傷痍軍人東京療養所(外気舎記念館)

 清瀬市の国立病院機構東京病院のあるその場所は1939年(昭和14年)に開設された 傷痍軍人東京療養所の跡です。結核にかかった軍人は空気の良いこの地で療養しました。
 当時、結核は不治の病とされ、その治療は澄んだ空気の中で安静にし十分な栄養をとることしかなかったのです。 患者は外気舎と呼ばれる小さな病棟で外気療法や簡単な作業療法によって回復を目指しました。


 療養所の敷地内には72棟の外気舎があって140人ほどが治療を受けていたといいます。 今もそのうちの1棟が記念館として敷地内の片隅に残されています。 4畳半ほどの空間に木製のベッドが2つだけおかれた小さな小屋でした。 きれいな外気を吸うということで大きな窓は冬の夜でも開け放たれていたとのことです。


 傷痍軍人とは戦争に出かけたがために傷つけられ、あるいは病に倒れた人たちのことです。 はからずも傷つき、病に倒れてなお再びお国のためにと励まされたのでしょうか、 「再起奉公」の碑が建てられていました。
 やがてストレプトマイシンが発見され(1944年:米国)結核は治る病気となったのです。
 

 海軍の街で育った筆者が小学生のころよく目にした光景を思い出しました。
 繁華街の一角やお寺の参道近くに、白衣を身にまとい兵隊帽をかぶった2〜3人の傷痍(しょうい)軍人が いました。義足や義手を目立たせアコーデオンやハーモニカを演奏しながら募金を募っていたのです。 目の前に小銭の入った空き缶を置き座ったままの人もいました。戦争が終わって間もないその当時、 働くこともできず、募金に頼るしかない生活は大変なことだったと思います。 「戦争に行きお国のために傷つきました、どうぞお恵みください。」と、街行く人に訴えていたように思えました。 しかし街ゆく人々はさほどでなかったようにも記憶しています。 また、同時にその脇を白い制服を着た背の高い米軍の水兵さんが2,3人と連れ立って歩いてもいました。
 

(2007年1月)



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