旅行記少年ダム E無物街−御絞−


 「ちょっと失礼します」

 僕は律儀に断ってから、パウロの顔をじろじろ見た。自分の顔を駆け回る視線をもろに受けて、パウロは戸惑った顔で動かない。まぁ当然だよね。でも、僕はそんなことを気にかけている場合じゃなかった。なぜなら、初対面だというのに彼の名前がパウロだと思った理由を彼の顔に求めている最中でなにしろ必死なんだ。

 外野から僕を咎めるような野次がばんばん飛んでいるけど、僕は一切無視する。だって、集中しているのが自分でも良く分かるから。これが世に言う「ウォッチングハイ」なのかどうかは分からないけど、今日はパウロの顔がやけにクリアに見える。顔のあらゆる輪郭が太いペンでなぞってあるみたいに。
 この、だらしなく生えた顎鬚。パウロは気に入って生やしているんだろうけど、そんなのちゃんちゃらおかしい。全然似合ってないんだ。きちんと手入れをしているならまだしも、パウロのは長さがてんでバラバラで、そのうえ元気の無い雑草みたいにあちこち折れ曲がっているんだ。
 
 おまけに頭に乗っかっている髪の毛。顎鬚と同様、これも全く似合ってない。似合う人がしたらかっこいい髪型なんだろうけど、パウロにはちょっと荷が重過ぎるみたいだ。そう言って不憫な髪の毛を励ましてやりたい。

 目だって酷いもんさ。重力に降参したんじゃないかっていうくらいに垂れている。そして生気の無いまなざし。せっかく綺麗な青い目をしているのに、なんだってこんなに荒んで見えるんだろう。本当に不思議だ。
 次は鼻ね。この際だからドンドンいこう。単刀直入に言えば蛇口だね。つまり品の無いカーブを描いているってことなんだけど。カルキ臭い鼻水がここで精製されているかと思うとぞっとするよ。
 その下に鎮座している口。目立ちたがりの鼻が邪魔でよく見えないけど、どうせろくなものじゃないと思う。
 
 何のつもりだろう。顔の全てがこんなに僕に不快感を与えるだなんて、信じられない。彼の呆けた表情がそうさせている部分もあるかもしれないけど、それだけじゃない。自然界のどんな生き物だって、この人ほど醜くはない。ミミズだって、ハイエナだって、ナメクジだってもっといい顔をしてる。生きているという実感が無意識に顔に表れている。この世に生を受けた者なら、どこかしらそんな何かを顔の造作に秘めていることを、僕は知っている。でも、この人の顔にはそれが全く見られない。パウロは生を放棄したような、まるごとあきらめた顔をしている。
 僕は今までの人生、どんな人種だってどんな家柄だってどんな容姿だって、周りの人を蔑んだ覚えは無いつもりだよ。それは意識的にではなくて、自然にそうしてきたのだと思う。意地の悪い人もたまにはいたけど、大していざこざも起こさずにやってこれた。何より、僕は普段からあまり怒ることがない。だから今、この感情に心底驚いているところ。

 素直な君は、そんなに頭にきているんなら何故掴みかからないんだって思うだろうね。僕だってできればそうしたい。でも無理なんだ。今、感じているのはそういう類いの怒りじゃない。暴力には決して結びつかない、哀しい怒りなんだ。殴ったって気が晴れるものじゃないし、だいいち殴ったこっちがもっと哀しくなるだけだよ。アニメーションの主人公ならきっと「ふん、殴る価値も無いぜ」なんて言って颯爽と立ち去るんだろうね。僕だってできればそうしたい。そうできればいいって心から思うよ。でも無理なんだ。いくら命令したって体が動かない。パウロの顔から目が離せない。こんなに大嫌いなのに。僕は臆病だ。

 「ケースバイケースと言いたいですけど、でもやっぱり見すぎかなぁ」

 ん。誰だろう、声だ。音ではなかった。僕の声じゃない。でも、確かに誰かがしゃべった。

 僕は久しぶりに自分の内面の奥の方から這い出て、ぎくしゃくと周りを見回した。すると、左側に困り顔をしたアンドさん、右後ろに、首を斜めに曲げてるゼンブが立っていた。彼らの顔を交互に見ていると、体に巻きついたパウロの呪いがほどけていくような気がした。冬場に食べるトン汁みたいだ。
 
 でも、パウロの顔に虚無を見出してしまった僕は、これ以上この場になんか居たくなくて、呪いが緩和された今すぐ逃げ出したかった。だからパウロの顔を見ないように、できるだけ伏し目がちに、乗ってきたエレベーターへと歩き始めた。歩く度にきしむ床の音が、何だか知らないけど僕の心をぐるぐるかき回して吐き気を誘ってくる。

 「どこ行くんだい」

 言われて当然のセリフがゼンブのいる方向から聞こえた。

 「分かってるよ」

 いちおう答えを発したけど、ほとんど無視したのと同じような答えだった。強引に「僕はちゃんと答えたからね」という姿勢を背中で語ってから、また歩き出したけど、吐き気はますます酷くなってきている。 うぷ。 うぷ。
 でも、何とか千鳥足でエレベーターの入口までたどり着くことができた。ゼンブもこっちに来ればいいのに、と思う。少なくとも僕はもうここに戻ってくる気は無い。

 
 ポンッ。

 活字どおりの音がして、僕はあれほど守ってきた約束をあっさり破ってしまった。突然の破裂音というものに僕はめっぽう弱いらしくて、いつも音の方向を向いてしまう。私的な訓練を何年間も続けたけどちっとも治らなくて、今回も案の定、駄目だった。自制する間もなく愚直なまでの反転ぶりで振り向いてしまった。

 人数分の「おしぼり」を両手に持ったパウロが「良かったら座りなよ」というような自信なさげな笑顔を湛えて立っている。そして、残りの「おしぼり」の袋をひとつひとつ片手で器用にポンッポンッと割っていく。

 僕は彼の行為を見ているうちに、泣きそうになってしまった。それは彼のいじましい持て成しぶりが嬉しかったのではなくて、彼の親切にも全く心が動かない僕が哀しかったから。僕はパウロに何かをされたわけでも、何を言われたわけでもない。第一ね、彼はまだ一言も言ってない。まったくもって僕の一人相撲なわけだ。自分勝手に怒ったり哀しんだりしている。だからと言って、パウロへの理不尽な怒りは少しも弱まってないからね、君。気を抜いちゃいけないよ。

 その時、パウロが「おしぼり」をひとつ投げてよこした。僕はそれを痛恨のキャッチミス。手を弾いて転がった「おしぼり」の行きついた先は、エレベーターの中だった。僕は、両手にかすかに残った「おしぼり」の生暖かさが無性に哀しかった。被害妄想っていうのはこうして進行していくんだろうね。そんな気がするよ。

 いずれにしても、僕は「おしぼり」を追いかける愚鈍な少年を演じてエレベーターに乗り込み、すぐに閉じるボタンを親指で連打した。

 「ああっ何やってるんですか!」

 理解不能な形相でアンドさんがエレベーターに向かって走ってくる。来るよ来るよ来るよ来るよ怖い怖い怖い怖い。僕は歯を食いしばった口内から変な声を漏らしながらも力いっぱい閉じるボタンを連打し続けた。アンドさんの手がもう少しでドアに掛かるところでドアはパタン。閉まった。誰もいないエレベーターは、まるで自分の部屋に帰ってきたような安心感を僕に与えてくれた。僕は緊張感がとろとろに溶けてしまい、液体のような気持ちでドアにもたれて座り込んだ。無機質な堅い感触が背中に心地良いね。そしてね、そのままティータイムばりのため息をついていると、黒光りした壁に映る僕と目が合った。

 やつれた顔はどこかパウロを彷彿とさせたけども、でもやっぱりパウロほど酷くは無かった。


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