・・・ 東京湾要塞、千代ヶ崎砲台跡 ・・・

 これまで海上自衛隊の施設内であったため立ち入ることができなかったのですが、横須賀市により整備され、 2015年3月に国の史跡に指定されました。このほど見学会が催されたので参加しました。
千代ヶ崎砲台位置
 三浦半島先端の千代ヶ崎砲台位置(Googleマップ より)
 
 ・東京湾要塞とは
 東京湾要塞は日本最初の要塞です。後に下関、由良、対馬、函館、舞鶴、佐世保などが建設されています。 明治に入って、外敵から東京を守るために要塞が建設されました。 このころ外からの侵入手段は艦船によるものであったため、砲台、堡塁、弾薬庫、 探照灯などが要塞の構成営造物です。
 明治初期(10年ごろ)に想定された防御線は、富津岬と観音崎を結ぶ線でした。 そのため観音崎砲台に続いて第一海堡、猿島砲台が建設されました。続いて明治20年に入ると夏島砲台、 米ヶ浜砲台などが横須賀の軍港防御を目的に造られています。明治20年代後半になると これら防御線の強化のため千代ヶ崎砲台や三軒屋砲台が新設されました。  第二海堡と第三海堡の竣工を残して東京湾要塞の砲台は明治20年代にほぼ完成しています。
 そしてその後の昭和にかけての防御線は、房総半島西端の洲崎と城ケ島を結ぶ線まで拡大していきます。 

(2018年10月記)

  ・千代ヶ崎砲台
 明治25年から28年にかけて建設された旧日本陸軍の砲台です。 東京湾口を防御する観音崎砲台の援護や浦賀湾海域(海正面防御)と、 久里浜に上陸する敵の防御(陸正面防御)が任務です。 猿島の砲台はこれより少し前(明治17年竣工)に造られています。
千代ヶ崎砲台位置配置図
 千代ヶ崎砲台位置配置図
   砲台の場所は京急浦賀駅の南南東約2.4qの小高い丘の上にあります。 昭和20年の終戦まで使用されていました。 昭和35年から平成25年まで海上自衛隊の送信所として使用されていましたが、 平成22年3月31日送信施設の機能を停止。その後横須賀市の手により史跡の発掘と整備、調査、 確認が実施され、終戦後に埋め立てられた第三砲座跡と取り壊された左翼観測所跡が検出されたのです。 およそ70年ぶりに3つの砲座が開口し、 東京湾要塞跡を構成する砲台群の中でも遺存状態が非常に良好であることがあらためて確認されたました。
 そして平成27年3月10日に国の史跡に指定されました。 史跡の名称は「東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ヶ崎砲台跡」です。猿島とセットでの史跡指定です。
砲台入口柵門
 浦賀湾沿いの燈明堂へと続く道から離れて坂道を300mちょっと登ると、 土塁を切り開いた石積みの門があります。入った正面には小さめの土塁があり、足元には井戸もありました。 (ここの受付でパンフと、LEDライトが渡されました)
隧道への通路
 この土塁を回り込むと少し下り気味に地下空間になり、その先は隧道や露天空間が繰り返されます。
露天空間と各施設の入り口
 これらの空間を塁道といい、その左右には弾薬庫、弾薬揚弾室、砲弾脇通路トンネル、棲息掩蔽部、 貯水所等の諸施設があります。貯水槽の中を除くと驚くほど透き通った水がありました。 貯水と排水の設備が充実していたようです。
露天空間と各施設の入り口
 隧道には露天空間が2か所あり、地上への階段があります。 また塁道の壁面は凝灰質礫岩の切石による縦・横・縦のブラフ積み、及び煉瓦積みです。 ここでの煉瓦はすべてオランダ積み(一段ごとに小口列と長手列がある)となっています。 ちなみに猿島はフランス積み(横一列に小口と長手が交互に並ぶ)です。 オランダ積みとイギリス積みの違いは終端角の処理だとか。
焼き過ぎ煉瓦と普通の煉瓦
 さらに煉瓦積みについては雨の当たるところとそでないところは明らかに異なるものが使用されています。 雨が当たる部分については高温焼成により撥水性を高めた焼過煉瓦(やきすぎれんが)が、 そうでないところは普通の煉瓦が使用されています。 さらにこれらの煉瓦はすべて葛飾区小菅にあった東京集治監(刑務所)で焼かれた囚人煉瓦だそうです。 その証拠となる平面に打たれた桜の刻印が たった一つだけありました。余談ですが、猿島の場合は明治維新で禄を失った士族が作ったという 士族煉瓦が使用されたとのことです。
斜架拱
 煉瓦積みに関してはもう一つ珍しいものがあります。塁道の南端、 右翼観測所への出口が通路に対して斜めに切られていて、これに沿って煉瓦も斜めにねじったように積まれています。 斜架拱(しゃかきょう)またの名を“ねじりまんぽ”という特殊な積み方だそうです。 なお、この場所の鉄柵は民有地との境のもので民有地側から見ています。
砲座出口
 隧道部分には弾薬庫があり、奥の部屋からは地上へと弾薬を釣り上げる揚弾井(ようだんせい)がありました。 弾薬庫のわきには兵員が行き来する通路と階段があって砲座へと続いています。
上から見た砲座
 砲座は3基あり、それぞれやや掘り下げたところに2門づつの二十八糎(センチ)榴弾砲が置かれ、 海方向に向けて横一列に並ぶようになっていました。海上からは見えないようになっていますが、 打ち手からも敵艦は見えないため方位や仰角は左右にある観測所の計測により伝声管を使って伝えられたそうです。
砲台石組み
 二十八糎榴弾砲の置かれた砲台の一つがきれいに発掘されていましたが、 きれいな八角形の中に大きな石を組んで重力に耐えられるようにしたそうです。
観測所の遺構
 塁道の南端、斜架拱のある場所の先はすでに民有地ですが、そこには右翼観測所及び 陸正面砲台がありました。ほかにも換気塔とその下部に地下施設があると思われます。
 観測所の丸いテーブルの上には武(ブラッチャリーニ)式測遠機が置かれていたとか、 そして測定結果は伝声管で砲座まで伝えたそうです。なお、 反対側の左翼観測所は発掘されたもののここまできれいには再生できなかったようです。

棲息掩蔽部

 これは第一掩蔽部の中から露天空間を見たものです。 先ほどの囚人煉瓦であることを示した桜の刻印付煉瓦はこの右方下に平面を上に積まれていました。

  東京湾に向って浦賀水道を侵入してくる敵艦船を観音崎、富津岬、そして猿島に砲台を設けて阻止しようとしました。 さらに千代ヶ崎砲台で補強され万全の体制となりました。 このためか日清戦争(明治27〜28年)、 日露戦争(明治37〜38年)においても東京湾が侵されることはなかったのです。

 参考資料:ツアーガイド資料(NPO法人よこすかシティガイド協会)


 (記述の中に誤りや疑義がございましたらご面倒でも管理人までご連絡ください。)

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