・・・ 東京湾、海の砦は今・・・ ・・・

 まだ開国間もない明治のころ、東京湾への敵の侵入を防ぐということで観音崎から富津岬にかけての 湾の入り口に防衛ラインとしての砲台が築かれました。それは30年ほどの年月をかけたもので、 第一海堡、第二海堡、第三海堡と造られました。海堡とは海の砦、FORTです。
浦賀水道にある海堡の地図

 しかし今の時代、東京湾浦賀水道にはコンテナ貨物船や大型タンカーが頻繁に往来するようになり、 海堡は船舶の航行に支障をきたすようになりました。そして先ごろ、 これら船舶の安全のため第三海堡が撤去されました。
(以下の内容は国土交通省東京湾口航路事務所および東京湾海堡ファンクラブのご好意により 海堡や遺構などを見学させていただいた中から引用しています。) 

(2009年1月記)
(2018年10月 第二海堡上陸 追記)

 【第一海堡】
 
第一海堡上空から
 東京湾の防衛ラインとして、観音崎〜猿島〜富津岬の海岸や島に砲台を建設する案がありましたが 当時の火砲の射程からそれでは不十分ということなり、富津岬〜横須賀間の海中に3基の海堡(海上砲台) を約2.5km間隔で建造することになりました。
 第一海堡は富津岬の先端から1kmほどのところに築かれ、岬の中ほどにある元洲砲台からは 約3kmの位置になります。
第一海堡
 着工は1881年(明治14年)、そして1890年(明治23年)竣工ということで 工期は9年ということになります。このあたりの水深は比較的浅く、約5mほどの海中に捨石を入れて埋め立てました。 日清戦争(明治27年)や日露戦争(明治37年)のときには榴弾砲14門などが装備されています。 その後の関東大震災(大正12年)では第二、第三海堡が大破したのに比べて第一海堡の被害は少なく、 太平洋戦争では海軍の高射砲陣地が置かれていました。
第一海堡
 上空から見た上の画像(Google mapより引用)で砲座の跡が確認できると思いますが、 海堡中央の観測所のあったと思われる場所では崩壊がひどく侵食を免れない状況になっています。 現在、立ち入りは禁止されており上陸はできません。 

 【第二海堡】
 
第二海堡上空から
 第二海堡は第一海堡の西方約2.5kmのところで1889年(明治22年)に着工され、 そして1914年(大正3年)に竣工しています。 水深が少し深いため(8〜10m)か工事期間も25年と長くなっています。
第二海堡

 逆“ヘ”の字のような、あるいはブーメランのような型のこの人口島(Google mapより引用)は現在、 灯台や海上気象観測設備などが置かれているほか、 独立行政法人海上災害防止センターの消防演習場として利用されているようです。そして更なる侵食、 崩壊による航路への障害物崩落を防ぐための護岸工事が行われているようでした。 砲座のような構造物の側面に「FORT NO.2」と白ペンキで書かれています。
第二海堡
 つい3年ほど前(2005年6月)までは釣目的などのために上陸することができたのですが、 残念なことに今ではそのすべがなくなってしまいました。このたび海上から見学する機会を得たのですが、 あいにくの雨模様によりぼんやりとした光景にしか記録できませんでした。 (「第二海堡」で検索すると上陸できたころの画像を載せたサイトがいくつか見つかります。)

 2005年以来この人口島は上陸禁止となっていましたが、このほど国土交通省の許可を得た旅行業者により トライアルツアーが設定され上陸することができました。(2018年10月)
 
第二海堡上空から
 10年ほど前の上の画像と比べると、荒れて崩れかけていた護岸がしっかりと整備されたことがわかります。 そしてほぼ中央に灯台用電源のソーラーパネルが設置されていました。 中央の東京湾側は海上災害防止センターの消火訓練施設です。
 
第二海堡

 右の画像の奥にあるのが上陸用の桟橋で、手前が元からの古い桟橋です。 画像に入っていませんが桟橋の先数十mのところには防波堤もあります。 この桟橋を含めて護岸の多くが間知石(けんちいし)を積んだものです。 間知石は底辺が約1mの四角錐で尖ったほうを岸に突き刺して強度を高めています。
第二海堡
 桟橋のすぐ近くに煉瓦造りの倉庫があります。 そのすぐ上の北側斜面では掩蔽壕(えんぺいごう:兵舎や弾薬庫などを隠し、守る施設)を見ることができますが、 低い位置にある入口は埋まってしまっていて、上部の煉瓦アーチが足元にある状態です。 ここの煉瓦は全て焼過ぎ煉瓦(強度が強く少しつるつるしている)のイギリス積みです。 桜のマークの破片が残されていたので囚人煉瓦といわれていたものでしょう。
第二海堡

 一番西側の砲台跡は崩れています。わずかに確認できる砲台跡は4基、うち1基はソーラーパネルの下です。 そして中央の1基です。「FORT」「NO.2」の白ペンキはそのままでした。
 灯台の高さは12m、初点灯は「明治27年9月」と表示されていました。
 (東京湾口航路事務所の資料によれば一番西側が探照燈、その東に27センチ隠顕砲架式砲台2門、 15センチカノン砲塔砲台4基、ブーメラン中央に27センチカノン砲塔、 その東に27センチ隠顕砲架式砲台2門となっています。 ほかに中央南には7.5センチ速射カノンや機関砲があったよいうです。 ちなみに隠顕砲とは防護壁の内側に隠れ射撃の際に砲身が持ち上がる構造を言います)
第二海堡
 第二海堡といえば海上からもはっきりとわかるこのシンボルのような存在の構造物は、 中央部砲塔観測台とも防空指揮所とも言われています。 ただ一番大きな砲台(27pカノン砲用)の上に築かれていることが不思議です。
 このほか崩れたり破壊された煉瓦構造物がところどころに見受けられますが、 危険なために未だ内部の調査の行われていないものもあるそうで黒い大きな土嚢を積んで保護していました。
 
 以前、海上から見たときにガタガタに崩れた煉瓦構造物があったのですが、きれいさっぱり片付いてしまい、 ある意味残念でした。それと青空でない天候であったことが・・・。

 【第三海堡】
 
第三海堡上空から
 そして第三海堡ですが、左は1988年(昭和63年)当時の画像です。 (国土情報ウェブマッピングシステムより引用)
 暗礁のようになってしまった海堡は浦賀水道航路を日に700隻ほどと頻繁に行き来する船舶にとって この上なく危険な存在となり、多くの海難事故を発生させてしまいました。
引上げられた第三海堡遺構

 第三海堡は、第一海堡の完成した2年後の1892年(明治25年)に当時の最先端技術を結集して 着工されました。走水と第二海堡の中間地点で、それぞれから約2.5kmの位置ですが、 そこは水深39mもあって潮の流れも激しいところです。
引上げられた第三海堡遺構
 とんでもない難工事で、せっかく築いた堤防も度重なる高波によって あっけなく破壊されてしまうということの連続で、ようやく竣工したのは着工から30年後の 1921年(大正10年)になってからでした。そしてなんと、そのわずか2年後の関東大震災によって これまたあっけなく崩壊し、水没してしまいました。
引上げられた第三海堡遺構

 もともとの形はカブトガニ(私見です)のようであったとされ、そこに砲台や兵舎、探照灯施設、 観測所、弾薬庫などがありましたがこれら全てのものが海中に没してしまいました。 (東京湾口航路事務所 ではCGによって再現した第三海堡の画像を公開しています。)
引上げられた第三海堡遺構
 巨額の費用と長い年月をかけて作られた第三海堡は軍事施設としての目的を果たすことなく消えてしまい、 それから80年、暗礁となった第三海堡は多くの海難事故を誘発することになります。 そして2000年(平成12年)、撤去にむけての工事が着手されました。
引上げられた第三海堡遺構
 撤去は大型のクレーン船によって行なわれ、引き上げられた構造物の一部は追浜の展示場に保管されています (上の4枚)。またそのうちの一つ、大型兵舎は平成町のうみかぜ公園に展示保管されています(下の2枚)。
 このようにでかい物を引き上げたことにも驚きですが、 長いこと海中にあったコンクリート構造物のしっかりさにも驚きです。
引上げられた第三海堡遺構
 撤去工事は2007年(平成19年)に完了し、撤去した後の水深は23mとなって 大型船舶の航行にも十分とのことです。

 ちなみに海からの攻撃を想定したこれらの海堡や沿岸にある砲台などは、 実際には航空機が主戦力となったためあまり活躍することはありませんでした。 しかし日露戦争開戦直後(1904年)に房総沖を襲ったロシア艦隊が東京湾に入れなかったのは 第一海堡が抑止力となったためといわれています。 

 それと余談ですが、海堡埋め立てのための石材は各地から集められたのすが、 その中には三浦半島の鷹取山や房総半島の鋸山から切り出されたものも一部あると思われます。


 【参考文献】
 (1) 東京湾海堡ファンクラブ
 (2) 東京湾口航路事務所のHP



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