・・・ 山下公園、昔日の面影 ・・・

 ♪あなたとふたりできた〜おか〜はみなとのみえるおか〜〜・・・

 終戦直後の流行歌に歌われた「港の見える丘公園」、かすかに覚えているメロディにのせて 山下公園の当時の面影を追ってみました。 
 
(2006年 7月記)
(2006年10月画像追加)


 約30年ほど前の山下公園周辺です。(国土地理院:国土情報WEBより引用させていただきました)

 左上が赤レンガ倉庫群、少し下って大桟橋の根元にひげのように伸びているのが 「象の鼻」と呼ばれている江戸時代の波止場兼防波堤です。このころまだ臨港線軌道が健在で 山下埠頭まで伸びています。そして氷川丸とマリンタワー、その下のやや黒みがかっている所が 「港の見える丘公園」です。


 【山下埠頭臨港鉄道線】
 山下埠頭臨港鉄道線(旧国鉄貨物線)は1965年(昭和40年)に開業しました。 JR桜木町駅から赤レンガ倉庫に向った臨港線は、途中から分岐して新港橋を渡り山下埠頭に向かっていました。 しかし貨物取扱量の減少から1986年(昭和61年)に営業を中止し、 2000年(平成12年)には公園内の高架の構造物もろとも撤去されてしまいました。
 

 現在、臨港線プロムナードとなっている新港橋は1912年(大正元年)、浦賀船渠株式会社により 製造された橋梁で、レールの跡も残されています。ここにはかつてゲートがあって、 一般にはここから先の新港埠頭、赤レンガ倉庫のエリアには立ち入れなかったそうです。

 遊歩道はここからスタートし、横浜税関の建物(クイーンの塔)を右に見ながら高架に変わって 山下公園に向っています。

 臨港線プロムナードは、その名も「開港の道」として整備されているのですが、レールが残されているのは 先の橋梁上のみでした。

 高架の上からは遠く大桟橋の整然とした姿に重なって、真下に錆びたクレーンや貨物船などの雑多な 風景が見られます。

 また大桟橋の根元には「象の鼻」という、今では少し形が変わってしまったのですが 横浜開港時代からの防波堤があります。もともとこのあたりが開港時の波止場だったということで 近々整備保存される計画になっています。

 高架のプロムナードは大桟橋を越えて山下公園に入ったところで突然消えてしまいます。 もともとこの路線は公園の美観を損ねるということで地元文化人の反対にあっていたらしく、 営業中止後にきれいさっぱり撤去されてしまいました。その間ほんの20年ちょっとでした。
 右の画像は高架の切れたところから山下公園側を見たもので、ここから緩やかに下って 山下埠頭に向っていたようです。

 近くには臨港線より早く建てられた「インド水塔」や「赤い靴を履いた女の子」の像があります。 インド水塔は関東大震災の際、横浜市が被災したインド人らの救済に力を注いだことから後日その返礼として インド側の団体から送られた水飲み場の名残りです。

 余談ですが、赤い靴を履いた女の子は母親とともに北海道の開拓村に入植したが事情があって アメリカ人宣教師の養女となりました。そしてアメリカにわたって暮らすはずだったのですが、 病のため波止場から船に乗ることなく短い一生を終えたといいます。

 【氷川丸とマリンタワー】
 

 山下公園といえば、氷川丸です。もう長いこと係留されていますが1930年(昭和5年)に 三菱重工横浜造船所において建造された船です。戦争中は病院船としても使用され、終戦後の復員輸送にも 従事しました。そして現役引退後の1961年(昭和36年)、ふるさとのこの地に係留されたのです。 臨港鉄道線の開業する前からず〜っとここに繋留されているのです。

 同じく山下公園といえばマリンタワー。じつはこのタワーも1961年(昭和36年)に完成し、 開業しています。高さ106mの展望塔ですが、灯台の機能を持ち世界で一番高い灯台としてギネスブックに 登録されているということです。

 そして公園のはずれから山下埠頭側には大型トレーラーが頻繁に行き来するもののかつて 貨物線があったと思わせるものは何もありませんでした。

 【港の見える丘公園】
 

 山下公園の南端から“人形の家”の脇を通り、首都高をくぐるとフランス山になります。 幕末から明治初期にかけてフランス軍が駐屯したところからこのような名前になっています。 開港直後の横浜で自国民を守るためでした。
 そしてフランス軍撤退後の1896年(明治29年)に山の入口近くにレンガ造り2階建て フランス領事館ができましたが、関東大震災で倒壊してしまいました。同じころ、山を登っていったところに 領事官邸も建てられましたがこれも関東大震災で倒壊してしまいました。

 現在、山の上にある廃墟然としたものは、領事官邸の遺構です。1930年(昭和5年)に 再建されたものですが、戦後の1947年(昭和22年)に焼失してしまいました。なお、 この遺構はあえて復元することはせずに、廃墟のまま保存されているそうです。
 近くに井戸水汲み上げ用の風車がありますがこれは最初の領事館の遺構(煉瓦造りの基礎部分)の上に 再現されたものです。

 部屋の形や調理場、階段などがリアルに残されていました。

 なお、当時の領事官邸の門が敷地の南側にそのまま残されています。

 領事官邸の先をさらに進むと「港の見える丘公園」となります。あいにくこの季節は遠くまで 見渡すことができません。ベイブリッジもかすんでいました。ここに、冒頭で紹介した歌謡曲の歌碑があります。
 ちなみに公園の近くにイギリス館がありますが、ここはフランス同様イギリス軍の駐屯した 場所ということです。

 
 横浜市内には開港時代に建てられた建築物が多く残っています。 いつかまたこれらを探る楽しみを残して今回は終わることにします。

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