・・・ 高尾の地下に秘密の工場 ・・・
 JR中央線の高尾駅(地下壕が掘られた当時の名称は浅川駅といいました)から南西 側、初沢川に沿った両側の小高い山の山中にはかなりの規模で洞窟が掘られています。「浅川 地下壕」といい、当初は陸軍の軍需品備蓄倉庫として建設されましたが、やがて太平洋戦争も 終盤を迎えるころ、中島飛行機の地下秘密工場に転換され航空機のエンジンが製造されました。

 (このたび、「浅川地下壕の保存をすすめる会」のご好意によりめったにない地下 壕見学の機会を得たのでここにこれを記録いたします) 
 
(2006年7月記)

 1944年7月、陸軍は米軍による本土空襲や本土決戦に 備えて兵器や軍需品などの備蓄施設をこの南多摩郡浅川町に建設しました。すでにサイパン・ グァムなどのマリアナ諸島が壊滅し、本土上陸が避けられない状況になっていたころです。

 地下壕は、イ地区、ロ地区、ハ地区と3ブロックが建設されましたが、諸般の事情 で内部が公開されているのはイ地区のみです。(下図を拡大して見てください)


 高尾駅の南、浅川小学校の先に“みころも霊堂”(産業災害により殉職されたかたがた の御霊をお慰めするため労働福祉事業団が建立したもの)があります。ここの駐車場右手の平 地には地下壕労働者のための飯場が置かれていたということです。

 右手方向に進むと浅川中学校がありますが、現在は一段と高くなっているもののもとも とは初沢川の水位と同程度の湿地帯だったということです。つまり地下壕から掘り出された“ ズリ”がここに積み重ねられて現在の地形となったのです。
 (→画面右が初沢川、左は浅川中学校への階段)

 初沢川に沿って上ると右手に浅川金刀比羅宮への参道があって、この下にはロ地区の地 下壕がありました。しかし、住宅造成のため坑口閉鎖や埋め戻しが行なわれたため入ることは できません。
 また、左手の山側には崩落防止の擁護璧で保護されているところがありますが、この擁 護壁の切り欠けられているところにハ地区の地下壕入口があります。

 そしてこの位置から初沢川をはさんで向かい側にイ地区地下壕のある山が見渡せます。 付近一帯は今でこそ民家があものの、当時は高乗寺さんの土地で暗く鬱蒼とした所であったと いうことです。

 イ地区地下壕の入口は道路の、しかも民家のすぐ脇にあります。イ地区地下壕の半分は 高乗寺さんの所有でここの許可を得て、また月に一回と制限して見学できるよう配慮されてい ました。

 ヘルメットを拝借して、懐中電気を手に中に入ります。(このときは崩落の危険がある ということでこの場所のひとつ隣りの民家の敷地内にある入口を使用しました)

 地下壕の中は、かつて業者がきのこ栽培を試したというくらい気温が低いです。このた め夏のころの外と中の気温差に作業者は苦労したということです。

 入口から比較的近いところに鉄骨で保護されたところがあるのですが、これは当時のも のではなく、後日、大量のダイナマイトが発見され、その撤去作業の際の安全対策で設けられ たものです。

 多少足場の悪いところもありますが、さらに奥へと進みます。地下壕はわりと硬い岩盤 で、ダイナマイトを使用して掘り進められました。平均的には幅4m、高さ3mです。直線部 分が多く、平坦です。
 労働力として、正確なところは定かでないらしいのですが朝鮮人1500人が動員され たといわれています。わずか一年で10kmを掘り進むという突貫工事でした。

 そのころ日本最大の発動機工場である中島飛行機武蔵野製作所が被災したため疎開させ る必要が生じ、ここに移転してエンジンの製造を継続しました。このころには数千人の学生も 動員されたそうです。しかし地下壕の中は湿度が高かったためエンジン部品にさびが出て製造 効率は最悪でした。すぐに終戦を迎えましたが、それまでに製造されたエンジンはせいぜい1 0台程度のようです。

 地下壕の中ほどに岩盤に穴がうがたれているところがありますが、これは発破のための ダイナマイトを仕掛ける削岩機による穴です。直径数センチほどの深い穴が開いていました。

 別の場所には掘削したズリを運び出すためのトロッコ用レールの枕木が残されていまし た。わかりにくいのですが画面の上方には犬釘があります。

 きのこ栽培をしていた場所というところのその奥には鉄格子があって行く手を阻んでい ました。
 別の所有者の管理地になっているとのことでここから先には行けないのだそうです。実 際にはここからが本格的なマス目状の地下壕になり、地下工場として工作機械が据え付けられ ていたのですが。

 浅川駅はその後の1961年(昭和36年)に高尾駅と改名されました。さて一方 で、浅川駅からこの地下壕まで鉄道も計画され、工事にかかっていたようですが終戦のため実 現することはありませんでした。

 −−−−−−−【付 録】−−−−−−−


 1945年(昭和20年)、終戦の年の7月8日、高尾駅は米軍機による空襲を受けま した。そして現在でも1,2番線ホームの中ほど(柱番号31:左の画像と柱番号33:右の 画像)に被弾した跡が残されています。駅側の配慮であえてペンキを塗っていないのだそうで す。



 

 また同じ年の8月5日、終戦の10日前のことですが裏高尾の湯の花トンネルで新宿発 長野行きの419列車が空襲を受け、たいへんな数の犠牲者が出ました (湯の花トンネル列車銃撃事件)。そのときの銃弾の跡がこの トンネルにも残っています。

   【参考文献】
 (1) 知られざる軍都 多摩・武蔵野(洋泉社MOOK)
 (2) フィールドワーク浅川地下壕(平和文化)
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