富岡製糸場

 世界遺産への登録を目指している富岡製糸場は、明治初期の風情をそのまま残している 近代建造物です。最盛期には約400人の工女が働いていた大規模な工場や、繭を保管しておくための 倉庫などの絹産業の遺産が多くあります。
 明治時代の始まりとともに時の政府は富国強兵と殖産興業を目指しました。生糸の輸出は 外貨獲得に重要な役割を担っていましたが当時あまり品質がよくなかったため国策としての官営工場を建設し、 フランス人技術者ブリューナの指導を受け世界最大規模の製糸場としました。
 

 上信越自動車道の富岡インターから2kmほど北側にあり、付近はレトロな雰囲気の残る町並みです。 良質な水を得るため鏑川(かぶらがわ)の近くに立地しています。
 赤い丸ポストのある正門を入ると正面に富岡製糸場のシンボル的存在の東繭倉庫があります。 建物正面のおでこのところに建築年である「明治五年」と彫られた石(キーストーン:要石) がはめ込まれています。木材による骨組みの間にレンガを積み並べている「木骨レンガ造」です。 長さは104mもあるので相当な量の繭が保管できたと思われます。

 敷地の南側には繰糸場があり、釜の中で繭から生糸を繰り出す機械が並んでいます。 機械が動いて糸になっていく様子がビデオで流されていました。建物は「トラス構造」という工法で 柱のない広い空間が140mも続いています。

 敷地の奥には西繭倉庫もあります。これらのレンガ建築に囲まれるようにして煙突がありますが 当初のものではありません。ほかにブリューナ館や検査人館、女工館、診療所など見られます。
 やがて官営工場は民間に払い下げられ、最終的には片倉工業によって操業され昭和62年までの 115年間にわたって活動を続けました。

 見学時のガイドさんによれば、ここ富岡製糸場では 「伝習工女」と呼ぶ女性を全国から集め、技術を習得させて帰郷後の指導者にしたそうです。 勤務時間も休日も合理的な環境でいわゆる女工哀史に見られるような悲惨さはなく、待遇は よかったとのことです。
 明治から大正にかけて飛騨の若い娘たちが信州の製糸工場へと野麦峠を命がけで通ったといいます。 そして粗悪な食事、長時間労働、低賃金という涙ぐましい女工達の働きによって、 国は生糸の輸出を増やしました。もちろん家にいたらもっと長時間、重労働の農作業をしなければ ならなかったであろうし、娘を出した農家では現金収入を得ることができたのも事実です。
 たしかに富岡製糸場は日本の近代化産業革命の原点ではありましょうが、その影でもしも 劣悪な労働条件の下で働かされていた女工さんたちがいたとしたのなら世界遺産を目指すなどということは 考えものだと思います。
 
(2010年12月)


 「富岡製糸場と絹産業遺産群」は 世界遺産として登録される見込みとなりました。絹産業を革新し、 日本近代化の鍵となった場所です。

(2014年4月)



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