三浦按針(ウィリアム・アダムス)のこと

 三浦半島を走る京浜急行線に安針塚という駅がある。ここから丘の上に登っていくと 塚山公園というのがあり、そこに安針の塚、つまり三浦按針の慰霊碑がある。 小学生のころからそれがウィリアム・アダムスという人の墓であることを知っていたが、 さして気にもとめなかったし、実のところあまり関心もなかった。
 最近になって、とある一冊の文庫本(注1)からふるさとにかかわりのある三浦按針の詳細を知ることとなった。 一言で言えば、壮絶な航海の果てに日本に漂着し、当時の徳川家康の信頼を受け外交ブレーンとして活躍した人である。 後のお雇い外国人のはしりのような感じで重用され貢献したが、故国に戻れることなくその生涯を閉じたのである。
 
(2007年2月記)
(2007年4月追記)


 【1.あらまし】
 イギリス人の航海士、ウィリアム・アダムスはオランダ船団に加わって東洋貿易のための遠洋航海にでた。 5隻の船団はマゼラン海峡を越え、太平洋を渡るうちリーフデ号1隻のみとなり、命からがら大分県臼杵の海岸に たどり着いた。あたかも幽霊船のようであったという。
 その後大坂(いまの大阪)に連行され、家康に面会した。幸いその人柄から家康のお気に召すところとなり、 家康は諸外国の情勢、数学、物理、天文学などの知識を得たという。そしていわゆる軍事顧問として採用された。 当時、スペインやポルトガルの宣教師による布教活動が盛んであったにもかかわらず、 ウィリアム・アダムスは一切そのような活動をしなかったことにも好感が持たれた。
 徳川家直参の旗本として三浦按針という名前を得、三浦郡逸見村(今の横須賀市西逸見町)に領地も得た。 以来、西洋式帆船の建造や、当時のスペイン、ポルトガルのほかやがてやってきたオランダやイギリスの商船に対し 外交顧問として活躍することになる。
 が、それも家康存命中までであった。アダムスは運悪くイギリスに帰ることもできず、 航海者として平戸の地で病没してしまった。


 【2.時代背景】
 リーフデ号が豊後の臼杵に漂着したのは1600年(慶長5年)のことである。これは天下分け目の 関ヶ原の合戦が始まる半年前、按針36才のときである。関が原の戦いのとき、家康の東軍側に対して 態度をあいまいにしていた小早川秀秋に対し、脅し&催促の大砲を放ったが、 これはリーフデ号から陸揚げしたものでリーフデ号の乗組員が操作したという。
 その後家康による大坂の役を経て徳川幕府は磐石なものとなっていく。
 そのころからわずかながら外国との交易は存在していたが、やがて宣教師によるキリシタン信者の拡大を 問題視した徳川幕府は鎖国への道をたどった。以来明治維新にいたるまで限られた地での貿易、 文化交流が行われただけである。
 この画像は丸の内ビル横にあるリーフデ号のオブジェである。いわゆる ガリオン船といわれるタイプの船である。

 【3.いきさつ】
 ウィリアム・アダムスは航海者であった。このころすでに西洋では大航海時代が始まっており、 ヨーロッパ人による東洋進出がさかんになっていた。ちなみにマゼラン海峡が発見されたのは1520年で、 ポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えたのは1543年のことである。
 ウィリアム・アダムスは東洋貿易によって一攫千金を狙うオランダ船団に航海士として乗り組んだ。 当初の目的地はインドネシア北東部に位置するモルッカ諸島で、そこに香辛料や財宝を求めた。が、 困難な航海の末たった1隻になったリーフデ号の行く先は積荷の毛織物を売るためにも最終的にジャポンとなった。

 【4.按針の痕跡】
 アダムスが漂着したのは大分県臼杵市佐志生の海岸である。向かいの黒島には上陸記念碑があるという。

 アダムスほかリーフデ号乗組員たちは家康の計らいにより国内での居住が許された。 アダムスの江戸での住まいは現在の室町1丁目、本町1丁目のあたりで1932年まで按針町と呼ばれていた。 現在、日本橋三越本店の前に「按針通り」という道があり(左の画像)、某宝石店の脇に「史蹟三浦按針屋敷跡」 の石碑(下の画像)がたてられている。

 

 一方、同じリーフデ号の乗組員であったオランダの航海士ヤン・ヨーステンもアダムスと同じく家康に信任され、 江戸の丸の内に屋敷を得ることとなった。彼の名前は後に「八重洲」として残ることになる。 (当初は「八代洲河岸」であったが後に「八重洲」に変わった)

 左の画像は八重洲通りの中央分離帯にあるヤン・ヨーステンとリーフデ号を羅針盤の形に収めた 記念碑である。そして右は八重洲地下街のオレンジロード最北端にあるヤン・ヨーステンの記念像である。 (クリックすると拡大できます)
按針の墓
 家康は三浦按針に対し相模の国三浦郡逸見村に二百五十石の領地を与えた。 そこは江戸湾に通じる 浦賀水道の良く見える高台であった。現在その場所は塚山公園となっていて、毎年桜のころには日英友好の 按針祭が開かれる。京浜急行の駅名にもなっている安針塚は按針の墓ということであり、 三浦按針とその奥方の墓が塚山公園の一番高いところにあって国の史跡に指定されている。 右が按針の墓で左はその妻の墓である。
三浦按針像
 三浦按針は家康の命により西洋式帆船を建造することになったが、その地を伊豆半島の伊東に定めた。 ここに流れる松川(=伊東大川)の河口付近の三角州を利用してうまく進水するように工夫し建造したのである。 1隻目は80トンのものでさらに数年後120トンのものを建造した。

 その河口付近にウィリアム・アダムスの胸像と日本初の様式帆船建造の地を記念する碑、 そして建造した2隻目の西洋帆船「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」のモニュメントが建てられている。 ほかにも河川敷遊歩道に帆船建造の様子を描いたタイル絵 がはめ込まれている。

 三浦按針が実際に病没したのは長崎県の平戸市である。1620年、享年56歳であった。
 平戸は当時対外貿易の中心として栄えていたが、鎖国により貿易拠点は長崎に移った。 地図を見るとオランダ商館跡と三浦按針の墓が確かに存在する。ここにイギリス商館も建てられ、 イギリスからの船もやってきたがアダムスはそのときの船長セーリスとの折り合いが悪く、 心ならずも祖国に帰ることをあきらめたのである。そしてアダムスは帰国のための資金稼ぎ (富と栄誉がなければ帰れなかった)にシャムなどとの貿易に精を出したがそうこうしているうち マラリアに感染して平戸の屋敷で寝込んでしまい、この地で最期を迎えた。

 参考資料
 (注1)航海者三浦按針の生涯(文春文庫:著者白石一郎)
 ・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 ・横須賀市オフィシャルサイト:http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/index.html

 余談であるが、横須賀市における三浦按針の扱いはペリーやヴェルニーに 比較して小さいように見受けられる。特にヴェルニーなどは製鉄、造船などの技術で横須賀市の発展に 直接寄与したからなのであろうが、それに比較し三浦按針はペリー来航のさらに250年以上も前で しかも全国レベルでの活躍であったため直接に市の発展とのかかわりが薄いので扱いが小さいのだと思う。

 これに対し伊東市の場合は少し大掛かりであるようだ。毎年8月に催される按針祭では パレードのほか花火大会などが催される。按針音頭というのがあってその中の一節で 「♪船をつくった按針さんは青い目をしたサムライよ」と歌われている。
 

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