・・・ 五日市鉄道の線路跡 ・・・

 1年ほど前に拝島駅周辺を何気なく歩いていたとき、偶然「五鉄通り」という表示板を目にしました。 鉄の字がついているのでよくよく見ると、近くの案内板に「五日市鉄道の線路跡」と説明がありました。
 
(2007年 4月記)
(2017年11月加筆修正)

 
 以下は表示板の下の線路跡に置かれていた昭島市による案内板からの抜粋です。

 『この道路は、昭和5年(1930年)から昭和19年(1944年)までの間、立川駅と 拝島駅を結んでいた五日市鉄道(単線)の線路跡です。現在のJR五日市線の前身である五日市鉄道は、 大正14年(1925年)、拝島・武蔵五日市駅間(11.1km)が最初に開通し、蒸気機関車が走りました。 後に立川駅までの延長が認められ、立川・拝島駅間(8.1km)が昭和5年(1930年)に開通しました。 立川・拝島駅間には8駅がありました。旅客用にはガソリンカーが運転され、 「五鉄」の愛称で親しまれた五日市鉄道は昭和15年(1940年)に南部鉄道と合併し、 昭和19年(1944年)には太平洋戦争の影響で青梅線といっしょに国に買収されました。 そして近くを青梅線が走っているという事情から、立川・拝島駅間は休止路線とされ、 そのまま廃止されました。』


 そして説明の横には大日本帝国陸地測量部による昭和10年(1935年)当時の 5万分の1地図が載せられていました。(下の画像)
 つまり、立川−拝島間にもう一本の線路があったのです。興味をそそられ線路跡をたどってみました。


 拝島駅の南口を出て少し南に歩くと道路の両側が自転車置き場となったところがあり、 ここが「五鉄通り」の始点(入口)ということになります。 拝島駅構内の五日市線ホームからここまでは近いのですが建物などに邪魔されてその形跡をつかむことはできません。

 道は線路跡らしく弓なりに曲がって南下し、国道16号線に合流します。 拝島農協前交差点のあたりが「南拝島駅」のあったところですが、 ここから直線で新奥多摩街道に至る間と新奥多摩街道に沿ったしばらくの間は線路跡の面影がまったくありません。

 新奥多摩街道の田中町2丁目の交差点には「武蔵田中駅」の跡ということでこの画像のような モニュメントが造られていました。そして線路跡は新奥多摩街道から外れてやや北寄りに分岐していきます。 なお、この地点から南西方向の16号線拝島橋(今のスパ昭島)方面にも線路跡らしいカーブした道がありますが 砂利運搬専用の五日市鉄道拝島支線とのことです。

 八高線の線路と交差する手前が「大神駅」の跡ということで右の画面のようにホームと台車を置いて 整備保存されています。ただ、レールなどを含めてこれら機材は五日市鉄道とは無関係のようです。 ちなみに走っていた電車は1輌のガソリンカーです(貨物は蒸気機関車)。
 そしてこの先、八高線の下を自転車歩行者専用通路でくぐり中神駅の南あたりまではそれとなく 線路跡らしい道がついていました。諏訪松中通りを横切る手前に「宮沢駅」、 さらに進んだで玉川町5丁目住宅のあたりに「南中神駅」があったようです。

 しかしその先、道は途切れてしまい昭和公園の南側で再び「五鉄通り」が明確になります。 昭和公園の南西端あたりが「武蔵福島」駅で都立短大の交差点付近が「郷地駅」と思われます。

 そして都立短大の交差点からは立川南通りとなっていますが、JR青梅短絡線の学校前踏切りの辺りで 合流したと思われます。
 ちなみに右の画像は青梅短絡線の上野原踏切りから立川側を見たものですが、 線路右側に少し膨らんだ部分が合流した直後の「武蔵上ノ原駅」のあった場所ということです。 このあと中央線をまたいで立川駅へと入っていきます。
 

 以上8駅、この間約11km、歩いても3時間程度です。駅の跡地として現存するのは大神駅だけでした。 そして立川から武蔵上ノ原までの旧五日市鉄道の線路は、JR中央線と青梅線を直通させるための短絡線として 今も利用されています。
 
 五日市鉄道は元々、大久野の石灰石運搬を目的に建設されたものです。 今でも武蔵五日市駅の先(つるつる温泉方面)にはセメント関係企業があって、 当時は大久野まで線路が延長されていました。五日市駅の手前で分岐し、 「大久野」と「武蔵岩井」の2駅があったといいます。 岩井支線というようですがこの点についてはまた後日ということにします。

   【参考資料】
 (1) 廃線跡を訪ねて:多摩・武蔵野ウォークパンフレット(JR、西武鉄道、多摩モノレール)
 (2) 昭島消えた五つの鉄道:昭島市教育委員会
 

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