石塚先生、今夏もありがとうございました。

ようやく今年も私の夏が終わりました。

 運動会は秋にやる物だとばかり思っていましたが、この頃の小学校ではみな暑さの盛りに運動会練習です。オーブンのような体育館で汗を絞るように練習し、熱せられた砂からの照り返しがふくらはぎを刺す校庭で、子どもと一緒の素足で走り回って指導します。夜、ベッドに身を投げ出しながら…まったくどうかしてる、真夏の運動会?我慢大会か?一体何のためにこの時期なのか…と、毎晩つぶやきながら眠りに落ちました。

そんな夏が終わりました。本校での、八年目の運動会。一週間が過ぎ、ようやく今、終わったと実感を持てるようになりました。

今年は夏の会でお伝えしたとおり「海を渡った縄文人」に取り組みました。取り組み自体は例年行っていることと何の変わりもなく、いつものように五,六学年団で夏に踊りを練習し合い、役割分担をして五人の職員全員で取り組みました。

八年間も続けていると、皆さんが期待や応援をして下さるもので、男子の六重の塔づくりには男性職員が何人も応援の力を貸してくれました。本当に、仲間に職場に恵まれているなあと、痛感します。感謝ばかりの十五日間でした。

私が担任した六年生は、小学二年生で「どんぐりとやまねこ」三年生で「ひばりの矢」四年生で「モチモチの木」五年生で「龍馬よ行け」を踊った子たちです。今年の作品と取り組みが、その子たちの今をしっかりと受け止められる物でないと、最終学年の運動会への日々が空しい物になってしまうと考え、期間は短くても決して手抜きはしないぞ、とかたく心に誓って臨みました。

ところでこの六年生、職員室で褒めていただくことがあまりありません。確かに一般的な見解からはあまりよろこばしくない場面も多々見受けることはあるのです。大多数は素直で明るい児童ばかりなのですが、中に、委員会の仕事はさぼる、一部の先生方への態度がすこぶる悪い、提出物はそろわない、場合によってはシラケムードを前面に、何に対しても否定的……などのワガママ坊主と身勝手お姫様が目立って見られる学年集団ではあるのです。なかなか課題展を改善できない児童が複数名いて、できることなら四学級くらいに再編成したらどんなにありがたいかと思ってしまうこともしばしばではあります。

が、それでも、授業に対する意欲や興味は高く、理解力もしっかりとした子どもが多いのです。普段、わがままを言っている子が、学習においてはもっとも食いつきよく活躍していたりします。

四年生の「ごんぎつね」では、兵十が火縄銃を手にしたところまで読むと「にげろ!ごん、だめだ!」と思わず真剣に叫んで、教科書に顔を伏せた男の子がいました。涙ながらに「だめ、兵十!撃っちゃダメ!」と訴える女の子もいました。五年生では図工で電動糸鋸を使い始めると、休み時間に誰も教室から出て行かず、黙々と作業し続けていた物でした。理科の自由研究発表会は、真剣に質疑応答が繰り返され、資料が不足していたからと、二学期になってから追加実験までしてくる熱中ぶりでした。六年生になって「カレーライス」という、思春期にさしかかった少年とお父さんの関わりを描いた物語を読んだときは、父親に叱られた主人公のひろしを、皆夢中になって弁護していました。なのに、最後、お父さんとひろしが和解するカレー作りの読み取りでは、みんなうふ、うふ、と笑いながら、「父ちゃん、よかったなぁ〜」、「ひろしだって、ほっとしたんだよね」「あー、よかった、愛情スパイス入りだあ」なんて口々に言っているのです。

多分、彼らは、本物をかぎ分ける感性を鋭く持っているのだろうと思うのです。表面的な大人の都合で指導されることはまっぴらゴメン、納得しないのに首を縦になんか振るもんか。曖昧で形どおりのおしきせ指導なんか断固反対。そのかわり、これは、と信じるところにはとことん熱中する、そんな正直な子どもたちであるように思います。

だから、彼らの活力と感性を正しく引きだしてあげれば、みごとに心はふくらみ、豊かな表現が生み出されるのだろうとは確信していました。少なくとも、私のクラスの子たちは、そんな力を秘めていることが日々の生活から十分にわかりました。

しかし、運動会は、五年生と六年生と特別支援学級の五クラスで表現作品を創ります。そして、始まりに戸惑ったのは、この五クラスの子どもたちの実態があまりに違う、と言うことでした。一学期の生活は、それぞれのクラスに、良くも悪くも、くっきりとした表情を作っていたのでした。当然と言えば当然です。五ヶ月間も過ぎているのですから。

そして、練習の始まりはついつい否定的なところばかりが目についてしまいました。静かだけれどしらけた雰囲気で動きの鈍いクラス。本当は表現したいのに、周りの視線が気になって気になって、自由に動けない子が多いのです。意欲的なところを見せたりしたら、マズイ雰囲気になってしまうのではないかと、多くの子がそれを恐れている様子です。突発的な元気さはあるけれど、ほとんどじっとしていないクラス。楽しければけらけらとよく笑い、のびのび動くのに、そのうちにちょっとしたことからふざけ合い、集中が長続きしません。暑ければ見学者続出で、頑張りの効かない子が多いクラス。初めてのことだと呆然と立ちつくす子が多いクラス。見通す力の弱い子が、とても多いと感じました。日頃から具体的に親切な指示が多すぎて、自分から考えて動く学習が少ないのかもしれません。ちょっと位置が変わると、もう順番に整列することもできません。

でも、それを一々指摘して子どもを責めるわけにはいきません。その姿を出発点として、どこまで子どもたちと学びあえるかに目を向けようと思いました。私の想いは、願いは、言葉は、全ての子どもたちに届くだろうか。全ての子どもたちに響く授業をしなくては、リズム構成は成り立たない。担任五名で協調し合い、どの子も自己を表現する心地よさと、頑張り抜くことの喜びを学べる十五日間にしたい。毎日、そう考えていました。 

その、練習の経過は、同封の通信に記しました。いつも思うのですが、運動会の日の発表は、勿論、大舞台で自己を表現し、観客に自らを伝える大切な学びの時間ではあるのですが、運動会練習の十五日間が、単に発表会のためのお稽古日というとらえ方では、あまりに子どもに失礼だと思うのです。十五日もかける、その毎日の授業こそが価値のある学びでなくては、なんのために貴重な授業時間を割いているのかわかりません。

運動会練習期間になると、大声で担任が子どもを叱っていたり、○○するな、○○しなさい、…そこ、なにやってんの、ほら、今汗なんか拭かないの、お尻なんかはたかないで…と動きの一つ一つを規制したり指示したりする姿をたくさん見かけるのですが、私はああいった口先の指導には嫌悪感を覚えます。それは本当に授業なんだろうか、国語や算数や理科や社会や図工や音楽や時には休み時間まで、貴重な時間を子どもたちからもらっておいて、子どもたちを叱りとばし、鋳型に押し込める十五日間。従順な子は褒められ、反発すれば怒鳴られ、教師のコピーのように一糸乱れず形を決める。それを喜びと感じる児童が量産され、物わかりのよい子に教師は満足する。本当に背筋の寒いことです。

小学校の運動会ってなんのために全児童が表現運動を発表するんだろうかと、思うのです。…そして、「表現」って何かと。

私は美術の教師です。高校時代は美術大学に入るために、紙を重ねた状態で腰の高さに積まれる位までのデッサンを勉強しました。自由な表現をするためには的確な基礎が不可欠です。まずは徹底して模倣することがスタートです。デッサンは嫌いでしたが、仕方なくそれを繰り返しながら、色々な表現技術も身についたのだとは思います。描くことの自由さを勝ち得るために、窮屈なトンネルを掘り続けるような過程なのだとその時は考えていました。それはさておき。

運動会まではたったの十五日で、「表現」を学ぶというのです。模倣ではなく表現です。

今年は、これまで以上に子どもたちの良さを具体的に見つける仕事に徹しました。「先生は、本当に怒らないんですねえ。」と、練習期間中に五年生の学年主任の先生から感心したような呆れたような口調で言われました。怒ることが本当に有効ならいくらでも大声で怒鳴ります。が、怒鳴って子どもが変わるくらいなら教師なんか要らない、と思います。ましてや今年の五,六年生の困ったさん達は、小さな頃から「怒鳴られ慣れ」している子達です。怒鳴りとばされて改心するようなら、今頃は素晴らしく「よい子」になっていたはずです。困った行動の裏をかく、と言うか、困った行動を受け止めて返す技のことを教育技術っていうんじゃあないか、とも思います。だから、こちらの意図したように子どもたちが活動しない時は、楽しんで移動できるようにけしかけたり、リズム遊びを入れたり、より具体的に情景を描けるような言葉で場面を一緒に創り出す事に集中しました。

高く帆を張り、帆綱を引く、というような動きでは、「一番真っ白な帆をかけて!」と言うと一気に全員のうでがぐいっと高く伸びました。光の踊りでは「朝露を新芽がぴっとはじき飛ばすよ」「光に透ける緑の葉だ」「冷たくしなる木の枝だよ」と声をかけると、男子の手のひらが歯切れよく裏返り、はじけるようなステップに変わりました。何とはなしに手足だけを動かして梨もぎの表現をしていた女の子達には、「ねえ、ちょっと後ろふり返ってご覧、みんなが放り投げた梨が潰れてごろごろころがってるじゃない?」と悲しそうに伝えたら、子どもたちはけらけらと笑い出しました。子どもたちには、きちんと情景が描けて見えている、だから、こんな会話ができるのです。今年も、そうやって楽しみながら授業を終えました。

今年、主人公のマポを踊った子は、やんちゃな子で運動能力は高いのですが、担任の前ではいつも控えめな子です。だから、今回、マポを決めるオーディションに来てくれたことがまず驚きでしたし、さらに、その中で、他を意識することなくのびのびと自己表現していたことが、担任としてとても感動的なことでした。恥ずかしがり屋な子ですので、練習の始まりはやや困ったような表現をしていました。が、彼のために学級の男の子友だちも一緒になって、毎朝体育館に朝練に来て上陸の場面を踊っていました。運動会後にお母さんの感想文から家でも練習していたことを知って、また感心しました。練習の後半で、突然、彼がマポになりきった瞬間を見た日には、体中の血が沸き立つように感じました。本当に、子どもって素晴らしい存在です。

私は本校での勤務が八年いっぱいとなりましたから、来年の夏には、どこでどんな仕事をしているかも未定です。もしかしたら中学校で美術教師をしているかもしれませんし、あるいは小学校で、今年のように子どもたちと砂まみれになっているかもしれません。いずれにしても、リズム構成を指導し続ける中で、私はたくさんのことを子どもたちから学ばせていただきましたし、何より、夏の会での石塚先生のふとした言葉や、そとのひらからのご意見の端々が、いつも心の引き出しから顔を覗かせるので、どこで何をしようと、私の基本となる「表現」が仕事となっていく事には変わらないのだと思います。

リズム構成を通して、教師として子どもとどう真向かっていったらいいのか、本当に子どもが変わる学びを引き出していくには、教師が何をすべきなのか、たくさん、たくさん、気付かされました。本当にありがとうございました。こんな気持ちで教師生活の節目をまたひとつ超えていけることは、本当にしあわせなことです。石塚先生、ありがとうございます。そして、たくさんの刺激を下さるリズム構成を作る会の皆様に、いつも素晴らしい仲間ばかりの伊勢崎南小学校の職員集団に、さらに、私の大切な子どもたちに心から感謝をして、残り七ヶ月の仕事も考え考えやっていきたいと思います。 

ようやくというか、初めて、石塚先生にまとまった報告とお礼をお出しすることができました。これまでの無礼をお詫びいたします。先生、どうぞお体を大切に、今後もご指導をよろしくお願いいたします。

                                  2011年9月24日

石塚 真悟 様