人気駅、不人気駅、普通の駅

入場券の発行枚数が少ない駅とは、いったいどのような駅なのでしょうか? 左の9枚は、昭和38年1月12日(中野島は16日)にchabinが礼儀を尽くして買った南武線の赤帯入場券。入場券の印刷時期と当時の各駅の特徴を次のように列挙してみました(*は裏面に鉛筆のチェックがある入場券(その日最初に売れた入場券))。

@他線との接続駅はいずれも6期券で、よく売れている
武蔵小杉:東京6期券、東急東横線との接続駅(*)
武蔵溝ノ口:東京6期券、東急大井町線との接続駅
登戸:東京6期券、小田急線との接続駅
A電車区がある武蔵中原が、その次に売れている
武蔵中原:東京6期券、駅前に富士通の工場がある
B普通の駅は普通に売れている
武蔵新城:東京5期券だが5000番とかなり売れている(*)
久地:寂しい駅のわりに東京6期券
宿河原:東京5期券で少し不人気(*)
C乗降客の殆どが通勤通学客の駅はあまり売れていない
 津田山:東京4期券、日本ヒューム管専用駅(?)だった
Dレトロな駅の窓口で駅員さんから渡された券番295の中野島駅入場券。骨董趣味に全く興味のなかった若かりしchabinは古臭い驛入場券を見ておおいに落胆し、中野島から先の駅に入場券を買いに行く気をすっかりなくしてしまったのでした。中野島駅の入場券はもっと売れているはずだと考える方は多いでしょうが、10円東京1期券はこの日まで300枚も発行されなかったのは確かな事実。この頃まで、登戸〜立川間は物凄いローカル線だったのですから。

東京近郊の駅でも、@他線への接続がない、A乗降客が少ない、B乗降客の殆どが通勤通学客、の3条件を満たす駅は、入場券発行枚数が少ない不人気な駅。C62やD51が走ることのなかった東京近郊の単線区間にある駅は鉄道ファンに人気がなくて、信じられないことですが、昭和38年以前に発行された赤線10円券は殆ど残っていないようです。

昭和34年1月16日発行の岩泉線入場券2枚。浅内駅は仙台2期券ですが、昭和32年5月16日の開業時、仙台印刷所は2期券に切り替わっていたと思われるので、1年8ヶ月で577枚の発行(≒1日1枚)ということになります。一方、今や東北地方NO.1の秘境駅となった押角駅は、恐らく仙台1期券以前に発行されていたと思われる旧字「當」を使用した、ごく初期の10円券で、鉄道入場券図鑑には記載されていない様式です。券番はたったの71番。仮に、昭和26年からこの幻(?)の10円券に切り替わったとすると、8年間に71枚(年間9枚)しか売れていなかったことになります。浅内は当時の小本線終着駅、押角は単なる中間駅。ただそれだけの差で発行枚数が40倍も違うとは驚きです(昭和32年5月15日まで小本線の終着駅は宇津野で、押角は終着駅ではありませんでした)。

昭和37年12月下旬に発行された橋場線と花輪線の入場券4枚。chabinの分析結果は以下のようなものです。
雫石:仙台3期券(#1634)で、裏に鉛筆のチェック入り。盛岡に近く、沿線に鴬宿温泉や小岩井農場があることから、小本線終着駅「浅内」よりも入場券は売れていたようです。
小岩井:仙台1期券(#0179)で、裏に鉛筆のチェック入り。終着駅の雫石よりも発行枚数は1桁少なかった。
湯瀬:仙台3期券(#6921)。記憶は定かでありませんが、購入したのは午後3時頃。その日その時までに他の誰かが少なくとも1枚は買っていたんですね。東北本線と奥羽本線を結ぶ幹線のしかも温泉で有名な駅は人気があったようで、雫石よりも4〜5倍多く売れていました。
陸中花輪:仙台3期券(#3275)。循環記号(は)があるので、3期券としては、これが23275枚目です。乗降客数が花輪線No.1の駅はやっぱり人気者だった。

以上まとめておおざっぱに比較すると、人気度(発行枚数比)は、地方盲腸線の普通駅「小岩井」=1として、地方盲腸線の終着駅「雫石」=10、地方幹線の普通駅「湯瀬」=50、地方幹線の主要駅「陸中花輪」=150といったところでしょうか。

ある日突然、廃止の予定などまったくない普通の駅の入場券が数年分も売れる。次回は、そんな入場券の売れ方の謎に迫ります。