1.原発の収束は?

 原子力利権に群がる一握りの政官産学の亡者達によって、東日本の半分が滅亡の危機に瀕している。福島第一は絶望的のようだ。大変不幸なことは、人災というよりも犯罪的なこの事故の処理が、今もなお 当事者達によって行われ続けているということである。オウム事件に例えれば、サリンを撒き散らしたオウム真理教に捜査と解決を任せたと同じに見えて仕方ない。これまで、原発反対派の意見を無視し続け、「何があっても原発は絶対に止めない」と息巻いていた連中に、荒れ狂う4頭の巨龍を鎮めることなどできるのだろうか。アクセルしか作ってこなかった集団が、今になって、ブレーキを開発しようとしている様は、シンジられないことである。この期に及んで、核の神様が願いを聞いてくれるか非常に疑問である。報道のあり方も、レベル7が宣言されたのに依然として想定外のままだ。本来であれば、全国民に定量的な放射能汚染の状況を時々刻々伝えるだけでなく、”被曝を防ぐにはどうしたらよいか”を分かり易く報道しなければならないはずなのに、先祖に被曝体験があるからといって、放射能に耐性があるとはとても思えない南東北や関東の子供達に、「汚染された土地で遊んでもダイジョブだぁ。3.8マイクロシーベルト、何するものぞ!」という政府のミッションクリティカル(*)な通達を垂れ流すとは、正気の沙汰とは思えない。これでは、日本に未来はない。


*:mission critical。もともとは、米英の国防上、最も重要(クリティカル)な部分を示す用語。転じて、ミッションクリティカル領域のコンピュータソフトウェアに使われる。例えば、巡航ミサイルに埋め込まれたコンピュータの制御用ソフトウェアなど。

2.謙虚さをなくした日本の支配者達

 原発報道に嫌気がさして、3月下旬に京都の広隆寺を訪ねてみた。閑散とした境内の霊宝館にずらり並んだ仏像を拝んでいるうちに、心が洗われて、とても清々しい気分になった。国宝第一号の宝冠弥勒菩薩像は1400年前に百済から伝来したもので、その他の仏像もほとんどが1000年以上も昔に作られた木製なのだという。これだけ多くの木造仏が現代に残されているのは、奇跡としか言いようがない。自然を神仏として畏敬し、他国から譲り受けたものでも、命がけで守り抜いた謙虚な日本人がいたからこそ、千数百年後の私達が拝むことができると思うと、久しぶりに感動してしまった。翌日、本能寺に展示されていた信長ゆかりの品の説明文に「当時最高とされた大名物の曜変天目茶碗は本能寺の変で灰燼に帰した」の記述を見つけた時に思い出した。世界に3つしかない曜変天目茶碗は、昔々のその昔、心の広い中国人から譲り受けた謙虚で慎み深い日本人が、モッタイナイの心で大切に保存し続けたからこそ、今もなお、私達が見ることができるのではないかと。謙虚で慎み深い日本人はどこにいってしまったのだろうか? 大地震や津波の襲来を予知した科学者や原発の脆弱性を具体的に指摘した技術者の忠告に、推進派が少しでも聞く耳を持っていたら、破局は起きていなかったかもしれない。危険性を指摘し続けながら、原発を止めることができなかった心ある科学技術者達の無念さは、計り知れない。
 自然の脅威に想定外はないと考えなくてはならない。史上最大の地震マグニチュード9.5にしても、統計期間は百年足らずだし、地球最大のエネルギーたる火山にしても、インドネシアのクラカタウ山の大爆発から たったの130年しか経っていないのだから、原発のようなミッションクリティカルなシステムの場合には、想定外の地震や津波は必ず襲来すると考えて、備えておかなければならない。また、全ての防御網が突破され、最悪の状態になった時を想定した対策も予め講じておく必要がある。もしそれができないのなら、そのようなシステムは作らないことだ。その意味では、1箇所の原発に数多くの原子炉を配置し、大量の核燃料を格納しておくのはとても危険なやり方だと思う。福島第一では、1号機の大爆発が3号機の大爆発を誘発し、3号機の大爆発が4号機の爆発を誘発した可能性は高かったはずだし、事故前にチェルノブイリの10倍というとんでもない量の核燃料を埋蔵していなければ、こんなに深刻な汚染の拡大を防ぐことができたかもしれないのに。
 昔読んだ雑誌に、原子力開発の胡散臭さを指摘した興味深い記事があった。それによれば、原発は絶対安全であり、事故はあってはならない。それゆえ、原発に”危険”は禁句で、事故を想定することは決して許されないというのである。このような硬直した考えでは、同じ過ちを何度も繰り返す(リピータブル?)ことになるけれども、これまでの原発推進派に、発想の転換ができるとは到底考えられない。日本全国の海岸線に林立するその他の原発が廃止されるのは、福島第一のような重大事故が起きたその時に限られるのではないだろうか。

3.代替エネルギーについて

 経済産業省、電力会社、そして、何故だか政治屋や財界や大学教授までもが原発がないと日本の電力需要は賄えないのだという。本当だろうか? 福島第一事故を機に、諸悪の根源になった東京電力だけれども、原子力発電が東電の全てではないはずだ。火力発電や水力発電や次世代エネルギーの研究開発をしている研究者もいれば、送配電の効率化を研究している部門だってあるのではないか。一般企業なみの研究開発をすれば、供給電力アップは決して難しくないテーマだと思われる。かくいう chabin だって、恐妻 sunebu の強力なる圧力に屈して、東電から太陽光発電所長を命じられて10年目に入るが、可動部分がないため故障がなく、無公害、無尽蔵などなど、いいことばかりで、東電と通産省(当時)には感謝している。最大の長所は、電力会社が用地買収や設備投資や住民対策や政治献金や天下りの受入れから解放されることだ。住民一人一人が太陽光発電所長になるのだから。経済学者や政治屋は太陽光発電は使い物にならないと馬鹿にするけれど、金儲けだけが取柄の大ウツケの戯言である。以下はイイカラカンな chabin の太陽光発電所のメモから。参考になれば幸いです。

地球に照射される太陽エネルギーは、毎時127兆KWという膨大なものである(1u当たり
1KW)。chabin の太陽光発電所に使用しているパネルは1u当たり0.15KW(変換効率15%)のもの。屋根に27枚設置して、発電量は最大4.05KW。猫の額どころか鼠の額ほどの屋根でも昼間は自宅で使用する電気を賄って十分お釣りがくる。設置場所は日陰にならない空き地や屋根や壁面であれば、どこでもOK? 例えば、

 @皇居の内側(1周5km)を太陽光発電所にすれば⇒23万KW
 A山手線の内側(約65ku)を太陽光発電所にすれば⇒975万KW
 B全国に3万ある小中学校の屋根を太陽光発電所にすれば⇒300万KW(1校当たり100KWで計算)
 C全国で1000万戸の屋根を太陽光発電所にすれば⇒4000万KW(一戸当たり4KW)
 D)福島第一30q圏内(海側の半分は除く)を太陽光発電所にすれば⇒2億1200万KW
 Eその他、大規模工場、東西に流れる河川の堤防や鉄道駅舎などを太陽光発電所にするなど。

電力需要の少ない夜間は発電せず、カンカン照りの猛暑では、パワー全開なのだから、絶対お値打ち。変換効率=25%のパネルも登場しているというから、期待は大きい。将来、燃料電池と組み合わせれば、鬼に金棒! いつの日か 福島第一が収束したら、毎年数千億円の電源特会をフル活用して、被災者には太陽光発電所長になってもらうという復興案は如何でしょうか? 被災者の誰も望んでいない消費税増税に熱心な復興会議の委員さん、またしても、孫さんに先を越されてしまいますよ。


4.価値観の転換を

 今回の大震災は、一極集中の大量消費社会に、自然の神様が鉄槌を加えたと考えることもできましょう。全ての日本人が価値観の転換を余儀なくされた敗戦時と同じ状況におかれたと思って、ライフスタイルを見つめ直す機会にしては如何でしょうか? これまでの価値観を転換して、謙虚で慎み深い日本人に戻ったほうがよいのかもしれませんね。