【多摩のちょいスポット:028】
 

鑓水の絹の道


 八王子宿は農地が少ないためか古くから養蚕が盛んなところでした。そして信州(長野)や甲州(山梨)、 武州(群馬)などからの絹の集積地でもありました。江戸時代も終わりのころ(安政6年)になって横浜が開港されると、 輸出用の生糸がたくさん集められました。八王子宿に集められ生糸は当時、 浜街道あるいは神奈川往還と呼ばれたこの道を通って横浜に運ばれて行きました。 「絹の道」とは昭和になってから名づけらたものです。
鑓水の絹の道

 片倉方面から上がってきた絹の道は大塚山公園に至ります。 ここには道了尊を祀ったお堂である道了堂跡があります。 ここから大栗川にかかる御殿橋までのわずか1.5q程ですが「絹の道」として市の史跡に指定されています。 半分は舗装されていますが残りは未舗装のままで昔の面影をよく残し、 文化庁選定の「歴史の道百選」(浜街道−鑓水峠越)にも選ばれています。 その後の野猿街道や国道16号などの開発にも運よく巻き込まれずに残ったものと思われます。 かつて荷車を引いた牛や馬も通ったと思いますがそれにしては道幅がやや狭いように感じました。

 この時の生糸の取引では短期間に巨額の富を成した「鑓水商人」といわれる人たちがいました。 この道の中ほどにある「絹の道資料館」はその代表的な八木下要右衛門の屋敷の跡で、 近くには大塚五郎吉の屋敷跡もあります(土地だけ)。 また、近くには養蚕農家はあったようでその代表例が今でも残る小泉家屋敷です。
「絹の道資料館」

 ただ、この絹の道も明治41年ごろになって鉄道(横浜鉄道:現横浜線)が開通することにより 用済みとなり、鑓水商人もろとも急速に衰退していくこととなりました。 一攫千金の絹バブルは約50年間という短い期間だったことになります。
 余談ですが、この鑓水商人によって大正末期に現在の府中市付近から鑓水地区を経由して 神奈川県津久井郡川尻村(現相模原市緑区城山地区)までを結ぶ「南津電気鉄道」 (南多摩と津久井を結ぶという意味)の敷設も計画されましたが、 事情が変わったことにより実現にまで至りませんでした。大塚山公園への分岐点に「御大典記念此方鑓水停車場」 と彫られた石碑が建っています(一番右側の小さいもの)。読み取りにくいです。 都合によりここに移設されていますが本来の停車場の場所はここより下の大栗川近くのようです。
「御大典記念此方鑓水停車場」

 大塚山から下りてきた「絹の道」は大栗川にかかる御殿橋に至ります。 この橋のたもとには当時の道しるべとしての道標があります。 「八王子道」道標といって慶応元年(1865年)に建立されました。右側面に「此方 はし本 津久井 大山」、 左側面に「此方 はら町田 神奈川 ふじさわ」と彫られています。 ちなみにこの橋の少し下流に嫁入橋というのがあります。名前の由来が気になりますが今のところ分かりません。
八王子道道標

 大栗川を越えた後は板木(伊丹木)の小泉屋敷前を通り、 さらにひと山越えて小山給水所付近から町田方面へと下って行ったとされています。 付近の様子はニュータウン開発で見る影もありませんが、 一つだけ「穂成田歩道橋(ぼなりだほどうきょう)」にこのことが印されています。 橋の欄干も農家でよく使われていた刈り取った桑などを運ぶ竹で編んだ背負い籠のデザインです。
鑓水の「絹の道」

 そして「御殿橋」の欄干には「武蔵国南多摩郡由木村鑓水大塚山道了堂境内之図」のレリーフが 埋め込まれています。コントラストが弱くて画像にしにくいのですが、 そのレリーフの中にはかつて繁栄した道了堂と大塚山が描かれています。 そこからは12州を眺望できたということでしょうか、 横浜及び房州鋸山、三浦三崎、江ノ島鎌倉、伊豆大島の様子も描かれています。
 ところがその大塚山の道了堂はすでになく、 忌まわしい事件のあったことから心霊スポットとして知られるようになってしまいました。
大塚山の道了堂
 もともとは鑓水商人が絹の商売繁栄を願って明治8年に建立したものですが衰退とともに寂れ、 殺人事件やら火災やらで結局、昭和58年に解体されました。

 (2012.5)



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