【多摩のちょいスポット:004】
 

別所の長池

別所の長池

 八王子市別所の長池公園、その最奥にその名の元になった長池があります。見附橋の近くの築池から 比べると少し陰気な感じがしますが、池自体は湧き水の池でニュータウンの開発されるずっと以前からありました。 長池伝説といってその昔の新田義貞の時代(鎌倉時代末期)に、主人(新田義貞に仕えた小山田氏)の戦死を知った 浄瑠璃姫が薬師如来像を背負って身を投げたというところです。
浄瑠璃姫の碑

 長池の散策路脇には浄瑠璃姫の碑が建てられています。また薬師如来像を見つけたお坊さんが持ち帰って 供養したという薬師堂が近くの蓮生寺にあり、その近くには浄瑠璃緑地と名付けられた細長い散策路もあります。

 (2009.1.10)

 「長池伝説のあらまし」

 (長池伝説:菊池澄子:NPOフュージョン長池発行より)

 時は1314年、相模の国の大磯の浜が青く輝き、漁師が網を入れると腐りかけた丸太がかかりました。 これをよく磨いたところ現れたのが薬師如来だったのです。本当の名前を薬師瑠璃光如来といい、 漁師たちはお堂を作ってお祀りしました。
 やがてご利益のあることを伝え聞いた岡崎(平塚市岡崎)館の主は「子供を授けてほしい」と願い、 まる3年の後、珠のような女の子を授かりました。そして薬師さまの名前にあやかって「浄瑠璃姫」と 名付けたのです。すくすくと成長し、気品のある美しい姫になりました。
 このころの時代は鎌倉幕府の北条家と天皇家の後醍醐天皇との間で小競り合いが幾度となく続いていました。 岡崎館でも主や家来たちが頻繁に戦に出て行きます。1333年の分倍河原の合戦にも新田義貞軍に合流しています。 このような折に浄瑠璃姫は武蔵野国の小山田太郎高家に嫁ぎました。小山田館は現在の町田市北部、 大泉寺付近にありました。
 戦乱はやむことなく、婚礼からわずか一週間で高家は新田義貞のお供をして合戦に出かけます。 同じころ楠木正成も新田軍とともに足利軍を討つべく湊川(神戸市)にむかいますが、勝ち目のない戦であることを 悟って桜井(大阪)で息子の正行に別れを告げています。激しい合戦の末に楠木正成は戦死し、 小山田太郎高家も主人新田義貞の身代わりとなって戦死してしまいました。
 その知らせは小山田館にも伝えられたのですが、浄瑠璃姫が悲しむまもなく足利側の攻撃から 逃れなければなりませんでした。お薬師さまを大切にくるんで背負い、これといって当てもなく迷いながら 逃れているうち山の窪地の池にたどり着きます。浄瑠璃姫は戦のなくなることを願い、 高家の元に参りますといって池に飛び込んだのです。
 それから2年余りののち、蓮正寺の和尚さんが長池のそばを通りかかったとき、鬱蒼とした雑木林に囲まれた 池の中ほどに虹色に光るものを見つけました。引き上げてみると絹布に包まれたお薬師さまでした。
 現在、薬師如来は蓮正寺の隣にお堂を建てて祀られています。ただ、秘仏ということでお薬師さまを安置した 厨子は閉ざされたままで直接拝むことはできません。お堂の裏には高家を慕いながら入水した浄瑠璃姫を慰める 観世音菩薩が、また小山田館の家来や侍女たちの石碑も建てられています。 近くの花立公園はご利益を願う参拝者が花を供えてお参りしたという「はなたて」が由来になっています。

 浄瑠璃姫の切なく悲しい伝説は「昔の人々の平和希求の叫びの伝承」とされています。 史実ではありません。

 (2010.9.23)



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