・・・ 「みなとみらい」は海の上 ・・・

 みなとみらい21、横浜のこの地には日本一の高さ(296m)を誇る横浜ランドマークタワーほか、 たくさんのビルが立ち並びました。約30年前、ここには三菱重工業の横浜造船所がありましたが その後の埋め立てによりあたり一帯は拡張されました。横浜ランドマークタワーは造船所のドック跡地に 建設されたものです。

   以下、ドックヤードガーデン、汽車道、赤レンガ倉庫群と追ってみます。
 
(2006年7月記)

 【みなとみらい21】
 約30年ほど前からの埋め立てと整備の様子を表したものです。(国土地理院:国土情報WEB、 およびGoogleローカルから引用させていただきました)


 【ドックヤードガーデン】
 JR桜木町駅の海側にはかつて「三菱重工業横浜造船所」があって多くの船舶(主として商船)が 建造されてきました。
 横浜は開港直後から貿易港として発展し、船舶の増加に伴いこれを修理する設備つまり 船渠(ドックともいう)の建設を必要としました。このため1891年(明治24年)に 「有限会社横浜船渠」が設立され、船舶の修理事業を始めたのです。後に「三菱重工業横浜造船所となりましたが、 横浜市が臨海部都市再開発「みなとみらい21計画」を推進するにあたり1983年(昭和58年)に工場を 他の土地に移転させました。
 

 そしてできたのが「みなとみらい21」を代表するランドマークタワーとクイーンズビルです。 本家の「三菱重工横浜ビル」はこの位置からですとランドマークタワーの裏側になります。

 明治のころに建造された第1号ドックは現在帆船日本丸を保存する施設「日本丸メモリアルパーク」 として活用されています。
 なお、このドックは2000年(平成12年)に「旧横浜船渠株式会社第一号船渠」の名称で 国の重要文化財に指定されました。

 ランドマークタワーの真下にある「ドックヤードガーデン」は旧横浜船渠株式会社の第2号ドックを、 その姿を保存しつつイベントスペース、オープンテラスとして活用しているものです。 こちらも1997年(平成9年)に「旧横浜船渠株式会社第二号船渠」として国の重要文化財に指定され、 我が国近代産業の発展を物語る貴重な遺産として永久保存されています。

 第1号、第2号ともに石造りのドックで、なぜか第2号ドックの方が古く1897年(明治30年)に竣工、 つまり現存する商船用石造りドックの中では国内最古のものになります。 第1号ドックはそれより2年後の竣工です。(ちなみに国内最古の官営石造りドックとなると 1871年(明治4年)竣工の旧・横須賀製鉄所第1号ドック=現米軍基地内ということになります。)

 日本丸の近くには横浜の造船の歴史を物語る貴重なものとして旧横浜船渠株式会社がアメリカから購入し、 65年間に渡って稼動し続けたというエアー・コンプレッサーがおかれていました。


 【汽車道】
 日本丸メモリアルパークの脇から赤レンガ倉庫に向かって旧貨物線の線路跡があり、 これが汽車道として整備されて桜木町駅と新港地区とを結ぶプロムナードとなっています。
 ランドマークタワーをはじめとするみなとみらいの高層建築群を最も美しく見渡せる場所が この汽車道でもあります。

 そもそもはかつての新港埠頭への物資輸送に使われた臨港鉄道の遺構を保存・利用したもので、 細長い人工島と橋梁とを組み合わせて整備されています。

 汽車道の路面は歩きやすいように板がはられ、片側のレールのみが残されています。
 汽車道には三つの橋梁が架かっていますが、それぞれ横浜市の歴史的建造物に認定された貴重なものです。 桜木町駅側から順に「港一号橋梁」、「港二号橋梁」と呼び、どちらも1907年(明治40年)に アメリカン・ブリッジ・カンパニー社によって敷設されました。(橋桁にそのことを示す銘板が貼られています。)

 新港地区寄りの「港三号橋梁」ですが、もともとはなんと北海道の夕張川橋梁であったものを 後に大岡川橋梁の一部として使い、最終的に現在の汽車道の一部に移設したということです。
 そして線路跡はビルの下の空間を抜けて行きます。

 抜けた先で一旦線路は途切れるのですが、道路を横切って赤レンガ倉庫群の裏手で再び現れます。 行き着く先は旧横浜港駅プラットホームの旅客昇降場の跡です。東京駅からの汽船連絡列車が乗り入れ 「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれたといいます。

 【赤レンガ倉庫群】
 赤レンガ倉庫は横浜港にある歴史的建築物の愛称ですが、正式名称は「新港埠頭保税倉庫」といい、 輸出入貨物の管理や税関業務を行うための施設として明治末期から大正初期にかけて建設されたものです。 2号倉庫(北側の長いほう)は1911年(明治44年)に、そして1号倉庫(南側の短いほう)は 1913年(大正2年)に竣工したのですが、こちらは関東大震災で半分が壊れました。 (その後、1号、2号とも耐震性は補強されています)
 第二次大戦の終戦後は暫くの間米軍に接収されていましたが、返還後もコンテナ化の進展等で 次第に取引量が減少し1989年(平成元年)には税関施設としての役目を終えました。

 横浜市は1992年(平成4年)に、それまでほったらかされていた倉庫群を横浜ベイエリア地区の 観光資源として再開発し、補強・リフォーム作業を行って2002年(平成14年)に展示スペース、 ホール、広場、店舗からなる商業施設「赤レンガパーク」をオープンさせました。

 赤レンガ1号倉庫(短いほう)は文化施設として、そして赤レンガ2号倉庫(長いほう)は商業施設として 利用されています。
 倉庫の周辺にはいくつかの上屋が立ち並び、相互を結ぶ線路が引かれていました。 赤レンガ倉庫の前にもおきまりのように線路が残されています。ちなみに“上屋”は「うわや」と読み、 壁のない柱と屋根だけの倉庫を表しています。“Ware house”(倉庫)がその語源だということです。

 赤レンガ独特の重厚さは見事なものです。かつて横浜港の主役だった時代を経てきた誇りのようなものを 感じさせます。赤レンガ倉庫を写真に収めようとカメラを携えると屋根の向うに ランドマークタワーの姿が重なりました。

 赤レンガ倉庫の隣には同じく赤レンガ構造物である「旧税関事務所」の遺構があります。 1914年(大正3年)に建設され、船舶の繋留や貨物の取り扱いなどの事務を行っていました。 そして関東大震災で被災したまま復旧されることなく埋められていたのですが、 赤レンガパーク整備のときに発見され、遺構として保存されているものです。
 
 横浜税関が開設されたのは安政6年6月2日(1859年7月1日)の横浜開港と同時です。 そのときは「神奈川運上所」といい、明治5年(1872年)「横浜税関」と改称されました。 開港はペリーの来日からわずか6年、箱館(函館)、長崎と同時でした。
   【参考にした資料】
 (1) 横浜税関発行のパンフレット

 
 横須賀の港はどことなく軍事的なにおいがするのに比べ、横浜の港にはそれがまったくありません。 港の見える丘からは赤い靴を履いていた女の子が乗ったような客船や貨物船がたくさん見られたことでしょう。

廃物メニューに戻る

ホームページに戻る