――
 相沢祐一と、ある約束を、した。
 けれど、彼は、その約束を守ることが出来なかった。
 なにがあったのかは、私には分からない。
 祐一さん本人でさえ、憶えていなかったのだから。
 そして、約束は――
 ――誓い――
 彼が、再び帰ってくるまで、この地を守り続けるという…
 誓いになった。
  ――私は魔物を討つ者だから――

「舞は、敵を創り出したのね。その誓いを守るために――」
 そこまでは、なんとなく解った。
 調べたところ、舞のお母さんは、超能力者で――あったらしい。
 本当かどうかは知らないが、そう呼ばれていたのは事実。
なら――、
 舞が、その資質を受け継いでいても、不思議はない。
いや――、
 あの常人離れした身体能力も、その顕れではないのか?
むしろ――
 彼女の母親が、人間であったかどうかすら、怪しい。
天使――。
 そんなことは、今は関係ない。
 今は、祐一さんを、どうしたら助けられるかを――
 考えなければ、いけない時だ。
尤も――、
「まったく見当違いという、可能性もあるんですけどね…」
 考えすぎ、…だったりしますかねー?
 実際は、もっと単純な出来事なのかもしれない。
 けど、これが一番しっくりきたっていうか。
「要するに、乙女の勘なんですねー、あははっ」
「佐祐理、お前は、なんかヘンだ。1人でぶつぶつと煩瑣いし…」
 誰の所為で――!
 私の所為で――か。
「舞も、少しは祐一さんの居場所を考えてくださいよぉー」
 …そうなんだ。あの時――、
「魔物の攻撃を受けた祐一さんは――」
 ――消えた。
「私の腕の中で、消滅したんです。…死んだわけでは、ない」
 私は、ボロボロになった、彼の身体を、抱き抱えながら…
「ごめんな、舞…ごめん、あ――」
 その、相沢祐一の、最後の言葉を…聞いた。
 私は――
 ――悲しくて、泣いた。
 佐祐理の名前を呼んでくれなかったことが…
 ――悔しくて、哭いた。

「…さゆ、りさん…。怪我は…?」
 ふるふる…。
「佐祐理は、…平気です。なにが――祐一さんッ!?」
 なにが――起こったのか、佐祐理には、解らなかった。
ただ――、
 夜の校舎に、舞がいて。
 祐一さんが、舞に毎晩、差し入れの食べ物を持って行って――。
 そんな話を、祐一さんから、聞いて。
  ――2人だけの、秘密――。
 佐祐理と、あの人『だけ』の、秘密のお話。だから――。
 佐祐理が、ここへ来ることは、舞は知らない。
「今日は、舞の誕生日だから――」
だから――、
 舞の誕生日。
 ――大きなアリクイのぬいぐるみ――。
 夜の学校で。
 私は、彼女に、プレゼントを。彼女が喜ぶであろう、ぬいぐるみを。
「これを、舞に渡しに来たんですよっ♪」
 …笑うような場面じゃないのにね…。
 いつも、私はそうだ。
 笑っていれば、なんとかなるなんて、ずっと勘違いしたままで…。
「ああ…そうだな。今日は…ぐぅッ――!?」
「祐一さんッ!? しっかり! ――しっかりしてっ!!」
 突然、佐祐理の前に、祐一さんの背中が――現れて…。
そして――
 大きく跳んだ。
校舎の壁にぶつかって――、
 弾んだ。
硬いリノリウムの床に、相沢祐一の身体が、――落ちた。
 ――ガンガンと…
 大きな音を立てながら。
 赤い飛沫を、撒き散らしながら、床に叩き付けられた、身体は――。
「どうして…こんなに、なにが………どうして…」
 佐祐理は、私は――なにも出来なかったのだ。
 その場に…彼の倒れた身体に、寄り添うように――、
 膝を落とすことしか…私には。
 うなだれる、ことしか…。
「佐祐理ッ!?」
 恐らく、そう叫んだのだ。その…声も。
 ――舞の声も届かない。…聞きたくも、なかった…。
「ゆ…」
 声も、出ないんだ…。情けなくて…。
 緩慢な動きで、廊下の先を――
「――ま」
 こちらに向かって、何か叫んでいたらしい、舞が…
――ガシャンッ――
「舞――ッ!!」
 ガラスの割れる音。舞の身体が、何か大きな力に叩き付けられる。
そんな…錯覚。いや――。
「ま、舞っ! どうしたのっ、なにがっ!!」
 本当に、叩き付けられたのだ。何に…?
 駆け付けようと、足を踏み出した。
――つもり。
「あ、あれ…?」
 へたり込んでいた私の脚は、鉛のように重くて…
「ぐぅッ…」
 舞のうめき声がした。苦しそうな、声が…。
 駆け出したくて、出来なくて…
 そのまま、前のめりに倒れた、佐祐理の身体。
 慌てて手を付いて支え――
「あっ――」
 目の前に、祐一さんの顔があった。
 血に塗れて、苦痛に歪んだ――愛しい人。
「いいか…」
 小さく呟いて、前に差し出した両手を…
 ――少し下げた。そして、私は、静かに眼を閉じる…。
 明らかに、意識しての、行動だった。
「んっ…」
 唇に、生暖かい、それでいて、柔らかな、感触。
 忘れもしない、あの人の――
「んぐッ――!?」
 私の重さを、一身に受けて。
 既に困難になりつつある、呼吸さえ奪われて…
「は、ハぁ…ゆ、祐一、さん…」
「さ、佐祐理…さん…だいじょう――ぶ?」
 それでも、私の心配をしてくれる、祐一さんが優しくて…。
 離した唇を、再び、交わしていた。
「佐祐理ッ、祐一ッ!!」
 邪魔をしないで、舞。今は、私が祐一さんと会って――
「――ッ!?」
 手が、それに触れてしまった。
 彼の頭を、優しくなでる、私の手が――。
 あの時、出来なかったことを、してあげたかっただけなのに…。
 この、ぬめりとした感覚が…。
 佐祐理を、悲しい現実へと、引き戻してしまうのです。
「祐一さんッ!? こ、――」
 また、声が出ないんだよ、一弥…。
「ぐッ…待ってろ、今、私が――」
「さゆり…さん…」
 祐一さんっ――どうして、こんな――
 どうして、こんなに、髪が真っ赤に…
 そんなこと、考えるまでもない。血が、出ているだけなのだ。
けれど――、
 うろたえるだけの私には、そんなことすら解らなくて…。
 2人が、今までなにをしていたのかさえも――
 もう、どうでもよくて。
 ボロボロになってしまった彼を…抱きしめるだけで…。
「さゆり、さん…きを…つけて…まだ、まものが…」
 マモノ――なんて、本当にどうでもよかった。
 そんな、なんだか解らないモノなんて、――知らない。
 だから、私は彼を抱きしめた。
 遠くで舞の声がするようだ。どうでもいい。
「ぐッあ………俺、は…やくそく…まもれな…く…」
 彼の声がした。とぎれとぎれの、かなしいこえが…。
「祐一さんっ…」
 たぶん、私の声は、声にならなかったと、…思う。
 それでも、私は、必死に彼の名前を呼んだ!!
 死なないで! 行かないで! 私を置いて…いかないで――
 一弥ッ!!
「ごめん…まい…ごめん、あ………」
「あ――あ…」
 そして、相沢祐一の身体は、この世から、消滅した――。

 その後のことは、まったく覚えていなかった。
 だから、余計にそのことだけは、憶えていたのかもしれない。
 あ、だった。
 さ、――じゃあ、なかったんだ。佐祐理の、さ、じゃなくって…。
 祐一さんの最後の言葉。
 誰かの名前を呼ぶはずだった、その言葉は――
 その、名前は…
「あゆ――だったんですねー」
 彼の、最も大切に想っていた、その名前。
 夢の世界の――天使。
「舞は、月宮あゆという人を、知っていましたか?」
「いや…知らない」
「祐一さんの、お知り合いらしいんですけどねー」
「祐一は、女たらしだから」
「あははっ、まったくですねー。他にもいるんでしょうかねー?」
 私の、生命の恩人に、なるのだろうか。あの天使は…。
 私の心に降り積もった、重い雪を…溶かしてくれたのだろうか――。
 こうして、また舞と一緒に笑うことが…できるのだから。
「私ね、舞。彼女になら、彼を渡してもいいかな、とも思ってるんです」
 このまま、祐一さんが帰ってこなくても…もう、いいかなって。
 だって、天使の夢の中に、あの人はいたんだよ?
 それは…彼女の中に、相沢祐一が存在できるということ。
 それは、彼が私たちの中にも…存在しているということ。
「私は、嫌だ。祐一は、誰にも渡さない…!」
「はあ…舞は、ワガママさんなんですねイタッ!」
 ――がんがんと。
 舞のチョップが、佐祐理の脳髄を揺さぶる――。
「解った、解りましたっ! もう言わないから、許してっ!!」
「私は、祐一がこの上なく嫌いじゃないだけだ」
 それって、最上級ですか――?
「あははーっ、それじゃ、みんなで仲良く分け合いましょうねー♪」
「でも…祐一は…佐祐理に『だけ』なら、上げてもいい…」
「舞――?」
「佐祐理が、祐一のことを好きなのは、――解ってるから」
「ありがとう…」
 あはは、天使とか、魔物とか、そんなの関係なかったんだ…。
 私は、舞に救われてきたんじゃない。すっと…これからも。
「舞、私たち…これからもずっと、友達で――いてくれますか?」
 ――ビシッ!
「いたーい! なにするんですかー、もうっ!」
「佐祐理が、下らないことを聞くからだ。これ以上、つまらないことを
言うと、私がお前を許さない――」
「どう、許さないの?」
 屋上で交わした会話と、よく似ている。
 でも――。
「祐一に、――えっちなことをする…」
「はうっ!?」
「佐祐理にしたのと、同じことを、わ、私にもさせる…」
「わ――、ななな、なぜそれをッ!?」
 舞は、耳を真っ赤にして――。
 佐祐理は、身体中を真っ赤にして――。
「佐祐理が、自分で言った」
「うう、恥ずかしいですよ…。もう、全身から火が出そうです…」
 私の罪は――。
 赤く染められなければならなかった、私の罰は――
 今こうして、私の願った通りに…
 舞の手によって、与えられていたのです。
 私が思うほど、舞は強い存在では、なくて――。
 私が思うほど、佐祐理は――、罪深い咎人でも、なかったのだろう。
 それを、舞は教えてくれたんだと…。
 そう、思うことにした。
 ――すべては、祐一さんを救い出してからのことだ。

「でも…」
 私は、以前と変わらぬ調子で、舞に語りかけます。
「祐一さんは、何処にいってしまったのでしょうか?」
「どこに行く…?」
 最後の場面を思い描く。
 曖昧で、朦朧とした記憶の断片を、懸命に手繰り寄せる。
 …やはり、あの終わりは、普通じゃない。
 魔物がどうこうという話で、それが普通と思い込もうとしてた。
 でも、やはり違う。人は、死んでも消えたりは、しない。
 死んでいないのなら、…どこかに居るはずなんです。
「祐一さんは、何処に――いるのでしょうか?」
「祐一は、心の中にいるんだろう?」
「それは、例えの――」
 こころの、なかに?
 魔物は、どこから生まれた?
 霧のように湧いて出たのか?
「舞っ! 魔物は…」
 どこから、襲って来るの――?
 舞踏会の時は、どうだっただろう?
 倒した、魔物は…
「倒した魔物は、どうなってしまうの? 消えて…しまうの?」
 祐一さんの、ように…。
「倒した魔物は――私のチカラになる」
 舞は、両手で、胸のあたりを押える。そう――
「吸収するのね、舞が――ッ!」
 魔物は、何体もいるのだという。
 倒しても倒しても、キリがないのだと、舞は言った。
 それは、おかしくは、ないだろうか。
 無限に増殖するモノなのか?
 ――人の悪意が鬼になるのだと、いう話もある。
 ならば、人の心に、憎しみや、悲しみや、負の感情がある限り――、
 鬼や、魔物というものは、消えることは…ないのだろう。
 では、あるが…。
 それならば、この世界は魔物で満ち満ちていることになる。
 けれど、舞が戦っていた魔物は、ここにしか現れないのだ。
 学校にだけ現れる…。
 受験に失敗した生徒の悲しみか――。
 教育に絶望して、生命を絶った教師の怨念か――。
 学園七不思議でも、あるまいに。
 確かに、そういった噂話というのは、どの学園にもあるだろう。
 それでも、無限に増え続けることなんて、ないのだ。
 七不思議は、七不思議。
 そりゃ、増えたり減ったりすることだって、あるかもしれない。
 不思議の内容が、入れ替わることだって、あるだろう。
 でも…、
 1週間で不思議が倍になることなんて、有り得ないだろう。
 舞は、この1週間で、既に何体かの魔物を倒して――いるのだ。
 この何年もの間に、数多くの魔物を――討って、きたんだ。
 人の世界は、絶望ばかりじゃないというのにね…。
  ――私が、魔物よ――。
 私の抱いた、あらゆる負の感情が、魔物を創り出していた。
 そう考えたからこそ、私は舞に討たれようと思った。
 それは、言い訳に過ぎないのだけれど。
 ただ、生きているのが、つらくなっただけ…。
 大好きな人を、何人も失ったまま、生きていく自信は、なかったから。
 ――人の恨みつらみなんて、その程度のものなのだろう。
 ――罪悪感――。
 幽霊や亡霊だって、そうだ。
 やってしまった側の、罪悪感が、それを見せてしまうだけなんだ。
 私は後悔しているのだと…自分自身に言い聞かせたいだけなんだ。
 私が、一弥の姿を見てしまうのも――
「――違うよ?」
 違うの――?
 …そうだね。せめて私だけは、信じてあげないと、駄目だよね。
 一弥…。お姉ちゃん、少しは、強くなれたのかな…?
 聞こえない――か。
 一弥の声が、聞こえた気がしたのだけれど…。
 まあ、いいや。
 今は、舞がいる。祐一さんも…いるんだ。
 信じるんだ、佐祐理――。
「魔物は、何体も存在するんじゃない! あなたは、同じ魔物を何度も
倒しているだけなのよ!」
「私は、ちゃんと倒している」
 討ち逃した時とは、手応えが違うのだと、舞が言う。
 ――なら、その通りだ。
「それが、舞の力として吸収されるのね」
 それが、再び力を得て…無意識に解き放たれているのだろうか?
 循環の輪。
「そう、…勝手に、入ってくるんだ」
 舞の、身体に――心に?――それは戻っただけなのだとしたら。
 つまり――。
「祐一さんは、舞の中に、――いるのかも、しれませんよ」
「だから、心の中にいるって言った」
「そうじゃなくって。本当に、舞の中に…祐一さんが――」
「ここに、祐一が?」
 優しく、眼を伏せながら、自身のお腹のあたりをさすっ――て?
「祐一の、子供?」
「ち――」
 違うっ!!
「違いますよー。祐一さんが、そのまま入っているかもしれな――」
 …そういう、関係――?
 まさか、私より、先に…。
 祐一さんを――
「あ、あははーっ。冗談ですよねー、舞ったらあー」
 絶対に、負けない。そう、誓った。
 今、この場で――。
「祐一さんが帰ってきた時が、本当の勝負ですよ、舞ちゃん」
 恨み、つらみ、妬み。
 もう、そんなことじゃない。純粋に、どちらが勝つかの…
「勝負ッ!!」
「む、佐祐理には、負けない」
 よ、余裕こいてられるのも、今のうちですよー。
 必ず…祐一さんの心を掴めるような、素敵な女性になるんだから――。
 もう、一弥の…弟の姿は、追わない。
 1人の男性として、祐一さん、あなたを――

「――とはいうものの、どうすればいいのやら」
 お手上げでした。
 祐一さんが、舞の中にいるという――仮定――。
 それは、いいんですけどねー。
「どうやったら、出てくるんでしょうねえ?」
 魔物を生んだように…祐一さんを産――
「ダメダメダメよっ! そんなことは、許しませんからっ!」
「…どうした、佐祐理? 気でも狂ったか――?」
「あはははー」
 ああ、佐祐理が、――壊れていきます。
 自ら望んだことだけど…。
 これが、本来の――私――だなんて、思いたくないです。
「佐祐理は、ヘンな人ですか? 壊れちゃってますか?」
「まだ、大丈夫だと思う」
 恋敵に呪いを掛けたり、人形の股を裂くような真似は、していません。
だから、あと少し――、神様、もう少しだけ…
「私に、時間を下さい…」
「もしかして、――死ぬのか、佐祐理も?」
「え? 誰か死ぬんですか?」
「私が死ぬ」
 は――?
「私の中に祐一がいるなら、…引きずり出す」
 剣を――
 手にした剣を――逆手に、手にした剣を――
 その、胸に…
 ――突き立てる。
「いやぁぁぁぁぁぁーっ!!!」
 血が――
 赤い、赤い、あかいあかいあかいあかいあかいあかいあかい赤赤赤…
 すべてが、赤に染まる。白も、黒も――すべてが赤になる。
 制服が、返り血で、――舞の返り血で、赤く…
「ああ…服が、真っ赤に…。どうして、舞――ッ!? なんで――ッ!!」
 私は――がっくりと膝を落として…
 哭いた。
「…いや、まだ、やってないのだが。それに…」
 彼岸が――見えた。
 もうすぐに。あぁ――あの子が、呼んでいる…。
 かずやが…。
「もともと、この服は、――赤い。…毒電波か、佐祐理?」
 …もうダメですか? 限界デスカ?
「佐祐理は、ダメなんですね、もう…」
 ならば、少しでも、早く…。
「あ、でも切腹はダメですよ。後味悪いですからねー」
「大丈夫だ。私は、死なない。祐一も、死なない。きっと…」
 きっと…って。
「私を信じろ、佐祐理。天使が――助けてくれる」
「天使――」
 月宮、あゆ――か? あの娘が――
「あの娘は――?」
「判らない。さっき、男の子が来て、教えてくれた。――大丈夫だって。
少し、佐祐理に似ていた…」
 一弥っ――!?
「ど、どこに――!! 教えて、舞…」
「後ろ。佐祐理の、すぐ後ろに。いつだって、いる――」
「うし――」
 振り返――るのは、やめた。
 もう、後ろは見ないと、決めたのだから。
 それに――。
 舞がそう言うのなら、わざわざ振り返ることもない。
 一弥が守ってくれるから、私は…
「大丈夫ですよーっ! なにがあろうと、佐祐理は佐祐理ですからっ」
 嫌いな佐祐理も、好きな私も、すべて抱きしめていこう。
 一弥が生きていた、証として。だからッ。
 私は、舞を――信じるっ!!

「…いきますよ、舞」
 剣を持つ手が、ふるふると震えている。
 覚悟は、決めたはずなのに…。
 ――ますます、震えてくる。怖い――。
「大丈夫だ、佐祐理。自分を、信じろ」
 私は、大好きな舞に、剣の切っ先を、向けている…。
 ――なにを恐れることがあろう?
 校舎の屋上から、身を投げることに比べたら、なんの――
「なにも、怖いことなんて、ないんだよね?」
「そうだ。怖くはない。お前は、人を助けるんだ」
 お医者さんだって、患者にメスを振るう。
 それと、同じだ。
「舞の身体を、切り裂いて――」
 祐一さんを助け出す。ただ、それだけのことなのに…。
 私は、怖くて仕方がないのです。
「佐祐理、やっぱり、私が――」
「ダメです!!」
 私が、やらないと、意味がないんです。
「舞を信じるって言ったんだから」
 出来ないのは、疑っている、証拠なのだから。
「佐祐理、無理をしなくていい。私は、お前を信じているから…」
「ありがとう、舞。でもね、これは試練なんだよ」
 天使は、優しいだけなんじゃなくて…
 強くなろうとする者に、微笑みかけるものだから…。
「これは――月宮あゆが、私に課した試練。私に祐一さんを好きになる
資格があるのかを、彼女が確かめる為の――試練なんです…」
 本当は違う。あの娘は、ただ本当に、優しい子だと思う。
 本当に、相沢祐一の幸せを願っているだけの――
 ただの、女の子だ。
 私と同じ――舞と同じ――なにも変わってなど、いない。
 どこにでもいる、普通の女の子。
「はぁーはぁー…はぁー………」
 身体が、ダイヤモンドよりも硬くなっている。
 あと、10センチ。腕を、前に出すだけで、――いいのッ!!
「佐祐理、頑張れッ――!! 祐一が、待っている…」
 そう、私は、祐一さんを、助け出す――。
例え――、
 親友殺しの業を、この身に背負うことに…なろうともッ!!
「くッ――!?」
 ――ずぶり。
 嫌な、音がした。
 舞――ッ!! ごめんッ…!!!
 ――ずぶ、ずぶ…
…ぎゅっと、眼を閉じていた。溢れる涙を、こらえるかのように。
 ズズブズブ…
 嫌な音は、まだ続いている。私は耳を塞ぎたかった…。
 手が、汗でべとべとして気持ち悪い。
 汗、――だから。なにも、怖くなんて、ないのだから。
ブブブ…
 剣の柄を握り締める掌に、力を込める。
 押す。
 強く、押し込む…。腕の筋肉が、悲鳴を上げるくらいに、強く――。
「はぁーはぁーはぁー………」
「…佐祐理、まだ入っていない。もっと、強く…」
「もっと!!」
 最後の、ひと押しを――
「舞ッ!!」
 ガッ、
――と、剣の鍔(というのだろうか?)が、ぶつかる感覚――。
「舞…もう、これ以上は入らないよ…」
「そう…だな。ああ、ちゃんと私の身体に入っているから…佐祐理」
「眼を――開けても、平気かな…?」
「佐祐理は強いから、大丈夫だ」
「うん…開けるね」
 私はそっと、眼を開く。きっと、世界は霞んでいるのに違いない。
 ぴったりとくっついて離れない瞼を押し上げるのに、少し疲れた…。
――赤い。
 赤い、舞の、制服が、見えた…。
 赤い、真っ赤な血に、染まった、制服が、見えた。
 赤く染められた、私の両手が、見えた。
 しっかりと、身体の真ん中を刺し貫く剣を、握り締めている。
 固く、握り締めている。
 そこには、なにも――怖いものなんて、なかった。
 ただ、苦しそうにあえいでいる、舞がいるだけ…。
「――私が、やったんだね」
「お前が、殺ったんだ――」
 人殺し――。そう、見えない誰かが言った。
「おばかさん…」
「なにッ!?」
「魔物退治――」
 根元まで刺さった剣を、一気に引き抜く。
 鮮血がほとばしり、すべてを赤く染めてゆく…。
「意味のない遊びは…もう、終わりにしましょう!!」
「そ、そうか――川澄舞は…キサマは、わたしを――」
 舞の身体の中で、誰かが言った。
 檻の中に囚われた、かわいそうな魔物――。
「あなたは、舞に還るの。もとの1人の舞に――帰る時なのよ」
「1人の、舞…? ああ、そうだ。わたしも――川澄舞だったんだ…」
「あなたを捕らえていた檻は、私が壊しました。さあ…おいで?」
「…うん」
 黄金(きん)色の、大海原。
 うさぎの耳の形をした、ヘアバンドが揺れる。
 並んで立つ、少年は――
「祐一さん、あなたもっ!! 早く――っ!!」
 この世界が、なくなってしまう前に――。

 夢…。夢を見ている…。
「約束――だから」
「うん、約束だよ」
「待ってる…から。明日も、ここで待ってるから…」
 ずっと、忘れてた…。忘れようと、していた…。
「舞と交わした、約束のこと」
「ごめん。ボクのせいだね…」
「あゆは、悪くなんてないさ」
「そうかな?」
「そうだよっ」
「そっか…。だったら、約束は、守らないとね?」
「でも、俺どうしたらいいのか、わからないよ…」
「よく、見ればいいんだよ」
「なにを見ればいいんだよ」
「そうだね。例えば――あの女の子は、祐一くんのお友達かな?」
「――祐一さんっ!!」
 え――?
「佐祐理さんっ、なんでッ――!?」
 こんな、ところに…?
「大っきなぬいぐるみだね〜。誰かへの、プレゼントかな?」
「――祐一ッ!?」
 ああ、そうか。今日は――。
 その瞬間…
 ――ガン、ガン、ガン…と、大きな音がした。
 身体中が、とても痛かった。
「…なあ、あゆ? ――俺は、どうしたんだ?」
 なにが起きたのか、全く理解できなかった。
 ただ、――とても痛かった。
「祐一くんの選択肢は、まだ、いくらでも残っているよ?」
「選択肢…?」
「キミは世界に、なにを望むの――?」
「俺は――」
 忘れてしまうことが出来なかった、あの約束を…
「彼女との約束を、守らないと…」
「そっか…。やっぱり、そうなんだね…」
「ああ、ごめん、あゆ…」
 これだけは、忘れてしまうわけには、いかなかったから…。
「どうして、今まで思い出せなかったんだろう…」
 こんな、大切なことを…。
「悲しいことが、あったんだよ…」
「悲しい、こと?」
「思い出す必要は、ないよ? キミには、必要のない、ことだから――」
「あゆに、関係あること?」
「見てよ、祐一くん?」
 大きな翼…。白くて綺麗な、柔らかな、羽…。
 翼を広げた彼女は――、そう、
 天使、だったんだ。
「ボクは、夢の世界を神様に貰った。もう、祐一くんに、なにかを貰う
必要なんて――ないんだから。だから――っ!!」
  ――ボクのこと、忘れてください――
「もう、会うことはない、――大好きな、あなたへ…」
「そんなっ、ま、…ちょっと待ってくれ、あ――」
 あ――
「あ…」
 夢…。夢を見ている…。
――幼い頃の、夢。
 もう、思い出すことは、出来ない夢…。
 醒めてしまえば、それでおしまい。
でも――。
「…俺、なんで、泣いてるんだ…?」
 目覚めは、朝の光は――なぜだか、とても…悲しかった…。
 相沢祐一は、彼女の世界から、捨てられたんだと、知った。
 もう、名前も思い出せない…。
 夢の世界の――天使。
 もう、その夢さえも、見ることは叶わないのだと、知った。
 バカ…。
「…こんな結末は、悲しすぎるだろう?」
 だから俺は――俺だけは、
 お前のためだけに、…泣いてやらないと、ダメなんだ…。
「明日から、俺は笑うぞ? いいんだなっ――!!」
 窓を開けて――今日も寒いな。
 鉛色の空に向かって叫んだ。もう誰もいない、その、空へ――。

――のハズだったんだが。
「うん、それでいい。キミの涙は、ボクが貰うから――」
 振り向くと、そこに彼女が――月宮あゆが、立っていた。
「…なんだよ。さよならじゃなかったのか、あゆあゆ?」
「うぐぅ、あゆあゆじゃないもん…」
 折角、忘れてたのに――。
 思い出して、しまったじゃあないかよ。全部ッ!!
「恨み言の捨てゼリフでも、言い忘れたのか?」
 ――聞いてやるよ。
 全部吐いて、今度こそ、ちゃんとした天使になれっ。
「約束を、思い出したんだよ。うん、これが、最後だから――」
 約束――?
 ああ、…なんでも願いを叶えてやるって言ったよな。
でも――。
「俺から貰うものなんて、なにもないんだろ?」
「そう…思ってた。でもね、やっぱり――」
 1人で行くのは、寂しいから…。
 そう、あゆは、言った。
「そうだよ。だからボクは、祐一くんの…涙を貰っていくんだよ」
 なんだよ――。
「こんなものが、お前の願いなのかよ?」
「ボクには充分だよ。これは…この涙は、祐一くんの、心の欠片だから。
だから、ボクはもう、今度こそ…この世界から、さよならするよ――」
「――忘れねえよ! 俺の心を奪った、ドロボウのことなんてっ!」
 タイヤキなんかより、よっぽどタチが悪いじゃないか――。
「…返せよ? 何年経ってもいい。俺の前に生まれてこいッ!!」
 俺の――子供でだって、いい。
 悲しいはずなのに…不思議と、涙は――流れなかった。
「ん。だったら、いいねっ――!! また会おうね、祐一くんっ!!」
 ――約束だよ――。

「祐一さーんっ!」
「あ、佐祐理さん。どうしたんですか、そんなに嬉しそうに…」
「もちろん、嬉しいに決まってるじゃないですかーっ」
 祐一さんが、生きていた。
 また、私の前に、戻ってきて、くれた。
「祐一さんは…なんだか寂しそうです…」
「…そうか?」
「そうですよーっ! 祐一さんも、笑わないと、ダメですよっ」
「はは…こうか?」
 作りモノの、笑顔。
 佐祐理と同じ――。哀しい、笑顔。
「夢を…夢を、見ていたんだ」
「夢を――?」
「どんな夢なのか、もう、思い出せないんだけど。なんだか、とっても
――悲しい夢だった。そんな、気がするんだ」
「どんな…夢だったのか、解らないんですか?」
「…なにかな? 白い――なんだろう。羽…翼、か?」
 なんとなく、残っている、イメージなのだそうだ。
 白い――ツバサ。
「天使ですよ。それはきっと、天使の翼です」
「天使――」
「祐一さんは、天使を探しに来た…んだって、言ってたでしょう?」
 あれは、あの科白自体は…嘘からの出任せだったのだろうが…。
 彼の心には、確かに天使は――いたのだ。
「…佐祐理さん。舞は…?」
 そう、祐一さんが言う。そう…私に、訊いた。
 舞は――
「病院ですよ。――怪我を、してしまったんです」
 そう…。
 奇跡が、起きたんです。舞は――死ななかった…。
「なんだよ。また、魔物と戦ってたのか…?」
「そうなんです。今度の魔物は、すごい強敵なんですよーっ」
 そう、倉田佐祐理は、――強敵ですよ。
「そりゃ大変だ。また、差し入れしてやらないとな」
「あははっ、刺し入れは、もう必要ありませんよー」
 次は、ないかもしれないから。
 もう、天使は、いないのだから――。
「天使は――祐一さんに、お別れを言いに行ったんだと、思う」
「俺に天使の知り合いがいると思うか?」
「私が――、倉田佐祐理が、あなたの天使――というのでは?」
「悪くは、ないかもな」
 奇跡は、もう起きないのだから。
 だから、舞。早く、元気になって…。
 私から、祐一さんを奪い返してごらんなさいな。
 佐祐理は、絶対に、負けませんからっ!!

「…舞は、病院なのか。…まさか、入院してるのか?」
「そんな大袈裟なものじゃないですよー。ただちょっとだけ、――血が。
たくさん血が出ちゃったから――。いちおう検査して貰ってるんです」
「そうか。なら、――差し入れは必要ないな」
「あははーっ、だから言ったじゃないですかー」
「上手いタイヤキ屋があってさ――それで…」
 祐一さん…。
「また、寂しそうな顔…してました。ダメですよっ!」
「ああ、ごめん…。なんでかな。悲しいのに、涙が出ない感じ…」
「ほらほらーっ、舞が待ってますよーっ! 元気、元気っ!」
 と、その時――。
「あ、祐一さ、危な――」
「えっ!?」
「あぶないよ。どいてどいてーっ!!」
「うおっ、なんだっ――!?」
「祐一さんっ!!」
 思いきり、彼の腕を引いて、それをかわした。
 あの時――。
 なにも出来なかった佐祐理が、悲しかったから。
 今度は、ちゃんと、祐一さんを助けるんだ。
 ――そんなことを、ふと――
 思い出しながら…。
――どしん。
 派手な音がして、彼女が、冷たい地面に、口付けをした…。
「うぐぅ、痛いよぅ〜」
 忘れない――。
 決して、忘れたりは、するものかっ!
「大丈夫ですかー?」
「…うぐぅ、本当に避けるなんて思わなかったよぅー」
「…てことは、なにか? 確信犯か、お前――?」
「そ、そんなこと、ないよ? 偶々、偶然だよ?」
 ふるふると…。少しだけ、伸びた髪を揺らしながら。
――月宮あゆが、言った。
 天使は、地上に降りて――
 この大地と、誓いの接吻をしたのだ――。
 そんなことを、考えていた。
「誰だか知らないが、次から気をつけろよ?」
 えっ――?
「…うん。ごめん…」
「ゆ、祐一さん?」
「なに? あ、もしかして、佐祐理さんの知り合いか、コイツ?」
 ちら――と、あゆを見た。
 こくん…と、頷いた。
 これでいいんだ。
 これが、――彼女の選んだ、選択肢だったのだ。
 なら、私は――。
「ええ、知り合い…というか、お友達なんですよー。ね、あゆさん?」
「――ッ!? しー、しー」
 口許に、人差し指を立てて…
 くすくすくす…。
 その様子が、あまりに可愛くて、…思わず笑ってしまった。
「あはははは。なにか、彼に知られては、まずいことでもありますか?」
 私って――意地悪なのかしら。
 あーあ、なにを今さら…。
 祐一さんも、舞も、そして一弥も…みんな被害者なんじゃない。
「また、佐祐理の被害者が生まれてしまいましたねーっ♪」
 くすくすくす…。
 あはははは…。
「うぐぅ〜、キミがそんな人だとは、思わなかったよぅ〜」
「だって…私は、魔物ですもの」
「魔物って、佐祐理さん?」
 そうですよ、祐一さん。早く気付いてくださいね。
「これから、舞と戦うために…祐一さんと一緒に病院へ行くんですけど。
…月宮さんもどうですか? 一緒に――行きませんか?」
「つきみや…あゆ?」
 そうです。月宮あゆですよ、祐一さん。
「ボ、ボクは…急いでるから。また、今度ね――っ!」
 走り去る、あゆ。
 静かに、それを見送る、祐一さんは――
「祐一さん? 泣いて――」
 泣いて、いました。
 相沢祐一が、泣いていました。静かに…。
「…ばか。こんなもの、返しに来なくたって、よかったのにさ」
「祐一さん、あの娘は――」
「想い出。忘れかけた、心の欠片。天使はもう――地上には、現れない」
 ああ、あれは…。
 この地上に、別れを告げる、さよならのキスだったのか――。
 最後の、別れを。
「私たち、実は似た者同士だったんですね。私と、舞と、祐一さんと」
 だから、こんなにも、惹かれ合うのだろう。
「過去という、赤い鎖に縛られた――」
 悲しみを抱いて、生きてきた。
 想い出の、欠片。
 天使は――
「天使は、その鎖を断ち切って、空へ返してくれたんですよ。きっと…」
 歩みを1つ進める度に。
 想い出の欠片は、集まっていく。
 愛し合い、触れ合った絆――
「人は、悲しみを乗り越えて、生きていくんです」
「いつまでも、過去に囚われては、…いけないということか」
「そうですよ。行きましょう、祐一さん。舞が、待っています」
「そうだな。行こう、未来へ。そして――」
 さようなら、あゆさん…。
 またいつか、会いましょうね。
 過去ではない、その時まで――バイバイっ!!

「佐祐理、遅い――」
 う、怒ってますかー? 病院のロビーで、舞が待っていました。
「でも――、祐一を連れてきたことは、偉い」
「それは良かったですー。ところで、舞――?」
「平気だ。傷も、もう治った」
 すごい回復力――!!
「ねえ…やっぱり、あれは、あゆさんが――」
「そうだろう。それが、祐一の願いだったから」
「あははー、舞『も』、祐一さんにとっては大切なお友達ですからー」
「トモダチは、佐祐理『だけ』だ」
 ひくっ――と。
 一瞬、口許が引きつってしまった。
 祐一さんに、見られただろうか…?
 まあ、いいか。それも含めて、佐祐理なんだし――。
「あはははー? 舞〜、それって、どういう意味かなァー?」
「佐祐理は、嫌いじゃないから」
「祐一さんは?」
「ゆ、祐一は、その…き――すき…好きだからっ!!」
 ふふ…舞ったら、顔、真っ赤にしちゃって…。
 祐一さんが、好き…だなんて、――え?
「す、好き――っ!?」
 す、好きって、言った? 舞が?
「す、す…好きだ。佐祐理だけ、言うのは、ずるいから…」
「…お前らなあ…場所を、考えてくれ…」
 祐一さんが、言った。閉院時間前のロビーは、人で溢れていて…。
 好奇の視線が、私たち3人に――
「恥ずかしいじゃないか…」
 じっと、注がれていました…。
「――まったくです。こんなところで…する話でもないでしょうに」
 ハッ、として…視線を――脳が勝手に、首を右に回す。
 背中越しに、女の子の声がしたから。
 だけど――
「あ…」
 違うか。
 違うよ。当たり前じゃない。
 彼女は、もう地上に別れを済ましてしまったんだ。
 随分と、未練はあったようだけれど…。
 彼女が、それを選んだのだから…。
「あ、えっと…ごめんなさいー。少し、静かにしていますね」
 同じ学校の、生徒さんでした。
 制服が同じだから、そう思っただけなんですが。
 少しだけ、赤めの髪を、肩の辺りでカールさせた女の子。
 あまり、機嫌は宜しくないのかもしれない。
 …それは、そうか。
 体調が、良くないのかも、しれないですね…。
「病院で騒いだら、良くないですよね。ごめんなさい…」
「――それも、ありますけど…」
 ん?
「いえ、失礼します――」
「あ、はい。さようなら…」
 最後に、祐一さんを睨むように…
 さりげなく横目で一瞥していったのが、少し気になった。
 なんとなく…気に障った…。
「彼女も、お知り合い。…なんですかー?」
「いや、知らない娘だが。1年生か…なら、栞の、友達か?」
 しおり――?
 あははー。まったくもって誰ですかー。それはー?
 あの子が1年なのは、リボンの色で誰にでも解りますけどねー。
「普通、クラスメート以外の女の子なんて、知らないですからねー」
「祐一は、浮気者――」
 舞が、彼の咎をなじるかのように言う…。
 ざわっ――と。
 再び、私たちの周囲がざわめいた。いけない――
「まだ、ロビーにいたんでしたっけ…?」
 迂闊だわ。良からぬ噂でも立ったら、どうしようかしら――。
 祐一さんとの関係は、お父様たちには秘密なのになあ…。
 これも、越えなければならない、壁か。
 絶たなければいけない、見えない――鎖か。
「と、ともかく。舞もなんともないなら、早くどっか行こうぜっ」
 そう、祐一さんが言ったので。
 私たちは、その病院を後にしようと…
 ――したのですが。なぜか…。
「…そうですか。いつかは、この日が来るとは、知っていたのですが…。
集中治療室の…あの、月宮あゆさんが…そう。残念だわ…」
 なぜか――聞こえて、しまったんです。その、声が…。
 私はひとり、きびすを返して、――走った。
 声のした、診察室らしきドアをバンと開け――
 看護婦と、彼女の間に、割って入る。
「ちょ、ちょっと、あなた、ここは――!」
 そう怒鳴った、小柄な看護婦の肩を、左手で押しのけていた。
 落ち着かなきゃ…そう、思うのに…。
 月宮あゆが――
「あゆさんがッ!? どう――したんですか?」
 私は、知らず声を張り上げていました。
 その、若い女の人を、睨みつけていました…。
「…あなたは?」
 彼女は――白衣をまとった、その人は、落ちついた声で…問う。
 それがまた、…癪に障った。
 だから、出来る限りの大きな声で、言ってやったんです。
「私は、あの娘のっ! 月宮あゆの友達ですっ!!」
 …と。
「――? そう…彼女の、お友達、ですか…」
 長い髪を、1本の三つ編みにした、その女性は…医者なのだろうか。
 少し、驚いたようだった。
 そして、またその落ちついた声で…。私を、見つめて…
「幸せそうな、寝顔で。とても…嬉しそうに…眠っていたそうですよ」
 そう――言った。
 その声が、とても穏やかで…。
 その瞳が、とても優しくて…。
 私は――私の心が安らいでゆくのを、感じていました。
 彼女には、人の心を癒す力があるのだと――
 感じていたのです。
 もう、なにも、怒ることなんて、…なかったのです。
「はい。友達です。ついさっき、なったばかりの…、友達です」
 私は、ゆっくりと、笑顔で――そう言いました。
「つい、さっき…? そう…いい子だったでしょう?」
「はい。とても、やさしく…て――うっ…」
 哀しかった。
 ただ、悲しかった。解っていた、ことなのに――。
 月宮あゆが、たった今――死んだ。
 この、病院で、彼女は眠っていたんだと、知った。
 この、場所で、夢を見続けていたんだと、知った。
――にこり。
 彼女が、微笑む。慈愛に満ちた、その瞳で――微笑んでいる…。
 ああ、優しい人…。私には、なれそうもない…。
 私は、この人には勝てない。
 そんなことを感じながら。私は――
 彼女の胸の中で、その優しさに包まれながら――泣いたんです。
 ただ、悲しかったから――。

「佐祐理…」
「う…ぐすっ…まい…ゆいち、さ…」
 舞と祐一さんが、私を追って、部屋に来ていました。
 ずっと…見守っていてくれたんだと、思う。
 本当に、嬉しかった…。
「もう、大丈夫かしら?」
 私の肩を抱きながら、白衣の女性が、言います。
「はい…ごめんなさい…」
「いいのよ。悲しい時には、泣かなければ、――だめよ?」
 そっか…。
 この人も、泣きたかったんだ。
 哀しいのは、私だけじゃないんだよね?
「祐一さん…」
「佐祐理さん、行きましょう。それから――」
 その優しい瞳に、あの人の姿を映しながら…。
「ありがとうございます。秋子さんっ!」
 そう、深深と…頭を下げながら――祐一さんは、言った。
 優しく、なりたい。
 この2人のように、優しい人間に、なりたい。
 そう、私は…もういないはずの天使に…願った。
「あの…もしかして最初から、あゆのこと――知ってたんですか?」
 祐一さんが、あきこと呼んだ女性に問う。
 明子か、秋子か、漢字3文字か、平仮名か…。
 そんな、どうでもいいことを、つい考えてしまう。
 つらいことを、考えないように…している。
 …だけかもしれない。
 考えたら…思ったら――また泣いてしまいそうだから。
「知りませんでしたよ」
 あきこさんが、答えた。
「勿論、ここにそういう患者さんがいるということは知っていましたし、
それが、月宮あゆという名前の…祐一さんの、昔のお友達ということも
知っていました。そうですね…。街で、あの子に会って…うちで一緒に
食事をして。それから――彼女の病室に、初めて会いに行ったのよ」
「それで秋子さんは、あれが…あゆだと解ったんですね」
「面会謝絶の状態で、担当の人間以外は、入れなかったんですけどね。
怒られてしまうので、このことは秘密ですよ?」
 そう言って、微笑った。
 祐一さんの問いに答える彼女の瞳は、どこまでも穏やかでした…。
そして――、
 私たち3人は、病院を後にしました。
 もう、そこにいる理由もないから。
 もう、そこには、あゆさんは、いないのだから。
「一応、定期的に検査を受けるように、してくださいね」
 舞は、そう言われて、少し嫌そうな顔をしていた。
 必要ない――と、そう言いたかったのだと、思う。
 
 その、帰り道――。
 祐一さんは、私と舞に、彼女――水瀬秋子が、自分の従妹の母親で、
居候先の家主でもあると、教えてくれた。
 従妹――秋子の娘は、同じクラスで…陸上部の部長だという。
 どうでもいいといえば、どうでもいい。
 気になるといえば、気になる…。
「1つ屋根の下で…」
「え? なにか言いました、佐祐理さん?」
「いえ、別に…」
 いや、すっごい気になる…。
 なにせ、あの秋子さんの娘。相当な美人に違いない…。
 そんなことを考えながら、歩いていました。
「ゆういちーっ! こんなところにいたよーっ!」
 駆けてくる、少女。良い走り方…だと思う。
 よく、分かりませんけど。
「もう〜、探したんだよー?」
「なんだ、名雪。俺になんか用か?」
 長く、きれいな…青みがかった黒髪が、風に…たなびく。
 なゆき――。
 祐一さんの、従妹の名前だ。名雪、と書くそうですが。
「ああ、俺の従妹の名雪。さっき話した…」
「ゆういちの…おともだち?」
 少し、惚けたような表情で、彼女が言う…。
 確かに、美人の類ですねー。
「倉田佐祐理です。祐一さんとは、個人的にお付き合いをあたっ!」
 舞のチョップが、佐祐理の側頭部へと――飛んだ。
 微かに、瞳の奥から涙が滲んでくる。
「すぐに頭叩くの、やめてくださいよぅー。痛いんだからぁー」
「抜け駆けは、よくない」
 舞が、佐祐理を、――睨んだ。
「ねえ、ゆういち…?」
 ぽかんとした表情で、彼女が訊いた。
「2人とも、大切な人だよ。大切な…友達…かな」
「ともだち…?」
 訝しむような瞳で、私と舞を見比べて――
「そうなんだ〜、良かったね、ゆういちっ!」
 そんなふうに…笑った。
「なにが、良かったんだ?」
「素敵な友達が、たくさん出来たことだよっ。ゆういちは、転校したて
だから、なかなか友達が出来ないんじゃないかって…心配してたんだよ」
 あ、ちょっと佐祐理に似てるなー。
 ――そんなふうに、直感した。
「俺って、そんなに友達いなさそうに見えるのか?」
「そうは、言ってないよぉ〜」
 困ったような顔が、また可愛い。
 強敵だわ――っ!!
「あははー、お互い、負けないように頑張りましょうね♪」
 笑顔。私に出来る、精一杯の、表情。
「うん…?」
 一瞬、きょとんとした表情を見せてから――、
「そうだね。ふぁいと、だよ♪」
 満面の、笑み――。
 普通に、笑えるのが、正直うらやましかった。
 私の笑みは、やっぱりまだ、ぎこちないものだと、思う。
 まあ――。
「川澄舞…」
 祐一さんにせっつかれて、無愛想な挨拶をした、舞に比べれば…。
 舞が、笑ったら――?
 そのときは、佐祐理の負け――かもしれないですねー。
「あら? 相沢くんと、名雪じゃない。どうしたのよ、こんなところで」
「あ、香里〜。聞いてよー。ゆういちったら、ひどいんだよ〜?」
 2年生。クラスメート、だろうか。2人、こちらにやってくる。
 男女1人づつの…カップル、かな? 仲は、良さそうだけど…。
「ちょっと待て、名雪! 俺がいつ、お前に、なにをした!?」
「したよ! ひどいこといっぱい、してるんだからっ!」
「まだ、ノートのこと根に持ってるのか?」
 ノート…か。
 舞と祐一さんが出遭った契機は…彼が、忘れたノートを…夜の学校に
取りに行った日――。その日も、舞は戦っていたのだという。
 それが、私と祐一さんの、――初まりの日。
 舞にとっては、ずっと待っていた――約束の日。
 …だったのだけれど。
「今日は…一緒に商店街に行くって、約束したじゃない」
 名雪が、拗ねている。
 約束…。
「そうだったか…?」
「そうだよ。ウソつき…。いっつも約束破るんだからっ!」
「あはは、祐一さんって、約束忘れちゃう人なんですねー」
「そうなんだよ〜。この前だって…。あの時だって――」
「ですが、絶対に…約束を守ってくれる人ですよ、祐一さんは。ね、舞?」
 ――こくん。
 と、舞が頷く。
「祐一は、約束は守る。待っていれば、必ず…」
「そうかぁ? ――って、おい、相沢っ! この人って、まさか――」
 もう1人の…男の人が、舞の方を見ながら言いました。
 この視線の意味は、よく知っています。
「3年の、倉田佐祐理に川澄舞。こう見えても、俺たちより先輩だ」
 祐一さんが、言った。
「やっぱり…。あの、川澄…。おい、相沢っ!」
 舞を、直接知らない人の反応は、大抵、こんな感じだ。
 腫れ物に、触るように。――いや、触らないように、手を退いて。
 触れば、それは痛くないんだって、解るのに…。
 でも、祐一さん?
 ――こう見えても――って、なに?
「佐祐理は、そんなに子供っぽいんですか?」
 ちょっと、ショックでした。
 この髪のリボンが、よくないんでしょうか…?
 祐一さんが、嫌だというなら、私は――。
「もう、ゆういち〜。そんな言い方って、失礼だよー」
「違う、名雪っ! 佐祐理さんも、そんなつもりじゃなくて…」
 おろおろと…うろたえる姿が、かわいくて。
「あははー、佐祐理は、今の私が大好きですからーっ!」
 だから、私は、このままでいいのだと…。
 私じゃない佐祐理なんて…好きになっても、意味は、ないのだから。
「他人は他人。佐祐理は佐祐理ですよ、祐一さん」
「あ、うん。ありがとう」
「あ〜あ。ゆういちって、わたし以外の女の子に優しすぎるよ〜」
「俺は、名雪にも優しいつもりだが?」
「え〜っ? そんなのウソだよ〜」
「ふふ…名雪ってば、本当に、お子様なんだから」
「香里まで、そんなこと言う〜」
「あら、いけない。ドラマが始まっちゃうわ。早く帰らなきゃ!」
 かおりと呼ばれた少女――これも、かなりの美人ですが。
 濃いめのブラウンの長髪を、ウェーブさせている。
 かなり、大人っぽい印象の人だ。
 その彼女が、軽くウィンクしながら、――言った。
 名雪が、なにやら不満そうな顔で、答える。
「テレビ見るために帰るなんて、香里だって子供じゃないの〜」
「一緒に見る約束しちゃったからね。仕方ないじゃない」
 そういうわけだから――。
 そう言って、彼女は…颯爽と去っていきました。
 その後を、もう1人の男の子が、ついて行きました。
 こういうのを、金魚の――なにやらと言うらしいですね。
「…上手くやってるみたいだな。栞…」
 祐一さんが、誰ともなしに呟く。
 ――聞かなかったことに、しておきましょう。
 いちいち気にしていたら、キリが、ないようですからね。
「ゆういち〜、商店街は〜?」

 結局――。
 時間もあまりないからと…私たちは、ここでお別れしようと…
 そういう話に、なりました。
 その時――。
「あ、祐一っ。祐一も、今から帰るとこ?」
 きつね色の髪の少女が、商店街の方から、歩いてきて…。
 祐一さんの姿を、見つけて。
「じゃあ、一緒に、帰ろうっ!」
 …と、言ったから。
 ――名雪さんは、不満のようでしたが――
 私たち…佐祐理と舞は、そのまま祐一さんたちと、お別れです。
「それじゃ、祐一さんっ! また明日――」
 そう言って、お別れしました。
「あの子…」
 舞が、不意に立ち止まって、言いました。
「どうしたんですか、舞?」
 2人で歩く、夕焼けの道。
 …今日は、晴れていたんですねー。
 私は、くるりと――後ろを振り返る。
 舞が、立っている。
 影が、長い――。太陽が、低いんだなあ、と思った。
「あの、真琴という存在が…気になる」
「ああ…沢渡真琴って、言ってましたねー」
 先ほど会ったばかりの、髪の長い少女…。
 祐一さんが、紹介してくれた。水瀬家の、居候だという話。
「彼女が、どうかしましたか?」
 やや発育が良くない――佐祐理と比べて、ですが。
 というか、舞は、違うんで。
 そう思わなきゃ、やってられないんで…。
 まあ、あまり栄養状態が良くなかったのかもしれない少女。
「別に、普通の女の子だと思いますけど」
「気配が――。ヒトと、違う…」
「魔物?」
「いや、あれは、もういない。私と同化しているから」
 そう、あの魔物は、舞自身の創り出した、影――。
 祐一さんを待ち続けるために、創り出した、舞の分身でした。
 あの時――。
 マモノは…舞の心という暗い檻から…解き放たれたのです。
 舞の生命と引き換えにして――。
 それはまた…
 月宮あゆの、生命の力――相沢祐一の願い、と…引き換えにして。
 舞は、舞として、今も生きている。
 それは、罪だろうか? 舞の、罪だろうか?
 佐祐理の、罪だろうか? 祐一の――
 罪などでは、ないだろう。
「あゆさんは、祐一さんが、本当に大好きだったからね」
 大丈夫。もう泣かないって…。
「舞は、彼女の分も、幸せにならないと――いけませんよ?」
「佐祐理が、邪魔をしている…」
「私は壁です。この、とてつもなく厚い壁。…貴方は、突き破れて?」
 私は、壁。祐一さんと、舞との間に立ち塞がる、大きな――
「破らない。…その壁の向こうに、祐一を感じられるから」
 壁に――。
「はぁ…」
 壁どころか…まるで、『穴の開いた障子』よね…。
「勝てないですよ、舞には。佐祐理は…」
「勝たなくても、いい」
「佐祐理は、勝ちたいんですっ」
「…勝つんじゃない。負けるんじゃない…。――そうだろう?」
「あ――」
 私は、また…。だから、勝てないんだって…ちがう――。
「舞よりも素敵な、女の子に…なりたいよ。私は…」
「佐祐理…お前は、馬鹿だな」
「ば――そう。そうだよ、佐祐理はバカだよ。解ってるよ、そんなの…」
 一弥は、優しいから、許してくれたのかも、しれない…。
 あゆは、優しいから――。
 でも…。
「私は、やっぱり嫌ッ! 祐一さんを、誰にも渡したくないっ!!」
 渡さないんだから…。
「月宮あゆにも、水瀬名雪にも、秋子さんにも、真琴にもッ――」
 そして…
「川澄舞――貴方にも、渡さない」
「佐祐理――お前は、魔物に憑かれているな」
「マモノ――? 魔物は、あなたでしょう、舞…」
「そうか――解った」
 すらり――と、舞が剣の鞘を払う音。舞が、持っていた剣を…抜く。
「ま、舞…なにを…? まさか…」
「佐祐理…私は、お前には、何度も教えたはずだぞッ!!」
  ――私は、魔物を討つ者だから――。
「私を――佐祐理を討つのっ!?」
 今頃になって――なら、なぜ、あの時に…
「やっぱり…あの時、殺しておけば、良かったんじゃないッ!!」
「今は――、佐祐理が魔物を解き放とうと、しているから」
「私は、ただ――」
「佐祐理――すまん」
 舞が、両手で剣を構える。
 右手を引き、剣先を、身体の右後方へ、向ける。
 同時に――。
「だぁぁぁぁぁっ!!」
 重心を落とした舞が、
 疾る――!!
  …こんなに、距離を取っていたのか、私は…? いつの間に…。
――来るッ!?
「な――」
 涙…。
 クッ――。考えてる、余裕なんてないッ――! 舞が…
「避けろっ!!」
 シャッ…
 うっ…!
 舞の斬撃が、額を掠める――。
 左下から、――!?

 はらり――。

 前髪が、舞った。切れた――?
 舞が、斬ったんだ。
 …見えない。見えるわけがない。私は、普通の人間だ。
 切っ先は――どこ?
 目を、泳がせる。
 右上――?
 頭の上、右上に、腕が伸びている。その先に――あった!!
 左下から、右上に向かって、斬った。
 今のは、そういう動きだったんだ。
 見えなかっただけで…。
 ここまで、何秒あっただろう?
 あ、あは、――。
「あはは…、わたし…あたま、いい…? あはは…」
 見えなきゃ、なんの意味もないんだよ――!!
「くっ――」
 観念して、目を瞑った。きつく…。涙が、滲むくらいに、強く――。
 あとは、振り下ろすだけでいい。簡単だ。
 私は、逃げない。逃げられも、しない。
 ――動けないんだから。
 脚が、がくがくと震えて。
 なにも、考えられなくて。
 怖くて――。
「ぐ…ぐすっ…ううっ…」
 失禁しなくて良かった…なんて、そんなことしか、考えられなくて。
 馬鹿そのもので――。
 舞の前に立ちはだかることなんて、できるはずもなかったのに…。
「ブザマだな、佐祐理――」
 怖くて…泣いてしまった私を、嘲笑うような、舞の声。
「違うでしょ?」
「解ってるよ!」
 後ろから聞こえた声は――。
「解ってるわよ、一弥――っ!!」
 一弥の声。優しい声…。私は、なにも強くなってなんて、いない。
がっくりと…
 膝が、落ちた。幸い、失禁は、していなかった…。
「…斬る?」
 情けない顔で、そう訊いたに、違いないのだ。
「虚勢を張るな。佐祐理は、弱い――」
「弱いわよ…私は、弱い。今だに、弟の…一弥の死を、引きずって…。
でも、――それをいうなら、あなただって同じはずでしょう?」
 私と、あなたと…なにが違うっていうの…?
「久瀬さんが、…生徒会長が、佐祐理の生徒会入りにこだわったのも、
倉田の家が、お金持ちだから。――それだけなんです。私には、なにも
…ないの。なにも出来ない。なにも、してあげられない…」
「佐祐理のお弁当は、美味い」
「そんなの、誰にだって…」
 秋子さんの料理だって…美味しいって言ってました…。
「祐一は、佐祐理の作ったものが、好きだと言った」
 だから――っ。
「佐祐理の笑顔が、好きだと言った…」
「私は、祐一さんを騙していましたよ。この――」
 贋物の笑顔で…。
 わらう。あの時と、同じ顔で、わら――
「…あれ? おかしいな。どうやってたんだっけ…?」
 わらい方まで、忘れてしまったみたい。
「舞…私――佐祐理は、どうやって…わらってたんですか?」
「――こんな、顔じゃなかったか?」
 そう言って、舞が自分の頬を両手で引っ張り上げるように――
 プッ――!
「あ、あははーっ、なによ、舞ったら、そのヘンな――」
 あれ? …笑ってるね、私。どうして…?
「いいか、佐祐理。私は、佐祐理が好きだ。祐一も、佐祐理が好きだ。
例え、佐祐理が嘘を吐いても、私たちは、佐祐理の嘘が、好きだ」
「私も、舞は好き。好きだけど…」
 好きだから、余計に――羨ましいんです。貴方たちが…。
「強い人間なんて、いない。人は、なにかしら、弱いものを持っている。
それが、魔物になるのだと…彼女は、――幼い私は、教えてくれた」
 舞が言う。魔物――川澄舞の、分身が…?
「魔物は、誰の中にもいるんだよ。認めて、あげないと…」
「認めて、くれないと…」
 一弥が、言う。私の中の、一弥が――ああ…。
「あなたが、私の、マモノ…だったの?」
「そうだよ。やっと解ったんだね、お姉ちゃん…」
 私を苛んできたもの…。ずっと…佐祐理を縛っていた、赤い鎖。
「さあ、今度こそ、お別れだよ?」
「そうだね、一弥。いえ…幼い日の、わたし?」
 見えない彼女に向かって、にっこりと、微笑んだ。
 でも…なにかが変わったわけじゃない。
 佐祐理は、相変わらず、弱いままで…。
 相変わらず、一弥の思い出に縛られたままなのだろう。
「…それでいいよ。私は、ずっと、一弥の手を繋いでいたい」
 うん、決して離さない――。
「舞…」
 こくん…と頷いて、舞は、私の差し出した手を――
 握った。強く、強く…。
「あ、痛いってば! 強く握りすぎですってばっ!!」
「…佐祐理は、面倒ばかり掛けさせるから、仕返し――」
 そうだね…。いつも、舞には心配ばかり、掛けさせてる…。
 だから――、
「舞に人のことをどうこう言う資格が、あると思って…んですかっ!」
 力の限り、彼女の手を、握り返してやりました。
「む…佐祐理のくせに…」
「舞の分際でッ――」
 ぎゅうぎゅうと、必死の形相でお互いの手を握る姿は…
 傍目に見れば、とても滑稽なものだったろう。
「あははははっ!」
「ふっ…ふふふ…」
 パッ…と、手を離して――
 ガシッ…と、抱き合う。なんだか――
「昔見た、青春ドラマみたいなノリですね、あははっ♪」
 お互いに、顔を見合わせて、笑った。
 (舞は、その例えが良く解らなかったみたいですが――)
 道行く人々が、不思議そうに、ちらり、ちらりと眺めてゆく。
 その中で…。
 佐祐理と舞の影が、ひとつに重なって…いました。

「佐祐理の魔物は、もう外には出てこない。もう大丈夫…」
 笑い疲れて、天を見上げた。星が――綺麗。
「わ、もう夜だっ」
 雲のない夜は、こんなに清々しい。
「う…くちゅん!」
 わ――? あちゃー、風邪、う〜…ひいたかも…。
「…で、舞。私の魔物が、…なんですか?」
 鼻をすすりながら、尋ねた。祐一さんには、見せられない姿だなあ。
「佐祐理は、一弥の死に縛られているから。彼女の心の、暗い部分が…
魔物が、外に出たがっているから、助けて欲しいと…そう頼まれた」
「そう。それで…」
 さっきのは、そういうことか。
「条件。私が、生きていられる、条件だから…」
「それが、天使との、――あゆとの、約束?」
 でも――。
「ごめんね、舞。私は、まだ一弥から、離れられないみたい…」
「それで、いいんだよ」
「それで、いいんだ。忘れちゃ、いけない…」
 そうだね、あゆさん――。そうだね、舞。
「心配性なんだね、キミは――」
 なんか、あゆっぽい喋り方だ…。
 私がいて――、舞がいる。祐一さんに抱かれた、幼い…少女。
 あれは、私の子供? それとも、舞の――。
 そんな、未来の姿を…思い描く。妄想癖も、そのまま…。
「人は、自らの心の魔物を、――怒りや悲しみ、そして喜び…すべてを、
大切にしないと、いけないんですね」
 過去を――未来を、否定しては、いけない。忘れては、いけない。
「佐祐理は、頑固で、モノ解りが悪いから――」
「なっ――!? …そりゃ、その通りでしょうけど…」
「佐祐理にする、お説教は…嫌いじゃない」
 ――もう。私は、そんなにダメな人間か。
「どうせ私は、他人よりちょっとだけ、おばかさんな…どこにでもいる、
普通の女の子ですよーだ…は…は…クチュン!」
 う…鼻が…。
 ずるずるずる…。ああ、情けない…。
「まあ…びょうびきばずれの、ずずっ…誰かさんに、お説教するなんて
言われちゃ、お終いですけどねっ」
「佐祐理、帰ろう。これ以上いると…佐祐理が帰らぬ人になる…」
「うぐぅ〜」
 あゆの口癖。簡単なようで、意外と難しいのね…。
 その時、外灯の影から現れた、人影――が。
「…佐祐理、さん? 舞かッ――?」
 よく、知っている声。ああ…
「祐一…さん?」
 祐一さん。どうして、こんなところに…?
「へ、へ…くしょん!」
「わっ!? ちょ、ちょっと、佐祐理さん…大丈夫…?」
「風邪を、…佐祐理は、ひいたかもしれない…」
 舞が、言う。祐一さんが、佐祐理の、額に手を押し当てて…
「あれ? 前髪が、さっきより短――って、あつっ!?」
 なんだ、これ――マジか…。そう、真剣な声で、言いました。
 私は、なんだか意識が…朦朧としてきました…。
「熱があるじゃないか! 舞…どうして早く連れて帰らなかった?」
「すまん…」
「ゆ、…いつさ…舞は、わるく、な…」
「ああ。解ってる。大丈夫…佐祐理さん?」
「あ、あはは…立場…ぎゃく…ですね…」
 あの時と――、あの夜の校舎での…あの日と、逆の立場ですね。
「とにかく、家まで送ります。舞、佐祐理さんの家は――?」
 ふるふる…と。舞が、首を横に振っている。
 ああ、舞を招待したこともなかったのか…。ダメだな、私は…。
「まい…ゆういちさんも…こんど、ちゃんとごしょうたい…しますね…」
「いいから。佐祐理さんは、喋らないで。…仕方ない」
 すっ――と。身体が持ちあがる。
「ゆ、祐一さん――!?」
 抱き抱えられて、いました。
 ああ、身体が火照っています。きっと、恥ずかしいんだ…。
 もう、なんにも、考えられない…。このまま…。

「…目、覚めました?」
 ここは…? ああ。病院か…。
「あなたは、風邪で倒れたんですよ。倉田…佐祐理さんだったわよね?
――また、会いました。憶えて、いるかしら?」
「水瀬秋子さんですね。病院で…」
 ここは、病院では、ないのだろうか…。
 どうみても――病院じゃ、ないね。
「ここは、私の家です。祐一さんが、あなたを抱えて、連れてきました。
――お腹は、空いていますか? お粥ぐらいしか、用意できませんが…」
「あなたが…?」
「私が、作ります。お口に合うかどうかは、解りませんが。なにしろ…」
 祐一さんが、佐祐理さんのお弁当は、すごく美味いって――
 そう、誉めている人に、食べて頂くわけですからね。
――そう言って、秋子さんは、微笑った。
「祐一さんは、秋子さんの料理を、誉めていました。ぜひ…食べさせて
ください。なにか、参考になれば…嬉しいです」
「了承。ちょっと、待っててくださいね。すぐに、用意いたしますから」
 そう言って、秋子さんは、部屋を出ていきました。
「…大丈夫〜? まだ、顔、赤いね…」
 入れ替わりに、入ってきたのが、名雪さん。
 たぶん、私の様子を見ているように、頼まれたのだろう。
「…舞と、祐一さんは…?」
「もう遅いから、川澄さんには、帰ってもらったよ。あなたのことは、
心配いらないからって…お母さんが諭してね。祐一が送っていったよ」
「舞は…駄々をこねたんでしょうね」
「私が佐祐理を看病するんだ…って、とても真剣な顔だったよ…」
 舞ったら…。
「でも。おうちの人も、心配してるだろうからね」
 そっか、この人たちは、舞の家族のことは…。
 いつか、話そう。
 私たちの、家族になるかもしれない、人たちなのだから…。
 気が、早いね。舞がいたら、チョップが飛んでるわ。
「…心配?」
 名雪が問う。なんだか、心を見透かされているようだ。
 と、いうより…同じ心境なんだろうなあ…。
「祐一は、気移りしやすいから、注意しないとダメだよ〜?」
「あははっ…舞は、大丈夫ですよ…。たぶん…」
「まあ、祐一はオクテだから…滅多なことは、ないだろうけど…」
 言えない。私から誘った。なんてことは――絶対に言えない…。
「あ、あはははっ」
「随分と、お話が弾んでいるようね? …少しは、元気出たかしら?」
 秋子さんが、良い香りのする、お鍋を持って入ってきた。
 うん。やっぱりこの人は、本物ですねえ。
「はい。おかげさまで。すっかり…ご迷惑ばかり掛けて…」
 慌てて、頭を下げた。まだ、お礼も言ってなかったなんて――。
「あら、いいのよ。もう、家族みたいなものだから。ね?」
「…どうして、私に振るかなあ、お母さんも…」
 名雪が、困った顔をして、うぅ〜、と唸った。
 秋子さんは、少しだけ、真剣な眼をして――。
「祐一さんが、決めたことよ。つらいかもしれないけど…」
 と、言った。
「わかってるよ…。まだ、少し…気持ちの整理がつかないだけ…」
 そう言うと、名雪は――、
「それじゃ、お母さん。後は、お願いね」
 いそいそと、私のいる、この部屋を出ていってしまった。
「ごめんなさいね。あの子も、多感な年頃ですから」
 秋子さんが、微笑む。
「今日は――」
「泊まっていってください。家の方には、連絡を入れておきましたから。
あ、でも…一応、名雪も真琴もいますので、遠慮は…してくださいね?」
「あ…はい」
 一瞬、なんのことを言っているのか、解らなかったけれど…。
「ぐきゅるるる〜」
 腹が、鳴った。そっか、もう、あれから1日経ってるんだ…。
 つまり、舞は今日も様子を見に来てくれたと…いうことだ。
「…ごめんなさい。今すぐ、よそいますから」
 秋子さんが、申し訳なさそうに、言う。
 あまりに、美味しそうな匂いだったから、つい、腹が――
 お腹が、鳴って…しまいました。もう…。
「うう…私、恥ずかしいところばかり、見られてます…」
「そうね…。折角ですから…倉田さんには、明日の朝、名雪を起こして
もらいましょうか?」
「ふえ…?」
「もちろん、それまでに風邪が治れば、の話ですけど…。朝は、苦手?」
「いえ、特に苦手ということは…」
 素直に、答えた。今は、身体を治すことが――食べないと。
「あ――美味しいです。とても…」
「そう? ふふ…ありがとう。あなたに誉めてもらえて、嬉しいわ」
 その言葉が、とても嬉しくて――。
「あ、あの…おかわり、もらってもいいですか?」
 そう、訊いた。
 秋子さんは、笑顔で…。お好きなだけ、どうぞ――と、答えた。

 夜――。秋子さんが、空になった、お鍋を持って出ていって…。
 少しだけ、眠っていたか。どのくらい、時間が経ったのだろう。
 暗い中。目をこらして、枕元の時計を見る。12時30分…?
「…お腹が、ちょっと重いです…」
 うぐぅ…な感じ。どうやら、食べ過ぎて…しまいました。
 本当、情けない…。
「おトイレ…行ってこようかしら…」
 布団から這い出して、――う、やっぱり寒いなあ…。
 手探りで電灯の紐を探り当てる。ん――よし、引っ張って…と。
 頭上の蛍光灯が、何度か点滅する。黒一色の部屋が、白く輝いた。
 …うん。用意された半纏を着て…。かちゃり、と――扉を、開けた。
 既に、廊下の電気は落とされている。皆、寝ているのだろうか。
「…どっちだろう?」
 聞くのを、忘れていた。迂闊――。
 まあ、それほど広い建物でもないのだし…と、足を踏み出した。
 困ったことに、廊下の電気のスイッチが、見つからない…。
「手探りで…行くしかないか」
 大体の位置を把握すると、ゆっくり…扉を閉めた。暗い…。
 そろり、そろり…。カンを頼りに、壁に手をつきながら、歩く。
 …そろそろ、階段のはず。踏み外さないように、慎重に――
――さわっ…。
 指先に、なにかが、触れた。生暖かいものが…。
 な、なに、コレ…。なんか、ヤダ…。
 ――廊下の壁にこんなものがあるわけない――。
 なんか、汚いものでも貼りついてるの?
 気持ち悪い…。だから、暗闇に――じっと…目を凝らして…
「きゃぁぁぁっ!」
 それが、叫んだ。それで、私も、つられて、
「きゃぁぁぁっ!!」
 ――叫んだ。
 ごろんごろんごろん。がたんがたんがたん。
 ――派手な音がする。なにかが、階段を転げ落ちたのだ。
 なにが――?
 私は、なにに…触ったんだろうか?
 ――どしん。最後に、一際大きな音がして。世界は、鎮まり返った。

「…もう、近所迷惑よ」
 パッ…と、廊下の灯りが点いた。瞬間、闇が…黒い世界が、消える。
 と、同時に。
「はぁ…」
 階段の下に立った、秋子さんの…ため息。彼女の部屋は、1階らしい。
「あ、あうー、あぅ〜」
 その後ろで、うめき声のようなものがする。さっきの、「なにか」だ…。
「あ、あ…」
 私は、声が――口が、動かない…。
「…なに〜? また真琴がなにかしたの〜?」
 名雪が、眠そうに、目をこすりながら、部屋を出てきた。
 続いて、祐一さんが現れる。
 秋子さんの横に、ぺたり――と髪の長い少女が、座り込んでいる。
 壁に激突したらしい。頭を、両手で抱えるように、抑えている。
 痛くて、仕方ないのだろうか。顔は――隠れて見えない。
 私は――壁にもたれ掛かるようにして、辛うじて立っている状態。
「…まぁ〜こぉ〜とぉ〜。お前…まさか佐祐理さんにまで…」
 祐一さんが、ずんずんと段を降りてゆく…。
「性懲りもなく、今度は佐祐理さんにまでッ!!」
「ち、違うよっ! おトイレ、行こうとしただけだもんっ」
 問い詰められた真琴は、ぶんぶんと、首を横に振りながら――
 おどおど…と答える。なんだか…。なんだか――、
 主人に叱られる、犬のようで…。ちょっと、可哀相です。
 ――くすり。
 それが、妙に可愛いらしいので、笑ってしまいました。あははっ!
「そのへんで、勘弁してあげてくださいな」
「でも、佐祐理さん」
「佐祐理は、なんともありませんから。少し、驚いただけです」
 ね? ――と、真琴を見つめて微笑んだ。
「あぅ〜、真っ暗で、誰だか判らなかったんだもん…」
 真琴は、両手で頭を抱えたまま、上目使いで――
 ちらり、ちらり、と周囲の様子を窺っている。
「まったく――。電気ぐらい、点ければいいだろ?」
「だって…お客さんがいるっていうから、起こしちゃいけないと思って」
「それで脅かしてたら、仕方がないだろ?」
「あぅ〜」
 と、情けない声を上げる、真琴。祐一さんが、怒ってくれている。
 私のために…という訳でもないかもしれないが…。
 それはそれで、なんだか嬉しい。
「まあまあ、祐一さん。真琴なりに、気を使っていたようですし、ね?」
 優しい眼をした、秋子さんが、宥めるように、言う。
 ちなみに、私の服装は――。
 可愛らしい小さな猫の模様が、いくつもプリントされたパジャマに…
 これも同じような柄の半纏。たぶん、名雪さんのものだろう。
 さすがに、これでサイズどうこうということは、言えないが…。
 まあ、負けない自信は、ありますよ? あ、舞は別としてね…。
「それじゃ、もう遅いですし、みんな…部屋に戻って寝なさい?」
 秋子さんに言われて、名雪が、眠そうに部屋へ帰る。。
「真琴…頭が痛いの? 見てあげましょうか?」
「大丈夫――」
 真琴は、がっくり…と肩を落としながら…階段を上り。
 パタン――と自分の部屋のドアを閉めました。
「それじゃ、佐祐理さん。おやすみ――」
 と言って。祐一さんも、自分の部屋へ、戻って行きます。
「ごめんなさい。お手洗いの場所…教えてなかったわよね?」
 秋子さんが、言う。
 …わざと教えなかったわけでは、ないとは思いますけど…。
「まあ――」
 頬に右手を当てるようなポーズで…癖なのだろうか。
「うちの娘を泣かせた、些細な罰とでも、思ってくださいね?」
 そう、笑顔で、言った。
 それが…彼女の本心かどうか――は、判らないんだけれども。
「もう、随分と具合も良いみたいね。でも――、無理をしては、だめよ」
「はい。お騒がせして、すみません。…おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい。そうそう…明日は、お願いしますね」
 明日――。名雪を起こしてくれという…約束、か。
 もう、今日…かな。という、無粋なつっこみは、意味ないですしね。
「解りました。明日は、ちゃんと学校にも行けそうですから――」
 舞にも…会えるかな。会いたいな。
 そうだね…秋子さんの、お粥が、おいしかったから…。
 だから、明日には、もう佐祐理は全快してますよ。
 そんなことを考えながら――眠りに、ついた。

 朝――。
「おはようございまーす♪」
 キッチンに行き、秋子さんに挨拶を済ませると――
「…なんでしょう、この音…? 目覚まし時計…かな」
 微かに、音が聞こえた。…約束どおり、起こしに行きますか。
 コンコン――と、扉をノックして…
「朝ですよー。開けますよー」
 がちゃり――りりりりりりりりりりり――!!!
「――っ!?」
 バタンッ――!!
 殴りつけるように、扉をもとに戻す。
「な、なに、今の…?」
 耳をつんざく大音声。とてもではないが、入れる状態では…ない。
「これは…。地震でも来ないと、ダメかも…」
 少なくとも、昨日の夜くらいの、揺れが…。私の方は――。
 今の反応が出来れば、身体の方は、もう心配ないようですけど。
 でも…。
「本当に、まだ寝てるのかしら…?」
 実は、目覚まし止め忘れたまま、出ていっていまっただけ、とか…。
「うちの娘を泣かせた、些細な罰とでも、思ってくださいね?」
 ――昨夜、秋子に言われた言葉を、思い出す。
 矢張り。まだ寝ているものと思って、間違いないように、思う。
 こういう、こと? これが、嫌がらせ…?
「あ、おはよう、佐祐理さん。どうしたんですか、こんなとこで?」
「あ、祐一さん。おはようございますー」
「へえ、もうすっかり、身体の方も大丈夫みたいだな」
「はい、おかげさまで。――いつも、こうなんですか?」
 そう言って、横目で名雪さんの部屋の扉を、睨むように見つめる。
「まあ、こんなもんだが…。名雪が、どうかしたんですか?」
「起こしてくれって、頼まれたんですよっ!」
 ぷう…と、頬を膨らませて、不満を露にしていた。
 はしたない…とは、思うけれども…。
「もう、しょうがねえなあ。佐祐理さん、ちょっと待ってて」
 扉を開き、大音声の中へ足を踏み入れていきます。
 私は、廊下で耳を塞ぎながら…
 それを、じいっと見つめていました。
 どんな起こし方をするのか、ちょっと興味があったからです。
 特に、問題のある起こし方でもなくて。ホッ――としました。
「お〜ふぁ〜よ〜お〜」
 名雪さんは――。
 よろよろと、階段を降り――。
 よく、転げ落ちないなあ…。
 ふらふらと…キッチンへ入って行きます。
「おはようございまーす」
 祐一さんが、あくびをしながら、それに続きます。
 そして、私も――。
「どうでした、名雪――」
 秋子さんが、訊く。
「どうもこうも…いつも通りですよ――」
 その質問に…私の代わりに、祐一さんが答えた。
「そうみたいね…。倉田さんがいれば、少しは違うかと思いましたけど。
やっぱり、名雪は名雪ね…。ほんと、仕様がないわね…」
 見れば。名雪さんは、パンにジャムを塗りながら…寝ていました。
「名雪――遅刻するわよ?」
「だいじょうぶ〜はしればまにあうよ〜」
「お前は、佐祐理さんを――学校まで走らせるつもりかっ!?」
「佐祐理は、走るのは割と得意ですよ?」
「病み上がりに、無理をしては駄目よ?」
 それにしても――。と、秋子は言う。
「我が娘ながら、情けない姿よね…。いくら従兄といっても、男の人の
前で、こんな醜態を晒して平気でいるなんて…信じられませんよね?」
「まあ、これが名雪なんだから、しょうがないですよ…」
 祐一さんが、答える。
 ああ、そういうことか…。これが、見せたかったんだ…。
「そうですねー。佐祐理も、人は――ありのままで、いいと思いますよ」
「――あなたにそう言ってもらえれば、私も安心できました」
 少し、得体の知れないところも、ありますが…。
「この家に来られて、良かったです。とても…勉強になりました」
「世の中には、下には下がいるってことかあ…?」
 祐一さんは、呆れたように、名雪さんを見ています。
 けれど、それは――。
 決して、侮蔑の視線なんかでは、なくて。むしろ、暖かい――。
「倉田さん。よろしければ、また遊びにいらしてくださいね。今度は、
川澄さんも、一緒に。ちゃんとしたもの、ご馳走しますから」
「はい、是非とも♪」
「ほら、名雪っ! 寝てないで、さっさと食え。時間ないぞっ!!」
「うん、人参おいしいよ〜」
 こくり、こくり…名雪さんの身体が、揺れています。
 だめだ、こりゃあ…。
「あはは…完全に、寝てますねえ…」
 私は、多くの人に、逢った。
 多くの人に、助けられた。多くのことを、教えられた。
 今の私は、そのおかげで、この場所にいられる…。
 そのことを、私の出遭った全ての人に…感謝したい。
 たとえそれが、哀しい出遭いで――あったとしても。
 優しい思い出に、変わることが、できるのならば…。

「ようっ、なにしてんだ?」
 祐一さんが、校門のところで、柱にもたれ掛かるように立つ少女――
この子、1年生ですね――に、声を掛けた。
 私と、祐一さん。それに名雪さんと。一緒に歩いてきた、その終着点。
 舞には、まだ会えていません。少し、残念…。
「なんだ。風邪、治ったのか? ああ、今日から通えるんだなっ」
 祐一さんが、その少女に話し掛けています。
 彼女の方は、やや俯き加減のまま、ぎゅっと――両手を握り締めて…
「おはようございます、祐一さんっ!」
 ――はじけるような笑顔で――
 笑った。舞が、私に見せる笑顔と…よく似ているな。
 そんなふうに、思った。実際は、ぜんぜん似ていないのだけれど。
 舞は、こんなふうには、笑えないんだけれど。
 それでも――この2人は、本当に仲の良い友達なんだと…思った。
「驚かしてやろうと思ってたのに…気付くの早すぎですっ!」
 ぷぅっ…と頬を膨らませる仕草が、またカワイイ。
「解るよ――。どこからどう見たって、栞だろ?」
 しおり…。どこかで聞いた名前のような…。
「…この格好、そんなにおかしいですか?」
 彼女は、スカートの端を軽く指先で摘み上げている。
 あまりやると…見えちゃうんですよねえ…。
 この制服だけは、なんとかして欲しいものです。
 そういえば、今日の下着…やっぱり名雪さんの――なんてことは。
 …ないか。秋子さんが、買ってきてくれたんだろうな…。
 別段、変なものでもなく、ふつうのものだったし。
 いや…別に名雪のセンスがどうこう、じゃなくてね…。
「佐祐理さん?」
 呼ばれた。いや、祐一さんに、呼ばれていた――のか。
「あ、はいっ! なんですか?」
「いや…反応がないから、立ったまま寝てるのかと思った」
「あははーっ、そんな器用なこと…」
 出来るのね。――ええ、見事に寝てましたよ。立ったまま…。
 それどころか、寝たまま歩いてるんですけど。
「…名雪さん?」
「アレは自律歩行で教室まで行くだろうから、放っておいて、だ」
 そうなんですか? ああっ!? 直前で立ち止まった人が…
――避けたっ!?
「紹介しますよ。この子は、1年の美坂栞」
「みさか――しおり…さんですか。はぁ…」
「3度のメシよりアイスが好きな…雪女が正体の冷血怪獣だ」
「――そんなこと言う人、嫌いですっ!」
「あ、違ったか?」
 即座に――。否定した彼女。本に挟むしおり…というから、栞…か。
その、栞さんが、またも頬を膨らませながら、否定する。
「違いますっ! それは、アイスクリームは…大好きですけど…」
 左の人差し指を立てて、唇に当てるのが、癖――かもしれない。
「解った解った。風邪で学校さぼりまくりの、1年生でいいか?」
「そういうこと言う人も、嫌いです」
 少し、トーンが下がった――怒ってるのかな?
「えと…つまり、風邪で学校を休んでいたんですね。――ということは、
佐祐理と同じですねーっ♪」
 だから――、精一杯明るく…。
「佐祐理さんは、1日だけだが。栞は、年がら年じゅう休んでるからな」
「はあ…そうなんですか?」
 祐一さんの悪いところは、他人をからかいすぎるところですねー。
 まあ、私は…そんな祐一さんも、好きなんですが。
 だからこそ、舞も心を許しているんだと、思うので。
「あ――、そろそろチャイムの時間ですねーっ」
「そうだな。そろそろ教室入ろうぜ?」
 祐一さんが言い…。
「先に行っていてください。すぐに、わたしも行きますから――」
 栞が、答える。
「また、さぼって中庭にでも行く気なのか?」
「そんなこと――ありませんよ?」
 栞が、笑う。笑いながら…。
「倉田佐祐理、さん。祐一さんのこと――お願いしますねっ♪」
 愉しげに笑いながら、栞が、言った。
 それが――。
 それが、最初で最後の…
 ――私たちの、倉田佐祐理と美坂栞の…出会いでした。

 祐一さんと、2人並んで昇降口へと辿り着く。
 名雪は、もう中へ入ったか…。舞は、もう中にいるだろうか…?
「遅かったじゃない、相沢くん」
 この人は――美坂、香里。前に、会ったことがある。
 この前、一緒にいた男の子の方は、いないみたいですけれど。
「お。どうした香里? 俺を、待っててくれたのか」
「違うわよ」
「栞――か」
 みさか――。
 あ、そういうことか。彼女は、同級生の、妹さんだから――。
「まあ、そういうことに、しておくわ」
「残念だったな。栞は、今日も学校さぼるってさ」
「え――? あ、そう…。しょうがないわね、まったく…」
 一瞬。――動揺を隠すように、視線を斜め下へと流した。
 私と、似ている。
 心の、覗かれたくは、ない部分。それを覗かれた時に――似ている。
 私ならば、一弥のこと。一弥が、死――いなくなった、日のこと。
 思い出すと、悲しいから…。
 思い出せなくなるのは、もっと哀しいから――。
 私は――笑った。
 彼女は、代わりに、鉄の仮面を被っているのだ。そう、見えた。
 なにに対して――かは、佐祐理なんかには、解らないよ。
 栞さんが…
「あはは、今から連れ戻してきてあげたら、――どうですか?」
 そうだから。私は、祐一さんに提案をする。
「あの子が来ないと言うなら、いいわ。好きにさせてあげましょう」
 香里さんは、このままでいいのだと、言う。
 本当は、来て欲しいのだと、思うのに。
 ずっと休んでたから――。だから、なんだろうか…?
「相沢くん…。ちゃんと、栞に会った?」
 香里が、言う。今にも、泣きだしそうに、見えるのに…。
 その仮面が、今にも外れそうなこと…
 美坂香里。貴方は、――気付いているの?
「校門のところでな。制服なんて着てるから、驚いたぞ」
「ふふ…あまり、着る機会もなかったから、着ておきたいんでしょうね」
「これから、いくらでも着れるのにな。治ったんだろ、風邪?」
 風邪――。
「あの子がそう言うのなら、治ったんでしょうよ」
 手の平を上へ向けて…呆れた――という顔をする。
 私は――。どうすれば…。
「学年2位の秀才の妹が…不良娘だなんて知れたら。大変だな、おい?」
「祐一さん。それは、佐祐理と舞のことも言ってるんですかーっ?」
 私は、祐一さんに、なんと言えばいいのか…。
「そうそう。だから、あまり気にするな――って言おうとしたんだよ」
「でも〜、舞は、不良じゃありませんよー?」
 私は、この姉妹のことなんて、なにも知らないのだから…。
 だから――。
 佐祐理には、なにも言えないのです。
 ただ、笑うだけしか、出来ないのです――。
「相沢くん、1つ…頼みがるんだけど、いいかしら?」
 鉄の、仮面――。
「なんだ?」
「今は、いいの。いつか――」
 ひび割れた、鉄仮面。
「いつか…ね。私が、世界を呪ってしまいたいくらいに、憎んだら…。
そんな日が、来るのだと、したら。その時は――」
 その、素顔を覗いてしまった時。祐一さん、あなたは…。
「ちょっとだけ、貸してくれるかしら、彼?」
「は…?」
 彼女は、私に――佐祐理に向かって、そう言いました。
 それは、なに…? それは、つまり――。
「むかついた時って、なにか殴りたくならない?」
「はい…?」
 …違った。
 私の想像って、当たったためし、ないかなあ…。
「そ、それが、もしかして俺なのか?」
 祐一さんは、狼狽している。
 よくよく見れば、彼女の右手――あれは…?
「その、メリケンサックで…俺を殴るつもりなのか?」
「あ、あははーっ、死ぬ…んじゃないかなあ…?」
 脳漿を、撒き散らしながら…吹き飛ぶ祐一さん、なんて――。
 ああ、あの時の…。
「駄目かしら?」
「ダメよっ! そんなこと…この私が許しませんからっ!」
 祐一さんを庇うように、立ち塞がる。
「あら…ラブラブなのね? なんか、ムカツクわね…」
 ぽき、ぽきっ…と、彼女が指を鳴らす音。
「香里っ! …殴るのなら、俺を殴れよ――」
 祐一さんの、真剣な声。
「ふっ…冗談に決まってるじゃない。意外と、頭固いわよね、あなた…」
 小馬鹿にしたように、言う。
 その、鉄仮面が――。
 小さな傷1つないような、強固な、仮面が――。
「今の言葉…その時まで、とっておくわ。忘れないでね、相沢くん」
 美坂香里は…
 にっこり――と、微笑んだ。
「なあ…殴るのは、北川じゃダメなのか?」
「はあ? あんな根性無し、駄目に決まってるじゃないの…」
 …なんだか少し、その北川さんて人が、哀れに思えました。

 階段を上り、3年生の教室の並ぶ、廊下へと辿りつく。
 祐一さんと香里さんは2年だから、途中で別れました。
「おはよう」
 微笑む――。
「さ――」
「朝の挨拶は、おはよう――ですよ?」
「お、おはよう…。さ、佐祐理っ…」
「舞は、心配性ですね。佐祐理は、元気ですよーっ♪」
 あははーっ、と、笑う。
 つられて舞は、くすり――と笑う。
「舞――」
 ガラス越しに、外を見つめる…。
 青い空。
 遠い空の向こうに、あゆさんがいる。
 そこは、私の心。手を伸ばせば、すぐそこにある、幸せ。
「大好きだよ、舞――」
 その、瞳を覗き込んだ。その、身体を抱きしめた。強く、ぎゅっと。
「佐祐理…私も、大好きだ」
「こうしていると、遠い空を…感じられるみたい」
「私は、祐一を感じられる。佐祐理を通して、祐一の心を――」
 舞――。
「…佐祐理。祐一を、頼む。私の、大切な――友達を」
 あなたは…。
「レンタルは、いつでも受け付けますよ。あははーっ♪」
「…君たち。とっくにチャイムは鳴っているのだが――?」
「はえ…?」
 生徒会長――久瀬さんが、教室の扉を開けて…。
 じいっと、こちらを睨んでいました――。
 まずい――。
「逃げよう、舞っ!!」
「あ――、ちょっと…」
 舞の手を引いて、駆け出す。
「あ、こら、廊下を走るんじゃないっ! 川澄っ――!!」
「こ、…今度から気をつけるっ…ごめんなさいっ!」
 ほえー。舞が、あの人に謝るところなんて、初めて見ました。
 ふふ…。これは、ちょっと愉しいかも…。
 そんなことを考えて。くるり――と、振り向く。
「な、なんだ――? 今さら謝ったって――」
 明らかに狼狽えて見える、彼の姿が、とても滑稽。
「佐祐理も気をつけますよー、あははっ!」
「あ…。う、うむ…。気をつけ給えよ?」
 精一杯の威厳を保つように、彼が、言う。偉そうに…。
「久瀬さん?」
「な、なんだ…?」
「佐祐理が生徒会に入る、ということは…こういうことですよ?」
 そして私は、にっこりと――笑う。
 困惑したような、苦虫を噛み潰したような、彼の顔が――。
 少しだけ、カワイク思えた。
「久瀬さんも、もっと笑わないと、ダメですよーっ!」
「な――!? ちょ、倉田さん――ッ!?」
 廊下へ、上半身を乗り出すようにして、彼が――。
「ほら、走れ、舞ッ! 鬼が追いかけてきますよっ!!」
「く、倉田さんっ、君は――待て、川す――みッ!?」
 ドタン――。大きな、音。足を、どこかに引っ掻けたらしい…。
 久瀬が、リノリウムの床に、両手をついて――。
 なにやら、わめいた。
「決めたっ! 今日は学校、さぼっちゃいましょう!!」
「佐祐理…マジか?」
 舞が、走りながら、言い…私たちは、あははーっ、と笑う。
<了>