僕らの前に姿を現した太っちょは、ポロシャツをばたばたと振り、さも難儀そうに自らのツータックパンツの裾をギュッと絞った。次に、裾に釘付けだった視線を僕らに向けて口を大きく開いた。
「自己紹介が遅れました。先ほどからチョコを頬張っておりますがお気になさらずに。わたくし秘書をしておりますグングニル・アンド・モージャという名前です。」
あらかじめ用意してある文句のように隙間なく言った。
「ダム・ダ・ムーニーです。」
「ゼンブです。」
僕らも発作的に自己紹介をした。
「ダムダムさんにゼンブさんですねどうぞよろしく。なんてねダムさんですよね、ちょっとリズミカルなお名前なんで勘違いしそうになりましたけど大丈夫です。」
「はぁ。」
ぐいぐい気圧されるなぁ。すさまじいよ。しゃべり終えると彼はもう歩き出した。数十メーター歩いてから立ち尽くしている僕らを手招きした。暗がりで太っちょに手招きされるのは、ホラームービーよりぞくぞくするね。
「案内しますから早く早く。いつまでも濡れた服じゃ風邪引きますよほんとですよ。」
「どこ行くんだろう。」
「僕らが今地上に戻っても、またナッシングタウンの輩に追われるだけだと思う。まずは彼についていってもいいんじゃないかな。」
「うん。」
答えがまとまると、僕らは頭を空っぽにして、カルガモの子供の要領で彼の後をついていった。
しばらく歩いていると、トンネル内の壁の一部分がべっこり凹んでいるのが見えた。近寄ってみると、その壁の凹みには下へ続く金属製の梯子が設置されていた。梯子の真正面で彼は、(言い忘れたけど彼はアンドと呼んでくれと言っていたので)アンドさんは立ち止まった。彼は言った。
「この梯子を下りますよ。だけど下を見ないようにということをあらかじめお願いします。この梯子はけっこうな長さがありますんでね。一段一段に集中してください。」
そう言われると、反射的に覗き込んでしまうよ。人間というのはそういう生き物だからね。でも、パイプ状の薄暗い空間に非常灯の緑色の光がぽつぽつと見えるだけだった。
「わたくしが真っ先に下りましょう。その後にゼンブさんダムさん、いや、ダムさんゼンブさんの順番で下りていきましょう。それがどう考えたって最善です。」
アンドさんは手足で梯子の外側を挟むと「これは真似しないでくださいねー」と言いながら下方へ滑っていった。甲高い摩擦音がトンネル中に反響していたけど、収縮していってやがて聞こえなくなった。
僕らはあっけにとられてしばらくぽかんとしていた。そして笑ってしまった。
「あっという間ってこのことだろうね。」と言ってゼンブは自分の耳を引っ張った。
「案内も何もないよね。すぐ行っちゃうんだから。」と僕も言い返した。それから僕らはアンドさんの言いつけ通り、僕の後にゼンブという順番で梯子を下りていった。梯子は90段くらいまでは数えていたけど、その下にもまだまだ続いているのが分かってやめた。
この梯子の旅はけっこう波乱に満ちていたんだ。上のゼンブの服から落ちる水滴で僕が手を滑らせ、2メーターくらい落っこちたこともあったし(体が反応して梯子に足をからめてセーフ)、アンドさんの真似をして滑り下りてみようとして、手足を滑らせたこともあった(体が反応して梯子に足をからめてセーフ)。
そんなこともあって、寝転んで上を見上げているアンドさんの姿が見えた時、僕はものすごく興奮してしまい、恥ずかしい話だけど、下まであと10メーターくらいの地点という所なのに飛び降りてしまったんだ。僕自身、予想以上に滞空時間が長くて驚いたんだけど。背中のリュックサックは僕のすぐ後に着地して絶叫みたいな音をたてた。僕だって痛いから絶叫した。漫才コンビが揃って発狂する感じだと思ってもらえたら分かりやすいと思う。
全身を駆ける痛みでのたうち回っている間に、実は色んなことを考えていたんだ。今までの人生を振り返ったりしてさ。でも、2人はそんなことには気付かないみたいで、「しょうがないなぁもう」とか「よくあるケースですよ、実にね」なんて自分勝手なことを言ってた。それを聞いていたら、心底ばからしい気分になってしまって、早めに絶叫をきりあげた。こだまする自分の悲鳴に腹が立ったということもあったし。
「もう行くよ」とだけ言って、僕はドアへと一直線に伸びる通路を走った。そして、勢い良くドアを押した。「ああっ!駄目です静かに!」という声がしたけど、かまうもんかって思った。気づいた時には手遅れだった。僕のドアは目の前にあるもうひとつのドアに激しくぶつかった。もうひとつのドアにはガラスがはめ込んであったのだけど、小麦粉みたいにジャンル分けされて割れた。
「やっちゃいましたねっ、でもよくあるケースですよ本当に。」
割れたガラスの持ち主はビルだった。要するに、通路のドアのすぐ前(だいたい50センチくらい)にビルが建っていたんだ。僕らはアンドさんの後についてガラスの破片を踏みつつビルへ入った。破片は小さすぎて踏み応えがまるで無かったんだけどね。ちなみに、ビルの中には誰もいなかったし、狭い廊下の先にエレベーターがあるだけだった。黒い壁に黒い廊下、黒いエレベーター。でも、ここでひとつ疑問が浮かんだんだ。僕らのすぐ前を歩く男性はアンドさんじゃない。とても痩せているから別人だと思った。当然、ゼンブもすぐに気がついて言った。それは無駄を一切省いた物言いだった。
「あれっ。アンドさんが消えた。で、あの人は誰だろう。」
「わたくしはここですよいやだな忘れないでくださいね。
答えたのは僕らの前を歩いていた痩せぎすの男性。振り向いたのは骨にわら半紙が張り付いているような顔だった。不釣合いな太い眉毛がとっても印象的でね。
「失礼ですが、あなたはついさっきまで、間違いなく太っていましたよね。」
先延ばしにできない質問だったので聞いたんだ。
「うんうんなるほど。トンネル内ではそう見えていたんですね。よくあるケースですよ。あそこではそういうことが良くあります間違いありません。わたくしは見ての通り痩せています。175センチ50キログラムです。太ろうと思ってチョコをたくさん食べる人ですが、太りません。ずっと175センチ50キログラムです。」
「あの・・・」
「その話は後々しましょうと思っています。上へ参ります。なぜならエレベーターのドアが閉まります。」
アンドさんは顔を少し縞々模様にしてそう言った。すごくきっぱりした言い方だったので、僕もそれ以上は聞かなかった。黒ずくめのエレベーターに乗り込むと、アンドさんは赤く点灯している「17階」のボタンを押した。ボタンは17階以外なかった。
そしてドアが閉まった時、ゼンブはすでに言ってた。
「太ったように見えた理由を教えてください。じゃなきゃ困る。」
「あの下水道の水をわたくしはとても吸収しやすい体で太ります。」
「それは換言すれば、あなたは特殊な体で、なおかつ下水も特殊ということですか。」
チン。
「着きましたよ17階です。ドアが開きますご注意ください。目的地ですよ。」
ドアが開くと、そこは日本でいうところのきっかり6畳の部屋だった。本だらけの部屋だ。全方向の壁には本棚が備え付けてあり、かろうじて板張りだと分かる床にも本が積み上げられている。そして部屋の中央には、この部屋唯一の家具であるソファーがエレベーターの方を正面にして置いてあって、そこにはひとりの男性が座っている。
その男性の顔を見た瞬間、心に宿る何かが僕に向かって告げた。「こいつ、絶対にパウロだぜ」。
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