旅行記少年ダム−第一話−


 嵐が町に迫っていた。今年一番の嵐。

 僕が住んでいるのは、小さな港町。町のほとんどの人が漁業で生計を立てている。うちもそう。父は漁師。でも今日は家にいる。波が高すぎて漁に出られないらしい。父はさっきから、まずそうにコーヒーをすすりながらテレビの画面を見つめている。
 
 ついでに、母の話もしておこう。母はヒステリック。それくらいの特徴しかない凡人さん。今は父と一緒にテレビ画面を見ながら、懐中電灯の中の電池を入れ替えている。その手つきはやけに手馴れている。すばやい。ああそうだ。彼女というか母にはもうひとつ特徴があった。それは、町内の避難成功率ナンバーワン。なぜなら、この町には毎年のように大きな嵐が押し寄せるけど、その度にうちの家族はどの家よりも早く公民館に避難していた。だから、他の家は平均して一年に一人くらいのペースで犠牲者を出しているにもかかわらず、僕の家ではまだ誰も嵐の犠牲になっていない。これは、はっきり言って驚異的な数字。うちの避難の主導権を握っているのは、紛れもなく母だ。

 テレビ画面の時計がちょうどPM6時を指した時、母はゆらりと音を立てて立ち上がった。闇夜をつんざくようなその音。父も気付いたらしい。来たかという顔をしている。母は自分の顔ギリギリで手を移動させて、なおかつ二回叩き、
 
 「さぁさぁ避難だよ!!」

 と雄々しく雄叫びを上げた。僕と父はその雄叫びを合図にリュックサックを担ぎ、一斉に家を飛び出した。家の前の砂利道を駆け抜け、一気に海岸沿いの道路に出た。足の回転数をさらに上げる。リュックサックの中の非常食がカタカタとリズミカルに音を立てた。海の方に目をやると、墨汁のように黒い波がテトラポットに当たって砕けている。この分だと、一時間も経たないうちに波は海岸沿いの家を飲み込んでいくだろう。母ゆずりのこの勘はたぶん、はずれてはいないはずだ。
 一方で海岸沿いの家の窓に目を向けると、家の中ではまだ避難の準備もせずに、どこぞのおっちゃんがモグモグとムニエルを食っている。

 「あいつ等、のん気な顔してるけどモタモタしてるうちに波にもってかれるよ。」
 
 母がシニカルな笑みを浮かべてつぶやいた。そして母は、その家に近づいていくと、窓を肘でたたき割った。その家のおっちゃんはびっくりした顔で母の顔を見ていたが、やがて意味を悟ったらしく「しまった」とか「先を越された」とかわめきながら、家族に避難の指示を出し始めた。

 「母親があんな避難ババァになっちまった責任はお前にもあるんだよ。嵐をくい止めるっていう意味で、お前にダムって名付けたのにまったくもう。」

 僕のとなりでは、父がつまらないことをぼやいている。僕に嵐が止められるわけないじゃないか。と思っているうちに母が戻ってきた。

 「あのおやじは去年の避難成功率NO'2なんだけどね。あれじゃ今年もだめだね。」

 しばらく走っていると、公民館が見えてきた。僕は意を決して母に言った。

 「ちょっと、友達を呼びに行くよ。一緒に避難する。」

 母は、少し顔をしかめたが、やがて言った。

 「ちゃんと避難しなよ、その友達と。あたしのナンバーワンの記録がかかっているんだからね。」

 「大丈夫。すぐに、嵐の来ない所に行くから。」

 僕は友人、ゼンブの家に向かって走り出した。僕は今日、ゼンブとともに旅に出る。こんな町、退屈だ。もっと色んな世界を見たい。嵐の時なら、人がいなくなったって誰も気に止めやしない。ここはそういう町だ。だから、出発は今日にした

 しばらくして、ゼンブの家に着いた。ドアをノックしようと手を伸ばすと、それを分かっていたかのようにドアが開いた。目の前に同じくリュックサックを背負ったゼンブがいた。

 「行くかい。」

 ゼンブはそう言って、両切り煙草に火を点けた。僕はうなずき、並んで歩き出した。と、ゼンブの家の屋根のトタンをカツカツ打つ音が聞こえてきた。今までは強風が吹いているだけだったが、ついに降り出したらしい。ザンザンザンザンザンザザザ。雨は一気に勢いを増し、家々の屋根や窓を打ち始めた。

 「どうやら、急いだ方がいいみたいだ。」

 「うん。」

 僕らは、ゼンブの家の裏から続く林道を走り出した。木に遮られているこの道には雨がほとんど降りこんでこない。いいぞいいぞと思いながら、走り続けた。僕の行方不明で、母はナンバーワンから転がり落ちるだろう。でも、しょうがない。僕は今日、避難形式で旅に出るんだ。

     続く                   TO TOP