高尾駅の南、浅川小学校の先に“みころも霊堂”(産業災害により殉職されたかたがたの御霊を
お慰めするため労働福祉事業団が建立したもの)があります。ここの駐車場右手の平地には
地下壕労働者のための飯場が置かれていたということです。
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右手方向に進むと浅川中学校がありますが、現在は一段と高くなっているもののもともとは
初沢川の水位と同程度の湿地帯だったということです。つまり地下壕から掘り出された“ズリ”が
ここに積み重ねられて現在の地形となったのです。
(→画面右が初沢川、左は浅川中学校への階段)
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初沢川に沿って上ると右手に浅川金刀比羅宮への参道があって、この下にはロ地区の地下壕がありました。
しかし、住宅造成のため坑口閉鎖や埋め戻しが行なわれたため入ることはできません。
また、左手の山側には崩落防止の擁護璧で保護されているところがありますが、
この擁護壁の切り欠けられているところにハ地区の地下壕入口があります。
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そしてこの位置から初沢川をはさんで向かい側にイ地区地下壕のある山が見渡せます。
付近一帯は今でこそ民家があものの、当時は高乗寺さんの土地で暗く鬱蒼とした所であったということです。
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イ地区地下壕の入口は道路の、しかも民家のすぐ脇にあります。イ地区地下壕の半分は高乗寺さんの所有で
ここの許可を得て、また月に一回と制限して見学できるよう配慮されていました。
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ヘルメットを拝借して、懐中電気を手に中に入ります。(このときは崩落の危険があるということで
この場所のひとつ隣りの民家の敷地内にある入口を使用しました)
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地下壕の中は、かつて業者がきのこ栽培を試したというくらい気温が低いです。
このため夏のころの外と中の気温差に作業者は苦労したということです。
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入口から比較的近いところに鉄骨で保護されたところがあるのですが、これは当時のものではなく、
後日、大量のダイナマイトが発見され、その撤去作業の際の安全対策で設けられたものです。
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多少足場の悪いところもありますが、さらに奥へと進みます。地下壕はわりと硬い岩盤で、
ダイナマイトを使用して掘り進められました。平均的には幅4m、高さ3mです。直線部分が多く、平坦です。
労働力として、正確なところは定かでないらしいのですが朝鮮人1500人が動員されたといわれています。
わずか一年で10kmを掘り進むという突貫工事でした。
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そのころ日本最大の発動機工場である中島飛行機武蔵野製作所が被災したため疎開させる必要が生じ、
ここに移転してエンジンの製造を継続しました。このころには数千人の学生も動員されたそうです。
しかし地下壕の中は湿度が高かったためエンジン部品にさびが出て製造効率は最悪でした。
すぐに終戦を迎えましたが、それまでに製造されたエンジンはせいぜい10台程度のようです。
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地下壕の中ほどに岩盤に穴がうがたれているところがありますが、これは発破のための
ダイナマイトを仕掛ける削岩機による穴です。直径数センチほどの深い穴が開いていました。
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別の場所には掘削したズリを運び出すためのトロッコ用レールの枕木が残されていました。
わかりにくいのですが画面の上方には犬釘があります。
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きのこ栽培をしていた場所というところのその奥には鉄格子があって行く手を阻んでいました。
別の所有者の管理地になっているとのことでここから先には行けないのだそうです。
実際にはここからが本格的なマス目状の地下壕になり、地下工場として工作機械が据え付けられていたのですが。
浅川駅はその後の1961年(昭和36年)に高尾駅と改名されました。さて一方で、
浅川駅からこの地下壕まで鉄道も計画され、工事にかかっていたようですが終戦のため
実現することはありませんでした。
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