水月 - a moon in the water -

「ごめんくださーい」
 暑いなー、とか思いながら部屋でぼーっとしていると、玄関の方から、
かわいらしい声が聞こえた。もうそろそろ夏も本番という季節。
 この声は――マリアちゃんか?
「あのぅ、透矢さん、いらっしゃいませんかーっ!」
 透矢――瀬能透矢というのが、僕の名前だ。インターホンなんていう
洒落たものは、この家には付いていなかった。だから、実際には大きな
声で呼ばれていることになる。近所迷惑というか、ちょっと恥ずかしい。
 尤も――田舎町だから、家屋もまばらだったりしてるんだけど。
「ちょっと待って――」
 つぶやいた。間違いなく、玄関までは届いていない。
 雪さんは、いないんだろうか。
「いまいくからーっ!」
 あまり待たせるのは良くないと、急いで玄関に向かった。僕の部屋は、
割と大きめの平屋型日本住宅の一番奥にある。
 だから――。
「透矢さーん、お留守なんですかーっ!?」
 辿りつく前に、もう一度、大きな声で呼ばれる羽目になってしまった。

「あ、透矢さん。よかった、ちゃんといたんだ」
 ショートヘアのかわいらしい少女が、ガラッ――と玄関の戸を開けた
僕の顔を見るや、とても優しい笑顔で、にっこりと微笑んだ。小麦色に
焼けた健康そうな肌に、濃紺色のワンピースが良く似合っている。少し
暑そうな色にも見えるけど、きっとお気に入りなんだと思う。
 やあ――と、手を上げて。彼女たちに挨拶しようとしたのだけど。
「遅―い! 女の子を待たせるなんて、最低ね」
 案の定。――というか。当然のように、怒られてしまった。
「お、おねえちゃんっ!?」
「アリスちゃんも、おはよう」
 微笑んだ僕に、じろり――と。睨むような視線がまとわりついている。
地面につきそうなほど長く伸ばした髪を、耳の上あたりで2つに分けた
女の子が、マリアちゃんと並んで立っている。同じ服装、同じ顔の少女。
 ――香坂アリス。マリアちゃんの、双子の姉。
「いや、ごめん。雪さんが出てくれるもんだと思ってたから…」
 雪さんというのは、この瀬能家に住み込みで働いているメイドさんの
ことだ。それも、僕専属のメイド。といっても、現状ここに住んでいる
のは、僕と彼女の二人だけなのだから、当然といえば、当然なのだけど。
 父さんは、まだ入院しているし、母さんは、――もういない。
「留守なのかと思いました」
 マリアちゃんが、にぱーっと笑う。
「どうせ…やましいことでもしていたんでしょ?」
 アリスちゃんは、馬鹿にするような口調で言う。性格が、まるで違う。
「やましい、こと…?」
 マリアちゃんが、小首を傾げながら訊いた。
 アリスちゃんは、一転、にやり――と笑うと。
「雪がいないのをいいことに、彼女の部屋でハァハァ…と、息を荒げる
変態がひとり――」
「な――。そんなこと、するわけないでしょ!」
 くすくす。今度は、狼狽する僕を見て楽しそうに笑っている。
「もう…からかわないでよ――」
 嫌われてるわけではないんだろうけど、彼女は、僕がマリアちゃんに
近付くのを、快く思っていないようなところがある。いつもこうやって
一緒にいるのも、妹に悪い虫がつかないようにってことかもしれない。
「今日は、どこかに遊びに行くのかな?」
 気をとりなおして、マリアちゃんに聞いてみる。
 町に一つだけある、キリスト教の教会。そこで、僕はマリアちゃんと
出遭った。たまたま通りかかった僕に、手を振ってくれた。それだけの
ことだったけど。僕は、それがとっても嬉しかった。
 ――自分に記憶がないと解って、不安になっていたんだと思う。
 それから僕たちは、よく一緒に遊ぶようになった。海や山に行ったり、
僕の家や教会――彼女たちの住処――で遊んだり。
 それで、今日も誘いに来てくれたんだと思った、のだけれど。
「――ナナミ様」
 アリスが、小さくつぶやいた。
「ナナミ様?」
 ナナミ様というのは、この辺りに住んでいる者なら誰でも知っている。
――地域の伝承に現れる、神様の名前だ。正確には、神性を与えられた、
太古の偉人とでもいうか。
「ナナミ様がね、現れたんだって」
 なにか、釈然としない。というふうに、アリスが言う。
「現れた?」
「あのですね――」
 マリアちゃんが、身振り手振りも交えて丁寧に教えてくれたところに
よると、こういうことらしい。
「この付近の海岸に女の人が流れついて、それを、町の人がナナミ様と
呼んでいる――んだね?」
「そうよ。バカマリアの説明って、まわりくどくて解り難いのよ」
「おねえちゃんのは、はしょりすぎだもん」
「あんたたちが、バカなだけ」
 まあまあ、と二人をなだめる僕。仲がいいんだか悪いんだか。
「なるほど、伝承の通りってわけだ」
 いきなり抱きついてきたマリアちゃんの頭をなでながら、考える。
 ――伝承によれば。ナナミ様は、この付近の浜に流れついたところを
当時の王(豪族か?)である七波。これも、ななみという――に救われ、
その妻となり国政をたすけた。美しい女性で、星見の力を操る異国――
恐らく大陸、中国か?――の姫であったともいわれる。
 そのナナミ様に。今、この場所で起きたことをなぞらえているのだ。
「バカバカしいでしょ?」
 面白くなさそうな顔で、アリスが言う。
「うん、まあ…」
 確かに、バカげてはいる。今の時代に、――神様だなんて。
 でも――。
「でも、その女の人は、どうしたんだろう?」
 船の事故にでも、あったというのだろうか。
「記憶が――ないらしいのよね」
「え…?」
 それって――。
「ぜんぶ、聞いた話なんですけどねっ」
 マリアちゃんが、えへへ〜と笑う。
「それで、ナナミ様か」
 伝承では、一命をとりとめたナナミは、記憶を失っていたのだという。
「あなたも、海で事故に遭えば、ナナミ様になれたのにね?」
 アリスちゃんは、やはりバカバカしいといったふうに――。
「ごめんなさい、透矢さん。おねえちゃんも、悪気はないんです…」
 マリアちゃんは、僕を気遣うように、言う。
「うん、気にしてないから」
 僕は、そう言って、二人のまだ幼い少女に向かって微笑んだ。
 ――記憶喪失。
 僕もまた、同じように記憶を失っているのだ。父とともに事故に遭い。
昏睡状態に陥った。幸い、僕は目覚めることが出来たが。父は今もまだ、
病院のベッドの上にいる。事故の原因はよく判っていない。――なにも
憶えていなかったんだ。それでも、悲嘆することなく(一時的な不安に
襲われることはあっても)、こうして今の普通の生活を送れているのも、
雪さんや、以前からの友人。そして最近出遭ったばかりの、この小さな
二人の友達のおかげなのだと思う。本当に、感謝している。
 だから――。
 アリスちゃんが僕をダシにして、町の人たちを揶揄するような発言を
したとしても、怒るようないわれはないし。むしろ、彼女の頭の良さを
再認識することになるのだ。
「僕は男だからね。ナナミ様にはなれないよ」
「――女である必要も、ないでしょう?」
 参った。そもそも、神様に男女の性差など必要ないのだ。天照大神が
女性神であるのも、後世に女性的な役割を与えられただけなのであって。
記紀以前には、男性神と考えられていたという話だってある。
「ナナミ様という呼称が、何かを表す象徴としてのものならね」
「――あなたって、たまーに頭が良いように見えるわね」
「伝承――いや歴史すらも、事実を伝えるものであるとは限らない」
 これは、雪さんが言っていたことだろうか。父さんの書斎で読んだ、
本だったかもしれない。こんな変なことだけは憶えているなんて――。
 アリスは、話を続けている。
「そういうのは、時の権力者の、都合の良いものだけが残るの。或いは、
闇の儀式。公式に抹消された歴史は、地下に潜り、後世に残る。異聞ね。
だから、それが世間に晒された時には、異様なモノとして捉えられる」
「悪魔崇拝――というの?」
「そうね…そんな感じ」
 アリスは、少し考えるような仕種をして――、
「まあ、どうでもいいわよね。こんなこと」
 さっさと話を切り上げてしまった。マリアちゃんが、所在なさげに、
地面をつま先でとんとん――と叩いているのが見えたのかもしれない。
本当に、妹思いの良い娘なのだ。
「バカマリアにも、解る話にしないとね」
 ――口は悪いけど。
「バカじゃないもーん!」
 マリアちゃんは拗ねたが、これはこれで、またかわいい。
「じゃあ、私たちが話してたこと、説明できる?」
「えーと…透矢さんが、ナナミ様だってこと?」
「まあ、間違っては、いないけど…大局的な見方をすれば、だけど」
 アリスは、小さくため息をつく。解っていないようでいても、純粋な
意味でマリアは解っているのかもしれないと。なんとなく思ったりする。
――それが、マリアちゃんの最も優れたところなのだろう、とも思う。
聖母マリアというのは、このような存在であったのではないだろうか。
 誉められたと感じたのか。マリアちゃんは嬉しそうに、
「えへへーっ」
 と笑っている。それは、人を幸せにする笑顔。
「それで――なんだけど」
 アリスが、少しだけ僕から目を反らすようにして言う。
「その助けられた女というのが、あんたの知り合いじゃないかって…」
「鈴蘭ちゃんが、言ってたんですよ」
 鈴蘭――が?
「ああっ!? バカマリアのくせに、なに人のセリフ奪ってんのよっ!」
「バカじゃないもん!」
 大和鈴蘭。僕の親友である(らしい、なにせ記憶がないから)庄一の
妹で、僕とは昔から仲が良かった。よく一緒に遊んでいた――らしい。
最近では、この姉妹とも仲がよいようなのだけど。
「…ということは。鈴蘭ちゃんは、その人の顔を見ているんだね?」
 僕の知り合いなら、彼女が知っていてもおかしくはない。
 それには答えず、アリスは、なにか思案するように――、
「んー、なんて言ったっけ、あの大きな家の…」
 呟く。このあたりで、大きな家という形容が付くのは、たぶん、
「新城――」
「そう。そこの娘っ!」
「和泉ちゃんが…?」
 新城和泉は、僕の同級生で。庄一や花梨と同じく親友の一人だった。
ただ、その二人と違って幼馴染というわけではなく、後から引っ越して
きたのだそうだ。
 ――今の僕にとっては、どちらも変わりはしないのだけど。
「たまたま海辺で見つけたのが、その女。海に、ぷかぷかと浮いていた
らしいわ。伝承どおりなら、見つけるのは、七波の役目よね?」
 先程の男でも女でも――という話は、このあたりから来ているようだ。
「そうだね」
 適当に、相槌を打つ。それよりも先が聞きたい。
「…それで、まだ息があったから、応急処置とかして近くの大和神社に
運び込んだ。女の子の力じゃ、さすがに運べなかったんでしょうね」
「鈴蘭ちゃんのお兄さんが、運んだんだって」
「ああ、庄一が…」
 え――?
「それは、変じゃないか?」
 僕が呟くと、マリアちゃんは、ほえ? という顔をして首を傾げた。
「だって、その子は僕の知り合いで。鈴蘭ちゃんも顔を知っていたんで
しょう? なのに、庄一と和泉ちゃんが知らないなんて――」
「あんたは、特殊な状況にいるからあれだけど…。自分にしか解らない、
自分しか知らないことは、案外多いものよ。それこそ、無限にね」
 アリスちゃんが、呆れたーという顔をした。
「自分のことなんて、自分自身にしか、解らないんだから」
 庄一や和泉ちゃんは、僕のすべてを知らない。
「それも、そうだよね…」
 彼らが、僕のことをいろいろと教えてくれるせいで、勘違いしていた。
「まあ、バカ鈴蘭の言うことだから、信用できるのかどうか…」
「いや、信じるよ。鈴蘭ちゃんは、ウソを言うような子じゃないし」
「うん、きっとそうだよ」
 マリアちゃんが、嬉しそうに笑う。つられて、僕も微笑む。
「ありがとう、教えてくれて」
 マリアちゃんの頭を、優しくなでる。
 僕が、なにも知らないから――。
「はいはい、感謝しなさいよ」
 投げやりに言ったアリスの顔が、少しだけ赤い。
「うん、ありがとうアリスも。明日にでも、会いに行ってみるよ」
「ええそうね。じゃ、私たち、そろそろ帰るわ。暗くなるし」
 アリスが、マリアの手を引いて。そそくさと歩き出す。
「なにか、思い出すといいですね」
 最後に。くるっと振り向いて、マリアちゃんが笑った。
「ありがとうっ!」
 心から、そう思った。素敵な友達がいる自分が、嬉しかった。

 ――大和神社は、黒山の人だかりだった。
 庄一は、たぶんこっちにはいないだろうと、家屋の方に回ってみる。
「ようっ」
 いつもの、明るい挨拶。短く切った髪が、爽やかな印象を与える。
「おまえも、ナナミ様か?」
 人の心を見透かしたような話し方。それでも、嫌味な感じはしない。
やはり、僕たちはずっと親友だったと。それは間違いないように思う。
「神社に集まってる人たちも、やっぱり――」
「そういうことだ。今ナナミ様を一目見てやろうってな。神社としては、
人が集まるのは――いいことだけどなっ」
 ニカッと笑う。
「和泉ちゃんが、助けたんだって?」
「ああ。昨日いきなり電話してきてな。手伝ってくれって。マッサージ
とか人口呼吸とかは、自分でやったらしい。――すごいよな、彼女」
「うん。僕だったら、うろたえてなにも出来なかったかも…」
 おっちょこちょいで、よくなにもないところで転んだりもする女の子。
それでも、芯はとてもしっかりしている。本当に、強い子なんだと思う。
和泉ちゃんの友達をしている僕たちは、とても幸せな人間なのだろう。
「とりあえず、近くの診療所に運び込んだんだが。身体の方には異常も
ないみたいなんでな。ひとまず、うちで預かることにした」
 発見が早かったんだろうな――と、庄一は言う。
 彼女が海に落ちた――溺れたのは、昨日ということになるだろうか。
「ただな…」
 言いにくそうに、彼は言った。
「記憶がないらしい」
 ――と。
「うん、知ってる。だから、僕に気を遣う必要はないから」
「そうか。それならいいんだが」
「庄一は、その娘に心当たりは…ないんだね?」
「残念ながら――な。知っていたなら、どんなに良かったことか」
「ん…?」
「こっちの話だ。鈴蘭のバカは、おまえが知ってるとか言ってたけどな。
気にしなくていいぞ。俺も花梨も、和泉ちゃんだって知らない娘だから」
 僕は、知っている――いたかもしれない少女。
 雪さんは、知っているだろうか。一緒に、来てもらえば、良かったか?
「――話してみるか?」
「出来る?」
「俺は、大和神社の跡取りだぜ?」
 ――継ぐつもりはないけどな。そう言って、笑う。
 儀式とか、形式ばったことが、嫌いなのだという。

 ナナミ様は、(名前が判らないから、そう呼ぶしかないのだが)神社の
奥まったところ――神殿に、住まわされているという。
 庄一も、食事を持っていったりしているそうだ。
「――ナナミ様だ」
 がらり――と音がして、扉が開いた。庄一が開けたのだ。
「ああ…」
 言葉が出ない。そこに居たのは、人間なんかじゃなくて。
「ナナミ――」
「驚いただろ?」
 いや、違う。異国の衣をまとった、その、美しい少女は――。
「――ナナミですわ」
 鈴が、鳴った。そう、そこにいたのは、神様なんかじゃなくて。
「牧野――那波と申しますの」
 少女の、かわいらしい唇が、小さく震える。
 鈴を鳴らしたような声とは、こういうことをいうのか――。
「それが、君の…」
「あん…いけませんわ。那波と――呼んでくださいな」
 ――旦那様。
 そう言った。そう、聞こえた。そんなはず、――ないのに。
「おい、どうした透矢。なに、蒼くなってんだ、おまえ…」
 震える。手が、震えて、身体が、震えて――寒い。
 こんなに、良い天気だというのに。
 僕は――。
「しっかりしろ、おいっ!」
「…え、ああ。どうしたの、そんなに慌てて?」
「って、おまえ、大丈夫か? ――まさか、なにか思い出したのか」
「いや、余りに綺麗で、声が出せなくって」
「そうか。そうだよな。そうなんだよなー」
 そう言って、庄一は、がっくりとうなだれた。
「はい…どうか、なさいましたか?」
 にっこり、と。彼女――那波さんが微笑む。美しい――。
 整った顔立ち。
 腰のあたりまであろうかという、長く真っ直ぐな黒髪。
 意匠を凝らした、大陸風のきらびやかな衣装――。
 そのどれもが、彼女の美しさを引き立てているだろう。
 いるだろう――が。
「お友達、ですの?」
「ああ。親友の、瀬能透矢だ。悪い奴じゃないから、安心してくれ」
「――知っていますわ」
「知って――僕を、知っているの!?」
 思わず、声を荒げてしまった。
 僕の方は、やはり――というか、当然のように憶えていないのに。
「いえ、判りますわ。あなたは、とても素敵な方ですもの」
 ふふふ、と笑う。
「初めて会ったというのに。そんな気が、まったくしませんわ」
 もとからの知り合い。というわけでは、なさそうだった。
 彼女もまた記憶喪失なのだから、本当のところは判らないけれど。
 ――それよりも。
 それよりも、僕はずっと、彼女から目が離せない。
 どうしてだろう?
 瞳が――。
 赤い、瞳。彼女の、その色素の薄い、赤味がかった瞳の色が――
 僕を。
 僕の心を、魅了してやまない。目が、離せない。
 こんなに――
「綺麗だ…」
 これほど美しく、神秘的な輝きを、僕は知らない。
 鈍く光を湛えた、その――
「そう、でしょうか…?」
 見つめられて、恥ずかしかったのか。薄くその瞳を閉じた那波。
 その仕種に、刹那の儚さを憶えた僕は、既に虜となっていたのか――。
「那波には、判りませんわ」
「見れば解るよ」
「――見えませんもの」
「え――?」
「那波は、目が見えませんの。もとからなのか、記憶とともになくして
しまったのかは、定かではありませんが…」
「…ごめん」
 浮かれていた自分が、馬鹿みたいに思えて、自己嫌悪した。
「ふふ…皆さん、そう仰いますのね」
 それでも、暖かな微笑みを返してくれる彼女に、僕は――。
「ありがとう」
 恋を、してしまったのだろうか。
 だからもう、僕はこの人が、寒く――怖くは、なかったんだ。

「僕は――那波を、知っていたのかな?」
 しばらく、牧野那波という人と、話をした。
 ナナミ様のことや、とりとめのない世間話――。
 それは、とても愉しい時間で。
「それでは、那波さんが、ナナミ様の生まれ変わりだとしたら…どうで
しょうか?」
 一緒のテーブルでお茶を飲みながら、雪さんが言う。
 うちの家事仕事は、すべて雪さんがやってくれている。彼女の仕事は
完璧で。失敗らしい失敗というのは、見たことがない。
「夢物語だね。雪さんって、そういう話が好きなの?」
「人間の脳には、すべての進化の過程が、記憶されているといいますよ。
それなら、生まれる前の記憶――前世も、あるのかもしれません」
「ふうん。それなら、僕の前世って、なんだったんだろうか」
「ふふ、きっと前世でも、雪のご主人様ですよ」
 本当に、愉しそうに笑う。
「それは、光栄だね。きっと、なに不自由ない暮らしが出来てたと思う」
「そうですね…」
 その表情が、少し、翳った。
「雪さんが、気にすることじゃないよ。仕方ないことなんだ」
「雪に、もう少し力があれば。透矢さんの記憶だって…」
 こんな、悲しい表情は、彼女には似合わない。
「記憶ってさ、なくなるんじゃなくて、どこにあるのかが判らなくなる
だけだと思うんだ。しまったはずのものが、見つからないことってある
でしょう? でも、それはちゃんと存在して。探し方が、悪いだけで。
だから、今の僕には見つけられなくても。生まれ変わって。その時には、
ちゃんと見つけられるかもしれない。それに…知らない方が幸せなこと
だって、あるのかもしれないしね」
「那波さんのことは――どうなんですか?」
 少し、いたずらっぽい表情で訊く。僕の好きな雪さんだ。
「解らない。気には、なるんだけどね」
「七波さんは、その異国の少女を愛してしまわれたようですが」
「僕は、七波?」
「弓が得意だったそうじゃないですか?」
 くすくす。完全に、からかっている。
「弓か…。部活にも、顔を出さないといけないかな」
 僕は、弓道部でも、エースと呼ばれるような存在だったらしい。
「花梨にも、そう言われていることだしね」
 記憶喪失の僕に、ちゃんとできるのかは、わからないけど。
「本当のところは、どうなんです?」
 雪さん、意外としつこい。
「――那波さんに会って、どう感じましたか?」 
 どう感じた、か。それは――。
「最初は、怖かったかな。身体が震えて、寒くて仕方がなかった」
「怖い――?」
「うん。でも、話しているうちに、自然とそういう感じはなくなったよ」
「身元も、わからないんですよね?」
「うん。警察が調べてくれてるみたいだけどね…」
 記憶が、ないから――。
 そうじゃ、ないのか。僕だって、記憶はない。けど、帰るべき家も、
頼るべき人も、ちゃんと見つけられた。ここが、僕の居場所なんだと。
 だけど――。
 彼女には、それがない。なにも知らない人たちに、勝手に神様に祭り
上げられて、きっと望んでもいない生活を、送ることになるんだろう。
 そんなのは、違う。それは、牧野那波の生活では、ないはずだ。
「僕が――思い出してあげないと、いけないんだろうね」
 本当のところ、彼女が牧野那波という名前であるのかも、わからない。
確かな証拠など、なにもないのだから。警察が、彼女の身元を探り出せ
ないとしたら、そのあたりにも齟齬があるのかもしれない。
「雪さん、ありがとう」
 急に、お礼を言いたくなった。僕を認めてくれて、ありがとう――と。
「どうしたんですか、あらたまって」
「いや、雪さんがいてくれて、良かったなと思って」
「もう、おだててもなにも出ないんですからね」
 にこにこ。言葉とは裏腹に、上機嫌な雪さん。
 この笑顔が見られるだけで、充分幸せだよなあ。
 そんなことを、考えていたら――。
「雪も、会ってみたいです。明日は、お供してもよろしいですか?」
 不意に、そんなことを言い出した。
「明日――?」
「行かれるのでしょう?」
 行くんだろうか、僕は。きっと、行くだろう。
 ――彼女のところに。
「透矢さんの心を奪った、罪な方。お美しい方だと窺っておりましたが。
いったい、どのような方なのでしょうね」
「もう、そんなんじゃないってば」
 くすくすっと、雪さんが微笑む。
 ――僕はきっと、一生この人には勝てない。
 そんなふうに、感じた。

「やー、精が出ますねえ、だんなぁー」
 ――旦那様。
 違う。この声は、あの人じゃない。
「花梨? どうしたの、こんなところに――」
 大和神社には、宮代花梨がいた。宮代神社の巫女で、僕や庄一と同じ
学年の元気な女の子。やや乱暴者なところが欠点なのだが。彼女がいる
だけで、クラスの雰囲気が非常に良くなる。ムードメーカーというか。
「どっかのバカが、バイトだとかでバックレやがりましてー」
 庄一のやつ、後で殴られるな、これは。
 花梨は、ジーンズ姿のラフな格好――普段着で、神社にいた。
 別に悪くはないのだけど、なんとなく巫女姿も見てみたかったかな。
 そんなことも思った。――それにしても、庄一の今後が心配だ。
「かわいそうに…」
「そうでしょう? バカ鈴蘭がいないだけ、マシなんだけどねー」
 ――自分のことを言われたと思ったらしい。その方が、いいか。
 僕まで殴られるのは、勘弁して欲しかったから。
「鈴蘭ちゃんもいないんだ?」
 聞きたいことも、あったんだけど。
「双子の女の子と、よく遊んでるみたいだしー」
 アリスとマリアだ。とすると、鈴蘭ちゃんは教会か。
「それで花梨は、那波さんの世話を――押し付けられたわけか」
「まあ、それもあるけどね…」
 と言って、人差し指で頬をかいた。言い難いことがある時に出るクセ。
病院で目覚めて以来。何度も会ううちに、いろいろなことが解ってきた。
「透矢さんのお世話も、頼まれたんですね?」
 雪さんが問う。
「んー、まあそんなとこかな。キミ、昨日彼女に会った時、なんだか変
だったっていうしさ。ちょっと心配かなーって」
 でも雪が一緒なら心配ないか――そう言って、花梨は笑う。
 笑いながら、僕の背中をバンバンと叩くのが、ちょっと痛かったけど。
 それでも、僕は花梨のこういうところは、嫌いではなかったから。
「彼女に、会えるかな? 雪さんも会いたいそうだから」
 せき込みながらも、笑顔で、それを言うことが出来た。

 宮代神社と大和神社は、宮代を上、大和を下とする――いわば兄弟の
間柄にあるという。歴史的には、宮代の方が古いようなのだが、それで
だろうか。いずれ、那波を宮代神社に移すという話もあるようだった。
『――ナナミ様は、本来は、上社である宮代神社に住まうべきである』
 そう、誰かが強く主張したのだとか、しないだとかで。
「神様が、人工呼吸で生き返りますかってー」
 お話にもなりませんー、と花梨は言う。
 耳の後ろあたりで大きく外にハネたクセッ毛を指ではねあ上げている。
 ――これも、クセ。
「キミも、そう思うでしょ?」
「そうだね。彼女は人間だから…。それを証明できるなにかを、見つけ
なければいけない。例えば、僕の記憶――とか」
「鈴蘭バカの言うこと、信じてる?」
 那波と僕が、顔見知りだという。
「どっちみち、僕は記憶を取り戻さなければいけないんだ。その上で、
彼女が誰であるのか判れば、それでいいじゃない」
「そうだけどー」
 髪を、はね上げる。
「その、さ。例えば、彼女の正体が、犯罪者だったりして。――勿論、
仮定の話として。それを、キミだけが知っていた。なんて可能性もある
――かもしれないじゃない? そしたら…キミは、どうする?」
「僕が、誰にも言わなければ…いいだけだと思う」
「あの事故の原因が、彼女だったら――」
「――彼女を、疑うの?」
 花梨は、髪をはね上げる。
「そうは言ってないって」
 煮え切らない花梨に、なんだか腹が立った。
 僕たちが彼女の味方をしなくて、誰が彼女を守れるのか。
 七波は、ナナミを連れ戻すためにやってきた、異国の軍隊――船団と
戦って、自らの妻を守り通したという。僕だって。
「なんでそんなに、キミは那波に執着してるのかなーって…」
 僕が、那波に執着? それは――。
「そりゃあ、僕の数少ない手掛かりだから――当然でしょ」
 それだけじゃない。僕は、彼女が――。
「まあまあ、お二人とも少し落ちついてくださいな」
 ――雪さんの優しい声。
「だってー。透矢がー。雪だって、あまり気分良くないでしょ?」
「雪は、透矢さんがしたいようにしてくれれば、それで充分です」
 険悪な雰囲気になりそうな僕たちを、救ってくれた。そう思う。
 昔から、僕は雪さんに守られてきたんじゃないか――とも思う。
「せめて、彼女の記憶が戻るまでは。僕たちだけは、那波さんを守って
あげようよ、花梨。記憶がないって――とっても不安なことだから」
「…まあ」
 頬をかいた。
「別に、キミを責めてるんじゃないから」
 ごめん――。ばつが悪そうに、花梨が頭を下げた。
「解ってる。花梨が僕のことを思って、言ってくれてるってこと」
「そ――それは…」
「大丈夫ですよ。たとえ彼女の記憶が戻って、透矢さんのことを忘れて
しまっても…。私たちがついていてあげれば、それでいいんですよ」
 雪さんは、にこりと微笑む。
「そうだよねー。私たちがついてるんだから、平気よねーっ」
 陽気に、バンバンと背中を叩かれた。少し痛いけど、これでこそ花梨。
 そう感じて、ほっとした。花梨を失わないで済んだから。
 でも――。
「記憶が戻って…忘れる?」
 いまいち、雪さんの言うことは、僕にはピンとこなかった。
「世界というのは、一つとは限らないんですよ、透矢さん」
 雪さんは、急に真剣な表情になって言う。
「記憶をなくしてしまった透矢さんは、それ以前の透矢さんとは、別の
世界にいるのかもしれません。証明は、できないんですけどね」
「パラレルワールド、というの?」
 そういう話を、聞いたことがある。平行世界とも、いうらしいけど。
「あの時こうしておけば良かった。そう思うことって多いでしょう?」
「…ありすぎるわ」
 花梨が答える。僕は、幸い――というか、憶えている分が少なくて。
「その時、別の選択肢を選んでいたら、どうなっているでしょう」
「ぜんっぜん、違う世界…だと思う。だけど…」
 そう。有り得るんだろうか、そんなこと。
「雪にも、それが正しいのかは、解りません。ですが、記憶をなくすと
いうことが、別の世界に迷い込んでしまったから――本来あった自分の
過去との連続性が途絶えてしまう。そういうことなのかもしれません」
「記憶が戻れば、もとの世界に帰るわけだから――」
 花梨も考え込んでいる。
「別の世界にいる間の記憶とは、連続性を保てない。つまり、忘れるか」
 僕が言うと、雪さんは――。
「本来生命は、死とともに新たな世界へ移動しているのかもしれません。
だから、人が過去を――他の世界の出来事――前世の記憶を思い出すと
いうのは、その人がその時にいた世界に還ってきたのかもしれませんね。
もちろん、これは雪が勝手に考えているだけなんですけど」
 舌を出して笑った。こういう、かわいらしいところが好きだ。
「雪さんってさ、僕が七波の生まれ変わりとか言いだすんだもの」
 おどけるように、言ってみた。
「へー、それで弓道も得意なんですねー、キミは」
「…本気で信じてる、花梨?」
「んー、半信半疑。ただ、記憶が戻っても…キミが、もともとの世界に
戻っても。私や庄一や和泉たちのこと憶えててくれれば、いいかな」
「そして、那波さんのいる世界ですか」
 少しだけ、厳しい――いや、哀しい表情の雪さん。
「大丈夫だって。雪は昔から、透矢のメイドなんだからさ」
 花梨が、そんな彼女を励ますように言う。
「そうですね。透矢さん――雪を、忘れないでくださいね」
「その前に、帰れるかどうかもわからないし。正直、今のままでもいい
ような気さえ、してるよ」
 アリスやマリアは、きっともとの世界には、いなかっただろうから。
 あの素敵な出遭いを、忘れることなんて、できないから。
 しかし、そうすると――僕は那波を思い出せない。
 僕は、どちらかを選ばなければ、ならないのだろうか?
 僕は、どちらの存在を選べば、いいのだろうか。
 きっと、僕は彼女を――。
「ところで――」
 と、雪さん。
「花梨さんは、那波さんを見て、どう感じましたか?」
「どう?」
 昨日も、僕に同じことを聞いていたけど。
「怖い――というふうには、感じませんでしたか?」
 それは、昨日の僕の答えだ。
「怖い、ねえ。感じないけど。幽霊でもないんだからさー」
 幽霊――?
“ざーん、ざざーん”
 な、なんだ、今の――!?
 波の音が、聞こえた気がした。僕がそう言うと、
「ああ、この神社って、崖の上に立ってるのよ。すぐ下が海になってる。
珍しいわよね。まあ、海の神様を祀ってるところだと、海にせり出して
たりもするけどね。だから、波の音だって聞こえるわけです」
 えへん、と胸を張るような姿勢で、花梨が答えた。
 雪さんに対抗して、知識をひけらかす機会ができて、嬉しいのか。
 でも――。
 その姿勢だと、ただでさえ大きい、花梨の胸が強調されて――。
「やー、また変態さんが、私の胸じーっと見てますーっ!」
 両手で隠しつつも、なんだか嬉しそうなのは、気のせいか?
「ほら透矢さん。そういう時は、雪の方を見ててくださいな」
 くいっと首をひねられた先に――雪さんの胸。
 この人も、けっこうあるんだよなあー。ますます、目のやり場に困る。
 それにしても、女の子の胸にばかり目がいく僕って――。
 こういう時、鈴蘭ちゃんか和泉ちゃんがいれば――。
 なんて、失礼なことを考えたりしてしまう自分に、自己嫌悪したり。
「あはー、透矢クンったら赤くなっちゃって、カワイイー」
 花梨が、目を細めて笑う。どう見ても、僕の反応を愉しんでるなあ。
 そんなふうに思っていると。一転、彼女の表情が険しくなって。
「幽霊か…。引き込まれたって、ことかしら…」
 そんなことを、言った。もちろん、僕には意味が解らない。
「引き込まれるって、なに?」
「このあたりって、自殺の名所なのよ」
 自殺――。
「ここは、崖の上だって言ったでしょ?」
「うん」
「崖の途中にね、滝があるのよ。地下水が涌き出てるみたいなんだけど」
 それは、珍しいかもしれない。だから、ここに神社を建てたのか。
「ほら、滝と自殺って、なんか合うじゃない」
「確かに、そういう感じするね。どうしてだろう?」
 それには、雪さんが答えた。
「滝の下が渦になっていて、死体が上がらないから。成仏――神社では、
なんと言うのかわかりませんが。それができずに留まってしまった魂が、
生きている人を仲間にしようと招き寄せるのだとか…」
 雪さんの言うところの、他の世界へと移れない――ということか。
「あー、葬式はほとんど寺社の方でやってもらってるから。神葬祭とか
いうんだったかな? 神道では、死んだ人は神の世界に還るのよね?」
 つまり、花梨も葬式なんかのことはよくは知らないらしい。
 花梨と葬式ってのも、合わない感じだし。
「雪さんや花梨は、那波さんが自殺を考えていたと?」
 そう考えているように見えた。霊がどうこうは、ともかくとして。
「足を踏み外したというのも考えられますが。どちらにせよ、服を着た
まま泳ぐというのも考え難いですし。ただ溺れたのとは違いますね」
 雪さんが言い――。
「自殺なんてするくらいなら、思い出さない方がいいわよね…」
 髪をはね上げながら、花梨が言う。
「花梨の言うことも解るけど…」
「原因がわからないとねー」
「痕跡でも、探してみましょうか。足を滑らせた跡でもあれば…」
 雪さんは、崖のあたりを調べるというのだろうか。
「…まあ、那波の意思を確認してからでいいんじゃない?」
 ――僕も、花梨の意見に賛成だった。

「そう、なのでしょうか…」
 花梨に事情を聞かされて、哀しげな表情の那波さん。
 それも、また美しいと思った。不謹慎かも知れないけど。
「思い出しても、つらいだけかもしれないし…。もちろん、今の生活が
嫌というなら、頑張って町の人も説得してみるし――」
 那波さんは、にこりと微笑んで。
「いいえ。大和神社の方々にも、宮代さんにも良くして頂いていますし。
不満などはありません。けれど――。透矢さんのためにも、那波は思い
出すべきなのだと思います。自分が何者であるのかを」
 強い意思を感じさせる、話し方だった。
 雪さんも、花梨も。それ以上、彼女に対して言うべきことはない。
「…本当に、綺麗な人ですね」
 すいっと、僕の耳に唇を寄せるようにして、雪さんが囁く。
「昨日、透矢さんが仰ったこと。雪にも少し解ります」
「昨日…?」
 僕も、意識したわけじゃないが、小声になってしまう。
「怖い、と言いました。雪にも、少し悪寒のようなものがあります」
「雪さんが、怖い?」
「雪にも、怖いものはあります。あれは…死の影かもしれません」
「死の…?」
 どういうことだろう?
「あくまで憶測ですが。…溺れた際に、なにか悪いモノでも引き入れて
しまったのかもしれません。良い空気であるとは、言えませんから」
「霊に憑かれたとか、そういう感じかな?」
「解りません、雪には。花梨さんなら、或いは――」
 と、そこで、目の前に花梨の顔が大写しになった。
「なにを、こそこそしてるのかなー、キミタチはー?」
 あはは、と笑う僕。自然と、不自然な笑みになった。
「綺麗な人だという話ですよ」
 と、雪さんは微笑んで。――花梨の瞳を覗き込む。
「花梨さん――この部屋は、いつもこのような感覚なのですか?」
「空気は、少し重いわね。神殿なのだから、それが当たり前といえば、
そうなんだけど。本来は、人間が居て良い場所ではないから――」
 花梨は、いつになく真剣な表情をしている。
「どうか、なさいました?」
 穏やかな声で、那波さんが問うた。
「…那波さん。この部屋で、なにかおかしなことなどは、ありませんか?」
 雪さんも問う。那波は――、
「特になにも…ただ、夢を見ましたわ」
 そう言った。僕は、夢を見ない――。
「夢、ですか?」
「ええ。那波が――殺されてしまう夢ですわ」
「えっ?」
 花梨が、驚いた声をあげる。それは――まさか、
「崖から、突き落とされるというような、夢?」
 雪さんや花梨も、僕と同じことを考えたのか、小さくうなずく。
 しかし――。
「いいえ。あれは、そう…もっと山の方――」
 彼女の答えは、そうではなかった。そんなものじゃ、なかったんだ。
「一面の花畑と、大きな木。…そして。――貴方ですわ」
 僕を、見た気がした。見えていないはずなのに。
「ぼ、僕…?」
 僕が、彼女の夢に出てきた? そう言うのか。
「弓で――。那波は貴方様の放った矢で、射殺されてしまうのです」
 背筋が、ぞっとした。僕が、彼女を――殺したというのか。
 記憶をなくした犯罪者は、僕の方だったというのか…?
「ふふ、夢ですわ。ただの、夢。昨日、あなたに逢ってしまったことが、
影響を及ぼしたのでしょう。――夢とは、そういったものですもの」
 夢は、人の無意識の願望の表れだともいう。
「だけど…」
 弓のことは――。
「花梨、彼女に、僕が弓道をしてるという話は――」
「私は、してないけど。庄一がしたんじゃない?」
「あら、透矢さんも、弓をなさるのですか?」
 偶然の一致。そう那波は言う。つまり、知らなかったこと。
 それとも、知っていたはずのこと?
「君は…」
「あん。那波と…呼んでくださいな」
 ――旦那様。
 まただ。声が聞こえた。実際には、聞こえないはずの、声。脳の内に
直接響いているのか。或いは、かすかな記憶に触れているのか。
「弓、ねえ」
 花梨が呟く。僕の方を、じっと見つめる。
「キミが、犯人だったのね」
「あのねえ、花梨」
「那波は、殺された恨みを晴らすために現れた、幽霊だったのだ」
 まあ、冗談のつもりなんだろうが。――正直、笑えない。
「ご安心くださいな。那波は、幽霊などではありませんわ。…なんなら、
触ってみてくださいな。――聞こえますでしょう?」
 僕の手を取り。その形よく整った、胸の上へ――。
 どくん、どくん。僕の心音と、彼女の心音が、重なり合う。
 それは、だんだんと速くなって――。
「な、那波さん…?」
「ふふ…鼓動が速くなっていきますわ。あの日を、思い出しますわね…」
 耳元で、那波が囁いた。
「あの日って…キミは、記憶が――」
 ないのだと。
「夢に見た、あの日ですわ。ねえ、――旦那様?」
「――!?」
 思わず、彼女の身体を突き飛ばした。
 なにを――見たんだ。この娘は、どんな夢を――見たというのか。
「あん…驚かさないでくださいな」
「透矢っ!? キミ、なにを…」
「大丈夫ですか?」
 花梨と雪さんが、慌てて彼女に駆け寄る。
 それを、僕は、ぼーっと見ている。
「申し訳ありません。透矢さんも、驚いただけだと思いますわ」
 と、那波が言う。なにも知らない、といったように。
「透矢クンはさー、女の子のおっぱい大好きくんだからー。気をつけた
方がいいと思いますー」
 半ば呆れたように、花梨が那波に忠告する。
「次は、気をつけますわ。今のは、那波がいけませんでした…」
 にこり、と微笑んで、那波は僕を見つめた。
 光を映さないはずの、赤い瞳。妖しく輝く、彼女の赤い瞳が。
 ――僕の瞳を捉えていた。
「本当に、透矢さんには感謝しておりますのよ」
「僕が、君を助けたわけじゃないから…」
 感謝するのなら、和泉ちゃんにだと思う。
「こうして――。那波に会いにきて下さるでは、ありませんか」
「ああ…」
 目が覚めた日のことを思い出す。
 あの時、僕の目の前に、女の子が飛び込んできて。
 病院のベッドの上で、それが誰なのか、判らなくて。
 僕が、誰なのかも――解らなくて。
 彼女は、僕の胸に顔をうずめて泣きじゃくり。
 それでも僕は、どうしていいのか判らないまま。
 ――そして。
 琴乃宮雪という、僕のメイドだという彼女は、僕一人を残して帰る。
 夜が来たのだ。暗く深い闇の中で、頼るものもなにもなく。
 僕は、ただただ願うだけだった。
 朝が、早く来てくれますように――。
 昨日見た、雪さんの姿が、本物でありますように――。
 この、記憶喪失という現実が、夢でありますように――。
 それでも、この夢が、覚めることのありませんように――。
 だから、僕には彼女の気持ちが解る。
 それならば、僕は彼女の支えにならなければならないのではないか。
 たとえ、彼女が僕の未来に影を落とす存在なのだとしても。

「明日、また来るから」
 そう言って、僕と雪さん、そして花梨も、那波の部屋――大和神社の
神殿を出た。そろそろ、日もかげろうかという時間。結局のところ――。
僕たちは牧野那波という人物については、なにも判っていない。
 ――雪さんが、いろいろ質問とかしていたようだけど。
 結果は、僕の時と同じ。記憶がないというのは、そういうことなんだ。
「どうすんのかねー、あの子」
 ため息をついて、花梨がぼやく。いつまでも神様の真似なんてさせて
いられないし。かといって、なにが出来るわけでもなく。
「いざとなれば、うちで預かることも出来ると思うけど…」
 うちは、経済的には余裕のある方だ。もともとは、名のある家だった
らしいけど。父さんが、民俗学なんて始める時に、土地やらなにやらを
売り飛ばして活動資金にしたのだと、雪さんは言っていた。
 ――今でも、蓄えは結構残っているんだとか。
 だから、女の子を一人養うくらいのことは、なにも問題ない。
 ただ――。
 ちらと、雪さんの方を見る。
 彼女の負担が増えるのは明らかで。――出来れば、それは避けたい。
「一人も二人も、あまり変わりませんよ」
 雪さんは、優しく微笑む。と、そこへ――、
「お、やっぱり来てたな、お人好し!」
 この神社の跡取り息子、大和庄一が帰ってきた。
「花梨もご苦労さん。神様のお世話ってのも、疲れるものだろ?」
 そんなふうに、軽口を叩く。
 僕は、いつ彼が殴られるものかと、冷や冷やものだったのだけど。
「えーえー、そうですねー。誰かさんのおかげでねえー」
 花梨のむくれた表情というのも、これはこれで可愛いものだと思う。
彼女に限ってのことかもしれないけど。表情がころころと変わるのは、
端で見ていてとても愉しい。知らず、口許が緩んでいたようで。
「キミぃ、なに人の顔を見て、にやにやしてるのかね?」
 ――僕が、怒られた。
「あー、いや、花梨ってさ、よく見ると可愛いよね?」
「え――な、なに言ってるかなー、キミはっ」
 バシバシと、頭を叩かれた。照れているのかな。
「そういうとこ。花梨らしくていいじゃない」
 だから、僕は彼女の親友をやっていたのだと、思った。
「記憶、戻った?」
「そういうわけじゃないけど…。僕って、前からそんなこと言ってた?」
「むしろ、言うわけねー」
「庄一は黙ってろ!」
 ――ゴン。
 結局、なにがどうなっても、僕たちは殴られる運命らしかった。
「…さっきの話だが」
 殴られた頭を抱えるようにして、庄一が言う。相当、痛そうだ。
「そろそろ、彼女には宮代神社に移ってもらおうかと思うんだが」
 俺が決めたわけじゃないがな――と、庄一。
「あのね。神殿は、神様が住むところなわけ。うちだって、一緒なの」
 眉をひそめるようにして、花梨が言う。
「人間なんて住まわせてたら、神様だって気分良くないでしょ?」
「だからさ。ここは町も近いし、人目もある」
 ここからは、俺の意見だが――。そう前置きして。
「お前んとこなら、山も近いし、人も少ない。一人の人間として彼女を
遇してやることも、出来そうじゃないか」
 庄一は言った。花梨の家で預かれ、ということだろう。
「女の子どうしの方が、いいだろうしな」
 ――僕も、そう思う。花梨の負担が増えるのは、否めないが。
「…いいけど。変な人間が近付くのも、勘弁して欲しいなあ」
 と、花梨。今日も、ナナミ様を見学に来たらしい、人だかり――。
「たしかに、宮代神社まで見に来るような人も、そういないと思うけど」
 来ないとも、限らない。
「そこに、神様がいなければ…彼等は、どう思うだろう?」
「なら、ナナミを岩戸にでも――隠しとけばいいさ」
 庄一は、にやりと笑う。神話の話と、かけているのだ。
 たしか――外国の軍隊がナナミを取り返しに来た。彼等が連れてきた
怪――あやかしの手によって、七波の国は大変な打撃を受けた。それを、
ナナミが敵に内通したと言う者がいた。そこで、七波はナナミを洞窟に
――物語でいう岩戸に隠して、入口を閉じた。彼女を敵から守るのにも
都合がいいと考えたから、だともいうけど。――たしか、そんな話。
「そんなの、どこにあるのよ?」
 花梨は、ため息をついた。あくまで、神話、伝承の話なのだ。
「結局のところ、厄介払いでしょ」
「彼女のためだ。俺だってな、あんな美人が拝めなくなるのは悲しい。
悲しいが――、それも仕方ない。なあ、透矢?」
「なぜ、僕に振るのか解らないんだけど」
「ナナミ様は、透矢殿に、いたく御執心であらせられる――」
 なんだか芝居めいた言い回しで、庄一は言った。
「夢の話、聞いた?」
 僕が、那波を殺す――夢の話。
「夢? いや…なんとなく態度でな。そんな気がするんだよ。まったく、
なんでいつもお前だけ――」
 そう言って、僕を睨んだ。ほとんど冗談なのは、解ってる。
 微妙に、本気も混じっているような、気はするけれども――。
「はいはいわかりました。うちで面倒見ればいいんでしょ」
 諦めた、というように、花梨。別段、嫌そうではないから、いいけど。
 ――いいのだろうか?
「雪も、なるべくお手伝いに行かせてもらいますよ」
 それまで、僕たちから少し離れたところで静観を続けていた雪さんが、
にっこりと微笑む。それを聞いて安心したのか、どうなのか。
「んじゃ、巫女として神様には憑いてきてもらいますか」
 花梨は、――愉しそうに――那波さんを迎えに行った。
「早い…」
 あの行動力は、本当に凄いと思う。
「お前も頼むぜ。彼女の力になってやってくれよな」
「なに言ってるの。庄一も、暇を見つけて行ってあげなきゃ」
「ああ、そのつもりだけどな。…うらやましいよ、お前は」
 そう言って、庄一は豪快に笑った。

 ――今日も、那波さんに会う。場所は、宮代神社。
 昼間は、花梨が部活でいないことも多くて。那波さんが巫女を、僕が
そのサポートのような形で働かされ――いや、社務を手伝っていた。
「あまり役に立ちませんで…申し訳ないですわ」
 社務所で、僕の隣に座った那波さんが言う。
 僕は普段着でいるけど、彼女は巫女服。花梨に借りたものであるとか。
 大和神社にいた頃の、異国風の衣装も良かったけれど。この姿もまた、
黒髪で長髪という日本人然とした彼女には、似合いすぎていると思う。
「大丈夫だよ」
 僕は彼女に、優しく微笑みかける。
 見えないといっても、そういった雰囲気というのは、伝わるものだ。
 それに――。
 仕事といっても、参拝客などほとんどいないような、田舎の神社なの
だから。どのみち境内の掃除くらいしか、やることがない。
 ――それは、僕がやった。
 本来は、それは花梨がするべき仕事なのに。
 そんな状態だから、結局のところ那波さんがしていることは――。
 一日中ここに座って、たまにやってくる暇人――僕だとか。庄一とか、
和泉ちゃん。あるいは鈴蘭ちゃんなんかと、話しているくらいのものだ。
「本当に、何かお役に立てれば、良いのですが…」
 そう、彼女は言う。
 でも、彼女にできることっていうのは、なんなのだろうか?
 五体満足(頭以外は)な僕には、彼女のような人のことは判らない。
 差別するだとか、そんなつもりなんて、全然ないんだけど。
「祝詞でも、読んでみる?」
 なんとなく、神社っぽいことで何か――と考えて、言ってみた。
 ――それにしても、ばかなことを言った気がする。
「のりと?」
 彼女は、不思議そうな声で問う。まあ、普通は解らないよなあ。
「祝詞っていうのは、神様に捧げる呪文みたいなものかな。僕もよくは
知らないんだけど。祓い給え〜清め給え〜とかいうやつだよ、たしか」
 それが、彼女にとって意味のある行為だとは、思えないのだけども。
日がな一日ぼーっとしているのよりは、気も紛れるんじゃないかと思う。
それに、もしかしたら、お祭りの時かなんかに役に立てるかもしれない。
「それは――」
 身体ごと、僕の方に向き直った那波さんが、僕の手をぎゅっと掴む。
 そして、そのまま目を閉じて――。
「ナナミさま、ナナミさま…どうか願いを叶えてください…」
 なにやら、呪文のようなものを唱えた。
「――それは、なに?」
 僕が訊くと、彼女は小さく首を傾げて――。
「おまじないですわ。この地方に古くから伝わるという…。透矢さんは、
ご存知ではないのですか?」
「記憶喪失だから」
 きっと、忘れているだけなんだろうけど。
「わたくしも、記憶がありませんの。ふふ、気が合いますのね」
 そう言って彼女は、にこりと微笑む。
「気が合うとか合わないというような、話でもないと思うんだけど…」
 まあ、でも、そう言われて悪い気はしない。
 ――しかし、よくよく考えてみれば。
 記憶のない人間が、二人揃ってこんな場所で話し込んでいたところで。
なにかを思い出すきっかけになるなどとは、思えないのだけど。
「わたくしも、先日、初めて知ったのですが。この石に――」
 そう言った彼女の左手には、きれいな丸い石が握られている。
 たしか、僕が事故にあった時に持っていたという石も、こんな感じの
ものだったっけ。みんなは、珍しくもないものだと、言っていたけども。
「その石って、この辺りの人が、お守り代わりに持ち歩くんだよね?」
 花梨や庄一たちも、そうしているという話。
「この石は、涙石といって――託した願いをナナミ様に届けてくれるの
だと言われています。願いを叶える涙石――というのですわ」
「ああ。なんか聞いたことがあるかもしれない」
 花梨あたりが話してくれたような気も、しないではないんだけど。
「のりと――というのとは、また違うのでしょうか」
 どうだろう。違う――のかな?
「もっと、難しい言葉とか使うみたいだよ。神様の言葉なのかな」
「涙石は、人の言葉を神の言葉へと変える、翻訳器なのでしょうか」
「もしそうなら、この石は――神様が作ったもの?」
「この世界のすべて、神の創り給いしものと――言われておりますわ」
「創世神話。日本で言えば、イザナギとイザナミの話だね。天の沼矛で
下界をかきまわし、日本列島の原型を創ったと言われているけど…」
 くすっと――那波が笑う。
「詳しいんですのね」
 本当に。どうでもいいようなことばかり、よく憶えている。
「父が民俗学者でね。…友達も神社の跡取りとかだし。それでなのかな。
那波さんも、もしかして神話とか詳しかったりするのかな?」
 彼女と共通の話題があるのは、嬉しい。
 なんていうか、特別な世界に一緒にいるような。
「那波は、本で読みました」
 なるほど、本か。あ――。
「本が、読めたんだ?」
「本といっても、点字の――あら、那波は点字が読めるんですのね」
「すごいよ、大収穫だ。那波さんって、もともと目が不自由だったんだ」
 喜べきことでもないけど。それがきっかけで、記憶が戻るかも――。
「どこか、そういった本の読めるところ、ありませんでしょうか?」
「読みたい?」
「はい。とっても♪」
 まるで歌でも唄うような、弾んだ声と。今までで、最高の笑顔――。
 そうか。彼女は本当に、本を読むのが好きな娘だったんだ。
 那波さんの真実。それに少しだけ近付いた。
 そう考えると、心も躍る。
「――そうだなあ。やっぱり、図書館じゃないかな。あるとしたら…」
 しかし、実際の話――。
 点字の本なんて、置いてある場所は限られているように思う。
 それとも。気に留めていなかっただけで、何処にでもあるもの?
 少なくとも――。学校の図書館には、置いてあったように思う。
「行ってみる?」
「よろしいのですか?」
「明日、行くことになってるんだけど…いいかな?」
 勉強会だかをやるらしい。と、和泉ちゃんから聞いている。
「はい♪」
 ちりん――。
 開け放された窓から入り込む、微かな風が、窓辺にかけられた風鈴を
揺らすような。そんな感じの、綺麗な音がした。
「それじゃ、明日は花梨に連れてきてもらえばいいから」
「花梨さんも?」
 今の風は、少し強かったかもしれない。
 きん、と。さっきより、わずかに強い音がしたように思えた。
「僕と――二人だけの方がいい? 今みたいに…」
 自惚れ、というものか。そう思っているのは、僕自身――か。
「那波と二人きりでは、なにが起こるかわかりませんよ?」
 いたずらでもするように、くすくすと笑う少女。
「こうして――毎日この場所に座っていましても、時々、意識を失って
しまうことがありますの。自分がなにをしているか、解らないのですわ」
「それは、気をつけないと。常に誰かが一緒にいた方がいいかな」
「いえ…すぐに意識は戻りますし。あまり他人に見せる状態でもないと
思いますわ。どういった時にそうなるかも、見当はつきますし――」
「どういう時?」
 ふふ、と。いたずらっぽく笑う那波。
「月のものが、多い日ですわ」
 ――あ。
「えと…ごめん」
 思わず、想像してしまった。それで、すぐに謝ったんだ。
 それは、男の僕が入り込んでいけない、女の子の部分だと思うから。
「那波は、別に気にしませんわ。正直――それが恥ずかしいことだとは、
思いませんし。むしろ、那波が人である証と…ね?」
 にこり――。優しい笑み。
 やっぱり、この人は素敵な人だ。僕は、改めてそう思った。
「今の話は、花梨たちには黙っててくれるかな?」
 と、僕。
「どうして?」
 と訊きながらも、目が笑ってる那波さん。
「殴られるから…」
 くすくすくす――。
「ご安心くださいな。那波はいつでも、あなたの味方ですわ」
 そんな、愉しそうな彼女の笑顔を見ていると。記憶なんて戻らなくて
いいかもしれない。そんなふうに、思ったりもする。

 翌日――。
 僕たちは、学校の図書館にいた。そう、図書室ではなくて、図書館だ。
そのくらい、広くて蔵書や設備も充実している。初めてこれを見た時は、
僕も驚いた。まあ、記憶をなくす前なら、知っていたはずのことだけど。
 ――ナナミ様についての研究。
 そんな課題が、この学校では毎年、夏休みになると出されるという話。
つまり、去年の僕もやっているはずなんだけど。憶えていないんだけど。
だから、今年は、より深いテーマで調べていかなければならないという。
 グループ研究も可ということなので、去年と同様、いつものメンバー。
僕、庄一、花梨、和泉ちゃんが集まっている。それに、今年は那波さん。
尤も、彼女はうちの生徒ではないので――。手伝ってもらうというわけ
でもなく。ただ読書をしてもらうために、連れてきてもらったのだけど。
 適当な気晴らしにでもなれば、それでいいと思う。
「点字本のコーナーに、ちょっと行ってくるよ」
 そう言って、僕は那波さんを連れて建物の奥まった一角にやってきた。
 僕たちの他に、誰もいない。
 誰かが本を読んだような形跡はあるから、誰も利用していない――と
いうわけでも、なさそうなんだけど。
「結構、いろいろと置いてあるみたいだよ」
 彼女の手を引きながら、つぶやく。
「気に入る本があると、いいんだけど…」
「きっと、良いものがありますわ。それに、この世に面白くない本など、
存在しないのですもの」
 いつもより、いきいきとした表情の那波さん。
「本当に、本が好きなんだね」
「他に、これといった趣味もありませんし――」
「どんな本が好き?」
「どんな本も好きですが。そうですわね――冒険物語などが好きですわ。
例えば、ピーターパンというお話を、知っていますでしょうか?」
「児童文学、だよね」
「ばかにしてはいけませんわ。あれで、奥の深い話ですのよ」
「大人になれない、かわいそうなピーターの話?」
 いつか、雪さんと、そんな話をしていたような憶えがある。
「そう。夢の世界から、出られなくなってしまった――ピーターパン」
 彼女は、そう言って。少しだけ寂しそうな表情をした。
「出られない? ピーターは、出て行きたいのかな?」
「出て、いけないのですわ。出てしまえば、すべてが終わってしまう。
だから、彼は子供たちを自分の夢へと招き入れるのです。夢を、現実に
近付けるために。現実の世界ではありえないことも、夢の中では現実と
なるのですものね」
 彼女の語るピーターパンの物語。それは、雪さんのものとも少し違う。
那波さんの描く物語。結局、受け止め方なんて、人それぞれなんだ。
「けれど――」
 彼女は、物語を続けている。
「彼は、それが本物の世界でないと、気付いてしまう。だから、いない
はずの子供たちは、本当の世界へ帰らないといけない」
 ――だとしたら。そこで、物語は終わってしまう。
「ピーターが夢から覚めた時、ネバーランドは存在を失ってしまう?」
 僕の問いに。彼女は哀しそうな表情で、答えを返す。
「いいえ。夢からは、覚められないのですわ。彼は――」
「どうして?」
「覚めてしまえば、彼はネバーランドもティンカーベルも失ってしまう。
それは、すべてを失うということですわ。彼の存在、そのものでさえも」
「目覚めた後には、本当の世界が待っているよ?」
「彼にとっての本当は、ティンカーベルのいるこの世界。夢というのは、
可能性なんですの。前の夢では叶うことのなかった願いも、次の夢なら
叶うかもしれない。そう…だから人は、夢を見続けるのですわ」
 そこで那波は、くすっと微笑む。
「もしかしたら、夢を見ていたのはピーターではなくティンカーベルの
方かもしれませんわね。鈍感なピーターが気付きもしなかっただけで…」
 どうだろう――?
「面白いとは思うけど。飛躍しすぎって感じもするかなあ」
「那波の勝手な想像ですから、気にしないでくださいな。――あら?」
 一冊の本に、動かしていた指が止まる。
 僕と話しながら、棚にきれいに並べられた本を、指で背表紙をなぞる
ようにして物色していたわけだけど。これって、かなりすごいこと?
「この辺りのものに、いたしましょう」
 そう言って、周囲の数冊を調べて、丁寧に抜き出す――。
「なんの本?」
「ナナミ様について」
「そんなものまであるんだ。でも、無理に付き合わなくていいからね」
「ふふ――」
 彼女は微笑む。
 清楚な雰囲気が、清澄な図書館という空間に、よく馴染んでいる。
 きっと、どこかのお嬢様なんだろうと思うけど。
 未だに身元が判らないというのは――。
 なにか、犯罪にでも巻き込まれたためなのか。
 それとも、もともと国籍が日本にないのか。
 ナナミ――か。
 密航者――なんてことは、ないと思うのだけど。
「少し、興味がありますの」
 流暢な、澱みのない日本語で、那波はそう答えた。
「自分と同じ名前の神様。同じように海で拾われ、国に多くを為したと
いう異国の姫巫女。それは、どのような存在であったのか。もっとよく、
知りたいと思うのです」
「なるほどね。みんな喜んでくれると思うし。手伝ってくれるかな?」
「はい♪」
 こうして僕は、何冊もの本を抱えながら。彼女を連れて――みんなの
ところへ戻っていった。既に調べものを始めていた彼等も、彼女の参戦
――予期せぬ援軍――に喝采を贈る。戦力は、多いに越したことはない。
「研究って、なにを調べればいいのかな?」
 見たところ、最も真面目に本を読んでいた和泉ちゃんに訊いてみた。
 僕が目覚めた時、庄一たちと一緒に見舞いにきてくれた。僕の大切な
親友――新城和泉ちゃんは、身長もあまり高くなくて童顔なので、一見
幼くみえるけども。実際はとてもしっかりとした女の子だった。それは、
那波さんを助けた時の手際を見てもよくわかる。笑顔がとても優しくて
面倒見がよい。それが、僕の見た和泉ちゃん。クラスで席が隣の僕にも
勉強を教えてくれたりと、いろいろと助けてもらっている。
「適当でいいよ」
 和泉ちゃんは、いつものにこにことした笑顔で言った。
「適当っていっても…」
「そうそう。こんなもん、出せばいいっていうようなもんなんだから」
 ばさっ――と。手にした本を投げ捨てるようにして、花梨が言う。
「ま、そうだな。やみくもに読んでたって、どうにもならんわな」
 庄一も、読んでいた本を机の上に置き――。
「研究テーマか…どうする?」
 そう訊いた。僕に聞かれてもなあ。
「那波さんは、どんなことを知りたい?」
 訊かれて、彼女は――。
「ナナミ信仰と、その歴史的変遷――というのは、いかがでしょう?」
 僕たち全員を見渡すように(見えてはいないのだろうけど)、言った。
 ――そして、僕に向かって微笑む。
 気配や音などで、おおよその位置を把握しているのかもしれない。
「なーんか難しいこと言ってますよー、ドザエモン様はー?」
 下敷きで僕を煽るようにしながら、花梨が面倒臭そうに言う。これは、
冷房の効いた図書館の、冷めた空気を僕に送る――ってことなのか?
「ドザエモン様って?」
「ナナミ様に対抗して、あたしがつけましたー」
 ぐてーっと、身体を前に倒して。机の上に突っ伏したような格好で、
花梨が言う。町の人たちが、那波さんのことをナナミ様――と呼ぶのが、
よほど気にいらないらしい。
 ――だけど、ドザエモンはないだろうに。
 ちらり、と那波さんを見る。
 彼女は、困ったような――曖昧な表情で、微笑んでいた。
「いいじゃない。那波さんの言ったテーマでやってみようよ」
「まーた、透矢くんの那波さん贔屓が始まりましたよ。おにいさんー?」
 今度は、庄一の肩を下敷きでトントンと叩くようにして、言う。
「そういうわけじゃないんだけど…」
「いいですねー。部活にも行かないで、毎日おデートですかあー?」
 それを言われると、痛い。夏休み期間は、部活といっても自主活動に
なるのだけど。僕は今まで、ずっと花梨の誘いを断ってきている。
 それで、なにをしているかといえば――。
 神社で那波さんと話したり。教会やその近辺でアリスやマリアたちと
遊んだりしているのだから。文句を言われても、仕方がないとは思う。
 ――それでもさ。
 一応は、那波さんと一緒に、花梨の家の手伝いをしてるわけだから。
「そこまで言わなくても…」
 がっくりとうなだれた僕は、情けない声で、そう言った。
「そうだよ。花梨ちゃん、言いすぎだよぅ」
 和泉ちゃんの、フォロー。
「構ってもらえなくて寂しいのは解るがな。そう拗ねるな」
 庄一の、フォローにならないフォロー。
「うるさいっ!」
 ――がん。
 大きな音が、静かな図書館に響く。
「くぅ〜、本で殴るか、お前は〜?」
「あのさ、花梨。この際だから言うけど…部活、やめようと思う」
 こんなところで言うことじゃないけど。
 いつかは、話さなければ、いけないことだから――。
 僕はもう、二度と弓を扱うことはできない。
 そんな――確信めいたものが、あったから。
「どういうこと? 弓道部を、辞める――?」
 案の定、花梨の鋭い視線が、僕に突き刺さる。
「弓道部っていうか、弓道そのものを――」
「冗談じゃない!! キミは、うちのエースなのっ! 私に弓を教えて
くれたのも、あなたで――」
「落ちつけ、花梨っ!」
 庄一の、低く、それでいて強い声。
「透矢も。こんなとこでする話じゃないだろう」
「周りの人の迷惑になっちゃうから…」
 穏やかな表情で、花梨と――僕をなだめようとする、和泉ちゃん。
「ごめん…」
「――キミは、弓道を続けなきゃ…」
 寂しそうに、花梨はつぶやいた。
「今はさ。記憶がなくなって不安なだけだと思う。記憶が戻ったら、さ。
きっと、またやりたくなると思う…。だから。辞めるとか、そういうの
じゃなくて――見学、とか。そういうのも、ダメなのかな?」
 悲しそうな花梨の声に、僕は――。
「…そうだね。見るだけなら」
 そう答えた。
「でも、ごめん。やっぱり、弓を射ることは、できないと思う…」
「ちょっとづつ――気持ちから整理していこうよ。大丈夫。キミが弓を
できなくなるなんてこと、あるわけないんだからっ!」
 笑顔で、僕の背中をバシバシと叩く花梨。
 今は、これでいい。きっと、失望させるだけなのだとしても。
「ところで、みなさん――」
 不意に、那波さんの声が、僕たちの間に割って入ってきた。
「ナナミの神話には、諸説あるようなのですが――」
 それまでの展開を、まるで無視するかのように。
 もちろん、それが本題で。外れてたのは、僕たちの方なのだけど。
「七波――王様の方ですわね。彼は、異国との戦で戦死したというのが、
一般的に言われる伝説なのでしょうか?」
 どうやら彼女は、僕たちが揉めている間も、一心不乱に読書に耽って
いたらしい。マイペースなのか、集中力が素晴らしいのか。
「七波は、自慢の弓を引き絞って戦い、最後は力尽き海の藻屑と消えた。
そういう話だと思うが」
「お祭りの時に、巫女がその身にナナミ様を宿して、大和神社――海の
近く?――に渡るのは、戦死した七波に会いにいくんだって話だけどね」
 庄一が応え――。花梨が、それを補足するように言った。
「それは、最近の風習ですわね?」
 と、それに対して那波さんが言う。
「どうしてわかるの?」
 僕の問いに、彼女は――。
「大和神社と宮代神社を比べた場合…触れた感触や匂いなどから考えて、
大和神社の方が新しいように思えます。もっとも、近年になって新しく
建て替えられただけなのかもしれませんが…」
 そう応える。それに対して、大和神社の人間である庄一が言う。
「いや、うちの神社は戦後にできたものだからな。それ以前には、あの
辺りにはなにもなかったようだが――そうか、変だな」
 彼は、どうやら少し興が乗ってきたらしい。
 もともと、神様やら妖怪やらといった話は好きみたいだし。
 那波さんは、さらに話を進めていく。
「宮渡りの儀式――というのかは存じませんが。それが祭りに取り入れ
られたのは、少なくとも戦後ということになりますか?」
「どーうだろ? ――舞自体は、昔から伝わってるらしいけどね」
 花梨も、少しやる気がでてきたらしい。
 那波さんの、訊き方とか、誘導の仕方が上手いのかもしれない。
「大和神社の成立によって、信仰の形態が少し変わった――というわけ
ですのね。それ以前には、どういった形であったのでしょう?」
「祭りの、儀式の変遷。それを辿れば、もとの形も見えてくるか」
 庄一が、考え込むようにして言う。
 和泉ちゃんが、にこにこと、その様子を静かに眺めている。
「それを、調べてみようと思いますの」
 那波は言う――。
「そうすることで、この土地に於けるナナミ様の役割。それを信仰して
きた人々の性質。そういったものも、解るかもしれませんわ」
 ――ああ、それが民俗学なのか。と、僕は思った。
 父さんのやろうとしていることは、この町の人間を知ることなんだ。
「まずは、神を降ろした巫女が、大和神社に赴くことなく、どのような
行動を採っていたのか。その辺りを、調べてみましょう?」
 那波さんが、愉しそうに微笑む。
「もともと、目的地であったところに、大和神社を建てたのかもね」
 花梨が言う。結局、庄一も花梨も、やる気になっている。
 那波さんって、先生とか向いてるんじゃないかと思ったりもする。
「――透矢さん、ご意見は?」
「僕――?」
 本当に、授業を受けているような感覚。
 那波さんの服は、青のシャツに、白く長いスカートのオーバーオール。
 大人びた顔立ちも合わせて、若い女教師に見えないこともない。
「…そこが目的地であったのなら、なにか目印があったのじゃないかな。
あの近くにあるもの――滝、があるんだっけ?」
「ああ、あれか――」
 庄一が応える。崖の中腹に、滝があるのだという話だけど。
「滝を、信仰するか。ありえなくもないだろうが…」
「あの滝の下にね――」
 不意に、今まで静かに様子を眺めていた、和泉ちゃんが口を挟む。
「大きな岩が沈んでいるんだよ」
「岩――?」
「そこには、涙石もよく見つかるの。――こういうの」
 そう言って、懐からかなり大きな、人の拳ほどある石を取り出す。
 僕の持っている涙石は、その半分もあるかどうかだ。
「涙石と、ナナミ様か。たしかに、関係はあるみたいだな」
 庄一は、さらに考え込んでいる。
「――それでは、宿題ということにしましょう。ちゃんと、調べてきて
くださいね。神社になら、記録なども残っていると思いますから」
 女教師よろしく、那波さんが僕たち全員に告げ――。
 勉強会の初日は、幕を降ろす。随分と、収穫の多い一日だったと思う。
「僕も、父さんの書斎を漁ってみるよ。なにか見つかるかもしれないし」
 そう言って、僕は、みんなと別れた。
 雪さんにも、協力してもらった方がいいかな――とか、考えながら。

 二度目の勉強会。
 今日は、僕の家が会場だ。書斎の本は、結局、探しきれなかった。
 本、多すぎ――。
「そちらは、なにか見つかりましたか?」
 冷たい麦茶を盆に載せて運んできた雪さんが――ちょん、と僕の隣に
座り込みながら、集まった友人たちに訊いた。
 この家に、みんなが集まるのは久し振りのことらしい。
 その前は、僕が事故に遭う前。期末テストの勉強をしていたそうだ。
 もちろん、その時は那波さんは、いなかったはずなのだけど。
 ――女の子を家に上げるってのは、なんだか緊張する。
「なんていうかなあ、なんもねー」
 庄一が、バツが悪そうに言う。
「資料とかな。探したんだけどよ。本当に、なにもないのな、ウチ」
 花梨の方は――?
 そう言って、彼は、彼女の方を見やる。
「あー、うちもそう。こーんなものしかありませんー」
 ぱさり、と投げ出された、和とじの古い本のようなもの。
「全然、さっぱり読めませんー。ちゃんと日本語で書きなさいって」
 草書体とか、そんな感じのだろうか。
 父さんの本の中にもそういうのはあって、読めなくて困った。
「どれ、見せてみな」
 庄一は、それを軽く手に取って――投げた。
「なんだこりゃ?」
「だーからー、日本語じゃないんだって」
「見せて――」
 身を乗り出して、覗き込む。ああ、これって。
「点字なんじゃない? もしかして」
 図書館で那波さんの読んでいた本。それに、少し似ている気がする。
丸い点がいくつか集まって、一つの文字になるのだとか。指で触れて、
浮き出した部分を読み取るというのだけど、僕にはさっぱり解らない。
 ――見てしまっては、駄目なものなのかもしれない。
「貸してみてくださいな」
 那波さんは、そこにそっと指を這わせて、判読しようとしたのだけど。
「…解らない?」
 彼女にも、それは読めないのだそうだ。
 つまり、これは点字では、ないのだろうか?

 ――そうこうしているうちに、鈴蘭ちゃんが家にやって来たらしい。
 どたどたと、廊下を走る音。
「あーっ、透矢ちゃん、みっけーっ!!」
 がし、よじよじ――。たちまち、背中を占拠されてしまう。
「こんにちは。今日はどこで遊んでいたの? 教会?」
「んー、ひみつーっ!」
 鈴蘭ちゃんは、にぱーっと笑いながら、言う。
「でも、透矢ちゃんには、教えてあげよっかなー? 聞きたい〜?」
「聞きたくない」
「庄ちゃんには聞いてないの! ね、聞きたい? 聞きたい〜?」
 しつこく僕に訊いてくる、鈴蘭ちゃん。しょうがないなあ。
「うん、教えてくれる?」
 えへへ〜。愉しそうに笑う、鈴蘭ちゃん。
「じゃあねえ、今度いっしょにあそんでーっ!」
「おい、バカ鈴蘭」
「庄ちゃんはいらないから、黙ってろ」
 酷い言われようだ。
「透矢ちゃんは、ボクの秘密の場所に連れてってあげるー」
「う、うん。よろしくね…」
「わはーっ。透矢ちゃん、大好きーっ!」
 そう言われて、悪い気はしない。必死に僕の頭を、その小さな両腕で
抱きしめる女の子。――それは、とても微笑ましい光景に違いない。
 尤も、実の妹に、
『いらない』
 ――とまで言われる庄一には、可哀相で同情したくもなるんだけど。
「ところでさ」
 彼女に、聞きたかったこと。
「那波さんの、ことなんだけど…」
「ナナミちゃん? ナナミちゃんは、ボクのおともだちだよっ」
 にゃはー、と。那波さんの方を見て、無邪気に笑う少女。
「それじゃあ、やっぱり僕は、以前から牧野那波を知っていたのかな?」
「マキノ?」
 鈴蘭ちゃんは、少し怪訝そうな声を出した。
 それから、わはーっと笑い――。
「そうだよー。透矢ちゃんのおともだちー。庄ちゃんとも、おともだち
だったんだよー」
 そう言った。やっぱり、僕は彼女を――。
「知らねーって言ってんだろ、バカ」
 庄一は、そう言うけれども。
 和泉ちゃんにも、聞いてみないといけないんだよな――。
「和泉ちゃんは? 那波さんのことは、知らなかったんだよね」
「うん。知っていたら、よかったんだけどね」
 申し訳なさそうに、微笑む。
「庄ちゃんも和泉ちゃんも、記憶喪失だー」
 鈴蘭ちゃんが、笑いながら言う。さすがに、それはないと思うけど。
僕を含めて、何人もの人間が、同時に記憶を失くすなんてこと――。
「おい、透矢。バカ鈴蘭の言うことなんて真に受けるなよ? どうせ、
夢と現実がごっちゃにでもなってるだけなんだろうしな」
 庄一が言う。夢――か。
「そういえば、夢を最近、見ないんだ」
「夢を失くした子供たちですか、キミも?」
 花梨が、笑いながら言う。そんな大層なものじゃないよ。
 ――そんなふうに。
 いつから、なんだろう。僕が、夢を見なくなったのは。
“ざーん、ざざーん”
 波の音。目覚める前の、微かな記憶。最後に見た、夢――。
 ただ、波の音だけが聞こえる、そんな――
『――旦那様』
 違う。誰かがいた。あれは、那波さ――牧野那波?
 僕は、彼女を、夢に見ていた?
 それとも――。彼女に遭ってしまった、僕の思い込みなのか。
 記憶の改竄。あるいは、僕の、願望。
『――旦那様』
 僕は、彼女に――そんなふうに呼ばれたいと、思っているのか?
 たしかに、僕は彼女が好きだ。それは、間違いないんだけど。
「透矢さんっ」
 ぎゅっと――手を握られて、現実へと引き戻される。
「あ、雪さん…どうしたの?」
 心配そうな瞳で、僕を見つめていた。
「少し、怖い顔をなさっていたもので。どうしたのかと…すいません」
 申し訳なさそうに、頭を下げる。――僕の方こそ、申し訳ない。
 彼女には、いつも心配ばかりかけさせているから。
「いや、ありがとう。ちょっと、ぼーっとしてた」
「ホントに大丈夫なの、キミ? どこか悪いんじゃない?」
 花梨にまで言われるとなると、相当に悪いんじゃないかと思えてくる。
 鈴蘭ちゃんは、にへーっと笑っていて、なんだかアンバランスな感じ。
「僕は、夢で――那波さんを見たことがあるのかもしれない…」
「お前もかよ」
 と、庄一。お前も、鈴蘭と同じか――と。
「あの、夢でキミが彼女を射ち殺すっていう、縁起でもないアレ?」
 訝しそうな、花梨。こちらは、那波さんの見た夢の話――。
 だけど、僕だってよくわからない。
「どうだろう。本当に曖昧で、明瞭としない記憶だから。僕が、勝手に
なにかを彼女の顔に変えてしまっているだけかもしれないから」
「那波は、綺麗だからな。印象にも残るだろうしな」
 庄一が、にやにやと笑う。那波さんは、わずかに頬を赤らめて――。
 なぜか、むすっとした花梨が、庄一に蹴りを入れるのが見えて――。
「ま、いっか」
 その夢のことは、しばらく考えないようにしよう。
 そう、僕は思った。そして、二日目の勉強会も、幕を閉じた。

 それなのに――。
“ざーん、ざざーん”
 波の音。山の中なのに、波の音がする、不思議な光景。
 ――僕は、夢を見ている?
 久し振りに見る、いつもと同じ夢。見たくなんて、ないのに。
「――旦那様」
 異国の衣装をまとった美しい少女が、僕を呼んでいる。
「ナナミ――」
 君は、本当に、牧野那波なのか?
 一面に咲き誇る、白い花。中央にそびえる、一本の大木。
 和弓を構えた僕が、何事かを問いかけている。
 これは、あの日の記憶。忘れなければならないはずの、僕の記憶。
 そして、彼女の――。
「帰ろう…」
 僕が呟く。大きく引き絞られた弓。つがえられた矢。
『だめだ!!』
 叫んでも、届かない。だって、これは、僕の記憶なのだから。
 二度と、取り戻すことは出来ない。大切な――彼女の。
 ――ひゅん。
『クッ…!?』
 結末は、見なくてもわかる。僕の放つ矢は、寸分違わず、彼女の――
「透矢さん」
 ――目が、覚めた。
 ゆさゆさと、優しく、身体を揺すられる感覚。
「…雪さん?」
「おはようございます」
 優しい、雪さんの笑顔があった。
「おはよう。どうしたの、こんなに朝早く?」
「ええ、実は。透矢さんに、お客様が――大丈夫ですか?」
 心配そうな、瞳。――ああ、そうか今日は。
「あまり調子が良くないようなら、帰っていただきますが…」
 今日は、鈴蘭ちゃんと遊ぶ約束をしてたんだ。
「早いね。もう来たんだ。ごはん、食べられるのかな?」
「用意は、出来ていますけど…あの、本当に…」
 大丈夫ですか――? 再び、そう訊かれた。
 そんなに、今日の僕は、顔色でも悪そうなんだろうか。
 そう思って、そっと顔に手を触れて――あれ?
「もしかして、泣いてた、僕?」
 寝ながら泣くなんて、きっと初めてだ。
「少し、うなされていたようなので…悪い夢でも、見たのかと…」
 心配そうに、雪さんが言う。夢――
「夢は見ないんだよね、最近。でも、なんでかなあ…?」
「そうですか…。気分が悪いというのでなければ、結構なのですが…。
ああ、それでですね。玄関のところで、お客様がお待ちなのですが」
「上がってもらえばよかったのに…」
「雪も、そう言ったのですが。――ここでいい。と仰るものですから」
 申し訳なさそうに、頭を下げる。
 こう何度も謝られると、自分は、ご主人様失格なのかと思えてくる。
「いや、雪さんは悪くないから。…ちょっと、出てくるよ」
「そうですか? お顔は、ちゃんと洗ってくださいね」
「うん、わかってる」
 顔を洗い、適当に着替えて、玄関に向かう。
 あまり、待たせてはいけないし――。
 でも、そうなると、客というのは鈴蘭ちゃんじゃないんだろうか。
 彼女なら、なにも言わなくても勝手に上がり込んできそうなものだし。
 ――そんなことを考えているうちに、玄関に着いてしまった。
「すいません。お待たせしましたっ!」
 がらり――。玄関の戸を開ける。
「あれ――?」
「…暑いんだから、もっと早く出てきなさいよ、バカ」
 いきなり、怒られた。
「ごめん…。上がっててくれれば、よかったのに」
「他人の家に、簡単に上がり込んだり出来ないわよ…」
 なぜか、急に元気がなくなる、アリス。
「えへへ、おはようございます、透矢さん」
「おはよう、マリアちゃん。今日は、どうしたの?」
 待っていたのは、アリスとマリアだった。
「あれ、バカは?」
 不思議そうに、アリスが尋ねてきたんだけど。
「えと、鈴蘭ちゃんが、いると思うんですけど――」
 そう応えたのは、マリアちゃん。
「ん、鈴蘭ちゃん? まだ来てないと思うけど――」
「一緒に来たんだけど」
 アリスが言う。
「どういうこと?」
「さっき、教会まで迎えにきてくれて、ここまで一緒に来たんですけど」
「勝手に入ってっちゃったのよ、あのバカ」
 なるほど――。
「まったく、朝っぱらからどこ連れてく気なのよ…」
 まだ少し、眠そうなアリス。
「楽しみですよね」
 本当に、愉しそうなマリア。
 対照的だ。似ているのに、似ていない。
「まあ、とりあえず上がってよ。遠慮しなくていいからね」
 ぽん、とマリアちゃんの頭に手をのせて。
「………」
 なにか言いたげなアリスを、マリアちゃんが、そっと見つめる。
 上目づかいで、なにかを懇願するように。
「――でも」
「僕も、これから朝ごはん食べないといけないし、ね」
「ごはん…?」
 きゅうーと、アリスの小さな、かわいらしいお腹が鳴いた。
「…もしかして、食べてこなかったの?」
「その、用意している暇がなくて…」
 お腹を両手で被うようにして、マリアちゃんが言う。
「ちょっと、マリ――」
「じゃあ、うちで食べてよ。すぐに用意できると思うから」
 ぽん――。小さなアリスの頭に、軽く手をのせる。
「…本当に、いいの?」
 上目づかいで、僕の顔色を窺うように――アリスが尋ねた。
 やっぱり、よく似てるじゃないか。そう思って、思わず微笑んだ。
「えへへ、やったね、お姉ちゃん」
「まあ、どうしてもっていうなら…」
 照れくさそうに、アリスが微笑む。こういうところが、かわいい。
 素直じゃないっていうか。初めて会った時も、こんな感じだったかな。
――あの日、マリアちゃんに手を振ってもらって。その後、また教会の
前を通ることになって。女の子が、中から走って出てきたんだ。最初は、
マリアちゃんかと思ったけど、その子は地面にまで届きそうな長い髪を
耳の上あたりで二つに分けていて。違う子なんだと思った。よく似ては
いたけども。彼女は、門の前で突然うずくまってしまったから。驚いて
僕は駆け寄り、泣いていた彼女に、ハンカチを差し出した。それだけの、
それが。――僕とアリスの出遭い。
 あの時の涙の理由を、僕は知らない。知る必要も、ないのだと思う。
「鈴蘭ちゃんと遊ぶのは、体力いるからね?」
「ホント、ガキのおもりも大変なのよね」
 そう言いながらも、愉しそうなアリス。やっぱり、かわいいな。
 もちろん、マリアちゃんも――鈴蘭ちゃんも、かわいいと思う。
 ただ、少しだけ――僕の抱く感情は、違うんじゃないか、と。
 僕は、アリスが好き。恋とは少し、違うのかも、しれないけど――。

「…というわけだから。ごめん、雪さん」
 二人を引き連れて、家の中へ戻る。食堂で、雪さんが待っていた。
「わはー、透矢ちゃん、おはよーっ!」
 ――と。ここに、いたか。
 もぐもぐ、ごっくん。口に入れたものを、呑み込む鈴蘭ちゃん。
「――で。鈴蘭のバカは、ここでなにをしてるワケ?」
 その様子を――羨ましげに――睨みつけながら、アリスが訊く。
「お腹が空いているというので、お食事を」
 雪さんが、応える。いつもの笑顔――。
「えーと…透矢さんの分と、そちらのお二人の分は、すぐに作りなおし
ますので…。少しだけ、お待ち頂けますでしょうか?」
 と、申し訳なさそうに、雪さん。重ね重ね、申し訳ないと思う。
「お願いするよ。ごめんね、雪さん」
「雪は、この家のメイドですから。当然のお仕事ですよ?」
 にこにこ、と。本当に彼女は、この仕事が好きなんだろうな。
 鈴蘭ちゃんは、僕が食べるはずだったそのごはんを――美味しそうに
ぱくぱくと食べ続けていた。本当に、彼女の作るごはんは美味しいから。
「鈴蘭ちゃんも、朝ごはん食べてないの?」
 僕が訊くと、
「食べたよー。雪が食べていいっていうから、食べてるんだ」
 そう応えた。雪さんが、すいません――と頭を下げる。
「いじきたないわねえ…」
「えへへ、おいしそうですね」
 アリスが呆れ、マリアが笑う。僕は、ゆっくりとテーブルに着いた。
 双子の姉妹も、やや躊躇しながらも、それに倣う。
 うちで、こんなに大勢で食事をするなんて、随分久し振りだと思った。
 もちろん記憶がないだけで、実際には、あったのかもしれないけど。
「いいよね、こういうの」
 僕が言うと、
「そうですね」
 と、雪さんも笑った。父さんが快復すれば、この家の食卓も、もっと
にぎやかになるだろうか――。
「でさ、結局、どこに連れてくのよ、バカ鈴蘭」
 アリスが、頬杖をつきながら、鈴蘭ちゃんに訊く。
 バカ鈴蘭が、固有名詞になっているようだ。
 僕などは、鈴蘭ちゃんの無邪気なところは、かわいくて良いと思うの
だけど。庄一やアリスには、そうでもないのだろうか。――そんなこと
ないとは、思うのだけど。むしろ、愛情の裏返しのようにも見えるかな。
 ――好きだから、大切だからこそ。
「やまー」
 鈴蘭ちゃんが、食べながら答える。
 山――? 簡潔な答えに、それ以上の意味は、僕には見出せない。
「はぁ? 山って、山?」
 アリスが、嫌そうな顔をして言う。
『はいはい、右を向いても、左を向いても山ですねえー?』
 花梨がこの場にいたら、きっとこんな感じのことを言っただろう。
 海と、山とに囲まれた田舎町。言いかえれば、山しかないような場所。
 まだ、海の方が良いような気がする。
 そういえば、庄一たちとそんな話――海で遊ぼうと、話してたっけ。
「山っていっても、いろいろあるけど…。どっちの方?」
 海は、その時でいいか。そう考え直した。
 鈴蘭ちゃんが、どうしてもというなら――。
 山で遊ぶのもいいだろう。
 要は――楽しめれば、それでいいんだから。
「あっちー」
 鈴蘭ちゃんが、指で差した。正直、さっぱり、どの山かもわからない。
「山歩きって、疲れるのよねぇ〜」
 だるそうに、アリスが言うと。
「ちゃんと食べて。元気をつけていけば、大丈夫ですよ」
 美味しそうな朝ごはんが、雪さんの手によって運ばれてきた。
「ん、いい香り…」
「和食、平気ですよね…?」
 やや異国の趣のある二人を気にしてか、雪さんが心配そうに尋ねた。
「お味噌汁も、お魚も、大好きですよ。ね、お姉ちゃん?」
「うん、おいしいっ」
 その言葉通り、二人とも本当に美味しそうに。雪さんの作ってくれた
朝食を、せっせと平らげていく。――僕も食べよう。

「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
 雪さんにお礼を言って、僕たちは家を出た。まだ、朝の時間帯――。
「雪も、来ればよかったのに…」
 アリスが、残念そうに言う。一応、彼女も誘ってはみたんだ。
 ――まあ、予想どおりというか、なんというか。
『雪は、お留守番をしていますから。三人で楽しんできてくださいな』
 そう、いつものとおりに、やんわりと断られてしまった。こういった
イベントじみたものに、あまり興味がない人だから――。
 それでも、どうしても――と僕が誘えば、来てくれたとは思う。
 だけど――。
「暑いからね。身体を壊したりしたら、たいへんだし…」
 そんな、言い訳を――僕はしてしまう。
「いつも無理をしてもらってるから、ゆっくり休んでくれればいいよ」
 たしかに、それも本心なんだけど。
「――なに?」
 視線を、気付かれたらしい。アリスが、くるり――と振り向く。
「アリスたちも、無理をしなくていいから。疲れたら、僕に言って…」
「大丈夫。身体だけは、丈夫だもん♪」
 ――愉しそうだった。

 はずなんだけど――。
“ざー、ざざー”
「それー、鈴蘭ふぁいやー!!」
「――うわ、っぷ!?」
 ばしゃばしゃ。
 大量の水を、頭から浴びせかけられて。――服をびしょ濡れにされた。
でも、気持ちいい。まあ、ここまでが、たいへんだったんだけども。
 ――草いきれの中を延々と歩き続ける。立ち並ぶ雑草を、かきわける
ようにして進む。深い――山の中。鈴蘭ちゃんに連れられて、僕たちは、
とんでもないところに迷い込んでしまったようだった。
 ――既に、道なんてものはない。
 わずかに残された、なにかが通ったような痕跡は、前に鈴蘭ちゃんが
通ったという跡か。それとも――。
 幼い頃に、こんな山の中で迷ったことが――あったような気がする。
 鈴蘭ちゃんは、道なき道をずんずんと進んでいく。ほとんど躊躇する
こともなく、真っ直ぐに進んでいくのは、よほど方向感覚がしっかりと
しているのか。周囲には、目印になりそうなものは――なにもない。
 僕は、後ろを振り返る。
 少し後ろ――。アリスとマリアが肩でぜえぜえと息をしながら、寄り
添うように歩いている。足取りは、重い。
「大丈夫?」
 鈴蘭ちゃんを見失わないように注意しながら。少しペースを落として、
二人の隣に並ぶように歩く。
「はぁ、ぜぇ…どこまで歩かせる気なのよ、あのバカは…」
 苦しそうに、アリスが毒づく。
 マリアちゃんは、ふらふらしながら。ぼーっと下を向いて歩いている。
「そこ、危ないよ」
 マリアちゃんの前に、拳を握ったくらいの大きさの石が転がっている。
「ったくぅ!」
 舌打ちしたアリスが、その石を横に蹴っ飛ばす。
 その後を、マリアちゃんが――ふらふらと通りすぎた。
「ごくろうさん」
 ぽんと、頭に手をのせて、労をねぎらう。
「危なっかしくて…見てらんないのよ、この子…」
「おんぶ、してあげようか?」
「…はぁ?」
 この調子では、最後まで保ちそうもない。
「つらそうだから」
「結構。あなたの負担には、ならないわ。背負ってくんならマリアの方」
「交代で――って思ったんだけど…」
「わたしは平気ですから、お姉ちゃんを…お願いします」
 顔を上げた、マリアちゃんの、笑顔――。
 こんな時にも、マリアちゃんの笑顔は自然で。
「恥ずかしい真似は、マリアだけで充分」
 目を背けて、赤くなるアリスは――やっぱり妹思いの素敵な女の子で。
「ほら、頑張ろう! もうすぐ着くからっ」
 僕は、二人の手を引いて歩き出す。
 遥か前方に、微かに覗く。鈴蘭ちゃんのバンダナを目指して――進む。
「ちょ、ちょっとなにするのっ!?」
 急に手を握られて。抗議したアリスの声は、とりあえず無視した。
「あーもうっ! もうすぐって、どう、もうすぐだってのよ?」
 ぎゅっと、僕の右手を握りしめて、アリスが訊いてくる。
 散々、もうすぐもうすぐ言えば、説得力もないだろう。
 だけど――。
「もうすぐだよ」
 僕には、確信があったんだ。
 ――もうすぐ、あの場所に出る。これは、僕が歩いた道だ。あの日に
僕が歩き、迷い込んだ山の中。わずかに倒された草の道は、僕のつけた
目印――。いつか、誰かが通る。その時のために、僕に残された――
「ん…!?」
 不意に、木々の緑が途切れ、白い光が世界を包む。
 まぶしい――!!
 陽光の降り注ぐ、この場所は、まぎれもなく。
「わーっ!」
 アリスとマリアの歓声が聞こえる。――世界が、拓けたのだ。
“ざー、ざざー”
 涼しげな音をたてながら、小さな川が流れる。とても――綺麗な場所。
透き通る水面が、夏の強い陽の光に、きらきらと輝いている。
「きれいですねーっ」
 マリアが、嬉しそうに目を細めた。今までのぐったりした様子が嘘の
ように、綺麗な琥珀色の瞳が、きらきらと輝いている。
「いいところね」
 アリスもまた、その神秘的な瞳を輝かせて――微笑む。
「おそいぞー、透矢ちゃん!」
 鈴蘭ちゃんが、腰に手をあて、がなりたてている。
「日が暮れちゃうじゃないかーっ!」
「まだ、昼にもなってないんだけどなあ」
 苦笑――。
 早く出てきたのが良かった。日が暮れてしまえば、こんなところには
いられない。山は――魔物の領域だ。でなくとも、野生の獣だって多い。
本来、山は――人が入ってはいけない場所で、あったのだ。
「ここが、鈴蘭ちゃんの、とっておきの場所なの?」
 そう訊くと。彼女は嬉しそうに、わはーっと笑い、
「いっこめー」
 と言った。他にも、いろいろと秘密の場所はあるのだろう。
「遊ぼう、透矢ちゃん!」
 駆け寄ってきた鈴蘭ちゃんに手を引かれて、川の中へ――。
 ――ぱしゃん!
 小さく跳ねる水滴。汗に蒸れた肌に、清澄な川の水がひんやりとして、
とても気持ちがいい。――靴は、脱いでからにして欲しかったけど。
「まあ、いいか」
 ふと見れば。
「あー、気持ちいいー」
「つめたいー」
 アリスとマリアは水辺に腰掛け、両脚を投げ出すような姿勢で、
 ――ぱしゃぱしゃ。
 水面を叩く二人の細い脚が、愉しげに跳ねている。
 どうやら、疲れも吹き飛んだらしい。本当に、来てよかった。
「それー、鈴蘭ふぁいやー!!」
「――うわ、っぷ!?」
 ばしゃばしゃ。
 安心したのも束の間。鈴蘭ちゃんが小さな両手ですくい上げた大量の
水が、僕に襲いかかる――。
「あは、間違えた。今のは、鈴蘭うぉーたー!」
 無邪気な笑顔。しかし僕は――髪も、服も、びしょ濡れだった。
「今度こそ、鈴蘭うぉーたーあたーっく!!」
 ――ばしゃん。
 再度の攻撃。――ええいっ、もうどうとでもなれっ!!
「やったな、このぉ!」
 ――ばしゃ、ばしゃ。
「わはー、冷たいーっ! やるな、透矢ちゃん!!」
 わはは、と笑いながら、水の掛け合いっこをしている僕たち二人。
「こどもなんだからー」
 そんな僕たちを、呆れた様子で眺めていたアリスが、
「うわぁ!?」
 突然、すっとんきょうな声をあげた。
 ――ばしゃばしゃばしゃ。
 派手な水音がして、まるで、通り雨にでも降られたような有り様。
「なに、すんのよ…バカマリア!!」
「えへへー、愉しそうだから、わたしたちも遊ぼうよ」
 笑顔がまぶしい、マリアちゃん。
「うわ、髪ぐっしょり? もうサイアク。死ね、バカマリア!!」
 ――どっばーん。
 ひときわ大きな音がして、マリアちゃんが頭から川の中に突っ込んだ。
もちろん、アリスちゃんの仕業なんだけど。
「ひどいことするなあ…」
 そう言いながらも、なんだか微笑ましくていいな。
 ――なんてことを、思っていたりもする僕。
 けほけほ――とせき込みながら、マリアちゃんが起き上がり、
「うう…嫌いだもん。…お姉ちゃんなんて、大っきら――」
「ちょ、腕――引っ張るんじゃない!? バカマ――」
 ――ざっぱーん!
 抵抗するアリスとマリアが、もんどりうつように水面に倒れ込んだ。
 盛大な水しぶきが舞い上がり、きらりきらりと陽光を弾く。
「わはー、きれいー」
 鈴蘭ちゃんの歓声。そして――。
「えーい、鈴蘭たっくるーっ!!」
「ぐはぁ!?」
 ――どばしゃーんっ!!
 強烈な体当たりに耐えきれずに、後頭部を水面に叩きつけられながら
見上げた、降り注ぐ光のシャワーは――それはもう、美しいものだった。

「ちょっと、お腹すいたわね?」
 散々にはしゃいで、また疲れもでてきた頃、アリスが言った。
 時計を見れば――防水仕様で良かった――もう、昼は過ぎている時間。
「透矢ちゃん、ごはんー」
 と、今度は鈴蘭ちゃんの催促。
「はいはい」
 川辺に放り出したままの、僕のバッグを探す。
「――て、あれ? そこにあった…」
「あ、えっと。熱くなっちゃうといけないから、そこの木陰に…」
 あった――。ほっと、胸をなで下ろす。
「ありがとう、マリアちゃん」
 えへへー、と嬉しそうに笑うマリア。
「ま。雪が、腐るようなもの入れるとは思わないけどね」
 と、今度はアリス。あのバッグには、雪さんが作ってくれたお弁当が
入っていたんだ。この暑さの中に、それを置きっ放しにするなんて――。
そんなだから。アリスになじられても、仕方がない。
「わはー、おいしそうー」
「へえ、サンドウィッチかあ」
 玉子やハム、レタスなどの挟まれたそれは、とても美味しそう。
「はむっ」
 早速、鈴蘭ちゃんが、ハムサンドにかじりついている。
 きらきらきら〜と、その瞳が輝いた。よし、僕もっ!
 ぱくり――。
「おおぅ!」
 ほのかな甘さが、口の中いっぱいに広がる。思わず、叫びたいほどの
美味。これほどのタマゴサンドには、そうそうとはありつけない。
「雪って、天才?」
 アリスが頬に手をあてて、柔らかな口あたりの余韻に浸るかのように。
「朝食も美味しかったですけど、これは絶品ですね」
 マリアちゃんも、嬉しそうに。
「ん――こんなの、毎日食べてるの、あなた――んぐ、っくん」
「慌てなくてもいいから、アリスも…」
「バカ鈴蘭が、全部食べちゃうじゃない!」
 たしかに。鈴蘭ちゃんの食欲は、凄まじいものがあるが。
 さっ――と、次の獲物に手を出しかけたアリスを、マリアが制した。
「なによ、マリア?」
 抗議するアリスに、マリアは――。
「あの人にも、とっておいてあげないと…」
 あらぬ方向を見つめながら、そう言った。そこには――。
「はぁ?」
 アリスが、そこを睨みつける。なにも、ない。そう。誰も、いな――
「ご一緒に、いかがですか――?」
 マリアは、彼女を見て、微笑んだ。
「マリア、なにを見てるっ!?」
 ゆさゆさと、マリアの身体をゆさぶるアリス。
「なぜ――」
 僕の言葉は、声にならない。
 なぜ――牧野那波が、あんなところに、いるんだ?
 ――にこり。
 微笑んだ、その顔は――。
「誰が、いた?」
 マリアを問いただすアリスの声は、いつになく、より以上に優しい。
「お母さん。透矢さんの、お母さん。髪の長い、優しそうな人」
 マリアは、那波を直接には、見ていない。
 だから、そうとは言わないけど。あれは、牧野那波だった。
 今はもう、そこには誰の姿も見えない。
「――僕たちは、幻を見たのかな?」
 夏の暑い日に見えるという、蜃気楼。そこには、ないはずのもの。
 そこにあっては、ならないもの。那波さんが、いるはずはない。
「透矢の、お母さん…か」
 アリスは、真剣な表情で、なにかを考えている。
「あなた、ここに来たことあるんでしょう。…母親といっしょに?」
 優しく、微笑むアリスに――。
「うん。ずっと、忘れていたんだけどね…」
 静かに、微笑む。そう、僕は、ずっと忘れていたんだ。
 ママのことを――。
「僕は、この場所で、ママに遭ったんだ。ずっと、小さい頃にね」
 ここにきた時から、僕は少しづつ、思い出している。
 ――幼い日の出来事。
 那波さんによく似た、僕と一緒に遊んでくれた、僕のママ。
 でも、それは那波さんじゃない。それは、僕の――願望なのか。
「マリアは、あなたの記憶を見たのだと思う」
 アリスが言う。
「記憶を?」
 そんなものが、他人に見えたりするものだろうか?
「あなたが、その女性のことを――この場所に思い描いていたのならば。
その描かれた絵を、マリアは見ることができる。見て…しまうのよ」
 ――記憶を、描き出す?
「それは、なに? 僕の心を、彼女が読んだとでも?」
「見たでしょう? 教会で――マリアの…わたしたちの、ママの姿を」
 教会の庭で、たわむれる親子。無邪気に微笑む娘と、優しく見下ろす
母親。僕が、初めてマリアに会った時のこと――。
「それが…なに?」
 どう関係があるのか、わからない。
「わたしたちはね、魔法使いなの」
 ――は?
「ますます、わけがわからないんだけど」
 アリスは僕を無視するように、話を続ける。
「ありもしないものを、見たり見せたりする。それが、魔法…」
「僕の見た幻は――マリアちゃんが、僕に見せた…?」
 違う。それは、おかしい。
「マリアちゃんは、那波さんの顔を知らないんでしょう?」
 僕に、彼女の姿を見せられるはずがない。
「ナナミ…? それが、あなたのママなのね?」
 ふーん、と両の腕を組んだアリス。
「それが、あなたの信じている、ママの姿なんだ――」
「僕の、信じている…?」
「魔法はね、信じている人間にしか、かからないものよ」
 アリスは、マリアちゃんを見た。そして――。
「わたしには、かからないもの」
 自嘲ぎみに、微笑む。淋し気な瞳が、妹の姿を写していた。
「でも…」
 僕には、やっぱり解らない。
「僕が信じている…記憶の中のママ。それは、偽者なの?」
 あの優しい手も、あの優しい微笑みも、すべて。
「あなたにとって、それが真実なんでしょう? 他の誰が否定しようと、
それは正しいことよ。――ママに、会いたいのでしょう、あなたも?」
 僕は――。
「――会いたい」
 二度と会うことの、許されなかった、あの人に。
「わたしが思うに、あのナナミ様っていうのは――って、どこ行くのよ。
あっ、こら待ちなさいってばぁ!!」
 僕は、走り出していた――。
 あの場所に――行けば、ママがいる。そう、信じて――っ!!
「ああぁもうっ――マリア、鈴蘭、追いかけるのよっ!」
 そんな、アリスの叫びも、耳に届かず。
 ただ、僕は走る。あの人の歩いた道。踏みしめた大地。かきわけた草。
そのすべてを、目に焼き付けて。二度と、忘れたりしないように。
 ――そして僕は、あの場所へと、辿りつく。

「話は最後まで聞きなさいよね、バカッ!」
 ぜえぜえと――息をきらせたアリスが、僕を睨みつける。
 右手には、マリアの。左手には鈴蘭の手を、握り締めながら――。
「ごめん、でも…」
 目の前に広がる光景。僕の知っている、この場所を。
「廃村? …気味の悪いところね」
 アリスが、まだ苦しそうに、片目を瞑りながらつぶやく。
 マリアは、肩で息をして。鈴蘭は、興味深げに周囲を眺めている。
 住む人のいない、村。そこに、あの人は住んでいた。
 たった、一人だけの――僕のママのいる、この場所に。
「あの家に――」
 僕は、屋根の破れ、壁の崩れた一軒の家屋を指差した。
「あれが、ママの家。あの日、僕が一夜を過ごしたところだよ」
 ちらり――アリスがマリアの様子を窺う。
 マリアは、微笑みながら、その建物に手を振っていた。
 魔法――か。あるはずのない――か。
「いるはずなんて、ないんだよね…」
 今さら、会いにきたって。もう、あの人はいない。いるはずが、ない。
泣いていた僕を、優しく抱いて、膝枕で眠らせてくれた、あの人は――。
「マリアには、見えているのね。あなたのママって人が」
 そう、アリスは言う。哀れむような、声――。
「僕には、見えない…」
「それはそう。あなたの魔法は、わたしが解いてしまったもの」
「アリスが…?」
「わたしはね、あなたが信じていたものを破壊した、悪い――魔女」
「まじょ…?」
 魔女、だろうか。魔法、だから、魔女?
「マリアが、あなたの記憶を見て。そのマリアの描いたママの姿を――
今度はあなたが見てしまう。記憶の伝達が、行われた」
 ――記憶の伝達?
 なおも、アリスは続ける。
「あなたはたぶん、ママの顔は憶えていなかった」
「そう。他の部分は思い出せたのに。顔だけは、ぼんやりしてて…」
「それはね、認めたくなかったから。ナナミ様――那波さん? 彼女と
同じ顔をした、ママのことを。認めてしまえば、ママは、あなたの中に
存在できなくなってしまう。だって…同じ顔の人間なんて、いないもの。
決して存在するはずが、ないのだものね」
「双子とか…」
 アリスとマリアは、よく似てると思う。
「一卵性双生児。もともと一つのものが二つに分かれた。だから、同じ。
その仕組みを、あなたの脳は、知っているから。だから、それは許せる」
「許せる?」
「脳ってね、ワガママなの。自分の信じないものは、絶対に認めないの。
脳が『ない』と言えば、あるものでも『ない』ことにされてしまうんだ。
人はね、脳に支配されているから。それには逆らえないのよね」
「…あるのに、ないの?」
 くすっ。――アリスが笑う。
「わたし、あなたのママなんて、見てないもん」
 なにが、言いたいんだろうか、この子は。
「と、同時に。牧野那波って人のことも、よく知らないわ。この二人は、
わたしの中では存在としてイーブンなの。どっちがいても、おかしくは
ないわけ。あなたやマリアが、ママはいるんだって言うなら。信じても
いいかなって、思っちゃうわけよ」
「いないのに…」
 いるってことに、なっちゃうのか。
「ボクもー。透矢ちゃんのママはいるよー」
 鈴蘭ちゃんがなにか言ったのを、アリスは無視した。
「マリアも同じ。牧野那波を知らないから。あなたの脳が隠そうとして、
あなた自身に秘密にしていた彼女の顔を、あの子は、なんの疑いもなく
見ることができた」
「ちょっと待ってよ。――記憶を見るなんて、そんなことできるの?」
 そんな魔法が、あるとでもいうの?
「できるよ」
 平然と――。それは、君が、魔女――だから?
「透矢はさ、幽霊って、いると思う?」
「え…?」
 ――突然、話を変えられて、なんだか戸惑う。
 幽霊、か。
「実際に見たっていう人も多いし…いるのかもしれないね?」
「そんなの、いっくらでもいるじゃん」
 と、応えた鈴蘭を――やはりアリスは、無視した。
 存在を、消されているんだったりして。
 存在を――
“ざーん、ざざーん”
 波の音――
「あっ、ねえっ!」
 不意に、アリスが大声を出して、我に返る。
 僕は、今、なにを、思い出そうと――していたんだろう。
「…あの壁の模様って、なんか人の顔に見えない…?」
 僕の耳に唇を寄せ、囁く。いつもより、声のトーンが低い。
 僕を、怖がらせようとでも、しているのか――。
 崩れかけた壁にできたシミのようなものは、たしかに人間の顔に見え
なくもないんだけど。
「見える、かなあ?」
 そう思うと、次第にソレっぽく見えてくるから不思議だ。
 信じれば、見える――みたいなことを、アリスは言っていたけども。
「ウソッ!?」
 再び、アリスが叫ぶ。
「め、めが…あの眼がね、こっち――睨んだ…? 幽霊ッ!?」
 ぶるっ。
 僕の背に隠れるようにして、震えるアリス。
「気のせいじゃない?」
「み、見たもん。絶対に、こっちみたもん。た、祟り――?」
 がたがたがた――震える小さな身体。
 本当に、怖がっているらしい。
 がくがくと、震える肩。
 ぎゅっと目を瞑って、顔を両の手で覆う、その様子は――。
 ――これは、ただごとでは、ないんじゃないのか。
 あのアリスが、ここまで怯えるなんて。
 がくがく、ぶるぶると、彼女の身体のすべてが、わなないている。
「だめ、こないで! なにもしないから。だから、お願いっ!」
 ついに、マリアまでも震え出した。
「おおー、なんか透矢ちゃんみてるー」
 鈴蘭ちゃんは、愉しそうだけど。
 でも――。
「まさか、本当に…」
 顔が。僕を、見ている。恐ろしい、形相をした、顔が。
 ――あれは、誰の顔だ? 僕は、あの顔を、知っているのか?
 ひどく、落ちつかない。僕が、あの日に見た、ママは、本当は――。
 本当のママは、僕を生んですぐに死んだ。
 なら、あれは、誰――だったの? あれは、僕の、ママ。だから。
「この村は、なんだッ!?」
 なんで、こんなところに。不自然じゃないかッ!?
「あ、あ…怒ってる。勝手に、入ったから、村の人が怒ってるよぅ!」
「アリス、もういい出ようっ! 早くっ!! こんなところに、本当は
来ちゃいけなかったんだ!!」
 僕のせいで、彼女にこんな思いをさせてしまった。
 僕の、間違った記憶。都合よく、書きかえられた、記憶のせいで――。
「なーんて、ね」
「は――?」
「ウソ。ぜーんぜん、ウソ」
 アリスは、くすくすと笑っている。
「透矢ったら、本気で信じちゃって。おもしろーい」
 ぶるぶるぶる――彼女の身体が震えている。
 笑いを、必死にかみ殺していたんだ。
「騙したの…?」
 やっぱり、幽霊なんていないってことか。
「おねえちゃん!」
 マリアが抗議の声をあげる、彼女も、信じていたんだろう。
「なーんてね。本当なんだよ。ほら、あそこに顔が――」
「もう騙されないよ」
「睨んでるよ?」
「――うそなんでしょう? あんなの、ただの模様だよ」
 クスクスクス――低く笑うアリス。
「バカねえ。せっかく人が忠告してあげたのに。早く逃げないから――
ほら、祟られちゃった」
 僕の胸のあたりを、指でとんとんと叩きながら――アリスが笑う。
「祟られたって…」
「最初に、わたしが大袈裟に怖がったのは、演技だけど。けっこう自信
あったから、信じてくれると思ったの」
「うん、たしかに信じたけど」
「だけど、逃げようとしたから、――演技をやめた。それで、あなたは
どうしたかしら?」
「まだ、ここにいるけど。演技だったんでしょう?」
「そうよ。あなたを、――ここに留まらせるための、演技」
「え――?」
「出させるわけには、いかなかったのよ。ここから――」
 ――くすくす。
「どうして?」
「あなたが、許せなかったから。最初に言ったわよね。マリアに近付く
ことは、わたしが許さない――と」
 たしかに、そんなことは言っていたけど。
「それは、もう…」
「もう、なに? もう、お友達って? ――おめでたいのね。あなたが
純真なマリアをいいようにしてくれるのを、わたしが許すとでも思って
いたの? わたしは、この時を待っていた。あなたが油断して、こんな
山奥までついてきてくれる、この瞬間をね」
「な、なに言ってるのさ、アリス」
「ここがどこか知りたいでしょう? ここはね、わたしたちの隠れ里。
日本という国から逐われた、まつろわぬ者。それが、わたしたちの正体。
よく見て、この瞳。――なにを意味するかは、わかるでしょう?」
「君が、君たちが、平地を逐われた民の末裔だと――?」
「あなたの――お父さまがいけないのよ。学術調査だとか言って、山に
入り込んだ。わたしたちの山に。そして、その結果が、これ!!」
 アリスは、バッ――と大きく手を横に広げる。
「隠れ里の存在を知った平地の者どもは、村を襲い…老いも若きも男も
女も、すべて殺した。運良く生き延びた、わたしたちのママを除いてね。
それだって…ううん。これはいいわ。あなたなんかに、教えないっ!」
「おねえちゃ――」
 なにか言いかけたマリアを、アリスは眼で制す。
「これは、復讐なの。この村は、死者たちの、未だ救われぬ魂で満ちて
いるんだわ。その無念を――晴らしてあげなくちゃね」
 クス、と笑い――懐に手を入れるアリス。
 そして、なにかを掴んで、引き抜く。
「なーんてね♪」
 ――ただの、木の枝だった。
 あはは、と笑う少女。
「また、ウソ?」
 どうも、アリスはこの状況を愉しんでいるように見える。
 それでも、いくつか気にかかる言葉なんかもある。
「隠れ里――って、マヨイガ?」
「マヨイガ?」
 なにそれ、というように、アリス。
「いや、父さんが探してたらしいから。それが、ここなの?」
「あー、そのへん、適当。勝手にね、わたしの中の記憶の断片を集めて、
勝手に作ったストーリーだから。要するに、ウソ八百っ」
 舌を出して、笑った。
「人間の記憶なんてね、こんなウソ八百物語だってこと」
「そうなのかな?」
 だとしたら、記憶なんて、まるであてにならないじゃないか。
「それも――ウソだったり、するのかな?」
「全部本当だよ。あなたは信じやすいから、特にね。わたしがあなたを
呪い殺すことも、わたしが本気ならばできたと思うな」
 邪気のない顔で、にっこりと微笑むアリス。
「知ってる? 呪いってね――」
「今度は、どんなウソ話を教えてくれるの?」
 これは、余興なんだ。夏の夕暮れ。山奥の廃村――。
「え――?」
 空を見上げて、愕然とした。日が、暮れようとしている。
「アリスっ、悠長にお話なんてしてる場合じゃない。帰らないと!」
 夜に、なってしまう――。
 アリスは、嬉しそうに、くすくすと微笑む。
「マリアの計画通りになっちゃった」
「え――?」
 きょとんと、首を傾げるマリア。
「もう、そんな演技はいいのよ、マリア」
 マリアちゃんも、演技?
「無理に、透矢に話を合わせなくてもいいってこと。本当は、彼のママ
なんて見えないんでしょう?」
「み、見えるもんっ」
 必死に首を横に振る、マリアちゃん。
「まだ、見える?」
「み――見えるよ。ちゃんと、そこにいるもん」
「あなたは――?」
 僕は――
「み…見えない」
「そう。あなたは、那波を否定することはできないのよね?」
「見えるもんっ!」
 なおも、見えると主張するマリア。
「呪った」
 アリスが、目を細めて、僕にささやいた。
「な、なにを…?」
「あなたには見えない。わたしにも見えない。そんなものを、マリアは
見えるという。ならば、マリアが見ているものは、なに?」
「それは、幻とか――」
「それは、ないものよね」
 ――ないけれども、あるもの。
「存在しないものを、あると言う。それは、ウソ。マリアはウソつきの
悪い子。これはね、大嫌いなマリアを貶めるための、アリスの呪い…」
「そんな、どうして――お姉ちゃん?」
 泣きそうな顔の、マリア。ちょっと、かわいそうだ。
「――大丈夫よ。透矢が呪いなんて、解いてくれるから」
「僕が?」
「わたしがやったやり方をよく考えれば、できるはずよ」
 アリスの、やり方――。
「嘘と本当――虚と実をないまぜにして、相手を混乱させる?」
「そう」
 アリスの返事は、簡潔に――先を促すものだ。
「すべての可能性が、ありうる状態になれば、そのすべての可能性を
人――脳?――は信じることができる。そして…」
「マリアはウソつきよ」
「それが、真実になる。見えないものが見えるというマリアちゃんは、
おかしなことを言う子供で――」
「異端者」
 淡々とした、アリスの言葉。
 それは――歴史の真実でもある。
「そうやって、人は虐げられてゆくの。愚かよね」
 アリス、キミは――キミたちは、そうなのか。
 逐われた存在――あの教会が、この娘たちの、隠れ処であるのか。
「僕は、マリアちゃんを信じるよ。他の誰が否定したって、僕だけは、
マリアちゃんの味方。実際に、僕は同じものを見てるんだしね」
 そう言って、微笑む。
「ウソつきは、アリスじゃないか。僕たちを騙してっ!」
 笑いながら、言った。別に怒っているわけじゃないから。
 マリアちゃんも――、
「そうなんですよ。お姉ちゃんったら、ママのことも無視してたりして、
ひどいんです。あれじゃ、ママがかわいそう…」
 そう言って、ため息をついた。
「ママが…マリアばかり可愛がるからよ。仕方ないでしょ?」
 同じように、ため息とともに答えるアリス。
 でも、なんだろう。
 なにか――歯車が合っていない。そう思える、会話。
「まあ、これが呪い返しっていうのかな」
 力なく微笑んで、アリスが僕に言う。
「呪いが、わたしに返ってきちゃったもの。アリスは、ウソつきの悪い
子だって…ああっ、どうしましょう! 透矢さんに疑われてしまっては、
もう私は生きていけないわ。もう、死んでおわびをするしかないっ!!」
 芝居がかった口調の、アリス。完全に遊んでるなあ。
「僕は、アリスも信じるから」
 ――くす。またアリスが笑った。
「『いない』と『いる』という。それは、同時には存在しえない事象よね。
どちらかを、否定しなければ――矛盾になってしまうわ」
「アリスが、たまたま見てなかっただけとか。僕たちが、疲れてたから
幻覚を見たとか――」
「それが、人間の脳の働き。なにかと理屈をつけて、自身の信じている
ものを正当化するのね。あなたは、アリスもマリアも失いたくはないの」
 そして、小さく、
「ありがとう」
 ――微笑んで、再び話を続けるアリス。
 それを、いとおしそうに見つめる――僕か。重症かもしれない。
「あなたは那波さんに、母親を求めているのじゃないか――ってこと」
「僕が、彼女を――?」
「あなたはきっと、ここで彼女に憑かれてしまったんだと思う」
「つかれて?」
「なにかが取り憑くっていうでしょ。幽霊とかさ」
「つまり、彼女が幽霊で。取り憑かれた僕は、その姿を見ている…」
 その話は、雪さんたちとした。――那波本人が、否定した話だ。
「幽霊っていうか、思念とかじゃないかなあ? あなたを見守りたいと
いう思念が、形となって現れた。まあ、ただの想像だけどね…」
 ママが、僕を見守るために現れたのが、那波さん――。
“ざーん、ざざーん”
 また、波の音。
「この世界はね、波によって作られてるの」
「――えっ?」
 こうして、いつも僕は――この世界に引き戻される。
 あの波の音は、なんなのか。僕が知っては、いけないこと? 
 だから、アリスは――この世界の人たちは、それを阻止しようと――
「違うな」
 つぶやいた。すぐに、アリスが怪訝な表情をするのが見えた。
「あ、別にアリスを疑ってるんじゃなくて――」
 今、この場所にいる僕。それが、真実。
 ――それで、いいじゃないか。記憶なんて、必要ない。
「ごめん。よく聞いてなかったんだ。もう一度、話してくれるかな?」
 眉をひそめながらも。
 ――たぶん――話は初めに戻る。
「だから、この世界はね、波によって作られてると思うんだ」
「波――?」
“ざーん、ざざーん”
 また聞こえる。僕の脳は、僕になにを信じさせようとしているのか。
「音も、光も。人の脳内で処理されているもの、すべてね」
 少し、自信のなさそうなアリス。さっきの怪訝な表情は、そのためか。
「その波っていうのは、人の脳内に留まらず、世界――大気中って言う
方がいいのかな?――そのへんに放たれてるのね」
 僕は、周囲を見まわす。
 これが、記憶の集まり――。
「目に見えるもの、見えないもの、それが即ち記憶というもの」
 解ったような、解らないような。――よく解らない。
「脳はね。ばらまかれた記憶の受信機で、処理端末でもあるわ」
 携帯電話みたいなものだろうか。僕は、持っていないのだけど。
 アリスは、なおも話を続ける――。
「脳は、すべての記憶を受信するけれども。情報として処理できるのは、
自分の知っている形の波だけ。解らないものは、無視して――無かった
ことにしてしまうか…似ていると思われるものに変換してしまう」
 携帯では、テレビの映像は見られない――ということか。
 そのうち、それも出来そうな気はするけども。
「アリスが、壁のシミを幽霊だと言った時――僕は、君の送った『幽霊』
という言葉は理解できたけれど、同時に存在したはずの、アリスの思い
描く『幽霊の姿』は映像として受信――処理することができなかった」
「たぶん、わたしとあなたは違うものを見ていたわ」
 アリスは、少し寂しそうに言う。
「僕は、勝手にそれを自分の知っている『幽霊の姿』――あの顔に置き
換えて理解してしまった。そういうことなのかな」
 こくん。アリスがうなずく。
「マリアはね。その波を、そのまま受信してしまう。疑うということを
しない。純真なの。脳が、素直なのね。すべての事象を、ありのままに
受けとめることができる。もちろん、人間としての限界はあるのだけど。
でも――自分で言っててなんだけど、眉唾ものの理論なのよね」
 そう思わない? そう言って――アリスは笑う。
「どうだろう。単純に、アリスって凄いなーって思ったけど…」
「誉めたって、なんにも出ないわよ」
 嬉しそうに微笑むアリス。その笑顔だけで、僕は充分だと思う。
 少し、照れくさそうにして、アリスは話しを続ける。
「今のあなたは、記憶喪失のせいでマリアに近くなってると思うけど。
本来、脳っていうのは非常に偏狭なものなの。知らないものは、絶対に
認めない。偶にそれの緩い人がいて、エスパーとか呼ばれたりするけど、
傍目に見れば、あれって『変人』じゃない?」
「そうかなあ?」
「だって――。できるはずのないことを、やっちゃう人なんだもん」
「あ、そうか。テレパスって、そういう能力なんだね」
「ただの、こじつけと受け取ってもらってもいいけどね」
 そう言って、アリスは笑う。受け取る――つまり、受信だ。
「わたしの脳が、ありえない出来事に対して無理矢理に理論なんていう、
いかにも正当性のありそうなものをでっち上げただけの代物なんだから。
ただ――、わたしたちは自分の脳を信じて生きるしかない。仮令それが、
どんなにイカレてても。もの憶えの悪い、おバカな頭でもね」
 最後のは、僕へのあてつけか。
 いや――むしろ励ましのつもりか。そうに違いない。
 そんなアリスの不器用っぷりには、僕は笑うしかない。
 かといって、僕が人をわらう資格が、あるわけもない。
 結局、二人して変な貌をして向かい合うという、変な状況になる。
「な、なによ――。やっぱり変な話だって思うでしょう?」
 うー、とうなり出しそうな、なんだか泣きそうな表情のアリス。
「ち、違うよっ! アリスってさ、なんだかんだで優しいよね」
「な――!?」
 真っ赤になってしまうアリス。
 ――それは、僕だって同じ。
 これって、やっぱり。
「アリス――。ごめん、続けて…」
「う、うん」
 顔を上げたアリスと、目が合って――あわてて反らした僕。
 なんていうか、情けない。
「結局――すべての事象は、自己完結してしまうの。それが、人間って
いう生命の…限界なのかしら。わ、わたしの話は、これでおしまいっ!」
 あたふたと、落ちつかないアリス。
 ばたばたと、せわしなく働き続ける、僕の心臓。
 ――少し休んでよ。苦しいじゃないか。
「帰るの、無理そうだね…」
 空を見上げた。赤い空――。
「帰ったら、庄一んとこにも、謝りにいかないとな…」
「ここで泊まるの?」
 アリスが訊いた。まだ、少し顔が赤い。
「えっ、泊まるんですか?」
 壁の模様と睨めっこをしていたらしい、マリアちゃんが振り向く。
「そうなるのかな。ごめん、僕のせいで」
 僕が、こんなところに来なければ、良かったんだ。
「大丈夫ですよ。怖い幽霊は、わたしが見張ってますから」
 それで、さっきから壁を――。
「さすが、バカマリアね」
「なによ、お姉ちゃんが呼んだんじゃない?」
「はいはい。帰しゃいいんでしょ? ほら――」
 なにやら紙切れのようなものを、壁の模様に張りつけるアリス。
「…なにしてるの、それ?」
 僕が訊くと、
「浄化の札よ。儀式。これで――この霊は、あの世に行けるわ」
 そう答えた。札には、なにごとか図形のようなものが描かれている。
 えへへー、とマリアちゃんが笑う。ひと安心、といったところか。
 魔法――。アリスのいう『魔法』っていうのは、たぶん、こういった
人を安心させたり、不安にさせたりする。本当は、なんでもないような
こと。ありえることを、ありえないように見せることなのかもしれない。
「火が、要るわよね。こんな山奥じゃ、電気なんてないし…」
 ――山。
 そう。ここは、山なんだ。夜の山は、魔物の世界なのだという。幼い
頃に、よく聞かされた話。言いつけを破って、山に入ってしまった僕は。
 ――ママに逢ってしまった。牧野那波によく似た、あの人に。本当に
似ていたのか、僕が勝手にそう思って――そのように『見て』しまった
だけなのかは、わからないけど。
「僕は、この家で一夜を過ごしたんだよ。幼子の僕が。だから、きっと
大丈夫。なにも起きないし、なにも、怖いことなんてないから」
 マリアちゃんに――僕の魔法は、かかってくれるだろうか。
「はいっ」
 笑顔のマリア。この笑顔を疑うことは、非常に重い罪のように思えた。
 だから、大丈夫。
 だけど――。
「――あれ?」
 僕は、その異変に気がついていなかった。
「鈴蘭ちゃんは?」
 あの、うるさいくらいの少女がいないのを。どうして、今まで気付か
なかったのか。それほど、僕はアリスとの話に没頭していたのか。
「えっと。探検に行くって、言ってましたけど…」
 マリアが答える。
「…透矢くん、お願い聞いてくれるかな?」
 アリスが、妙な猫なで声で言った。
「な、なに…?」
「この村の恨みの念を鎮めるために、大和の者を生贄に捧げたいの――」
 一転、低く沈むような声。
「生贄って…」
 闇の儀式――魔女の?
 なんだか、色んな情報がごちゃまぜで、わけのわからない状態。
 まだ――アリスの呪いは、僕には効いているらしい。
「バカ鈴蘭っ! 勝手にほっつき歩くなって言ったのに、あのバカは」
 長いツインテールを振り回すようにして、家の外を睨むアリス。
 まだ、見通しは効く。探しに行った方がいいだろうか――?
 いや、僕たちまで迷ったら、たいへんだ。方向感覚のしっかりした子
なのだから、きっと帰ってきてくれる。そう、信じることにした。
 ――なにかあった時は、腹を切ってでも大和家に詫びよう。
 僕は、覚悟を決めた。だから、なるべく早く帰ってきて欲しい。
「まあまあ、落ちついて。すぐに戻ってくるよ。ね?」
 努めて平静に、僕はアリスの肩を優しく抱くようにしておさえる。
 アリスのことだ。マリアちゃんの責任とか言い出しかねないし――。
 先に、こちらをフォローしておかなきゃならない。
「だと、いいんですけど…」
 マリアちゃんは、自信なさげに答える。
「…まずいわね。雨、降るかもしれない」
 空を見上げて、アリスがつぶやく。
 まるで――、マリアちゃんの不安を増長させるかのように。
「大丈夫だよ、マリアちゃん。僕が、一緒にいてあげるから」
 彼女の頭を抱きかかえるようにして、なにも根拠のない励ましを送る。
それでも、曇っていた彼女の表情は、ぱぁっと晴れ渡るように――笑顔。
「…そのおまじない、効くといいわね」
 それを見たアリスが、そんなことを言う。
「おまじない?」
「空が、マリアの顔みたいに、明るくなりますように――」
「それが、おまじない?」
「そ。呪いも魔法も、詐術みたいなもん。言霊ってあるでしょ? 要は、
言葉をどう使うか。それで、その『技術』の価値というのが決まるわ」
「インチキくさいなあ」
 僕は、笑った。ほんとですね――とマリアも笑う。

 そうこうしているうちに、鈴蘭ちゃんが帰ってきた。まだ、空は少し
明るい。幸い、雨は降らないようだった。アリスは、判ってて言ったに
違いないのだけど。でなければ、あんなに落ちついてはいないだろう。
「どこ行ってたの?」
 殺すー、とか、死ねバカとかいうアリスの悲鳴を、聞こえないふりを
して。僕は、鈴蘭ちゃんに質問した。
「おやしろー」
 簡潔な答え。
「お社?」
「そうだよ、お社。ちっちゃい神社とかー」
 そんなものが、近くにあるのか。この村の、村社だろうか?
「でも、勝手にどこか行っちゃだめだよ?」
「なんでー」
 不満そうに、僕の髪を引っ張る、鈴蘭ちゃん。
 やっぱり、背中を占拠されている、僕。
「大和の人間は怨まれてるから、注意するのね」
 と、アリス。大和は、鈴蘭ちゃんの姓でもある。つまり――日本人を
表す大和とかけている。この村が本当に隠れ里ならば、まつろわぬ民の
祭る社。その祀り神とは、なにであるのか。そんなことが気になるのは、
民俗学者の父親の影響だったりするのかな。
 だとしたら、僕がママと呼んだ、あの人はいったい。
 ――誰だったのか?
「ライターとか、持ってないわよね?」
 アリスが僕に訊いた。僕たちの真ん中には、拾い集めてきた木の枝が
高く積まれている。火を、つけなければ――いけないのだけど。
「普段ライターなんて使わないしなあ…」
 僕の背中で暴れている少女を、適当になだめながら、答える。
 当然、マッチなんてものもない。
「アリス先生の魔法で、つけられないのかな?」
 冗談のつもりで言った。だけど――。
「いいわよ」
 あっさりと。にこやかな表情で、アリスが答える。
「え、でも――」
 そう言うとは思わなかった。それは、ありえないことではないのか。
火を起こす――魔法。それは、偽りの言葉が、もたらす真実――。
 すぅ――と、アリスは立ち上がる。
 両の手の平を、前へかざし――。
「燃え上がれ、赤き炎よ――!!」
 呪文を、唱えた。しかし、なにも起こらない。
 少なくとも、僕には炎なんて――見えない。
「これはね、純真な人にしか、見えない炎なの。マリアには、わかる?」
「炎――? 火――赤い――ぼうぼうと――燃える」
 えへへ、と笑いながら、眩しそうに目を細めるマリアちゃん。
「あなたには、見えないわよね?」
 アリスが、僕の瞳をじいっ――と見つめた。
「うん、残念ながらね」
「…それが、大人になるということ。人は、成長とともに多くのことを
知っていき。また多くのことを忘れて――切り捨てていくものなの」
 アリスの言う、それは。
「純真な子供にしか、見ることのできない――夢」
 ピーターパンの話。雪さんや、那波さんとも、そんな話をした。
 不思議の国ネバーランドは、大人になれないピーターが、自身の中に
作り上げた幻の国。純真な子供たちだけが、訪れることの許された世界。
――那波さんが言うには、その子供たちですら、ピーターの生み出した
世界の一部ではないのか――という話だったけども。
 どうだろう?
「アリスはどう思う? ピーターパンの世界に現れた子供たち。それは、
どの世界からくるのかな? あれはすべて、彼の見た夢――なのかな」
「――透矢には、解ってるんじゃないの?」
 優しい微笑み。
「――そうだね、解ってしまっているんだね。僕は、もう…」
 僕は、大人になってしまったから――。
 もう、この夢の世界から、さようならをしないといけない。
「ピーターパンは、鏡に映った自分自身。子供たち自身の、憧れの夢。
水面に映る月のように、移ろいやすい――形の定まらない世界。子供の
数だけ夢はあって、それぞれ見る夢は違うけれども、みんなが見ている
――同じ世界の夢――」
 つぅ――と、涙が流れた。
「僕は、もう君たちに…アリスに会うことは、できないの?」
 そんなのは、いやだ。
 この世界は、僕の見る夢。
 少しだけ、あまのじゃくで、とっても賢い。
 本当に優しくて、お母さんのような――。そう、僕は――
「僕は、ママを探しにきたんだ。ママを、この場所に連れてくることが、
僕の目標。ここが、終着点。僕が、大人になるための――僕自身が作り
上げた、虚構の水月。僕は、彼女に…お別れをしなければ…いけない」
「透矢…」
「アリス、僕は君が好きだ。ウソばかりのこの世界だけど、それだけは
真実だから。僕は、アリスを、愛――んっ」
 暖かい感触が、僕の唇に触れた。
「大人に、なるんでしょう?」
 にこり――アリスが微笑む。
 それは、唇と唇が触れただけの、優しいくちづけ。
 僕とアリスが、初めて交わした。最初で最後かもしれない、愛の確認。

「おいで。今日だけは、私があなたのママになってあげるから…」
 ――にこり。微笑んで僕の髪を優しくなでるアリス。
「ママ――」
 僕は、泣いた。わんわんと、みっともなく。
「見て、透矢――」
 ママの声。あの日と同じ優しい腕が、僕を包み込んでいる。
 あの日と同じ、あったかい、ママの膝の上で。
 僕は、導かれるまま、空を見上げた。
 破れた天井から覗く、まんまるのお月さま。
 涙で霞んだ、おぼろ月夜――。
「さあ、もうお休みなさいな。――ありがとう。憶えていてくれて」
「ママ…」
「もう、来てはだめよ?」
「…うん。わかってる」
 ――さようなら。大好きだった、僕だけのママ――。
 ありがとう。僕のママで、いてくれて。

“ざーん、ざざーん”
 波の音がする。
 夢。これは、僕の見ている夢なのか――。
「来て、しまわれたのですね――」
 異国の装束を身にまとった、美しい女性。
「――那波。いや、牧野さん」
 僕は、彼女を、そう呼んでいたから。
「――ナナミ、ですわ」
「いいや。君は、牧野那波。――いや、ただの那波だ」
「それならば、わたくしは、瀬能那波――でもありますわね」
 それは、僕のママだった人。
「あの人とは、もう別れを済ましてきた。だから――」
 僕は、キッ――と前を見据える。
 一面に咲き誇る、真っ白な花。中央にそびえる、大きな木。
 それに寄り掛かるように立つ――。
「牧野さん。僕は、君を助けてあげたかった」
 左の手に握られた、確かな感触。
 ――大和神社の梓弓。
 首からかけた、大きな首飾り。
 ――願いを叶える、涙石。
 そして。
「透矢…」
「ごめん。まだ、君だけは見ない」
 右の手に、しっかりと握り締めた、確かな温もり。
 暖かな、手の平の感触。
 ぎゅ――っと、強く握り締めてくる。
「――旦那様」
 大木の根元で。寂しげな、赤い瞳が、僕を見据えている。
「ナナミ――」
「お逢いしとうございました。ずっと…お待ちしておりましたのに」
「そろそろ、牧野さんを解放してくれないか――?」
「それは、できませんわ」
 哀しい色を湛えた、赤い瞳が、僕を見据える。
「彼女が、それを望まない限り。この夢は――終わりませんもの」
 けれど――、
 彼女は続ける。
「あなたの夢は、これでおしまい。さあ――」
 目を閉じて、大きく両の腕を横に広げた。
 ――あの日、見た夢。
 あの日とは、少しだけ違う、夢の世界の物語。
「さあ、その弓で。わたくしを――」
 射殺しなさい。そう、彼女は言う。
「この世界は、今のあなたには、必要のないものなのですから」
 誰の心にもある。誰にでも、辿り着くことのできる。
 それが、僕の立つ、この世界。夢の世界の、ピーターパン。
 常世の国――マヨイガ。
「すべてを失い。すべてを手に入れる。この世界は、僕の世界」
 牧野健二――那波の父が目指し。夢を叶え。すべてを失った。
 瀬能透矢の父が辿り着いた。この世界では、ない、この世界。
 人の数だけ存在する、届かなかった、夢の残滓たちが――。
 僕は今、この場所に立っている。
 あの時、叶えられなかった願いを、叶えるために。
 庄一の願いを込めた、梓弓。
 和泉ちゃんの願いの込もった、この涙石で。今度こそ――。
「僕は、願いを叶えるよ」
 そして、同時に――。
「僕はまた、大切なものを、失おうとしているんだね…」
「あなたの選んだものは――それより、遥かに大切なものですわ」
 にこり――と、微笑むナナミ。
 右の手は、今も暖かな温もりに包まれて。
「さあ、儀式を」
 再び、彼女は目を閉じた。早くしろと、言わんばかりに。
 そう――これは、儀式。
 この世界を抜けて、もとの世界に帰る。
 僕『たち』の世界へ帰るために必要な、儀式だから。
「透矢、帰ろう…。わたしたちの、本当の世界へ」
 握り締めた手を、さらに強く握り締めて、少女が僕に問う。
「アリス…」
「大丈夫。ここは、あなたの夢。夢の記憶は、世界中に溢れていくわ。
どこに居ても、思いは伝わるから。だから、信じて――すべてを」
「そうか…やっとわかったよ。これは、君の見ている夢でもあるんだ」
 そして、世界のすべてが見ている夢。
 見えない人にも、見えている。見えていないだけの夢――。
 すぅ――と、屈み込むように、右膝を地面につく。
 弓を立て、矢をつがえる。
 少女の手が、その僕の手に――そっと添えられている。
 ――ごめん、庄一。
「願わくば、瀬能透矢を知る者の未来に、大いなる幸を」
 涙石に、願いを託す。
 ――ごめん、和泉ちゃん。
「…さあ、一緒に、射よう」
 振り向いた、僕の瞳に映るのは――。
 琥珀の瞳。地に着きそうなほど長く伸ばした髪を、耳の上のあたりで
二つに束ねた――僕がこの世界に来て、愛してしまった少女。
「アリス――」
 こくん。彼女は、静かにうなずく。
 ――ごめん、花梨。
 本当は、君と来るつもりだった。あの時のように。
 だけど――。
「僕は、アリスを連れて――帰るから」
 矢をつがえ、引き絞る。
 力をこめた右の手に、そっと添えられた、小さな手。
 ――静寂。
 なに一つ、動くもののないその光景は、水の鏡に映る月。
 波の立たない水面に映る、――欠けることなく満ちた月。
「那波…」
 その僕の呟きに、月の輪郭が、少しだけ揺れた。
「僕は、君が好きだった。失いたくは、なかった」
 それは、恋――。
「あなたとともに歩く道。そんな未来を、望んでいたよ…」
 けれどもそれは、叶わない夢。
 ――けして来ることのない、過去。
「すべて…波の見せた幻ですわ」
「僕にとっては、それが――その幻こそが、真実だったよ」
「牧野那波などという者は、もともと存在しなかった――」
 それは、牧野健二の抱いていた夢。
 マヨイガに取り込まれた、憐れな男の抱いた幻想。
『――那波は、私の母だ』
 そう。亡くした母親の姿を、いつまでも追い求めていた、哀しい男の。
 そして――。
 瀬能透矢――僕が見た、真実という名の――夢。
「それが、ナナミという存在に触れてしまった者の、真実なんだよ」
「わたくしは、あの方にもう一度お逢いしたかった…」
「僕は、七波にはなれない。だから、ごめん――」
 矢を引く右手が、震えている。
 離してしまえば、それで――この世界は終わる。
 二度と僕たちが、迷い込むことは、ないだろう。
「お別れです、透矢」
 微笑んで。
「ナナミ――」
 僕は――。
「――いや、まだだ」
 右の手に、ぎゅっと強く握られた感覚。アリス――。
「僕はまだ、帰るわけにはいかない」
 そのために、僕はこの場所に戻ってきたんじゃないか。
 あの日――。僕は、牧野那波を失った。
 僕の世界から、その少女の存在が、失われたんだ。
 那波は、死んだ。もともと、身体の弱い、女の子だった。
 だけど――。
 僕はそれが、許せなかった。
「あの日、僕は、牧野那波が死なない世界を望んだ――」
「あなたには、宮代花梨がいたというのに」
 そう。あの時は、僕の側には、花梨がいてくれた。
 僕は、花梨が好きだったから。
「那波のことなど、忘れてしまって――構いませんでしたのに」
「牧野さんは、僕の母親になってくれたから…」
「健二さんと、同じことを仰りますのね。けれども、ナナミはあなたの
お母さんには、なれませんわ」
「牧野さん――いや、那波さんは。那波という名は、山の民の巫女に代々、
受け継がれてきた名前だという」
 牧野健二が、ここで亡くなる前に、言っていたこと。
 僕は、その場面に、いたんだ。だから、すべてを識っている。
「那波は、健二の母となるために、育てられた。恐らく――健二が母と
慕った女性の娘なのだろう。しかし、彼女は巫女であるがゆえ、自我を
持ち得ず…健二の意思、僕の意思、そしてあなたの意思に引きずられる、
不安定な存在となった」
「そう。那波は、あなたの母親になろうとした」
 ナナミが答える。でも――。
「それは、もういいんだ。僕は、本当に大切なものを、見つけたから」
 震える右手に、暖かな温もりが伝わって。
 ――僕に力を与えてくれる。
「僕は、アリスを守る。――だからもう、君に守ってもらう必要はない」
「ならば、あなたは那波に、なにを望むのです」
 強い視線が、僕に向けられている。射ろ――と。
 僕もまた、それを見返す。――まだ、この手は離せない。
「側にいて欲しい。一緒に笑って、泣いて、楽しいことを一杯。一緒の
道を歩いて、別れて――大人になる。庄一や、和泉ちゃん、花梨たちと
一緒に。僕たちには、牧野那波という少女が、必要なんだ」
 僕の恋した少女。
 牧野那波を、ナナミ様から解放するために。もう少しだけ――。
 ぎゅっと、右手に力を込める。
「あなたは、生命を育む、太陽を手に入れた…」
 ナナミが、僕に向けていた視線を、わずかに反らす。
 その先には、アリスがいる。そして、マリアや鈴蘭――雪さんも。
 僕にとって、大切な人たち。
「那波は、あなたの心の面に映る、月のようなもの。陽の光の中では、
消えて見えなくなってしまうものですわ」
「それでも月は、昼間にだって存在しているじゃないか」
 僕は答える。
 牧野さんは、今でも僕の心の中に、存在していられるのだから。
「ならば――私は、貴方の影に。ナナミは、あなたの影として、永遠に
付き従いましょう? その、覚悟がお有りになるのならば…」
「それは――」
 ナナミが、僕の一部になるということなのか?
「那波を、――あなたの妾にして下さいな。欲張りな貴方ですものね。
そのくらいは、して頂かなければ…ナナミも浮かばれないのですわ」
「そんなことは――」
「いいわっ!」
 ――アリスッ!?
「なにを言うんだっ!」
 大丈夫、とでもいうように。彼女は僕に向かって微笑む。
 そして――。
 キッ、とナナミの赤い瞳を見据えて言った。
「ただし、条件があるわ。あなたが透矢に逢えるのは、一年に一度だけ。
七夕の夜の、すべてに祝福される、――星の川の逢瀬」
 くすっ――ナナミが微笑む。
「再び、御社まで、迎えに来て下さるのですか。――旦那様?」
 そうか。やはり、七波は、戦で死んだのではなく――。
「決して、逃げないで下さいましね。――美しく、着飾ってお待ちして
おりますわ。今度こそ――」
 それは、様々な感情が入り混じったような、不思議な微笑み。
「…わかった。また会おう、ナナミ――」
 ――ヒュン
 僕の手を、離れた矢が、風を切って――。
 ――トスン。
 それは、あの日と同じように、寸分違わず、彼女の心の臓を貫く。
 あの日とは、少し違う。
 心からの笑顔で――
「さようなら、透矢――」
 ナナミは――
“ざーん、ざ…
 ずっと、聞こえていたはずの、波の音も、いつしか聞こえなくなって。
「さようなら、ナナミ」
 僕たちは――

 ――これは、夢。
 僕の見ていた、過去の未来。
 あの日とは、少しだけ違っている、僕の見ている未来の夢。
 世界が消えてなくなる前に、僕は――
「――どうか、彼女の願いが、未来へ届きますように――」
 願いを叶える涙石に、強く――強く、そう願った。

「ん――」
 目覚めると、白い部屋だった。ここは、どこだろう?
「あら? ――おはようございます」
「おはよう、雪さん。えっと…ここは?」
 なぜ、僕はこんなところで寝ていたのだろう。ここは、僕の部屋では、
ないのに。ここは――ああ、ここは、僕の目覚めた部屋だ。
「――ったく、なにがおはようだ。もう夕方だっての」
 庄一が言う。
 カナカナカナ、――ヒグラシが鳴いている。
 開け放した病室の窓から眺めた景色が、オレンジに染まっていた。
「ああ、おは…じゃなくて、なに? お夕方?」
「…お前なあ。いつまでも寝ぼけてんなよ。大変なときなんだからな」
 ――思い出した。
「そうだね、ごめん」
 昨日の祭りで、舞の最中に花梨が倒れたんだ。意識がなくて、ずっと
眠り続けているような状態だった。さらにその後、牧野さんまで倒れた
という。それで、僕は――。
「マヨイガに、行ったんだ」
「マヨイガ…?」
 僕の独り言を聞きとがめたらしい、雪さんが怪訝な顔で問う。
「花梨をね、迎えに行ったんだ」
 あの場所に。そのはず、だったんだ、僕は。
 だけど、あの場所で、僕の隣にいたのは――。
 花梨ではなく、アリスだった。僕は、花梨よりも、アリスを選んだ。
「ごめん…」
「大丈夫」
 優しい、少女の声――。
 右の手が、ぎゅっと握られた。続いて、左の手も。
 僕の右にアリス。左には、マリアがいる。同じ顔の二人が、少し違う
表情で微笑む。――ついでに言うと、背中にも、一人いるんだが。
「わはー、透矢ちゃん、おはようーっ!」
 途端に、ゴン――という痛そうな音がする。見なくても判るけど。
「うるさい、お前は寝てろ!」
 庄一が、鈴蘭ちゃんを殴る。いつも聞いている音だ。
 ――バン!
 一際、大きな音がした。今度のは、なんだか判らない。
 音のした方を振り返ると――。
「やー、おはようー」
 陽気な声が聞こえた。
「花梨!?」
「みなまで言わない。まあー、軟弱な誰かさんとは、違いますからー」
 照れくさそうに、頬をかく仕種も、間違いなく花梨だ。
 髪型や服装が、以前となんだか違うようなんだけど。
「心配かけたみたいで…ゴメン」
 特徴的なクセ毛がない。まっすぐに伸びた、綺麗な髪。
 ライトグリーンのワンピースが、清楚な印象を与える。
 ――見た目だけは。
「化けたな、オイ。それより…ちゃんと、憶えてるか?」
 庄一が訊く。僕のように、記憶をなくしていたりしたら、大変だから。
 花梨は――、
「バッチリ。心配なら、あれ話していいかなー?」
 僕の方を見て、にやりと笑う。このあたりは、あまり変わっていない
みたいだ。きっと、僕自身が憶えていないような、恥ずかしいことでも
言うつもりに違いない。
「――やめて欲しい気がする」
「なら、雪に聞いてもらおう。あのさ…」
 ごにょごにょごにょ、と。雪さんの耳元で、なにごとかを囁く花梨。
 ――くすり。
 雪さんが、微笑った。
「本当に、よく憶えているんですね」
「そりゃ、もうね」
 二人して、僕の方を見ながら――くすくすと笑っているのを見ると、
なんだか落ちつかない。
 けど――。訊いても教えてくれないだろうな、と思う。やるせない。
「和泉ちゃんも、ごくろうさん」
 花梨に続いて、ゆっくりと部屋に入ってきた彼女に、僕はねぎらいの
言葉をかけた。この病室は、僕が以前使っていたところを、誰も使って
いないからと、待合室代わりに貸してもらっているのだという。花梨が
倒れてから、ずっと彼女の側にいてくれたのが、和泉ちゃんだった。
「ありがとう。疲れたでしょう、休んでいていいよ」
 僕は、ベッドから立ち上がると。彼女に、座るように勧めた
「なんともないのに、寝てるだけの奴もいたからな」
 庄一が、ニヒルな笑顔を浮かべる。面目ない。
「ごめんね。和泉ちゃんにばかり、苦労かけて…」
「そうだぞー、透矢ちゃん!」
 ――ゴン。
「バーカ。お前のことだ」
「なにすんのさー、バカ庄ちゃん!」
 いつもの、兄妹喧嘩が始まった。
「透矢くんは仕方ないよ。いろいろ、疲れていると思うし」
 その様子を、眩しそうに見つめながら、和泉ちゃんが言う。
「それは、君もだよ――和泉ちゃん。君だって…」
 和泉ちゃんは、にこにこと微笑んでいる。
 まるで――、なにごともなかったかのように。
「とにかく、僕にできることがあったら、言ってくれていいから」
「私はいいよ。なにかしてあげたいなら、花梨ちゃんに――」
 すると、こちらのやり取りに気付いたらしい花梨が、
「それじゃ、肩でも揉んでもらおうかしら。なーんか、ずっと眠ってた
から、固くなっちゃってさあー」
 そう言って、胸を突き出した。いや、そうじゃないんだろうけど。
「胸を…」
 そう見えてしまった僕は、思わず口走ってしまう。馬鹿だ、僕。
「うわーっ、また胸見てるー、変態さんがー」
「い、いや、そうじゃなくて…ごめん」
「――透矢ちゃん、ママのおっぱいが、欲しいんでちゅかー?」
 あははっ、と花梨が笑った。
 こんなふうに、僕をからかうのも、いつもの花梨。
「透矢さん、ほら――」
 雪さんの声がして、クイ、と首を横にひねられた。
「目の行き場に困ったら、こちらを見ていてくださいね」
 ――やっぱり、胸があった。
「もう、もっと上。顔を見ていてくださいっ」
 ちょっと困ったような、雪さんの表情。
「はあー。ほんとに女の子の胸が好きよねー、キミって」
 花梨が、呆れたように言う。
 僕は、やっぱり、ママが恋しいんだろうか。幼い頃になくした母親。
もう会うこともない、あの人――。
「透矢…」
 不意に、右手を引っ張られた。そっちには、アリスがいる。
「なに、アリス?」
「透矢って、胸とか…好きなの?」
 上目遣いで、僕の目をじーっと覗き込みながら、彼女が言う。
「す、好きなら…さ、さわっても、いいから…」
 一転、目を反らして、真っ赤になって俯く。
 ――キュン、と胸が高鳴った。
 なんていじらしいんだろう、この子は。
「透矢ちゃん、ボクもーっ」
 バッ、と勢いよくシャツをまくり上げた鈴蘭ちゃんが、僕の前に胸を
突き出すようにした。
 ――アリスやマリアも、どうかとは思うけど。
 さすがにそれは、なにもないに等しいというか、真っ平らというか。
「死ねっ」
 ――ゴン、と大きな音とともに、庄一の声。
「いたいじゃないか、バカーっ!」
「あるのかないのか判らんようなモン、見せてんじゃねーよ!」
「あるじゃん。ちゃんと見ろ!」
 グイグイと、胸部を庄一に押し付ける鈴蘭ちゃん。
「ハァ? せんたく板しか、見えませんなー」
「――庄一くん。そういう言い方って、酷いと思う…」
 ぽそり、と。和泉ちゃんの、哀しげな声が聞こえた。
「いや、違う! 別に和泉ちゃんが、どうこうじゃなくてだなっ!」
 うろたえる、庄一。
 明らかに、今の発言にショックを受けた様子の、和泉ちゃん。
 とても、幸せな光景――。
「じゃ、これからは四人あわせて『つるぺたーず』ってことで」
 そう言って、花梨が笑った。
「四人って…もしかして、わたしたちもですか?」
 マリアが、自分の胸元を見て、がっくりとうなだれ――。
「勝手に変なグループに入れないでよねっ!」
 アリスが、怒る。
 とても、楽しい世界。ここが、僕の世界。だけど――。
「やっぱり、足りない」
 そっと、呟いた。
「足りなくないっ! ほらっ、ちゃんと触れば解るでしょ?」
 なんだか勘違いしたアリスが、僕の右手を胸元へ導く。
 ――やわらかい。
「いや、そうじゃなくて!」
 あわてて、手を引っ込めた。
「…そうじゃなくてね。なんていうかさ、足りないんだよね。パズルの
ピースが、一つだけ嵌まっていないような感じでね――」
 無性に、寂しかった。
「牧野さんですか?」
 雪さんが言う。いつものように、優しく微笑んで。
 いつもとは違う、そのまま、泣き出してしまいそうな顔で。
「透矢…」
 庄一が、気遣わしげな視線を送る。
『言うな――』
 とでも言うように。だけど、僕は――。
「牧野さんに、なにかあったんだね。僕が、眠っている間に――」
 そう訊かずには、いられなかった。彼女が突然倒れることは、珍しい
ことじゃない。もちろん、みんなも心配はするけども。どこか、楽観視
しているところがあった。僕も、そうだ。
 いつものことだから――。
 すぐに退院して、戻ってくるよ。そんなふうに、考えていたと思う。
だけど、今日のみんなは、なにかがおかしい。意識して、彼女の話題を
避けようとしている。そんなふうに思えて、仕方がなかったから。
「もしかして、牧野さんは…」
『言うなっ!』
 庄一の強い視線が、僕に突き刺さる。
 思い違いであって欲しい。そう、思うのに。
「牧野さんは――」
 この世界に、僕の知っている、牧野那波という少女はいないのだと。
 ――僕は、確信してしまっているんだ。
「那波が、どうかしましたか?」
「え――?」
 とぼけたような、聞き覚えのある声が、――扉のあたりから聞こえた。
牧野さんの声? それとも――夢の中で、僕と語り合った、あの人の。
「ナナミ、さん?」
 まきの、ななみ――彼女が、立っている。
「――那波ですわ」
 にこりと、微笑んだ少女。
 腰のあたりまで伸ばした、長く美しい、まっすぐな黒髪。
 優しげな光を湛えた、闇褐色の――瞳?
「君は…」
「牧野那波だよ。忘れちゃったの、透矢くん?」
 とても楽しそうに、クスクスと笑う少女。
 つやつやとした発色のよい、まるでシルクのような肌の色――。
 まるで病気などとは無縁とも思える、元気な姿の。
「牧野、さん?」
「那波って呼んでって言ってるのに、透矢くんってば…」
 ぷぅ、と頬を膨らませて、むくれた仕種。
 かわいい――けど。なにか違う。
 僕の知る、夢の中の那波さんとも。僕の知っていた、現実の――この
世界の牧野さん(であるはずの人)とも、まるで異なる女の子。
 ――どういう、こと?
 馬鹿みたいに口を開けたまま、庄一を見た。
 彼もまた。狐にでもつままれたような、呆けた顔をしている。
 雪さんは、眼を見開き――。
 和泉ちゃんは、眩しそうに、その『美しい』姿に見とれているよう。
 アリスとマリアは、不思議そうに顔を見合わせ――。
 鈴蘭ちゃんは、えへー、といつも通りの笑顔だった。
「やー、おはよーナナミ! キミが、お寝坊さんとは珍しいねっ」
 花梨は、なにごともなかったかのように、彼女に駆け寄り――。
 バンバンと、いつも僕にするように、背中を叩いて笑った。
「もう、花梨ちゃんたら。痛いって――」
 明るく笑う、牧野さん。いや、那波さん? 那波――?
 もう、なんだか解らなかった。
 僕はまだ、夢の世界にいるのだろうか?
 ――また、行ってしまったのだろうか?
「みなさん、おはよう。――なにか、暗いですねえ。どうしたの?」
 んー? と、牧野さんが、僕の顔を下から覗き込んできた。
 瞳と瞳が、合う――。間違いなく、彼女は見えているんだ。
「き、君は本当に、牧野さん?」
 訝しげな僕の顔を見て――。
「那波ちゃんは、昔からこういう子だよ。ね、庄一くん?」
 和泉ちゃんは、そんな僕を咎めるように言う。
「まあ、何事もなかったみたいで――良かったな」
 庄一も。花梨はもちろん、雪さんやマリアも、その事実を肯定した。
 皆、彼女が牧野那波であることを、認めたのだ。
 ――アリスは?
「わたしは、これでいいと思うな」
 僕の顔を見て、アリスが笑う。含みのある言い方では、あるけれど。
 牧野さんは、僕の耳元にそっと唇を寄せると――、
「こんな那波は、お嫌いですか――旦那様?」
 夢の中で見た、ナナミの表情で、そう言った。
 ――旦那様。
 これはやはり、まだ僕が、夢の世界にいるということなのか?
「あなたの選んだ未来。那波の望んだ未来ですわ」
 くすくすくす――と、那波は笑う。
「可能性――。那波はもう、誰かの妻でも、誰かの母でもありませんの。
でも、誰かの恋人としてなら…そんな未来も、あって良いでしょう?」
 そっと、僕の首筋から顎に沿って、しなやかな指をはわせる。
「な――」
「冗談だよっ」
 あはは、と笑って――飛びすさるように、僕から離れた那波。
 なんというか、動作の一つ一つが、妙に可愛らしい。
「あーあ、私も透矢くんの恋人になりたかったなーっ」
 冗談のようにしか、聞こえないような言い方。だけど。
 ――これが、牧野那波が、あの時に願ったこと。
 本当の心なんだ。
 僕は那波に恋をして。だけど、香坂アリスを愛してしまった。
 だから、それは決して叶うことのない恋。
 決して叶うことのない恋を、牧野那波がする世界。
 それが――この世界なのだと思う。
 世界はいくつもあるけれど、『僕』のいる現在は、ここにしかなくて。
 ここにいる皆が、それぞれの想いを描いて、世界を構築していくんだ。
 それぞれの想いがすり寄って、一つの世界が創られていく。
 だから、ここは僕の世界で、那波の世界で、すべての人のための世界。
「残念だったね」
 僕は、アリスの小さな身体を、ぐいっと引き寄せる。
「え――?」
 驚いたアリスに、不意打ちの――キス。
 ほんの少し、唇が触れただけの、
 ――この世界の、始まりを告げる、とても大切な、儀式をした。
「おおっ!?」
 歓声とも、どよめきともつかぬ声が、周囲から巻き起こる。
 ――正直、恥ずかしい。
 でも、後悔はしていない。
「那波の気持ちは嬉しいけど、僕たち、こういう関係だから」
 きっぱりと、僕は宣言した。
 突然の行為に、真っ赤になって慌てふためくアリスがカワイイ。
「あん、いけず――」
 残念そうに、プイッとそっぽを向いた那波は――なんだか本質的には
あまり変わっていないような気がして。
 僕は思わず苦笑してしまった。
 そうして、いつか見た夢を――七夕の夜に、彼女が僕を草むらで押し
倒したあの日のことを、ふと思い出している。
「せっかく、いい夢を見たから、…正夢かなって期待してたのにぃ」
 ぷうと頬を膨らませた、那波が言う。
「透矢くんなんて、大っ嫌いですわ!」
 いーっと舌を出して、彼女は笑った。
 本当に、カワイイんだけどね。
「ねえ那波ちゃん。その夢って、どういうの?」
 期待に満ちた表情で、和泉ちゃんが那波に尋ねる。
 きらきらと、眼鏡の奥のつぶらな瞳が輝いている。
「聞きたいー?」
「うん、聞きたいな♪」
 和泉ちゃんの、にこやかな表情と対称的に。
 庄一の那波を見る視線が、なんだか恨めしそうなものに変わった。
 ――気がするだけかな?
 それは、僕の願いか、和泉ちゃんの願いか、それとも、他の誰かの。
「庄一、ほらっ」
 首にかけていた涙石を、ぽーんと投げて渡す。
「あ?」
「信じて願えば、望みが叶う。奇跡の石を、君に贈ろう」
「――ああ、サンキュ。もらっとくよ」
 庄一の笑顔。それと同時に、別の視線が僕に強く刺さるような――。
「私の分は、ないのかなー?」
 花梨――。
「じゃあ、今度みんなで採りにいこうよ。いい場所、知ってるよ」
 和泉ちゃんが言う『いい場所』って――やっぱり、あの場所なのかな。
 僕たち二人が、遊びに行って。お互いの気持ちを、確かめ合った。
 僕が溺れかけた、あの場所――。
「そうだね。今度は、みんなで溺れに行こうか」
 僕は、笑う。
「溺れちゃダメだって、透矢くんっ」
「まさか、危険な場所なんじゃないでしょうねー?」
 花梨と庄一が、顔を見合わせて、心底嫌そうな声を出した。
「むー、みんなちゃんと私の話を聞いてよぉ」
 その様子を見て――那波が、なにやらむくれていた。
「ね、透矢くんは気になるでしょう、私の夢?」
 僕の腕に、自分の腕をからませるようにして、那波が問う。
 僕は――。
「聞かない方が、いいような気がするなあ…」(※)
 そう答えた。
「――あんなに素敵な夢は、そうそうありませんのに…残念」
 寂しげに俯いて、那波は僕の側を離れていった。
 同時に、クイッと逆の腕を引かれる感覚。
 ――思いつめたような表情で、アリスが僕の腕をつかんでいた。
「本当に、この世界でいいのかな?」
 僕の耳に唇を寄せて、彼女は囁く。
 なんだか心配させてしまったようで、申し訳ない気分になる。
「これが、那波さんのいる世界だから――」
 牧野健二の娘で、僕たちの親友の、牧野那波の存在する世界。
 そして――。
「僕が、君とともに歩む世界だよ、アリス」
「うん」
 俯くアリス。顔が赤いのは、照れているからか。
「マリアも…一緒でいいかな? バカだけど、いないと寂しいし…」
 ぽん、と彼女の頭に手の平を乗せて、優しく撫でる。
「もちろんだよ。マリアちゃんが大人になって、一緒に生きていく人を
見つけるまでは、二人とも僕が守っていてあげる。一緒にいてあげる」
「うん」
 再び頷いて。今度は、にっこりと笑った。
「ありがとう…えと、大好き」
 そう呟いたアリスは、僕のもとを離れ、妹のもとに駆け寄っていく。
そして、耳打ち――。
「わあっ!」
 マリアちゃんは、満面の笑みを浮かべて、大好きなお姉ちゃんに抱き
ついている。それを、迷惑そうな顔で受けとめるアリス。――もちろん、
そんなのは上辺だけのことだって、僕もマリアも解ってるんだけどね。
「――ん?」
 ふと、笑顔の雪さんが僕を手招きで呼んでいるのに気付いた。
 歩み寄る僕。雪さんの方も、僕の方に近付いてきて、
「あの二人には、みっちりと家事を仕込んで差し上げますから」
 顔を近づけた雪さんが、そっと――僕に耳打ち。
「うん。よろしく、お願いするよ」
 それはつまり、二人を家に招いてあげなさいということだ。
 教会で間借りしているような現状より、その方がいいと、僕も思う。
「ごめん。いろいろと、面倒かけると思うけど…」
 ――ありがとう、雪さん。
「雪は、もう透矢さん専属のメイドでは、なくなってしまいますからね」
 少し寂しそうに、微笑む雪さん。本当に、今までありがとう。
「これからは、うんと手を抜いて、楽をさせてもらうつもりですよ?」
 一転して、くすくすと――楽しそうに笑った。
「そうだね。僕も家事は手伝うし。父さんにも、なるべく自分のことは
自分でさせるようにするよ。アリスとマリアにも、もちろんね」
「逆に、雪が二人にお世話してもらうのも、いいかもしれませんね」
「そんなこと言うと、なんだかお婆さんになっちゃったみたいですよ?」
「もう――そんなこと言う透矢さん、嫌いですから」
 言葉とは裏腹に、心底、楽しそうな雪さん。
「…透矢さん」
 ――不意に、彼女の表情が、真剣なものに変わった。
「ありがとう。私を必要としてくれて…」
 そうして、礼儀正しく。大きく、ぺこり――と頭を下げた。
「雪は、これからもずっと、あなたたちの大切な…お友達です」
 にこり、彼女は微笑んで。
 また一つ、世界が変わったんだ。そう思った。
 僕が見てきた、選んであげられなかった、その夢の一つ。
 いつかの僕。
 雪さんと二人だけの世界で、二人だけの時を生きる。
 そんな世界だって、あったはずなんだ。
 だけど、僕は今、この世界にいる。
 この世界に同化した僕は、それ以外のすべての世界を忘れてしまう。
 マヨイガのこと。ナナミのこと。なくしてしまった、僕の記憶たち。
 ――それで、いいんだ。
 それは、今を生きる僕たちにとって、必要のないものたちだから。
「アリス――」
 愛しい少女の、美しい色をした、輝く瞳を覗き込む。
「幸せになろう」
 忘れてしまう、人の分まで。
 届かなかった、願いの分まで。
 見つめ合う、僕とアリス。その唇が――。
「まーた、この人たちはー。二人だけの世界、作っちゃってますよー」
「わっ――」
「うわわっ」
 花梨の呆れ果てたような声に、ハッ――と我に返る僕たち二人。
「まあ、いいじゃねーか」
 庄一の、揶揄するような声。
「こんな恥ずかしい光景、そうそう見られるモンじゃねーぞ」
「いつもいつも見せられたりしたら、うんざりですー」
 眉根を寄せて、ため息をつく花梨。
「それもそーだな。独り身には、堪えそうだぜ」
「まったくですわ――」
 クスクスと、那波が庄一と笑い合っている。
 和泉ちゃんが、つられて笑い。
 雪さんも笑う。
 アリスとマリア、鈴蘭ちゃん。
 それに――僕。
 この世界に存在する、すべての人たちが――。
 みんなで笑いあえる、そんな世界を。
 僕たちは、創っていきたいと――僕は、この世界に願った。
                                     <終わり>
<了>