旧白洲邸(武相荘)

 武相荘(ぶあいそう)とはその場所が武蔵と相模の境に位置することからこの家のオーナーが 名付けたものです。オーナーとは白洲次郎・正子夫妻で、1942年(昭和17年)に町田市鶴川(能ヶ谷町) のこの地に農家から茅葺きの家を手に入れ引っ越してきました。隠遁生活にも通ずる洒落っ気のある名前です。



 当時農家だったこの家は、建物本来の姿をなるべく変えずに手入れしたとのことで、 たとえば土間だったところを洋間の応接室にリフォームしている程度です。つまり多摩地域の養蚕農家の 面影を少なからず伝えています。また建物自体は明治初期に建築したと推定されています。


 実は白洲次郎氏のことを知ったのはつい最近のことで、新聞か雑誌かに紹介されていたからでした。 その風貌や体躯は日本人離れしています。若いころ、といっても大正の初めころイギリスに留学し、 帰国後は吉田茂(当時外務大臣)の側近として終戦処理事務のためGHQの矢面に立って交渉したという人物です。 彼の主義主張は「原理原則(プリンシプル)」であったということで占領下でありながら、 言うべきことを堂々と主張し、「従順ならざる唯一の日本人」と評価されていました。


 のちに(昭和25年)首相となった吉田茂の特使としてアメリカに渡り、平和条約 のお膳立てを果たし、翌年のサンフランシスコ講和会議には全権団顧問として出席しました。

 80歳になってもポルシェを乗り回すほど車好きであった一方、農業や大工仕事 も器用にこなしたようでご子息のために作った机なども展示されていました。
 そして彼の遺書にはたった二行「葬式無用、戒名不用」とあったそうです。


 この武相荘はご息女の桂子さんが、変わりゆく近隣の風景や環境を思い、 過ぎ去っていった時代を広く偲んでいただけるようにと茅葺屋根の家の中に正子夫人の収集した骨董品なども集め、 近年になってオープンしたものです。竹林や雑木の散策路の中に風情のある光景が楽しめます。 屋敷内を彩るいくつかの壷に生けられた花などは桂子さんの手によるものといいます。
 

(2007年10月)



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